狂った世界と異界の悪魔
この世界は狂っている。
私と言う優れた存在が望む理想を実現すべく最大限の努力を払ったというのに、唐突に現れた青二才の猿に妨害されて私の理想はあっけなく崩壊し、私は猿の居城に捕らわれた。
知能指数が知れた猿に私の理想が理解できるはずもない。質問を重ねられても私は全て受け流し、肯定も否定もせず、ただ沈黙していた。逆賊はさっさと殺すに限ると言うのに、猿の思考回路は理解しかねる。
そうして黙秘を続けて間もないある日の晩、悪魔が私の元に現れた。
「残念だったね」
足元に白い霧が漂っている、と気付いた瞬間、ふいに背後から声がした。私が振り向くと、牢の硬いベッドに悪魔が腰かけて私に向かってにこりと微笑んだ。
「こんばんは、負け犬サッシー」
「何故貴様がここにいる」
牢の周囲は猿が警戒しているはずだ。いくら頭が足りないとはいえ、ヒトの侵入を許すほど間抜けではないだろう。負け犬と言う呼び方も、サッシーと言う愛称も、能天気な笑顔も癇に障るが、その疑問の方が大きい。
「手品師に出来ない事は無いんだよ?」
「手品師ではなく、悪魔だろう」
私がそう指摘すると、悪魔はけらけらと笑う。
「そう言われる事もよくあるね。でも、君に対しては公正な取引しか持ちかけてないよ? なのに悪魔呼ばわりなんてひどいなあ」
「公正な取引」
そうだ。私はこの悪魔と取引をしていた。彼がここに来たのもそのためだろう。私の様子から取引内容を覚えている事を察知したのか、悪魔は「分かってるなら話は早い」とひょいと立ち上がった。
「それにしてもここは狭いね。ちょっと外に出ようか」
どうやって、と私が問う前に彼はどこからともなく大きな黒い鍵を取り出し、私の腕を取って鍵を何もない空間に刺した。そして悪魔が鍵を捻ると、がちゃんと何かが開く音がして辺りに白い霧が溢れ出た。
彼に引っ張られて少しだけ歩き、やがて白い霧が晴れると私は見た事も無い荒野に立っていた。遠く空を仰ぎ見ると空に浮かぶ島の影が見える為、城からさほど離れてはいないのだろう。
「うん、この辺りだと誰も来ないね」
悪魔は満足げに頷き、黒い鍵を私に突き付けた。
「世界滅亡ショーが見られたらそれでチャラ。見られなかったら僕が君にあげたものは没収、プラスレンタル料として君が元々持っていた力も没収。それで合ってるね?」
私の崇高な使命をショーと表現されるのは腹立たしいが、言っている事は私の見解と合致する。私が渋々頷くと、悪魔はにこりと笑った。
「話が早くて助かるよ。こういう場面になるとゴネる人が多いんだ」
「私がそんな低俗な人間だと思ったのか?」
「はいはい、サッシー様は高尚で素敵なお方でございますよ」
悪魔は何のためらいも無く私の胸に黒い鍵を突き刺し、捻る。私の中で何かが閉じる音がして、今まで当たり前のようにあったものがふいと姿を消した。
違和感に言葉を無くしている間に悪魔は黒い鍵を引き抜き、くるりと背を向けて夜空を眺めた。
「あの島も君の力の一つだよね」
私が何も答えずにいると、悪魔は「あれも没収ね」とくすくす笑った。
「それじゃあ僕はあの島を落としてそのまま帰るよ。ご利用ありがとうございました」
悪魔は芝居がかった動きでお辞儀をし、鍵を宙に刺して白い霧に紛れて姿を消した。
「…………」
悪魔が完全に消えたのを確認し、私は自身の体に起こった異常を確かめた。黒い羽は出す事が出来ず、魔法もどれだけ呪文を唱えても何の結果も出ない。体を動かしてみるが身体能力には何の異常もなく、黒い羽と魔法が奪われたとみて問題は無いだろう。
「……ふざけた事を……!」
何故私がこのような目に遭うのだ。私はただ、幼い頃より育んできた志を胸に抱き、理想を実現すべく努力を重ねてきただけだ。
間違いばかりが横行するこの世の中を、私は許す事が出来ない。絶望に駆られて死を選ぶのは簡単な事だが、この狂った世界を正しい方向に導けるのは、正しい考えを持つこの私だけだ。どれだけ力を奪われようとも、何人たりとも私の思考を変える事は出来ない。力を失ったのなら、新たな力を得ればいいだけの事。
私は空に浮かぶ島から背を向け、荒野の中で第一歩を踏み出した。