死を想う

(※ササニシキさん宅栞那さん、二十日さん宅薄羽さんお借りしました)

 じゅうじゅうと肉の焼ける音がする。
 鉄板の上にはほどよい厚さで切られた牛肉が並び、ほどよい焼き色がついていた。
「子安台サン、遅れてゴメンネ。オレの奢りだからお好きなだけどーぞ」
 テーブルを挟んで向かいに座るのは子安台栞那。稲荷の同業者ではあるが、扱う客層が違うためあまり注意を払ったことがない人物だ。
「確かに焼肉を奢るとは言っていたが……こういう店だとは思わなかった」
 栞那はちらりと辺りを見回す。完全個室の空間は黒を基調とした洒落た雰囲気でまとめられており、メニューには値段が一切書かれていない。
「子安台サンの年収じゃ選択肢にすら入れられないかもねー。ほら、そろそろ食べごろだよ」
「何でわざわざそういう言い方をするのかな」
 眉間に皺を寄せつつも、焼き色が付いた肉を取る。「わさび醤油がおすすめ」と伝えると素直にそれを試し、口に入れるとわずかに目を見開いた。
「美味いでしょ。一生に一度の経験かもしれねーし、しっかり味わっとけば?」
 稲荷も焼けた肉を口に運ぶ。赤身が多い肉は噛めば噛むほどうまみが出る。同じ肉でも何の罪悪感もなく食べられる牛肉は好きだった。

「で、子安台サン。調子はどう? 元気に闇医者やってる?」
「稲荷が同業者の心配をするとは。こうして誘いに乗るくらいには余裕があるよ。杠葉も入院中とはいえ相変わらずだ」
 栞那の表情にも切羽詰ったものはない。それはよかったと世辞にもならない感想を述べる。
「稲荷はどうなんだ」
「オレ? 闇医者辞めるよ?」
「は?」
 栞那の箸の動きが止まる。
「こないだ妙な目に遭ったじゃん。そっから三週間弱、引きずっちゃって。丁度その時そこそこ偉い人の治療をしてたけど、まー、お察し下さい」
「…………」
 今から一か月ほど前、稲荷と栞那、それと同業者である杠葉と御泥とかいう大学教授は妙な出来事に巻き込まれた。どうにか家に帰ることはできたが、それからしばらくの間は人の顔をまともに見ることができなかった。正確に言うと、人の目を見ることができなかった。どうしても、あの黒い眼差しを重ね合わせてしまった。
 人と接することができない、というのは稲荷にとって致命的だ。患者の治療ができなければ、代わりの医者を雇うこともできない。身辺警護に付けていた者も帰らせた。無理を押して患者の診察はしていたが、まともな処置が施せるはずもなく、あっという間に患者は死んだ。
「だから子安台サンに会うのもこれが最後。元気でね」
「……そうか。稲荷も元気で。その腕があれば新しい職もすぐ見つかるだろう?」
 栞那の言葉に思わず吹き出した。
「子安台サン、ほんとなんで闇医者やってんの」
「そ、そんなにおかしいことは言ってないぞ!?」
「ま、そういうとこが子安台サンのいいとこだし、これからも頑張って」
 栞那の底抜けなお人好しさは、渚を思い出させた。その善良さがあれば、患者にも慕われてそれなりに楽しくやっていけるだろう。……収入はともかく。

 食事を終えた後はあっさりとしたものだった。二次会に行くこともなく栞那は帰路につき、稲荷は迎えに来た高級車に乗り込む。
 車の後部座席の中央、スーツ姿の体格のいい男に挟まれる形で座る。運転手はマスクを付けた冴えない日本人で、助手席にはサングラスをかけたカジュアルな中華服の女が煙管をくゆらせていた。
「最期の晩餐はどうだたか?」
 女――とある中華マフィアの幹部秘書は稲荷に対し、笑いかけた。

 * * *

 稲荷が死なせた患者は中華マフィアの幹部だ。彼女が仕えている幹部とは別人だが同格の存在にあたり、その死は組織内に多少の動揺をもたらした。幹部の死に関与した稲荷の首に懸賞金がかかるのは当然のことだった。
 逃亡は試みた。大多数の追手を撒くことはできたが、いくら証拠を隠滅しても、偽装を重ねても、彼女が率いる者達は追ってきて、やがて捕まった。

 目隠しをされて、方向感覚を失うほどの長いドライブの末に、どこかに辿りついた。がらがらとシャッターを開ける音がして、両腕を抑えられたまま歩かされる。こつこつとした硬質な足音は、がさがさと薄いシートを踏む音に変わる。椅子に座らされ、肘掛けに両腕を、脚部に両足を、背もたれに胴体を、それぞれガムテープで固定される。その段階になってようやく目隠しが外され、稲荷は自分がどこかの貸倉庫に連れられたと知った。自身の身体は安っぽい木の椅子に固定され、その下にはブルーシートが広がっている。シャッターは閉ざされ、外の音は一切聞こえない。
「なにここ。オレが殺したのは確かなんだから、さっさと殺せば? 無駄に時間使うほどの価値もないでしょ」
「確かに普段ならアナタ即殺。でも今回はちょと事情があてね」
 幹部秘書はにこにことした笑顔を絶やさず、稲荷の顔をじろじろと見て煙管の煙を吹きかけた。
「……へーえ。ネクロフィリアの食人嗜好とはいい趣味してるネ。闇医者してるのも分かる気がするヨ」
「……それ、誰も知らない秘密のはずなんだけど?」
「ワタシ魔法使いだからネー。どんな秘密もお見通し」
 あからさまな嘘をついて幹部秘書はけらけらと笑う。
「ま、アナタ誰かに依頼受けて殺した違うわかた。ただの過失。これなら安心して出来るネ、幸助?」
 幹部秘書は傍に控えていた冴えない運転手の男に話しかける。幸助と呼ばれたその男はびくりと震え、幹部秘書と稲荷を交互に見た。
「紹介するヨ。彼はワタシのパートナー。まだまだ新米で荒事全然慣れてない」
 冴えない男は稲荷にぺこりと頭を下げて懐を探るが、はっとして姿勢を正す。名刺でも渡そうとしたのだろうか。
「荒事の練習しなきゃで、アナタ練習台にぴったり。失敗しても問題ナシ」
「……荒事の練習台ねえ。それ、謝礼は出んの?」
「アナタそういう要求できる立場か」
 幹部秘書は絶えず微笑みを浮かべ、明るい調子で友好的な態度を保っているが、その言葉は迷いがない。
「フツーに殺されるならまだしも練習台だろ? 今から十秒以内に謝礼があるかどうか答えろ。ノーと答えるか、十秒経つか、オレを抑えようとしたら奥歯に仕込んだ毒を飲んで死ぬぞ」
 いち、にい、さん、と数え始めてすぐに幹部秘書は「分かたよ」と軽く両手を挙げた。
「こんなとこでハッタリかます度胸に免じて謝礼出すよ。とはいえアナタ助けるできないし、死に方アナタ決める、でよろし?」
「ま、その程度が精一杯だろーな。いーよそれで」

 話がまとまると、冴えない男による拷問が行われた。最初に「よろしくお願いします」と馬鹿丁寧に挨拶をしてきたのが妙に面白くて笑みがこぼれた。
 指を折る程度の拷問でも男は躊躇っていた。稲荷の指を持つ手は震え、ぼきりと折れる手ごたえがした時には「すみません」と謝ってきた。その後も指を折るたび、爪を剥ぐたび、男は謝り、その目尻には涙が浮かんでいた。思わず悲鳴を上げた時は、自分がその痛みを味わっているかのような顔をした。
「アンタ、なんでこんなとこにいるわけ? どっちかっつーとカタギ側の人間でしょ」
 荒れた息を整えながら言った。言葉を発するだけで腹は痛み、視線を落とすと先程食べた焼肉の成れの果てがぶちまけられている。
「……彼女の右腕、なので」
 男はそう言って弱弱しい拳で腹を殴る。幹部秘書は、少し離れたところで椅子に座って漫画を読んでいた。

「感想は?」
 幹部秘書の声がする。男が何かを言っていたが、片耳が潰された状態ではよく聞こえない。光はとうに失われており、男や幹部秘書の表情を見ることも叶わない。
「アナタ起きてる? 感想あるか?」
 肩を強く揺すられる。刺すような痛みが全身を駆け巡り、うめき声が漏れる。
「……上々、なんじゃ、ねーの。スゲー痛いし、ボロボロ、だけど……喋れ、るし、聞こ、える」
「そかそか! よかたね幸助、この調子で慣れてこ!」
 ばしばしと何かをたたく音と、返事の代わりに鼻をすする音が聞こえた。
「で、謝礼ネ。どういう死に方するか?」
「…………」
 以前から、理想の死に方はいくつか考えていた。最高の死に方は叶わなくとも、選択肢はそれなりに残されている。
 考え得る最良の結末を迎えるために、稲荷はゆっくりと口を開いた。

 * * *

 冷え切った風が稲荷の体温を容赦なく奪う。エンジン音と波の音、潮の臭いと足元の揺れは船が海上を進んでいることを示していた。日本海なのか太平洋なのか、どのあたりの海なのかは分からない。
 稲荷は椅子に座らされていた。その両足はコンクリートで固められており、歩くこともままならない。
「はいコレ」
 幹部秘書の声がして、鼻先に何かが付きつけられた。
「伏見緑の骨壺。コレをアナタに縛り付ければよろし?」
「ああ、絶対離れないように」
 満足に動かせなくなった手でも骨壺を抱くくらいはできる。稲荷はそれを抱きしめて、幹部秘書はその上から鎖で何重にも拘束していった。
「ハイ準備完了。にしても、アナタそれが伏見緑の骨壺信じるか? もしかしたら適当な墓から持てきた別人かもしれないよ?」
「殺し方のリクエストに応えてくれるヤツが、その程度の労力をケチるわけ?」
「フフフ」
 幹部秘書は意味ありげに笑うだけで、真偽は答えなかった。

「アナタどうしてこの死に方選んだか?」
 ふいに幹部秘書から問いかけが投げられる。
「楽な死に方はいぱいある。なのに溺死、しかも最初に殺した姉の骨壺と一緒」
 確かに傍から見ると奇妙な要望なのだろう。けれどもこれは、稲荷が望む中でも良い方の死に方だ。
「伏見緑はオレが一番最初に好きになった人。でも、当時はどうやって愛したらいいか分からなくてスゲー不誠実なコトをしちゃったの」
 姉に対して行ったことは最大の後悔として深く心に刻まれている。その場の衝動に任せて、ちゃんと愛することができなかった。姉を愛したことで世界は広がり、いくらか生きやすくなった。しかし、その代償は重かった。
「これは罪滅ぼしっつーか。一番最初に好きになったヒトと、死んでからもずっと一緒でいたい。夕季とか、他の恋人はしっかり愛することができたけど、姉貴だけはそれができなかった。だから、長い時間をかけて今までの不誠実を挽回したいっつーか」
「だから誰の手も届かない海の底で二人きりか?」
「そんな感じ。あと、海の底ならオレの肉を魚が食ってくれるだろ。オレのこと、せめて魚に知ってもらえたらなって」
「……よく分からない理屈ネ」
 幹部秘書は興味を失ったのか、煙管の匂いが離れていく。そしてそれと同時に、船はゆっくりと減速する。

 数人がかりで持ち上げられ、今までより不安定な場所に置かれる。昔見たアニメの、船から突き出した木の板の上を歩かされるシーンを思い出した。
「……最期に何か、言いたいことはありますか?」
 例の頼りない男の声がした。距離からして、彼が稲荷の肩を掴んでおり、その手を離せば稲荷はバランスを崩して海に落ちて死ぬ。そんなところなのだろう。
 遺言のようなものは特にないが、最期の善行に忠告だけはしておこうと思った。
「アンタ、あの女に惚れてんだろ」
「な」
 肩を掴む手が動揺で揺れる。あまりにも分かりやすすぎる。
「オレは恋愛に相当苦労したし結局報われることはなかったけどさ、アンタも苦労するよ。あの女、絶対一筋縄じゃいかねーし報われる可能性は低い」
 男は何も答えない。おそらく、本人も薄々わかっているのだろう。
「ま、それでも好きになっちまうし止めらんねーんだよな。分かるよ」
「え」
「それならそれで、後悔しないように全力で愛しに行けば?」
 肩を掴む手が緩む。稲荷は自らバランスを崩し、海の中に落ちて行った。

 ごぽごぽと水の音が響き渡る。暗闇の中でひたすらに落下し、肺の中の空気は海水に置き換えられていく。真冬の海水は体温も容赦なく奪い去っていく。
 苦しいが、死に対する恐怖はなかった。死は常に稲荷の傍にあり、見返りなど一つも得られない愛を捧げてきた。死は恐怖ではなく、愛すべき隣人、いつか来る友だ。
 意識が沈み込んでいく。腕の中で眠る初恋の人に思いを馳せる。初めて恋に落ちた瞬間の鮮烈な思い出も、海の底に沈みこんで消えていく。

――こうして、稲荷邦彦という一人の闇医者は、どことも知れない海底で、その生涯に幕を下ろした。