先をゆく人
(※みちをさん宅渚さんお借りしました)
異変を感じたのはほんの数日前だった。
その日、稲荷は手土産を携えて渚の診療所へ向かっていた。
渚の診療所にはこまめに訪れているが、これといって大した理由はない。手土産を渡した時、軽く煽った時の彼女の反応が実に分かりやすくて面白く、暇潰しの話相手として最適な存在だから。理由といえば、それくらいだ。
稲荷が訪れた時、診療所は閉まっていた。明かりは灯されておらず、耳を澄ましても人の気配はない。時計を見ても、普段ならまだ営業している時間帯だ。
(珍しいこともあるもんだ)
いないものは仕方がない。手土産は夕季にでも横流ししよう。稲荷は踵を返して家路についた。
翌日も渚の診療所を訪れてみたが、変わらず扉は閉ざされていた。
人を使って診療所の前を張り込みさせてみると、患者と思しきチンピラがうろついて首を傾げたりしていたという。
つまり、彼女は自分の客層にこの休業を伝えていなかった。このような信頼を損なう行為を犯すほど彼女も馬鹿ではないだろう。なにしろ、稲荷と渚は半年ほど前、気付かないうちに一か月もの時が過ぎてしまったことがある。あの時は方々への対応が大変で、稲荷もようやく信頼を取り戻しつつあったのだ。いくら渚とはいえ、痛い目に遭ったばかりで同じような愚行を働くとは考え難い。
(何かあったな)
人を使い、また自らも足を動かして情報を集めた。
渚だけでなく菫という同業者、そして田中とかいうとある組の専属医師までもが同時に姿を消したようだった。専属医師に関しては、とある依頼を請けて出掛けたきり……ということも聞けた。
とある依頼と聞いて、少し前に私書箱に届いた一通の手紙を思い出した。
手紙の内容は、大雑把に言えば「指定された場所に赴いて娘の治療をしてくれ」という依頼だった。示された代金は十分なもので、指定された場所もそう遠くない。
だが、稲荷はその手紙をごみ箱に捨てた。はっきりとした病名は書かれておらず、なおかつ入院ではなく出張診療を要請している。稲荷の闇医者としての強みは「入院中に居場所がばれることがない」という秘匿性の高さだ。稲荷の強みを知っているのなら、こんな依頼は投げてこない。つまりこの依頼は稲荷の仕事をよく知らずに頼ってきたか、数撃ちゃ当たる方式で同業者に同じ文面で無差別に投げたものだ。前者ならそんな馬鹿を相手にする義理はないし、後者ならより一層稲荷が出る必要はない。
そう考えて依頼を蹴ったが、もしも同じ依頼が渚や菫、そして専属医師にまで届いていたら。彼らがそれを請けたとしたら。
(……その結果が、これか?)
確証はない。しかし、彼らが二度と戻ってこないことは理解できた。
花屋に寄り、錠前屋を手配して渚の診療所をこじ開けたのは気まぐれだ。
誰もいない受付を通り、診察室に入る。部屋の中は消毒液の匂いがして、いつも渚が座っていた椅子には誰の姿もなかった。座面に触れてみても温かみは感じられない。ごみ箱の中には、封筒を開けた時の切れ端と思しき紙片が入っている。
彼女が出かける時に使っていた鞄や、あの黒く長いマフラーも見当たらない。小さな冷蔵庫の中には缶ビールが数本と、日持ちするおつまみが入っていた。部屋の隅には猫の餌用のトレイとキャットフードがあるが、猫を連れて行く時のケージは無い。
わざわざ出張診療に猫を連れて行くことはないだろう。つまり彼女は猫をペットホテルか誰かに預け、依頼をこなしに行った。この状況を見る限り、おそらくそういうことだ。
渚が座っていた椅子に腰かける。安物の椅子で、稲荷が普段使っているものと比べると硬くて座り心地は良くない。設備はやや古いが手入れが行き届いていた。薬品棚には治療に必要な薬が一通り揃っている。
(センパイと初めて会ったのはいつだったっけな)
確か、稲荷が独立して同業者や顧客候補にあいさつ回りをした時だったか。センパイと呼ぶとやけに偉そうな態度を取ってきたのは覚えている。
稲荷の言葉にいちいち過剰に反応した。殴ってくるのを避けたこともあれば、反応が遅れて鼻血を流したこともあった。猫に餌をやると露骨に嫌そうな顔をした。手土産の菓子や酒を置いていくと、次に訪れた時には空箱に化けていた。
渚は稲荷を本気で嫌っていただろう。だが、稲荷にとって渚は駆け引きも遠慮もいらずに話が出来る、稀有な暇潰しの相手だった。
(……センパイ、もういねーんだなー)
人は簡単に死ぬ。裏稼業においてそれは当然のことだ。稲荷や渚も例外ではない。どれだけ注意を払っていても、遅かれ早かれ自分も同じような道を辿るだろう。たまたま渚が先だった。それだけの話だ。
「渚ちゃーん! ごめん、またやっちゃったわ!」
静かな空間をぶち壊したのは、見るからに軽薄そうな金髪で浅黒い肌の中年男だ。その左手には包帯が不格好に巻かれている。
「あれ? 渚ちゃんじゃない? あんた誰?」
中年男は首をかしげ、稲荷はにこりと微笑みを浮かべる。
「渚さんの知り合いです。あなたは治療を受けにここへ?」
「そう。そうそう。そうなのよ。いやあマセガキと喧嘩した時に左手を切られちゃってね。応急処置はしたけどさ、やっぱりちゃんと治してほしいじゃない」
「じゃあ言っときますけど、もう渚さんは帰ってきませんよ」
「え。なんで」
「そういう業界だからです」
稲荷の簡潔すぎる説明に、中年男はしばし考えた後に「そっかあ」と呟いた。
「お父さんの代からの付き合いだったのに。寂しくなるなあ」
「お父さん? ……ああいえ、そんなことより一つお願いがあります」
「なによ」
「渚さんがもう帰ってこないこと、お仲間に伝えておいてくれませんか? 私、渚さんの知り合いとはいえ常連さんまでは把握しきれておりませんので」
「なるなる。オッケー。みんな集めて渚ちゃんを送る会でも開こうかなー。若い奴なんか泣いちゃうかも。渚ちゃん、俺らのアイドルだったし」
「アイドルねえ」
あんなアイドルがいてたまるか。
「知り合いならあんたも来る? 捨てアドでもいいから教えてくれたら連絡するよ」
「いえ、お気遣いなく」
「そう言わずにさあ」
中年男は押しが強く、誘いを断って帰すのにやたらと時間がかかった。
中年男が帰り静かになった部屋で、稲荷は暫く椅子に座っていたが、時計を見て立ち上がった。そろそろ帰って自分の患者の様子を診なければならない。
渚が主に診ていた客層は決して良いものではない。先程の中年男のようなチンピラ崩れが多い。それ故に収入も多くなく、診療所のやりくりはさぞかし大変だっただろう。
それでも、彼女は客から愛されていた。何のしがらみもなく自主的に送別会が開かれる人物など、この業界ではなかなかいない。稲荷が到底持ち得ないものを、彼女は持っていた。
渚・ルーズベルトは分かりやすくて、不器用で、人に愛された、闇医者に似つかわしくない人だった。
「――さよなら、センパイ」
一輪の白い薔薇を机の上に置き、稲荷は診療所を去った。