稲荷が四肢不全(両腕)になった時の事

(※灼監面子の名前、二十日さん宅の力永さんほんのりお借りしました)

 真冬の寒さとは程遠い灼熱の空間。あの出来事は悪い夢だったと思いたいが、脳裏に焼き付いた怪物の姿と火傷の痛みがそれを許さない。
 生きるか死ぬかの瀬戸際は職業上何度か経験したことがあったが、同じ瀬戸際であっても全く別種のものだった。それだけに無事帰る事が出来た安堵感は何物にも代えがたく……故に、糸が切れたのだろう。

 夜が明けて目が覚めた時、両腕が動かなくなっていた。携帯のアラームを止めるのにも骨が折れた。
 外傷も痛みもなく、毒を盛られた覚えもない。指一本動かない事を除けばいたって健康だ。精密検査をしてみないと断言はできないが、恐らく心因性のものだろう。原因に心当たりがありすぎる。
 とはいえこのままではまともな生活を送ることもままならない。鼻でどうにか携帯を操作して馴染みの業者に電話をかける。
「至急ボディーガード一人。経験年数三年以上でそれなりの実績があるヤツ。日給制で期間は未定。危険度低め雑用多め」
 簡潔に要望を伝え、少し前に用心棒を頼んだ男をふと思い出した。タチの悪い患者から治療費を巻き上げた時に雇った奴だ。威圧感のある顔つきで喧嘩慣れしていてそれなりに使えたから、顔はなんとなく覚えている。
「あの時雇ったヤツいる? ほらあの、中国人で蹴り技が得意な。なんかのゲームのキャラっぽい名前の」
 それが誰を指すのか分かった業者は、簡潔に「あいつは辞めたよ」と返してきた。何でもつい最近になって急に仕事を断り始め、各所に連絡を入れているらしい。あのバトルジャンキーの気がある男が手足がもげたわけでもないのに仕事を辞める理由は少し気になるが、おおかた女が出来て真っ当な生活に戻りたくなった、とかだろう。「そう簡単に身綺麗になれると思ってんのかねー」と呟くと、業者も相槌を打った。

 こちらの要望に沿ったボディーガードはすぐに来た。何度か仕事を頼んだことがある奴で、それなりに信頼は置ける。こちらの状況を軽く伝え、診察用の機器を動かして精密検査を行った。結果は異状なし。心因性と見て間違いないだろう。
 心因性の病はいつ治るか分からない。明日には治ってしまうかもしれないし、一生引きずるかもしれない。厄介なものだが気に病んでも仕方ない。医者はしばらく休業して、金が持つ限り平和で少し不自由な日常を過ごすしかないだろう。金が尽きればそこまでの人生だった。それだけの事だ。
 冷蔵庫の中にいる「恋人」も料理人に頼まなければならないし、あの空間で出会った柴と鶴木という男の所在を突きとめておかねばならない。この有様では挨拶など到底できないから、代筆で手紙を書いて届ける程度になるだろう。もし短期で回復したら、その際は改めて挨拶に行く。「こちらは自分達の個人情報を握っている」と知らしめて、下手な手は打てないよう釘は刺さねばならない。

 やる事は沢山あるように見えるが、実際は人を手配し動かすだけの簡単なものだ。両腕が使えない生活にもそのうち慣れるだろうし、期間未定の休暇と洒落込もう。