第3階層にて

 青嵐の粘塊に挑もうという話になったのは、アピキウス氏が残したレシピを再現するにあたり、どうしても足りない食材があったからだ。
 足りない食材は冷えたゼラチン。第三階層に住まう一般的な魔物から取れる食材はあらかた集めたが、そこに冷えたゼラチンはない。ならばひときわ強い魔物からしか取れないと考えるのが妥当だろう。第一階層、第二階層の食材で作れる料理の中にもそういう類のものはいくつかあった。
「冷えたゼラチンならあのぷるぷるした奴か?」
「そう考えて問題ないだろう」
 ヴェルデの問いかけに頷いて答えた。氷塊を跳ね返す忌まわしき青いぷるぷる。外見からしてあれが冷えたゼラチンの持ち主だ。というかそうでなかったら詐欺だ。
「強敵を倒す事で得られるレア食材! 新たな料理の完成に喜ぶレジィナさん! お礼に触らせてもらえるかなあ……!」
 フラウスは相変わらず不埒な妄想に花を咲かせている。彼の料理開発に対する熱意の高さはそのままレジィナの豊満な肉体に対する熱意に直結する。ヴェルデは澄ました顔をしているが、フラウスと同じく品性下劣である。彼が採集時に張り切って食材を集めてくるのも同じ理由だ。
 しかしそんな二人を上回る熱量を持つのが、
「冷えたゼラチン、リンゴ、雪の塊……つまりゼリー? 今度はゼリーが食べれるネ!? レジナの作るゼリーとか絶対おいしいヨー!」
 フェンホンである。
 まだ手に入れてすらいないのに、彼女は早々とゼリーに思いをはせてとろんとした顔で涎を垂らしている。食に対して並々ならぬ熱意を持つ彼女がレジィナの料亭に掛ける思いは凄まじいものがあった。新しい魔物と遭遇する度に「オマエの肉はウマイノカー!」と襲い掛かる様はちょっとしたホラーである。
「ルージュ! 善は急げ、早起きは三文の徳ダヨー!」
「待て、こら、分かったからマフラーを引っ張るな!」
 私を容赦なく引きずり回すフェンホンやレジィナの身体がいかに素晴らしいか語り合っている兄弟をよそに、ニゲルはただ一人アピキウス氏のレシピをじっと見つめていた。

 青嵐の粘塊との戦いは拍子抜けするほどあっさりとしていた。
 私とフェンホンはいつも通り攻めに徹し、フラウスとヴェルデは補佐をしながらも手が空けば加勢。ニゲルは後方支援にあたっていたが、手を余す事もしばしばあった。強敵と構えていただけに肩透かしを食らったような気分にもなる。
「ゼリーをよこすネー!」
 フェンホンが炎を纏った太刀を振り下ろすと同時に、青嵐の粘塊はぶるっと大きく震え、そこからは――覚えていない。

 気が付けばハイ・ラガードの宿屋にいた。
 宿の女将は「あらあら、ようやく気が付いたんだね、よかった!」と私の肩をぽんぽんと叩く。
「……私はなぜ、宿に」
「やだねえ。覚えてないのかい? ……ま、あの状態じゃ仕方ないかもねえ。本当にひどかったんだよ? この子に感謝しなよ」
 宿の女将がわずかに体をずらすと、そのふくよかな巨躯の陰からニゲルが姿を現した。
「…………」
 ニゲルは相変わらず無言だが、私の傍に寄って服の裾をつまんだ。心なしか表情が硬い。
「今日はもう美味しいものを食べてゆっくり休みなさいな。冒険ばっかじゃ身が持たないでしょ。だいたいね」
 ああこれはおせっかいな小言が始まるなと身構えたが、良いタイミングでクオナが宿の女将に助けを求めに来た。どうやら苦手なタイプの冒険者が泊まりに来たらしい。
 とにかく今日はゆっくり休むように、女の子なんだから体は大事にしなさい、とコンパクトにまとめた小言を投げてから、宿の女将は部屋から消えた。
 部屋に残ったのは私とニゲルだけだ。他の連中はおそらく他の部屋で寝そべっているのだろう。
「……我々は、青嵐の粘塊に負けたのか?」
 私の問いかけにニゲルは静かに首を振った。
「あと一歩のところまで追いつめたのは覚えている。その後、何があった?」
「……ふぶき……」
 耳を澄まさないと聞こえないほどのか細い声で、ニゲルはぽつりぽつりと話し始めた。

 彼女の話を要約すると、青嵐の粘塊は絶命する直前にひどく強力な、寒気を孕んだ衝撃波を発したという。私も錬金術師の端くれとして敵全体に及ぶような氷の衝撃波は作り出せるが、それとは桁違いらしい。
 前衛であるフェンホンとフラウスは倒れ、後衛のヴェルデも倒れた。私とニゲルにもそれは襲い掛かったのだが……私は、ニゲルをかばって倒れたらしい。
 衝撃波を発した青嵐の粘塊は息絶え、一人生き残ったニゲルは我々を引きずってハイ・ラガードの街まで帰ってきた。
 それが事の顛末だ。

「……なるほど。腐っても強敵に分類される魔物。最後まで油断するなという事か」
「……くさってない。ぷるぷる」
「言葉のあやだ」
 ニゲルが生き残っていなければ、我々は樹海の露と消えていた。実に危ういところだった。
 だがこれで活路は見えた。絶命の寸前というタイミングさえ分かれば、フラウスの盾術やニゲルの呪言でどうとでもなる。
「明日、もう一度挑むぞ。ゼラチンが我々を呼んでいる」
 私の言葉にニゲルは首を横に振った。そして懐から取り出したのは――冷えたゼラチンの塊。
「……剥いだのか?」
 ニゲルは静かに頷いた。
「……ゼリー……」
 彼女は心なしか気分が高揚しているように見える。
 そんなにゼリーが食べたかったのか――ふと、思い当るところがあった。
 彼女は小食で、レジィナの料理も半分くらい食べると箸を置いていた。だが、月餅や茶巾絞り、かき氷なんかの時は綺麗に食べきっていた。
 ……そう。なんという事はない。彼女は甘党で、今回のゼリーも心待ちにしていたのだ。
「……ふふ。さっさと他の連中を連れて、ゼリーを作ってもらいに行くか」
 思いがけず見えた年頃の少女らしい一面に笑みが漏れる。ニゲルは黙って俯いていたが、冷えたゼラチンはしっかりと抱えていた。

 ……ゼリーはニゲルにとって余程美味しかったのだろう。それからというものの、青嵐の粘塊が生息するフロアを通りがかる度に足を止めて無言の抗議をするようになったのは、少し骨が折れた。