純粋な狂気
月の光も届かない路地の奥底、民家から漏れるわずかな光を浴びて彼女はそこにいた。ひたひたと絡みつく闇をものともせず真っ直ぐに立つその後ろ姿は、美しくも恐ろしい。
「ヘリオドールさん」
彼が声をかけると、ヘリオドールと呼ばれた彼女はゆっくりと振り向いて「サルファー」と彼の名を呼んだ。
「夜中にこんな所をうろつくのは危ないよ。何に襲われるか分かったもんじゃない」
「分かってるからこそ、ですよ」
うふふ、と彼女は楽しそうに笑う。闇にまぎれて見えづらいが、彼女のほほに血がついていた。そして、足元には犬より大きな何かが転がっている。おそらく人間で、おそらく彼女の頬についている血の持ち主だろう。
「あなたは痛めつけられる事が大好きだったかしら」
彼女が一歩、こちらに近づく。いつもの鎧は身にまとっておらず軽装だが、その手には愛用の槌が握られている。わずかな光に照らされて、槌はぬらりと湿った輝きを返す。
「死にそうになるくらい殴られたら、あなたはどう感じるのかしら」
彼もまた鎧を身にまとっておらず、軽装だった。多くの魔物を屠ってきた槌をその身に受ければ、まず間違いなく命の危険に晒されるだろう。
だが、それは怖くない。
「ヘリオドールさんに殴られたら、僕は天にも昇る心地になるよ」
「本当に天に昇ってしまうかもしれないのに?」
「最高じゃないか」
愛する人に殴られて死ぬ。想像するだけで、麻薬じみた快感が全身を駆け巡る。
「変態ね」
彼女がまた一歩近づき、手を伸ばせば届く距離で彼の顔をじっと見上げる。晴れた日の青空のような瞳には、一点の曇りもない。純粋な狂気に満ちている。見つめ返す彼の瞳もまた、同質のもので満ちていた。
「僕はヘリオドールさんを愛しているよ」
彼女の頬に付いていた血を指でそっと拭う。
「僕の命は君のものだ」
わずかに残った血の跡も、頬に口付けて拭い取る。柔らかで魅惑的な感触と、わずかながらに鉄の味がした。唇に吸い付きたくなる衝動を抑えて彼女の瞳を見つめると、彼女は口角をわずかに上げて微笑んだ。
「時々、思うの」
「何を?」
「プレナ、アイト、ラブラド、ガネット、それにあなた。皆を殴り殺したらどんな風に死ぬんだろうって」
彼らは頼れる仲間だが、それと同時に、自分と匹敵する実力を持つ強者だ。数多くの強大な魔物を仕留めてきた彼らが理不尽な暴力で死ぬ時は、どんな表情で、どんな言葉を漏らすのだろう。
冒険を重ねて天敵が減るにつれ、そう思う事が多くなったと彼女は言う。満足する「死」を見せてくれる敵が減ってきた事による焦りかもしれない、と。
「いつか、誘惑に負ける時が来るかもしれない」
何ヶ月後、何年後かは分からない。その前に死ぬかもしれないし、この性癖が和らぐかもしれない。それでも、彼女がかけがえのない仲間を手にかける可能性は、あった。
「その時は僕を殺せばいい」
彼女の初めての「仲間殺し」は譲りたくない。他の仲間を守る為ではない、純粋な独占欲だ。彼女の嗜好は一般的に言えば異常だが、彼女の危うい美しさに魅せられた彼もまた、ベクトルは違えど同程度の異常性を秘めている。それは彼自身も、彼女も、よく分かっていた。
「そうするわ」
彼女は静かに目を閉じ、彼の胸に顔をうずめた。彼はその背に手を添え、彼女の頭を静かに撫でた。