信用できる雑用係
あの日、あの時、あの書店で、あの本を手に取らなかったら、私の人生の大半はうだつの上がらない会社員で終わっていた。そう思えるほどに、あの出会いは私の人生に変化をもたらした。
* * *
聞いたこともない作家だった。名のある賞を取ったわけでもなく、処女作だから情けをかけてもらったのかと思えるほどに、地味なたたずまいで新刊コーナーの片隅に並べられていた。
話題性のある本は他に山ほど積まれていた。にもかかわらずその本を取ったのは、平積みされている小説の作家がたまたま私の好みでなかったのと、たまたま新規開拓をしたい気分だったからに過ぎなかった。
誰もいない安アパートに帰宅し、夕食と家事全般を済ませ、寝る前の貴重なひと時になって初めて本を開いた。何百回と経験していても、この瞬間はたまらなく胸が躍る。ああ、この本はどんな物語を見せてくれるのだろうか……。
……ふと気づけば、窓の外が明るくなっていた。
予期せぬ徹夜のおかげで仕事はろくに手がつかなかったが、心は未だかつてないほどに満ち足りていた。細かく見ると矛盾点があり端的に言って粗削りだが、それを補って余りある痛快で爽快感のある物語だった。
(この作家は売れる)
その確信は、たちまち現実に変わった。
作家は次々と新作を出版し、そのたびに部数が増え、新刊コーナーに平積みされ、書店員によるポップが添えられ、インターネット上で話題になることも増えていった。
新作を出す度に細かな矛盾点はなくなって描写も洗練されて行き、私はすっかりその作家――鳴海玲の虜になってしまった。新刊は発売日に入手し何度も読み返し、感想と考察と賛辞を書き連ねた手紙を送り続けた。もちろん返事はなかったが、それでも送らずにはいられなかった。
あなたが紡ぎ出す物語は素晴らしい。あなたの冷徹さと情熱を併せ持つ姿勢に感服する。一人の読者として応援し続けている。
* * *
転機は一通の封筒から始まった。
宛先だけが書かれた素っ気ない白封筒の中身は、これまた素っ気ないコピー用紙一枚だけが入っていた。コピー用紙には私も利用したことのあるアンケートサービスのアドレスと、その下にたった一文だけ印刷されていた。
「私の作品に対するあなたの意識を知りたい 鳴海玲」
友人の悪戯だろうと思いつつ、コピー用紙に記されていたアドレスにアクセスした。アンケートの設問は「鳴海玲の作品をどう思うか」という自由記載式のものがひとつだけだった。下らない悪戯を仕掛けた友人を驚かせてやろうと思い、作品の性質や世間からの評価、物語の骨格を紐解いた上で見える作家性など、文字数制限ぎりぎりまで書いてアンケートを送信した。
軽い気持ちで仕掛けた悪戯に対して、引くくらい熱心な回答が来たらさぞかし驚くだろうし、馬鹿なことをしていると笑ってくれるだろう。
その後も不定期に封筒はやって来た。設問の内容は様々だったが、どれも自由記載式の設問が一つだけというシンプルさで、私はそれに対して文字数制限ぎりぎりまで使って回答した。
こういう悪戯をしそうな友人にあたってみたが、心当たりはないという。誰の悪戯なのか分からないまま不定期にやってくるアンケートに回答し、名前も知らない誰かに自分が好きなものを思う存分語るという行為に、少しばかり充実感すら覚え始めていた。
* * *
その日届いた封筒には、いつものアンケートサービスのアドレスではなく、見慣れないサイトのアドレスと日時と場所が書かれていた。
怪訝に思いながらもアクセスしてみると、オンラインチャットの画面が広がった。それも洗練されたものではなく、昔から使われているようなシンプルで泥臭いものだ。
チャット画面には「いつでもこれに応答できるようにして、指定の時間・場所に」とだけログが残されていた。手紙の送り主が私に会いたがっているのかそうでないのかよくわからないが「了解しました」と書き込んだ。
指定された場所は最寄り駅付近にある喫茶店だった。全国にチェーン店が存在し、均一化された値段と味でちょっとした時間潰しにはもってこいだ。私もよく利用している。
五分前に喫茶店に入り、コーヒーを注文して席に座りノートパソコンを開く。ぼんやりとチャット画面を眺めていると、指定された時間ちょうどに名無しの誰かが入室した。
『こんにちは』
と挨拶するがしばらくの間応答はなく、
『店に入って右奥のソファ席、白いシャツに薄い灰色のカーディガンを羽織っていて、コーヒーを頼んでノートパソコンを開いている?』
と返ってくるものだから驚いた。辺りをきょろきょろと見渡すが、誰とも目が合わなかった。
『無理に探さなくていい。この質問に正解できたら、私も姿を見せよう』
『あなた、何なんですか?』
『今更過ぎる質問だな』
確かにそうですね、でもいい加減教えてくれてもいいんじゃないですか、と返す前に名無しからのメッセージが届く。
『もし私が鳴海玲だとして、私がこうして時間を割いて、君を試しているのは何のためだと思う?』
『はい?』
思わず聞き返してしまうが、返事はない。質問に答えろということなのだろう。
これも例のアンケートと同じようなものなのだろうか。よく分からない状況だったが、いつも通り思考を巡らせて行く。鳴海玲という作家の性質、近年の評価、それに伴う弊害、弊害を打破する方法。それらを考えるとおのずと答えは出た。
『信用できる雑用係』
結論だけ先にメッセージとして送り、続いて理由を書いていく。このチャットの文字数制限は何文字だろうと不安がよぎり始めた頃、向かいの席に誰かが座った。
「正解」
顔を上げると二十代前半と思しき女性がそこにいて、目を細めてそう言った。
「……どなたですか?」
怪訝な顔を隠そうともしない私に対し、女性は手に持っていたタブレット端末の画面を見せてきた。そこにはノートパソコンに表示されているのと全く同じ画面が映っている。
「君が熱烈に手紙を送り続けたご本人さ」
「……はい?」
「それで、どうだろう? 悪い話ではないと思うけど。調べたところ君は営業職みたいだし、分野は違えどやることはそう変わりない」
「いえ、あの、ちょっと」
「ああ給料かな? 大丈夫、そこはちゃんと出すよ。今より多くね」
「そうじゃなくて、あの、ええと」
女性の顔をじっと見る。なんとなく思い描いていた想像図とはまるで違う。
「思った以上に若いし、それに、女性だったんですね」
「がっかりしたかい?」
「いえ、そういうスタイルに落ち着いた理由の一端が分かりました」
「君ならそう言ってくれると思っていたよ」
ふふふ、と女性は静かに笑う。
「他にも何人かの考えを聞いていたんだけどね、君が一番理解していた。今の質問に対する回答速度も内容も、窓口を任せるに申し分ない」
「え、あれくらいは少し考えたら分かることじゃないんですか?」
「世の中の人は私のことをもっと浅く見ている。君ほど深く掘り進めて考えて正しく理解している人はいない。ちょっと気持ち悪いくらいだ」
「ご本人にそう言われるとさすがにちょっと傷つきます」
今の会社を辞めて鳴海玲の窓口となり、執筆活動を阻害するあらゆる雑務を引き受ける。
そのことに異論はなく、あっという間に話はまとまった。
「そうだ、ひとつ言っておきたいんですけど」
「何かな」
「いきなり匿名希望の手紙を送りつけるの、絶対まともに取り合ってもらえないからやめた方がいいですよ」
* * *
こうして私は鳴海玲の「担当」となった。
担当として締め切りを管理し、依頼を選別し、諸々の打ち合わせに顔を出し、鳴海玲の正体を知ろうとする輩を避け、部屋を掃除し、食事を用意し、溜まった衣類を洗濯し、ごみを分別して出す。改めて見ると世間一般の担当の仕事を大きく超えている気がする。特に後半。
以前と比べて日々の生活は忙しくなったが、敬愛する作家の手伝いができるというのは愛読者冥利に尽きる。なにより発売前の新作を誰よりも早く読めてしまうのだ!
「まーーーた三食カップ麺で済ませたでしょ! 作り置きがあるんだからちゃんと食べてくださいよ!」
「だ、だっていろいろ温め直すのが面倒で」
……ただ、もう少しまともな生活を送ってほしい。