氷の男
「カイゼル様」
彼が研究室に足を踏み入れた時、カイゼルは机に向かって何かの数式を書いていた。
「おや、お帰りなさい。上手く行きましたか?」
彼の帰還に気付くとカイゼルは筆を止め、顔だけをそちらに向けて穏やかな微笑を浮かべた。彼はその微笑みに向かって深く頭を下げた。
「…… 申し訳ありません」
「失敗、ですか」
カイゼルは席を立ち、彼に頭を上げるよう促した。素直に頭を上げるとカイゼルは変わらない微笑を浮かべていたが、触れれば凍ってしまいそうな冷たい空気を纏っていた。
「本当に、申し訳ありません」
「……失敗するのは、これで何度目ですか」
彼は膝をつき、頭を地面に擦り付けた。何度も謝罪の言葉を口にしたが、カイゼルの纏う空気は少しも変わらない。
「次こそ、次こそは……必ずやり遂げますから……!」
乞い願う思いで顔を上げようとしたが、その前にカイゼルの靴が彼の頭を踏みつけた。怪我を負わない程度に手加減こそされているが、それでも顔が容赦なく地面にこすりつけられる。
「もういいです」
「…………!」
カイゼルの言葉に彼は全身が凍りついた。今までは失敗してもチャンスをくれた。しかし、もう何も与えてくれない事がその一言で分かった。
「俺は、まだ……!」
「無能な口がまだ何か言いますか」
彼は顔を上げようとしたが、より強く踏みつけられて結局顔は微動だにしない。
「君のこれからの仕事は、この部屋で何もしないでいる事です」
ふいにカイゼルの足が離れ、彼は顔を上げた。カイゼルは既に彼から離れ、外出用のコートを羽織って黒い杖を手に取っていた。その横顔はひどく冷たく、彼は全身の震えが止まらなくなった。
「それすら出来ないのならば……後はもう、分かりますね?」
カイゼルはにっこり微笑み、彼は何も言う事が出来ないまま何度も頷いた。何もしてはいけない、と何度も自分に言い聞かせた。
「無能な部下を持つと、辛いものですねえ」
他人行儀な口調で呟き、カイゼルは研究室を後にした。一人残された彼は、いつまでもその場にうずくまってがたがたと震えていた。