夜明け前

(※ゆっけさん宅の竜胆空護さんお借りしました)

 波の音を聞くあの人の姿がもう一度見たかったから。
 そんな理由で事務所が持つ別荘を借りるのは私的すぎるだろうか。少しためらうものはあったが、結局は私用で借りたいと社長に言って、社長は二つ返事で許可を出した。
 よく考えたら趣味のために別荘を借りる人がいるのだから、誰も使わないまま眠らせておくより、静養以外の理由でもどんどん使った方が良いというのが社長の考えなのだろう。

 * * *

「乙部さんがこういうのに興味があるとは思わなかった」
 事務所の先輩が岩肌の海岸を先導する。その手にはスコップやタオルにタッパーといった雑多な道具を入れたビニール袋が提げられており、慣れた様子で辺りの地形を説明した。
「欲しいものがあったからねー」
「へえ。僕のコレクションの中にあるやつだったらあげてもいいけど」
「いやあ、お宝探しは自分の手で見つけてこそですよ」
 先輩は残念そうに肩をすくめた。大人しくて人が良さそうな外見をしているが、あまり気を許してはいけないことはなんとなく感じ取ることが出来た。
 ビーチコーミングのやり方について簡単な手ほどきを受ける。何もないように見えた海岸も、フォーカスを合わせれば色々ながらくたが見つかった。先輩は慣れた手つきでシーグラスや貝殻をタッパーに入れていく。

 ふと気が付けば足元に白い猫がいた。目が合うと「なーん」と鳴いて、足に体を擦り付けてきた。その様子を見て先輩が小さく微笑む。
「ノラさんだよ」
「ノラさん?」
「この辺に住んでる野良猫。僕が別荘を使う時は決まってやってきてご飯をせびっていくやつだよ」
「それはまたなんとも、抜け目ない」
 白猫の背中や顎を撫で、心地よさそうに目を細める様子をじっと見る。初対面の人間にここまで心を開いて大丈夫なのだろうかと、他人事ならぬ他猫事ながら少し心配になった。

 もう日が暮れるし別荘に泊まっていったらどうだい、という先輩の誘いを断って帰路を歩く。人畜無害の仮面の下から見え隠れする下心にまで付き合う必要はなかった。押しが強ければ恐らくは言われるがままだったから、仮面に助けられたとも言える。
 あの人といる時は、そんな風に気を張り詰める必要はなかった。
 それが嬉しくて心地よい一方で、寂しさを覚えることもある。
(もしもあの人がその気になったら?)
 有り得ない空想をして顔が熱くなって、それを振り払うように顔を左右に振った。

 そうして始まった貝殻探しは、思った以上に難航した。小さな貝殻や石ころはよく見つかったが、あの時あの人が見つけたような貝殻はなかなか見つからない。あったとしてもひび割れていたり穴が開いていたりした。
 わざわざ別荘まで来て貝殻探しをするだけというのも味気なくて、滞在中の食事は出来るだけ自分で作ることにした。
 初心者用の料理本の中を行ったり来たりしながら作った料理は、食べることができた。回数を重ねるにつれてページをめくる頻度は減り、掲載された写真と似た見た目になって行く。
 ただ、どれだけレシピ通りに作ることが出来ても、それは「食べることができる」以上にならなかった。甘い、辛い、苦い、渋い、酸っぱいといった味の概要は分かるが、それが美味しいのかどうか判断がつかない。
 誰かがくれたものや誰かと一緒に食べるものは美味しいと感じるが、それはその気持ちが嬉しいからに過ぎなかった。気持ちを食べて美味しいと感じるなんて、妖怪みたいで少しおかしな気分になった。
 一人で食べたら味気ない料理も、あの人と一緒なら美味しいと感じることが出来るだろうか。

 * * *

 あの人が目の前で倒れている。
 手に持っていた凶器が地面に落ちて、がらんと小さく音を立てる。
 足元には白い貝殻だったものが散乱している。
 白猫は未だに毛を逆立てている。

 何も考えられなかった。
 気が付けばあの人を寝室に運び込んでいて、白い貝殻だったものをかき集めて汚れを洗い流し、書斎に持ち込んで接着剤で破片を繋げていた。
 貝殻を元に戻しさえすればあの人も元に戻る。そんな荒唐無稽な願いに縋るしかなかった。
 ああ、どうか、悪い夢であってほしい。
 眠ることを忘れたまま夜は更け、やがて空は白んでゆく。

 * * *

 あの人が目の前で私を見つめている。
 わずかに顔をしかめながら私から一歩離れて、蹴飛ばした小石が転がる音がする。
 足元にはかろうじて波にさらわれなかった持ち物が散乱している。
 白猫は散乱した持ち物にじゃれついている。

 あれは悪い夢だったのだろうか。
 それともこれは都合のいい夢なのだろうか。
 気がつけば私は嘘をつくことを辞め、その代わりに新たな嘘をついていた。

 それが、夢のような二日間の始まりだった。