馬鹿なひと
(※梟さん宅の白瀬さんお借りしました)
馬鹿な依頼人がいたものだ。
彼女に対する第一印象はそれに尽きる。
仕切りを設けただけの簡単な応接室、誰かの指紋が残ったガラステーブルの上に写真を並べる彼女の顔は、真剣そのものだった。青みがかった白く長い髪はブラインドの隙間から差し込む陽光を受けて艶めいた輝きを返し、澄んだ瞳は南国の透明度の高い海を思わせた。ゆったりとした服装は安物には出せない色合いで、袖の先から覗く小さな爪は淡い桜色をしていた。ラフな格好ではあるが、育ちの良い女であることは一目で分かった。
「ハクさんを探してほしいんだ」
沢山の猫の写真と南條の瞳を交互に見て、するりと耳に染み込む声でそんな依頼内容を口にするものだから、ああこいつは世間知らずのお嬢さんだなと確信した。
「一応確認しときますけど。ハクさんってのはこの猫で間違いねえですか」
南條の問いかけに依頼人は頷く。写真に写っていたのは、ブルーグレーの瞳に真っ白な毛並みの猫だ。餌を食べている姿、窓辺に寝そべる姿、窓越しに野良猫と相対して背中の毛を逆立てる姿、猫の様々な日常がそこにあった。南條からするとただの猫に過ぎないが、世間的に見るとよく手入れがされた可愛らしい猫なのだろう。
「……猫探し、ねえ」
「だ、駄目かな。さっき話した人は大丈夫だって言ってたけど」
所長ならそう言うだろう。彼はどんな依頼も安請け合いをして、実際の労働は南條をはじめとした職員に押し付ける。「仕事を割り振ってマネジメントするのが俺の仕事だ」と豪語するが、本当にそう思って日々を過ごしているのかどうか疑問に思う。
「失せ物探しも仕事のうちだ。駄目とは言わねえ」
猫の写真を見下ろしながら、煙草に火をつける。
「ただ依頼人側からすると、たいてい割に合わねえんですよ。人一人を一日雇うのはそれなりに金がかかる。それがいつまで続くか分かったもんじゃねえし、いい結果になるとは限らねえ」
煙草の煙を静かに吐くと、依頼人は小さく咳をした。おそらく嫌味ではなく、煙草の匂いに慣れていないのだろう。
「オレが受ける依頼の大半は人探しとか素行調査とか浮気調査とか、そいつの人生に深く関わるものだ。高い金を払うのが惜しくないレベルで追いつめられた奴がオレらに依頼する」
「……わたしの依頼は、そこまでのレベルじゃない?」
「アンタにとってその猫がどういうのか分かんねえけど、ペット探しは自分で貼り紙を作ったり周りの人に聞いて探していく方が安上がりですよ」
少なくとも南條自身が同じ事態に遭遇したら探偵には頼まない。たかが猫一匹にそこまで金をかけるのは馬鹿のすることだ。
依頼人は少しの間だけ目を伏せて、それからふふっと笑った。
「きみ、お人よしって言われるだろう」
「は?」
胸の中に陰鬱な滴が落ちて染みていく。その不快感を隠さずに依頼人を見ると身体と表情を強張らせたが、それでも澄んだ目で南條を見ていた。
「ご忠告ありがとう。でも、依頼は取り止めない。ハクさんはわたしの大事な家族だし、きみになら任せてもいいって思えたから」
「……後から文句は言わねえでくださいよ」
南條は頭をがしがしと掻いて、そして白瀬亜紀と名乗る依頼人から依頼内容の詳細を聞き出していった。
猫探しは難航した。
ポスターを貼り、白瀬が住む街の住人に話を聞き、あまり人が来ない場所をしらみつぶしに探し回ったが、これといった成果は得られなかった。分かったことと言えば、ここの自警団が事務所に調査を依頼したことがあり、その伝手を使って白瀬が事務所に来たという経緯くらいだ。
「ハクさん、どこに行ったんだろうねえ」
日々の進捗を電話で報告する中で、白瀬は常に猫の安否を気にかけていた。それと同時に雑談も多く、白瀬が住む家や趣味、作った料理や日々の細かな出来事など、およそ依頼とは無関係な物事を知る羽目になった。
「猫がいねえからってオレで紛らわせるのはやめてください」
一度そう言ってみたところ、白瀬は電話口の向こう側でむむむと唸った。
「そんなつもりはなかったんだけど、話しやすかったからつい。これからは気を付けるよ」
「話しやすかった? 正気か?」
「正気だよ。それじゃ、また明日」
言いたいことだけ言って満足したのか、南條がそれ以上何かを言う前に電話は切れた。
それからさらに数日をかけ、インターネットで見た眉唾物の手段を用いる頃になって、ようやく猫が白瀬の家に戻ってきた。
「ハクさんが帰って来たよ」
白瀬の声は電話越しでも弾んでいた。怪我も病気もしておらず、餌をたっぷり食べて日なたで眠っているらしい。
「それに、珍しいお客さんも連れてきててね」
「お客さん?」
「大きな野良猫。すごい貫禄でね、ボス猫ってやつかな、あれは」
「……白黒のハチワレ模様のやつか?」
「そうそう。知ってるの?」
「知ってたっつーか……頼んだっつーか……」
インターネットで見た眉唾物の手段の一つ。
その地域のボス猫に頼んで伝言してもらうと、猫が帰ってくる。
「……そしてそれを、きみが試したと」
「……マジで帰るんですね……」
南條がため息をつく一方で、白瀬はふふふと楽しそうに笑った。
「何がおかしいんですか」
「きみがしかめっ面でボス猫に話しかけるのを想像したら、ね」
「……ともかく、これで依頼は終了ってことで。諸々の経費とか含めた請求書が出来たらまた連絡する」
「ありがとう。それで終わりってのも味気ないから、うちにおいでよ。とびっきりのお茶をご馳走するからさ」
「味気ないも何も、そういうもんでしょう」
「探偵っていいものだね。きみにはまた何か、頼みたいな」
「ご指名とは光栄なことで」
白瀬の言葉はお世辞ではなく、猫探しの料金が振り込まれた数日後、南條に対して依頼を寄越した。しかしそれは依頼と呼ぶにはあまりにもささやかで、別の依頼の合間に終わるようなものだった。所長は「これほど得になる案件はないからしっかり金を取れ」と言ってきたが、南條はそれを無視して依頼を断り、ただの手伝いとして要件を済ませた。
依頼ではなくただの手伝いだと説明すると、白瀬はやけに申し訳なさそうな顔をした。一時間もせずに終わる仕事に一日分の料金を支払おうとしてきたが、その十分の一でも多すぎるくらいだと諭し、南條が提示した金額と軽い食事で手打ちとなった。
買い物の付き添い。家具の配置換え。ビーチコーミングで見つけた物の掃除。
くだらなくて金にもならない仕事の数々。
普段ならそんな仕事はゴミ以下だと切り捨てていた。
なのに連絡を絶たず、心のどこかで白瀬から電話がかかるのを待っている自分がいた。
南條のことを「きみ」と呼ぶ声を、澄んだ海を宿す瞳を、絹のように滑らかな髪を、へへっと笑ういたずらっぽい口元を、猫を撫でるほっそりとした白い指先に宿る淡い桜を。
(……ああ、畜生)
馬鹿な探偵がいたものだ。