X回目の2011年
この時間帯に家に帰れるのは久しぶりだ。矢部は運動がてらにマンションの階段を上りながら腕時計を見る。針はちょうど八時を指していた。重篤な患者が運び込まれでもしない限り、明日や明後日も同じように帰れるだろう。
表札もかかっていない、隣近所と全く同じデザインの扉に鍵を差し入れて回す。扉を開くと、その向こうは見慣れた光景だ。
「ただいまー」
玄関から声をかけても誰も迎えに来ない。代わりに「おかえりー」とだらけきった返事が居間から返ってくるだけだ。いつもの事だから気にせず靴を脱ぎ、寝室に外套と通勤鞄を放り込んで居間へと向かう。靴箱の上にガーベラが飾られていたから、まあまあ喜んでもらえたようだ。
居間のテーブルの上にはハンバーグとポテトサラダ、それに野菜スープが乗っていた。テレビ前のソファでは聡司が熱心に携帯ゲームをいじっている。矢部の姿を認めると「おかえり」とおざなりな挨拶をしてまたゲームの世界に戻ってしまった。
「今日は早かったんやな」
美智子は白米が盛られた茶碗を矢部の前に置く。
「たぶん明日と明後日も同じくらいの時間になると思うわ」
いただきます、と手を合わせてありふれた晩御飯に口をつけていく。ハンバーグはいつも作るものよりかなり大きく、食いでがあった。
「でっかいハンバーグやなあ」
「聡司がテストでええ点取ったから」
ほら見てみ、と美智子が自慢げに出してきたのは百点満点のテストの答案だ。当の聡司は自分が話題になってることを察して「ぼくステーキがええって言うたのに、お母さんがハンバーグ作ってん」と不満げな声を上げた。
「そしたらテストのたんびにステーキ焼かなあかんようになるやろ。そんな贅沢したらお父さんの小遣いなくさなあかんようになるで」
「そこで聡司やなくて俺に飛ぶんか」
「お父さんやったらええやん」
「ええわけあるか! そんなんされたらタバコ再開してグレるぞ!」
「副流煙でぼくみたいないたいけな子供の肺を汚すんか! ピチピチの肺を!」
「自分でいたいけな子供って言うてたら世話ないわ」
下らないやり取りをしながら晩御飯を食べていく。肉のうまみが閉じ込められたハンバーグ、マヨネーズが少し多めのポテトサラダ、コンソメがほどよく効いた野菜スープ。どれもこれもが疲れた体に染みわたる。
レストランのような一流の味ではない。しかし、この平凡な料理に無上の安心感を覚えるから、矢部は妻の手料理が好きだった。
九時頃になると美智子が風呂の用意をして、聡司に早く入って寝るようせっつき始めた。聡司は美智子に対して屁理屈をこね、そして矢部に対してちらちらと視線をよこしてきた。何が言いたいのかはなんとなくわかる。ソファから立ち上がって聡司の背をぽんぽんと叩いた。
「久しぶりに一緒に入ろか」
「えええ。いややあ。恥ずかしいし。ぼくもう小学生やで」
「まだ小学生や。親孝行やと思いや」
「……しゃーないなあ! 親孝行したるわ!」
憎まれ口を叩いているがどう見ても嬉しそうに洗面所兼脱衣室へ入っていく。
(今日の夕方にやってたアニメがちょっと怖かったみたいや)
と美智子から耳打ちされて苦笑する。子供向けアニメで妙に恐ろしい演出があってちょっとしたトラウマになってしまう、なんてことは矢部にも覚えがあった。
風呂の中で聡司ととりとめもない話をした。聡司は年相応に小賢しく可愛げがないが、頭がよく運動も得意で快活な子供だ。担任の先生からの信頼も厚く、親の贔屓目を差し引いても良い子だと思う。
「聡司は百点よう取るなあ。今度の日曜でもゲーム屋行こか」
「ほんまに!?」
聡司が目に見えてはしゃいだ。最近のゲームは矢部にはさっぱりだが、流行についていける程度の頻度で買い与える事にはしていた。
「うわー、うわー、何買うてもらお」
聞き覚えのない単語を次々と並べ立てていく。おそらくは最近のゲームのタイトルなのだろう。
お風呂から上がると聡司はすぐに寝てしまった。程なくして美智子も風呂に入り、暫くのんびりとした後で寝室に入った。
電気を消し、ダブルベッドに並んで寝転ぶ。「おやすみ」と声を掛け合い、部屋に心地良い沈黙が満ちる。
矢部はうつらうつらとした頭のままで、背を向けて眠る美智子にそっと身を寄せた。軽く抱きしめると美智子のにおいがした。
「……なに?」
眠たそうな美智子の声がする。当たり前の風景のはずなのに、何故か胸がきりりと痛んだ。
「……なんか、こういうの、めっちゃ久しぶりな気がして……」
「寝ぼけてんちゃうんか」
辛辣な一言に苦笑する。ああそうだ。美智子はけっこう、ずけずけとものを言う。
「美智子」
「だからなに」
「愛してる」
もう少し強く抱きしめようとしたが、美智子はぐいと矢部を押しのける。
「総ちゃん。アホなこと言っとらんで、はよ寝ぇや」
照れている。その顔が見たかったし、もっと照れさせたかったが、そうするとひどく怒られてしまうだろう。矢部は大人しく引き下がり、目を閉じた。
矢部の胸の内は、穏やかでありふれた幸福に満ちていた。