君に福あれ

 めきめきと音を立てて扉が倒れた。扉の重さに引っ張られていくつものコードが引きちぎれ、ばちっと電気がはじける音がする。まるで血管や筋線維だと思って、この扉にとっては事実そうだったのだろう、と思い直した。
 度重なる衝撃を受けて凹んだ扉を踏み越える。手ごたえを感じて少し無茶をしてしまったものだから、足が少し痛い。手術室で見つけた道具をもう少し使うべきだった。
 目の前には長い廊下が続いていた。割れた窓ガラスから冷たい風が吹き込み、黒ずんだカーテンを揺らす。カーテンを開けると満月の光が廊下に差した。
(……お腹、すいたな)
 彼らと別れてから、ろくなものを食べていなかった。仮眠室を探ればいくらかの食料は見つかったが、間食程度のもので気休めにしかならなかった。

 倒れた扉の傍にリュックサックが落ちていた。周囲と比べると不自然なまでに真新しく、「大吉二号へ」と書かれた付箋が貼ってあった。
 リュックサックを開くと、着替えに食料と飲み物、それにいくらかの現金と周辺の地図が入っていた。
「脱出成功したら早めに連絡してこい。大吉一号も心配してる」
 付箋の裏にも続いていた見慣れた筆跡に、胸が締め付けられるような思いがした。

 * * *

「ふんふんなるほど。つまりてめぇのクローンが無事に謎施設から脱出したから、生活を送れるように戸籍その他もろもろを用意してほしい、と」
「そーです」
 大吉は探偵事務所の一番奥、一番立派なソファにふんぞり返る人物と相対していた。
「てめぇの突飛な冗談にも慣れてるけどよ、いい加減にしとけよ」
「いや、本当なんですって。所長。マジマジのマジです」
 大吉はスマートフォンを取り出し、彼とのメッセージのやり取りを見せる。所長はそれを一瞥しただけで鼻で笑った。
「そんなもん証拠になるかよ。本人連れてこい本人。話はそれからだ。冗談だったらぶっ飛ばすぞ」
「そんなこともあろうかと、クローンくんを応接間で待機させてます」
「……は?」
 所長は間抜けな声をこぼし、
「はあああああああ!?」
 応接間で待っていた彼の姿を見て、間抜けな大声を上げた。

「……いや、マジとは思わねえだろ。これ。ええー……」
 所長は応接間を出たり入ったりしながら大吉の顔を何度も見ていた。
「あー……それで、てめぇは双子じゃなくてガチのクローンで、戸籍はないと。それで、本物と顔を合わさないためにあちこち放浪すると。海外もアリだからパスポートがいると。その辺の手続きのために戸籍がほしいと」
「流石におれでも無戸籍はきついですからねー」
 所長と彼の会話が聞こえる。自分の声はこう聞こえるのかと、妙に新鮮で不思議な気分だった。
 話し合いはそれほど長く続かなかった。ガラが悪くて面倒くさがりで人間として尊敬できる点が少ない所長だが、決断の速さと面倒見の良さだけは数少ない長所だ。
「それで、てめぇの名前は何だ。東風谷大吉はだめだろ」
「何でもいいんですけどねー。強いて言うなら、大吉と同じくらい縁起が良くてあっちと負けてなくて、似たような響きと言うか印象のあるやつがいいです」
「それ、何でもいいって言わねえぞ」
 べしっと強烈なデコピンの音がした。それに続いて所長のため息。
「……仕方ねえ、考えといてやらぁ。名付け料は今回の件に上乗せして大吉の給料から差っ引くぞ」
「ガンガン差っ引いてください」
 などと調子のいい返事をしてきたので、見積もり中の義手のグレードをワンランク落としてやろうかと思った。

 * * *

 旅行をするのに荷物はそれほど必要ない。足りないものは現地で調達すれば事足りるし、分からないことは人に尋ねれば良い。日本語も英語も通じない場所でも、身振り手振りで案外なんとかなるものだ。
「お前、それで海外行くつもりかよ」
 九折が信じられないものを見る目でこちらを見ている。
「そだよー。わりとなんとかなる」
 ぐっと親指を立ててみると、九折はため息をついてから苦笑した。
「それで行先は? ガンジス川が呼んでるからインドか?」
「九折くんは変なことを言うなー。川が喋るわけないじゃん」
「お前が言ったんだろうが!」
「そーだっけ?」
 慣れ親しんだ軽妙なやり取り。特に感慨深いものは無かった。この肉体が経験したわけではないが、九折との他愛ない会話は記憶に染み付いている。くだらなすぎて詳細は覚えていなくとも、心地よい空気は昔から変わらない。
「元気でな……っつっても、今生の別れってわけでもなし。また日本に帰ってきたら連絡してくれ。メシでも食おう」
「うん。九折くんも元気で。ご飯は焼肉がいい」
「贅沢言うな」
 九折と小さく笑い合って手荷物の検査ゲートに向かう。湿っぽいやり取りもなく、振り返ることもしなかった。

 飛行機が着くまでまだ時間があった。テイクアウト専門のコーヒーショップで適当なコーヒーを買い、待ち合い用の椅子に座る。
 連休でもなく、それほど有名な行先でもないからか、待ち合い用のスペースは閑散としていた。背中合わせに並べられた椅子はずいぶんと寂しげだ。
 向こうに着いたら何をしようか。観光名所はあっただろうか。何もなければそれはそれで気の向くままに歩くといい。飛行機もいいけどたまには船旅もしてみようか。
 コーヒーを飲みながら取り留めもないことを考えていると、ちょうど真後ろの席に誰かが座る音がした。これだけ空いているのにわざわざ真後ろに座るなんて変わった人だな、と振り返ろうとした矢先、聞き覚えのある声がした。
「振り返らない方が良いよ」
「……大吉くん、かな」
 うん、と返事がくる。同じ顔の人間が背中合わせに座っているなんて、周りからすると不思議な光景に見えるかもしれないな、と思うと少し愉快な気持ちになった。
「大吉くんもお見送りに?」
「一応ね。いろいろあってから初の遠出なわけだし」
「見たら死ぬかもしれないのに?」
「じゅうぶん気を付けてきたよ。後頭部くらいならなんとか大丈夫ってことは分かった。実際のところ、顔を見ても調子を崩すだけで死なないかもしれないけど、実験はできないでしょ」
「うん。実験しなくてもいーでしょ」
 大吉にはとても世話になった。戸籍の準備、義手の手配、今後の生活費。出費は決して少なくない。彼が大吉と同じ立場だったら同じことをしたとはいえ、感謝の気持ちがあることに変わりはない。
「いろいろありがと」
「いーよ。条件的にそっちはそっちで大変だろーし、お互い様」
 大吉は今後も生活費を援助する代わりに、いくつかの条件を出してきた。
 出来るだけ写真やビデオに映らないこと、目立つ行動は避けること、行先をメッセージに残すこと、その他もろもろ。大まかに言えば、あらゆる媒体で話題にならないよう、顔が広まらないよう気を付けて、顔を合わせる可能性を出来るだけ下げろ、ということだ。
 その条件に特に不満は無い。功名心は持ち合わせていないし、彼が大吉と同じ立場だったらやはり同じような条件を出していた。

 やがて飛行機が到着し、搭乗受付のアナウンスが鳴り響いた。
「それじゃあ」
「元気で」
 顔を合わせないまま、簡潔な別れの言葉を交わす。リュックサックを背負って立ち上がる。
「ねえ」
 かけられた声に振り向きそうになるが、こらえた。大吉の顔を見ることができないというのは、少しもどかしかった。
「行ってらっしゃい。福春くん」
 新しい名は、東風谷福春の心にすっと染みて、ほのかな温かさをもたらした。
「行ってきます」

 * * *

「……ていうか、搭乗口まで来てるんなら大吉くんもどっか行くの?」
「挨拶ついでに香港あたり散歩してこようって思って」
「いいなー。おれもそのうち行こ」