稲荷の日常
「金がない?」
俺の言葉に稲荷とかいう闇医者は軽く目を見開いた。俺だって驚きだ。土壇場になって上から「相手は若造だ。適当に騙して踏み倒せ」と言われるとは思わなかった。今回の怪我で上から見捨てられたか、それとも試練の一種なのか。
「治療費を隠してた部屋に泥棒が入ったみたいで……本当に申し訳ありません」
ガラステーブルに額をこすり付ける勢いで頭を下げた。ここからどうやって切り抜けていくか。考えているとガラステーブルの上に棒状の機械がことりと置かれた。
「悪ぃけど、こっから先の話は録音させてもらうから」
棒状の機械の液晶――ICレコーダーに表示された数字はゆっくりと動き、稲荷は胸ポケットに入れていたボールペンを取り出して何かをメモしている。いつの間にか、俺の両隣にスーツ姿の屈強な男が座っていた。
「金がないからはいそうですかと帰せる程オレはお人よしじゃねーから。他の金になるモンで払うか、誰かに頼んで今日中に金を持ってきてもらうか、旅行に行くか。どれがいい?」
とんとんとテーブルが叩かれる。細く骨ばった指先だ。この男一人なら殴り倒して逃げられるのだろうが、両脇に座る男達がそれを許さない。
「あと、オレ嘘つかれたり騙されたりするのスッゲー嫌いだから。そこんとこ踏まえて三秒以内に答えろ。さーん、にーい、いーち」
「時計」
稲荷のカウントダウンを遮り、腕時計を外してテーブルの上に置いた。さる一流ブランドのもの、しかもかなりの上物だ。これを治療費とするとお釣りが出るレベルだが、背に腹は代えられない。
「これで払う。手間賃込でも治療費には足りるだろう?」
稲荷は腕時計を一瞥し、白い手袋をはめてそれをつまみ上げた。じいっと目を細めて腕時計を吟味する様は、用心深く狡猾な狐に見えた。
「悪趣味な腕時計だな。ま、金にはなりそうだからいーよ」
腕時計を懐に納め、今度はICレコーダーを操作して液晶画面を俺に見せてきた。
「じゃ、これで支払いは終了っつーことで今のオハナシも消しといたから」
見ると確かにICレコーダーの録音は止まり、データは綺麗に消えている。
「いいのか?」
「円満に解決したネタをいつまでも保存したってしょーがねーだろ。アンタもこういうネタ残しとくのはイヤだろ? オレさ、お客様にイヤな思いはさせたくねーの」
「…………」
屈強な男が立ち上がり俺に退室を促す。俺は稲荷に向けてもう一度深く頭を下げ、部屋を後にした。
* * *
「あの状況でニセモノ出すとか、アンタもけっこう図太いな」
稲荷はあの時と同じように指先でテーブルを叩いていた。ただし、あの時よりもずっと強い調子で。
「偽物……? あの腕時計が?」
「ん」
ガラステーブルの上に腕時計と鑑定書が並べられた。鑑定書に記載されている金額は二束三文。
「……そんな……お、俺は、この腕時計は本物だと、思って」
稲荷の手がすっと伸びて俺の鼻を掴んだ――と気付いた瞬間、べき、と音が鳴った。
「アンタが本物と思ってたかどうかなんてどーでもいーの。問題は、治療費とは程遠いニセモノで支払いを済ませたっつー事実」
ガラステーブルの上にぽたりぽたりと血が落ちる。それを見て稲荷は不快そうに顔を歪めた。
「オレ、言ったよな? 嘘つかれたり騙されたりするのスッゲー嫌いって」
いつの間にか両隣には屈強な男が座っている。
「そもそも泥棒だって嘘だし。アンタ、ハナからオレを騙すつもりだった? にしてはお粗末な嘘だけどよ」
「ち……違う……」
「違う? 何が?」
稲荷は机の上にスマートフォンを置く。短く切り揃えられた爪先が踊り、内蔵されている音楽を再生する。
『――治療費を隠してた部屋に泥棒が入ったみたいで……本当に申し訳ありません』
『時計――これで払う。手間賃込でも治療費には足りるだろう?』
それは、あの時の会話だった。
「嘘だ」
確かに録音はされていた。だが、ICレコーダーのデータは消したはずだ。それは確かだ。なのに、目の前のスマートフォンから流れる音声はあの時録音した会話だ。
「消したはず」
「不思議だねー。でも実際問題として録音データはあるからねー」
稲荷はからからとおかしそうに笑っている。俺が二の句を告げずにいると、ぬるりと手が伸びてきて髪を掴み、
「ふざけんじゃねーぞ」
顔面からガラステーブルに叩きつけられた。髪を引っ張って持ち上げられた視界の先には、真顔の稲荷の姿があった。
「オレが若造だから大したことはできないって見くびるのはいーよ。ただな、アンタはオレの治療を受けた。オレの技術を知ってた。その上で、適切な対価を払わずに騙そうとした。オレが若造だから」
ぶちぶちと髪が毟られる。呻き声をあげても稲荷の表情は変わらない。
「入院中に診た限りアンタは健康上は問題ねーし、アジア旅行をプレゼントしてやるよ」
アジア旅行。その言葉が意味するものは理解している。
「金ならすぐに払う。治療費だけじゃなくて慰謝料もつける」
「慰謝料ねえ」
稲荷がひらりと手を振ると、屈強な男が俺の右腕を掴み、袖をまくってガラスのテーブルの上にぐいと押し付けた。
「もっかい言うけど、オレ、嘘つかれたり騙されたりするのスッゲー嫌いなの」
稲荷の右手には注射針。中は透明の液体で満たされている。慣れた様子で俺の右腕をさすり、血管の位置を確認する。振り払おうとするが、押さえつける手はびくりともしない。
「アンタのやらかしたことは金で解決できる問題じゃねーよ」
右腕にちくりと痛みが走る。意識が闇に沈む間際、口角を釣り上げていびつに笑う稲荷の姿が見えた気がした。