泥船
刀から滴り落ちた血が、鍛冶場の土間を歪に彩った。
一足一刀の間合いの中で男が倒れ伏し、血だまりがじわじわと広がって行く。
男は数日前からここに滞在していた。脛に傷を持つ身であり、何らかの事情があってここまで来たようだ。いくばくかの宿泊費を払い、家事を手伝い、私の仕事を見て「こういう生活を送りたい」と呟いていた。
仰向けに寝かせると、袈裟切りにされた傷口から新鮮な血が流れ出ていた。触れてみるとまだ温かく、顔を近づけてみると鉄の臭いがした。その臭いに肌が粟立つ。恐怖ではなく、歓喜が心を満たした。
血を掬って飲み、肉をちぎって食み、臓腑を潰す感覚を味わう。そうするだけで、荒れて乾いていた心が潤っていく。私はここで生きているのだと、実感できる。
血を吸った刀に目を遣る。鈍く光る鉄を彩る、黒に近い赤。役目を果たしたそれは美しいが、奇妙な経験を通じて触れた名刀と比べると、欠けているものがある。
誰かが来る。刀を打つ。切る。仕上がりを確認する。次回作への改善点を見つける。このサイクルは完成しつつあり、依然と比べて刀の出来は飛躍的に向上した。
人心地がついたところで刀と手と口についた血を洗い落とし、電話をかける。すぐに使いの者がやってきて刀を購入し、土間を片付け、去っていくだろう。あの男がいた痕跡は消し去られ、残されるのはいくばくかの現金と「また刀が完成したらご連絡を」という使いの者の言葉だけだ。
何故この流れが作られたのか。遡って考えてみると、彼の姿が思い浮かんだ。
* * *
「お兄さん、お久しぶりです」
そう言って現れた彼のことを思い出すのには、少し時間がかかった。何しろ会ったのは一度きりで、それ以降連絡を取ることもなかった。
「宝条君」
宝条豊。私の従姉妹である花と付き合っていたが、ほどなくして別れた男。今となっては私と接点を持つ価値など無いはずなのに、何故こんな辺境の地までやってきたのか。
「こないだ花ちゃんと偶然会うて、お互いの近況について話したんですよ」
こちらの疑問を読み取ってか、宝条はここを訪ねた理由を話し始める。以前話した時も思ったことだが、随分と察しが良く気が回る男だ。
「新しい彼氏が出来たとか仕事が順調だとか、本人は元気そうやったんですけど、どうも兄さんのことを気にしてるみたいで」
「私のことを?」
「どうも元気が無いようだった、自分や家族を避けているように思える、何かあったのではないか、と」
いつも通りに振る舞っていたつもりだが、周りから見るとそうではなかったらしい。
「それで、わざわざ様子を見に来てくれたのかい」
「そんな感じです。ま、僕が勝手に来ただけで花ちゃんに頼まれたわけとはちゃうんですけど」
宝条は肩をすくめる。芸術家とはそこまで退屈な職業なのだろうか。
「なるほど。折角来てくれたんだ、上がってお茶でも飲んでいくといいよ」
宝条がここを訪ねたのは本当にただの様子見で、他意はないようだった。お互いの仕事や好きなもの、他愛のない話をするだけで満足したような様子を見せた。話の途中、興が乗って刀の話を熱心にしすぎてしまったが、宝条は興味深そうに話を聞き、適切なタイミングで適切な相槌や質問を返した。
「兄さんはほんまに刀が好きなんですねえ」
そう言って朗らかに笑う姿は同性から見ても好印象を持たせるもので、なるほど花が惚れるのも無理はないなと納得した。
「それじゃ、仕事の邪魔したら悪いしここらで失礼しますわ」
もう少し色々な話をしようと思ったタイミングで宝条は席を立つ。
「元気が無いと聞いたから様子を見に来たと言っていたけれど、君から見たらどうだったかな」
「そうですねえ」
帰り支度をしていた手を止めて、私の目をじっと見る。焦げ茶色の瞳は真っ直ぐに、無機質に、私という個を推し量っていた。
実際に数えれば数秒、体感的には数分の時を経て、宝条は一言だけこぼして去って行った。
「――飢えてるんちゃいます?」
妙な男が訪ねてきたのは、それから一か月以上経ってからのことだった。
定期的に刀を購入したいと丁寧な態度で告げ、私が戯れに作っていた刀で側近の男を切り捨て、このように人を斬ってその手ごたえを元に刀を打ってほしいと願い出た。
非合法の世界の住人が、私というしがない刀匠に目を付けた理由は分からない。だが単刀直入に取引を持ちかけてきたのは、私の本質を知ってのことだろう。宝条の真っ直ぐな目をふと思い出したが、彼はただの芸術家だ。
男はこの取引を請ければ、「この家は足を洗いたい者の一時の隠れ家である」という噂を流すと言った。噂を聞きつけてやってきた者で刀の試し切りを行い、男に連絡し、刀と遺体を納める。私にも男にもタイミングが読めない仕事だが、私という刀匠を見込んでお願いしたいと頭を下げてきた。
刀が欲しいのではなく、組織を抜ける者を始末したいのだろうということはすぐに理解できた。それにしては消極的な対応だが、幾重にも張り巡らされた罠の一つならば納得できる。
刀の良さを認めての依頼ではないことは分かっていた。しかし、私の答えはとうに決まっていた。
* * *
こうなる素質は生まれたときから持ち合わせていた。祖父の教えを守ることで人間として生きてきた。
しかし、あの時、あの空間で、あの決断を下した時から、私は人間ではなくなった。
決断に後悔はない。祖父の教えを守るためならばこの決断を下すのは当然のことであったし、我が身を守るために決断を曲げるような人間性ならば、いずれ同じ道を辿る。どちらにせよ行き着く先が同じならば、二十年以上共にあった祖父の教えに誠実でありたかった。
飢えていると宝条は言った。
その言葉は寸分違わず私の現状を射抜いていた。動物の血肉では誤魔化しようのない焦燥感が常に身を焦がしていた。
早く血を飲まなければ。早く肉を食らわなければ。私は私でなくなってしまう。何を躊躇うことがある。お前は刀匠で、人間を斬った刀こそ美しいという思想を抱き、良心を持たない外道ではないか。
頭の中でそう囁きかける声がする。その声は得体のしれない怪物であったし、私自身でもあった。
飢えに比例して大きくなる声は、「仕事」をこなすことで和らいだ。その行為自体は人道から外れたものであるのに、そうすることで人道に留まることができている。
いずれ私は何らかの形で罰されるだろう。それが司法の裁きか、個人の恨みか、天運によるものか、判断はつかない。
罰から逃れるつもりはない。しかし、自ら罰されに行くつもりもない。沈みゆく船の底を塞ぎ水を捨てるような真似はしないが、船から身を投げることもしない。その日が来るのを待ちながら日々の生活を送ること、それが私にできる唯一の行いであった。