清算
金を作ることは簡単だが、金を作り続けることは難しい。安っぽい事務机の上に置いた札束を見ていると、しみじみそう思う。
机を挟んで向かい側に座る男は、信じがたいものを見る面持ちで札束と宝条を見比べていた。
「……中は新聞紙じゃねえだろうな?」
「兄さん冗談きついわぁ。利息分含めて全額キッチリ。気が済むまで確認してええよ」
男は札束を扇状に広げ、一枚一枚手早く、だが確実にチェックを通す。
この札束を作るにあたり、長い間利用してきた女を一人潰した。彼女は自主的にこの金を工面して宝条に渡したが、これだけの金額だ。彼女の生活にガタがくるか、宝条に過ぎたる要望を出すようになるか、不審を抱くことになるだろう。良い金蔓だったが、自然と距離を取って離れなければならない。
信頼を潰せば金は出来る。だが、それは一度きりだ。おまけに悪評が流れるリスクもある。悪評が流れれば信頼を育むことが難しくなる。今後の人生、損失は少なく済ませたいものだ。
「……確かに全額」
確認を終えた男は札束を机の中にしまい込み、代わりに借用書を取り出してシュレッダーにかけた。
「てめえが耳揃えて返してくるとはな」
「兄さんには長いこと迷惑かけました。そのお詫びと言っちゃあなんやけど」
懐から一枚の紙を取り出した。薄っぺらい安物の紙だが、そこには一人の女の似顔絵が描いてある。
「この子、兄さんのお友達が経営してるお店に今日面接受けに来る子。ド田舎出身で超正直。しょぼい事務仕事して仕送りやらなんやらで金が足らんから夜も働くんやって」
「……で?」
男の鋭い視線は、気が弱い者ならそれだけで意欲が挫かれるものだろう。
「ロクな家の出やなくてなあ。家族にとってはおったら小遣いになるし、おらんくてもどうでもいい子。友達もおらへん。連絡が取れへんようになってもだーれも心配せえへん」
宝条は男の顔を真っ直ぐに見てにっこりと笑顔を浮かべた。
「そういう子やって、兄さんのお友達に教えたったら喜ぶんちゃう?」
「…………」
男はしばらく宝条を睨んでいたが、やがて似顔絵をポケットにしまいこんだ。
「……何かあったのか?」
「えー? うんまあ、世の中がバラ色に見えるような発見?」
宝条は事務机に軽くもたれかかって腕を組んだ。男は少し眉根を寄せたが、怒鳴るほどではなかった。
「僕なあ、人を無駄に複雑に見てちょっと疑心暗鬼になってたところあるんよ」
「疑心暗鬼とは無縁に見えるけどな」
「あはは。せやろなぁ。ともかくな、僕が思ってる以上に世の中の人は単純やなって教えられたんや」
幼い頃から疑問だった。
「なんでこいつらは笑うんやろう、やたら一緒にいたがるんやろう、顔赤くしてどもるんやろう」
友情や恋愛感情。他人が他人に必要以上に執着する。その理由が全く理解できなかった。
「道徳の時間に教えられたことを守ろうとして、そういう『ごっこ遊び』してるんかなってずーっと思ってた」
ごっこ遊びで出来た仮初の信頼関係を良しとする。そういう世の中なのだと理解して、宝条もそれに合わせて振る舞っていた。
しかし、そうではなかった。
あの時、宝条にやたらと執着するあの男は言った。絆があるから宝条を助けるのだと。絆は誰もが持ち合わせるものであり、宝条のことを友だと思っていると。その言葉は真に嘘偽りのないものだった。
「ごっこ遊びちゃうかった。みんな本気で友情とか恋愛とかやってた」
「…………」
男は黙って宝条を見た。宝条は男に微笑みかけた。
「別にさびしいとか、そういう風には思ってへんよ。同情してくれた?」
「誰が」
「むしろ自分の立ち位置がよう分かって、何に向いてるんかとか楽しく生きるにはどうしたらええんかとか見えてきて超スッキリ」
「ここに来たのもその一環か」
「せやね。借金取りとか僕の人生にはいらんから」
「もうあんたを追っかける為に人をやらなくて済むと思うと清々する」
「取り返しがつかんようになる前にどうにかできてほんま助かったなーって思ってますわ」
事務机から離れて扉へ向かう。もうここに用は無い。
「そんじゃ、お世話になりました。嫁さんと娘さんにもよろしく言うといてください」
ドアノブに手をかけると、男は「待て」と鋭い声を出した。
「まだ何かあります?」
「……俺に嫁と娘がいるって、いつ分かった?」
男の顔は真剣みを帯びていた。戯れに撒いてみた餌にこうも簡単に食いつき、そして肯定する辺り、この男の程度が知れる。
「けっこう有名ですよ」
微笑みを浮かべ、男の言葉を待つことなく部屋を後にした。
自宅に戻ると、嗅ぎ慣れない臭いがした。絵の具やごみの臭いではない。
少し身構えながら玄関を抜けて部屋に入るが、人の気配はない。必要最低限の家具とキャンバスしかない狭い部屋だ。臭いの原因はすぐに見つかった。
部屋の片隅、開かれた鳥かごの中でヨタカが死んでいた。
奇妙な体験をした中で出会い、目が覚めた時に枕元に佇んでいたヨタカだ。なんとなく籠や道具を買って気まぐれに世話をしていたが、基本的に放し飼いをしていた。餌をやることは殆どなく、開けっ放しの窓から外に出て腹を満たしていたのだろう。そして老いか怪我で餌が取れなくなり、飢えて死んだ。おそらくはそんなところだ。
動物を飼うことで何かしらの情動が芽生えるのではないか。
ヨタカを飼い始めたのは、そんな考えがあったのかもしれない。確証はないものの、自分がわざわざ金を出して動物を飼うなんて行動は、何か普段と違う考えがあったのは間違いない。
(結局はなんもなかったなあ)
ヨタカの死骸をつまんで生ごみの袋の中に入れた。奇しくも明日は生ごみの回収日で、その上部屋を汚さず静かに死んだのは幸運だった。飼育道具もついでにごみ袋に入れ、部屋の片隅がすっきりした。
ワンルームの狭い部屋だ。冬場は隙間風が吹き、壁は薄い上に治安も悪い。その分賃料は破格の安さだった。
頭の片隅にあった疑問を競馬やパチンコで誤魔化して、金が足りなくなって、この部屋に住み、借金を重ねていた。
だがその生活ももう終わりだ。
複製画の収入だけでももう少しましな部屋に住める。今まで築いてきた人脈を上手く利用すれば娯楽用の小遣いになるだろう。競馬やパチンコに対する興味は薄れたが、ポーカーや麻雀など人を相手取った賭博は満足感が得られた。賭けに買って金が増えることより、人を翻弄して場を掌握する過程が面白いと感じられた。
複製画で生活費を稼ぎ、人脈を駆使して小金を稼ぐ。上手くやれば収入は跳ね上がり、刺激と充足感に満ちた毎日が訪れることは容易に想像がつくが、失敗すれば信頼を損なうどころか全てを失う可能性もある。
情動に欠ける人間が刺激を求めて犯罪を重ね、そして罰を受ける物語はよくある。罪悪感というブレーキがないからこそ人を人と思わない残虐な行為に走れるのだとよく語られている。
宝条に罪悪感というブレーキは無い。「罰を受ける側」の欲望はよく理解できる。だからこそ罪悪感とは別の――長期的な利益というブレーキで彼らの二の舞にならないように生きるつもりだ。
宝条豊はうだつの上がらない無害な芸術家である。
世間にそう信じ込ませ、人心を掌握することで得られる利益は莫大なものだ。宝条がより良い人生を送る為に必要なものであり、欲望のままに生きれば決して手に入らない。
いかにして束縛を減らし、自由に楽しい人生を送るか。
宝条の思考は、今後の生活に向けて急速に最適化されていった。