王城ステイ 最終話「勇者と魔王」
何の変哲もないよく晴れた昼下がり。
城の裏庭、瓦礫もない開けた場所にリッカは立っていた。吹く風は冷たく、身が引き締まる。昼食は少し前に済ませ、頭はすっきりと冴え渡り体調には何ら問題がない。最高のコンディションだ。
朝食の後を見計らってカルネリアンに決闘を申し込んだ。馬鹿にされる事は覚悟の上だったが、意外にも笑う事無くその提案を受け、重要な会議を午前で済ませるから午後になるまで待ってくれと頼まれてしまった。
リッカはその条件を呑み、重要な会議とは何か尋ねてみた。返ってきた言葉は「食費の軽減の為に副菜を一品減らすかデザートをなくすかで協議せねばならんのだ」だった。やはりどうしようもなく馬鹿だ。カルネリアンだけでなくシリダリークや知恵袋役に当たる文官も乗り気なのだから魔物自体が馬鹿なのだろう。
ざくざくと無遠慮な足音と共にカルネリアンが姿を現した。後ろにはシリダリークだけを連れている。
「待たせたな」
「別に。今来た所だし」
反射的とはいえ待ち合わせのカップルのような受け答えをしてしまった自分に怖気が立つ。リッカは背負っていた剣を抜いた。
「僕はあんたを殺す気で行く。もしも負けたらこの城から出て行く」
「我輩に負けたからといって城を出る必要はあるまい」
カルネリアンがそう言うのは分かりきっている。こいつはとんでもなく傲慢で大甘なのだ。リッカは首を振って「違う」と剣の切っ先を突きつける。
「あんたが良くても僕が良くない。ノーリスクの勝負じゃあ本気なんて出ねえし運も味方しねえ」
財産を失うリスクもないルーレットはつまらない。それと同じで、負けによるペナルティのない決闘なんて決闘とは呼べない。カルネリアンに勝つなんて大穴中の大穴だし、城を出るというペナルティは甘すぎる。賭けとしてはいびつだがそれでもいい。
「どの道城を出るつもりなら大したリスクにもなんねえだろ、それ」
シリダリークの茶化すような口調をリッカは無視した。図星ではあるが、双方が納得できる条件として妥当なものだろう。
カルネリアンは渋々と言った様子で頷き、シリダリークを後方へ下がらせた。
カルネリアンが身構えると同時に、リッカはその懐に真正面から踏み込んだ。
(半端な小細工は通用しない)
渾身の突きを繰り出すが、カルネリアンは半身をずらして紙一重でそれを避ける。追うように薙ぎ払うが軽くしゃがまれて研ぎ澄まされた刃は宙を切る。
まだまだ、この程度では終わらない。
リッカは刃を止める事なく連撃を繰り出し続けるがカルネリアンはことごとく避けていく。必要最低限の動きでバリアも張らない。その避け方からして手を抜いている事は明らかだ。
(単純なフットワークでもこれだけの差がある)
簀巻きの状態で器用に立ち回り、一対多の雪合戦で完全勝利を収めた男だ。当然と言えば当然の事だが、リッカの全力が欠片も通用しないとなるとやはり悔しいものがある。
リッカは連撃を続けながら「なあ」とカルネリアンに語りかけた。
「避けてばっかだけど反撃はしねえのか?」
「我輩の攻撃をいなす自信でもあるのかね」
リッカは口角を吊り上げた。
「あるぜ」
「ほう」
カルネリアンがぎざぎざの歯を見せて笑った、と思った次の瞬間丸太のように太い蹴りがリッカの腹を捉えた。反応する暇もなかった。
(予想通り!)
腹に仕込んでいた魔法石が砕け、衝撃吸収用の軽い防護魔法と共に閃光魔法が発動する。タンタルの商人の口車に乗せられて買った魔法石がこんなところで役に立つとは、思いもしなかった。
閃光で視界を奪われてもカルネリアンはバリアを張らなかった。傷一つせずに勝利を収めるより、ここからリッカがどのように攻めてくるかを確認したい。視覚以外の感覚を研ぎ澄ませて次の一手を待つ。
「…………」
……だが、一向に動きはない。ぼんやりと戻ってきた視界の中にリッカの姿はなく、辺りを見回してもシリダリークの姿しか見えない。
(どういうカラクリだ?)
転移魔法か、透過魔法か、飛翔魔法か――カルネリアンが上空に目を遣った瞬間、視界の端で赤い髪が揺れた。
シリダリークに教わった「必殺技」は透過魔法だった。
城下町全体を覆い隠したものと同じ精度――つまり五感を騙すレベルだが、有効範囲は詠唱者自身のみ。それでも今のリッカの魔力では、一日一回、ほんの数秒間姿をくらませるのが精一杯だ。
カルネリアンが上を向いた瞬間にリッカは透過魔法を解除し、カルネリアンの首筋めがけて右手に握った剣を振るう。
「――っとお!」
しかし流石と言うべきか、リッカの出現をいち早く察知したカルネリアンは両手で剣を受け止めた。反射的にバリアを纏わせたのか、硬質なものがぶつかる音がした。
目が合うとカルネリアンは不敵な笑みを浮かべてきた。リッカも全く同じ笑みを返す。
(……これも、予想通り……!)
左手を突き出し、透過魔法を解除せずに隠し続けていた小ぶりのナイフを、カルネリアンの腹に突き刺した。
「なっ……」
カルネリアンは目を見開いて己の腹を凝視する。槍の二、三本は刺さっても平気ならば致命傷とは程遠いだろう。しかし、リッカ自身の手でカルネリアンに小さな傷を負わせる事が出来たのが嬉しくて仕方がない。リッカは自然と笑みがこぼれた。
最も無防備になるのは勝利を確信した瞬間とは本当の事だったんだな――と思うリッカの腹に、鈍い衝撃が走った。カルネリアンに蹴られたのだと理解すると同時にリッカの体は地面に打ち付けられ、意識が途絶えた。
* * *
目が覚めると、そこはリッカの寝室だった。ベッドから身を起こして腹をさする。蹴られた箇所の痛みはなく、元気に空腹を訴え始めている。窓の方を見やると既に日は落ちており、真っ暗な夜空が窓の外を塗り潰していた。
「目が覚めたか」
ベッドのすぐ傍の椅子に、カルネリアンが腰かけていた。手元には本があり、テーブルの上には食事が並べられている。
「……その、飯は?」
「我輩とリッカの分だ。既に夕食時は過ぎてしまったからな」
肉と野菜をふんだんに使ったサンドイッチと冷製スープ。冷めても問題が無いようにと言う心配りのつもりだろう。
「貴様が約束を守るのならば、この城で過ごす最後の夜だ。折角だから裏庭で食わんかね」
今日は見事な月夜だしな、とカルネリアンは窓の外を指差す。なるほど確かに丸い月がぽっかりと浮かんでいる。
「分かった」
リッカはベッドから立ち上がり、サンドイッチの乗った皿を持つ。
「サンドイッチが不満なら生野菜や果物を持ってきてやるぞ」
「いいよ、別に」
香辛料てんこ盛りの肉だろうがソースがかかった野菜だろうが構わない。最後の夕食ぐらいは意地を張るのもやめてやる。
カルネリアンは「そうかね」と素っ気ない返事を寄越すがその表情は控えめに言っても嬉しそうだ。腹の立つ笑顔だが、殺意を抱くには至らなかった。
城から漏れる明かりと月の光に照らされた夜の裏庭は、幻想的な雰囲気に包まれていた。リッカとカルネリアンは夕食を持って並んで歩き、手頃な瓦礫の上に腰かけた。
「暗いな」
そう言ってカルネリアンは目の前の地面に火を灯す。燃料も無く焚き火と同じ程度に燃え上がる魔法の炎はリッカ達の手元を照らし、辺りの空気をほんの少しだけ温めた。
サンドイッチとスープを口に運ぶ。香辛料をふんだんにまぶして焼き上げた肉はぴりりと辛くて癖がある。肉単品では胃もたれがしそうな味だが、一緒に挟まれた葉菜が味の濃さを和らげる。野菜だけを挟んだサンドイッチも、酸味の強い調味料が程よく絡まっていてさっぱりとした口当たりだ。根菜たっぷりの冷製スープも薄味で飲み物代わりに丁度良い。
いくつかのサンドイッチを食べ、スープも何口か飲み干して飢えがそれなりに満たされた頃、カルネリアンが「美味いかね」と尋ねてきた。
「……正直言って、美味い。今まで食べた事ない味だ」
素直に答える。特に肉の味は個性的で人を選ぶが、リッカの味覚には合っていた。
「それは良かった」
カルネリアンは美味そうにサンドイッチを食べる。口の端にソースを付けてズボンにパンくずをぼろぼろ落とす様はお世辞にも上品とは言えない。
一国の王としてどうなのかと思わない事は無いが、カルネリアンだから仕方ないなと言う諦観がリッカの胸中には産まれていた。
「本当に明日、城を出るつもりかね」
食事を続けながらカルネリアンが問いかけてくる。リッカははっきりと頷いた。
「男に二言はねえよ。明日の朝早く、ちゃっちゃと出るつもりだ」
「我輩を殺さないで良いのか?」
「今の僕にはあんたは殺せねえよ。全力を尽くしてその程度だしな」
リッカはカルネリアンの腹を指差した。短剣が刺さっていた箇所は跡形もなく治っており、痛みを引きずっている様子もない。
「謙遜するな。油断していたとはいえ我輩の腹に刃を突き立てただけでも十分凄い」
「その言い方はむかつくなあ」
「すまんな」
カルネリアンは軽く肩をすくめる。反省の色が全く感じられず、もう一度腹を刺してやろうかと思った。
「もう少し基礎能力を上げて不意打ちの術を学べば、我輩の全力を引き出すに足る実力者になれると思うのだがね」
「それはどーも」
生返事を返す。カルネリアンは先程から出発を引き留めようとしているが、リッカの意思は変わらない。彼が自身の命をダシにして得ようとしているのは「自分の命を狙う暗殺者」という刺激であり、訓練相手である。実力が磨けるとはいえ彼の意のままに動くのは性に合わない。それに――
「僕は今のところ、あんたを殺す気はねえよ」
カルネリアンに対して強い殺意は抱いていないのだ。
「……殺す気が無い?」
ひどく意外だったのだろう。カルネリアンはサンドイッチを食べる手を止めてリッカの方を見た。
「なんつーか、さあ」
何もかも吐露してしまっていいのだろうか。
迷いが生まれたのは一瞬だけで、次の瞬間にはリッカは口を開いていた。どうせ明日になればここを去るのだ。一個人の考えを晒す程度の事はやってしまっても構わないだろう。
「あんたが諸悪の根源とは思えねえんだよ」
「ほう」
魔物を率いて人間を襲い、家屋や畑を台無しにする。今は小規模なゲリラ攻撃が主だが、力を蓄えた暁には一気にあらゆる町に攻め込んで人間を根絶やしにしようと企んでいる――魔王とはそういう悪人だと思っていた。
しかし、いざガルハヤ帝国に踏み込んでみると住民達はリッカを温かく出迎え、魔王であるカルネリアンは部下に簀巻きにされていた。
「僕が思っていた魔王とは違ってて、権力や力を振りかざさないで、ガキみたいに騒いで、皆から慕われてて」
カルネリアンの周りにはいつも誰かがいた。ボディーガードや身代わりとしてではなく、単純にカルネリアンと話がしたくてやってきた者。彼らは王に意見するのではなく、日常の何でもない話をして笑っていた。
魔王としても、王としても異質だった。
「あんたを殺した所で、魔族による被害が収まるとは思えねえ」
「だから我輩は殺さない、と」
リッカは黙って頷いた。
「成程。では、もう一歩踏み込んだ話をせんかね」
「もう一歩?」
リッカは首を傾げ、カルネリアンは得意げな笑みを浮かべて指を鳴らした。すると彼の手元に酒瓶と二つの杯が現れる。「転移魔法もようやくコツが掴めてきた」と呟きながら、杯に酒を注いでいく。
「もう一歩……つまり」
カルネリアンは酒がなみなみと注がれた杯をリッカに突き出す。
「世界平和についてだ」
「世界平和? 魔王が?」
似合わない組み合わせに思わず笑みがこぼれた。
「あるいは、人間と魔族の共存共栄」
カルネリアンは歌うように言いながら、自分の杯に酒を注いでぐいっとあおった。
「共存共栄ねえ。そんな夢物語より魔物を滅ぼしちまう方が現実味がある」
「つまり、リッカは魔族がいる限り世界は平和にならないと思っているのだな?」
リッカは酒を一口飲んでから頷く。
「魔王を殺した所でどうにもなんねえよなー、って思うよ。けどな、魔物による被害は確実にある。だからもう後は皆殺しにするっきゃねえかなーって」
「過激な考えだ」
カルネリアンは激昂する事も無く楽しそうに笑う。
「仮に魔族を滅ぼし、人間が勝利したとしよう。それで本当に世界は平和になると思うのかね」
「当たり前だろ」
似たような文明を持つが外見も習慣も異なる異種族。そんなものが存在する限り争いは絶えず世界は平和にならない。
「我輩は、相対する異種族を排斥すれば世界は平和になるとは思えんよ」
「はあ?」
「今現在、魔族という明確な敵がいるからこそ人間は争うことなく団結している。逆に魔族は人間から身を守るために団結している。互いを敵と見立てる事で、種の平和は保たれている」
それはそうだ。リッカは無言で頷いて酒を一口飲む。辛口でぐいぐいと飲める代物ではない。
「この状態で、仮に魔族が滅びたとしよう。すると一時は平和に沸くだろう。しかし、ほんの数年で人間は人間の中に新たな敵を見出す。それは異教徒であったり異民族であったり、少数派に位置する者達だ。もしも彼らを排斥した所で、第二、第三の『敵』を見出す。争いは終わらない」
「分かったような口を利くな。そんなもん、やってみなきゃ分かんねえだろ」
未来はどうとでも変えられる。そう言いかけたリッカに対しカルネリアンは「分かるさ」と断言した。
「人間から身を守るために団結している魔族でも、種族間の対立や謂れ無き差別は存在している。この状態のまま人間と言う脅威が消えたならば、その代替として対立や差別が激しくなる。リッカにも心当たりはないかね?」
対立や差別。答えは考えるまでもなかった。魔族が滅びればその代替としてそれらが激化する所までは想像が及ばないが、社会問題の一つとして確かに存在する。
「……つまり、魔族を滅ぼした所で根本的な解決にはならないと?」
「その通り。世界平和を目指すリッカの心意気は素晴らしいものだが、今一歩考えが及ばんと我輩は思うね」
得意げに鼻を鳴らすカルネリアンが妙に憎らしくて、杯の中の酒をかけた。
「逆に聞くけどよ、あんたは世界平和の為に何をすればいいと思ってんだ?」
二杯目の酒を注ぎながら訊ねる。何気なく見たラベルには驚くほど古い年号が書かれていて、カルネリアンにかけた事をほんの少し後悔した。
「人間と魔族が自然に共存共栄する事」
カルネリアンは年代ものの酒を味わっているとは思えないペースで飲んでいる。金銭感覚の違いを感じた。
「先に言ったように、敵を力ずくで排斥した所で新たな敵を生むだけだ。つまり、真の敵は我々一人一人の心に宿る排他意識である。そして、それらを和らげる第一歩として人間と魔族の共存共栄が最適だと思う」
「第一歩? ゴールじゃなくて?」
「共存共栄を成し遂げると言う事は、異種族に対する排他意識を無くすという事。実績を一つ作ってしまえば、その後に続くであろう問題も乗り越えられると思うのだよ」
「……そもそも、さっきから言ってる『共存共栄』は出来ると思ってんのか?」
力ずくで条約でも何でも締結すれば、人間と魔族の共存は実現するだろう。しかし、カルネリアンが言っているのはそういう事ではない。人間と魔族、互いに理解を深め合った末に自然に生まれる新たな社会。それが、個々の心に宿る排他意識を無くした上での共存共栄だ。
言いたいことは分かる。だが、ひどい理想主義だ。
「我輩が成し遂げるには時間が足りんな」
「じゃあ、出来もしねえ事を言うなよ」
「出来んとは言っておらん。我輩の代で成すには時間が足りんのだ。だが、次代の魔王が我輩と近い考えを持ち、やるべき事を引き継げば、共存共栄が実現する可能性は大いにある」
「あんたと違う意見を持つ奴が魔王になったらどうすんだよ」
「そうなると我輩の夢は潰える。そうならないよう努力はしているが、こればかりは運だな」
「運って……なんちゅう他人任せな」
「他人任せではない。やるべき事はやっている」
「例えば?」
少し意地悪な気持ちで尋ねてみると、カルネリアンはリッカを指差した。
「貴様のような人間を増やす事だ」
「はあ?」
わけが分からない。魔王を殺すのが命題である勇者を増やす事が共存共栄に繋がる?
「貴様は今、我輩と同じ飯を食い同じ酒を飲み、世界平和について話し合っている」
「そうだな」
「出会った頃の貴様なら、こんな状況受け入れられるか?」
「……それは、無理だ」
魔王が全ての悪の根源、魔王を殺せば平和になる。そう信じきって魔族に対する排他意識に満ちていたかつてのリッカならば考えられない事態だ。
「そういうことだ。互いを知るには共に生活するのが一番である」
「……もしかして、最初からそのつもりで、自分の命をダシにしてここに泊まらせたのか?」
「ふふふ、どうだか」
カルネリアンは意味深に笑い、酒をぐいっと飲み干した。
「リッカは明日からどうするつもりだ」
「べつに」
「思春期の息子のような口ぶりだな」
「あんたの息子なんか死んでも嫌だ」
リッカは露骨に顔を歪めてみせる。魔族という点を抜きにしても、こんな露出狂まがいの格好をした子供っぽくて女好きな男が父親なんて嫌過ぎる。
「ちょっと素直になったかと思いきやまたそんな態度……お父さん悲しいぞ」
「お父さん言うな」
リッカは大きなため息をついて「……分かんねえよ」とこぼした。
「僕はさ、魔王を殺す為にここまで来た。世界平和の為にはそうしなければならないって思ってた。なのに、負けたどころか城に滞在する事になって、あんたやシリダリークやコルニオラと話をして、段々、分からなくなってきた」
カルネリアンは茶化したり先を促したりせず、リッカの話にじっと耳を傾けている。酒を飲む手も止まっていた。
「あんたを殺しても世界が平和になるのかどうか……そもそも、魔族を根絶やしにするのが本当に正しい事なのかどうか、分かんなくなっちまった」
魔族に対する嫌悪感は未だ残っている。だが、魔族だからという理由で彼らを殺しても良いのかどうか、分からない。人間の法の上では罪に問われない行為だが、だからと言ってそれが正しいと言うわけではない。
「今聞いた、あんたがやってる事、やろうとしてる事は頭では理解できる。でも、僕が今まで築いてきた価値観とは間逆のもので、はいそうですかって受け入れられるもんじゃねえ。でも、今まで築いてきた価値観も本当に正しいのかどうか分かんなくなっちまってて、これから何を基準にしていけばいいのか分かんねえんだよ」
だから、と呟いてリッカは杯の中の酒を飲み干した。
「城を出て、あちこちに行って、色々見てこようと思う。余計に混乱するだけかもしれねえけど、分かんねえままここにずるずると滞在しても仕方ねえ気がする」
「そうか」
カルネリアンは静かに頷いてリッカの杯に酒を注いだ。
「経験を積んで、自分なりに考えて、それでも我輩を殺した方が良いと思ったならいつでも来い。受けて立とう」
「ああ」
* * *
翌朝、リッカは城門前で大勢の魔族と相対していた。晩飯時に顔を合わせた程度の召使達はリッカに対して親しげに別れの言葉をかけてきた。また遊びに来い、どこ行くか知らんけど頑張れ、これは土産だ、と口々に言いながらリッカの荷物に勝手に肉や野菜や小さな置物を詰め込んでいく。
「大漁だな」
ぱんぱんに膨らんだ鞄を見ながら、シリダリークは口角を吊り上げた。
「大漁は大漁だけどさあ、近所のおばさんかって思うくらい親切の押し売りがひでえよ」
「へえ。親切と受け取ってんだな」
「……まあ」
リッカが言葉を濁していると、「デレ期の到来ね!」とコルニオラがシリダリークに背後から抱きつく格好でひょっこりと顔を出した。シリダリークはもはや諦めているのか、べたべたとくっつく彼女を振り払う事もせず小さくため息をついていた。
「お城に来てからずーっとツンツンしてたのに、最後の最後にちょっとだけ素直になるなんて……ツボを押さえてるわねえ、リッカちゃん」
「狙ってやってるわけじゃねえよ」
「シーちゃんもいい加減素直になれば良いのに」
コルニオラはシリダリークの頬をつんつんとつつくが、シリダリークは鬱陶しそうに顔を背けるだけだ。
「俺はいつだって素直だろうが」
「私とイチャイチャしようとしないくせに、どこが素直よ」
「お前の中での『素直』はどうなってんだ」
余計なちょっかいをかけ続けるコルニオラを器用にあしらいながら、シリダリークは「さて」と改めてリッカに向き直った。
「またいつでも来い。魔法の稽古ならいくらでもつけてやれるし、剣の稽古なら」
シリダリークが言葉を切ってリッカの隣を指差す。つられて隣を見るとそこにはいつの間にかアインが立っており、思わず「うおっ」と声が出た。
「……居合わせる事が出来たらな」
アインはそう呟いて背に担いだ斧槍をかすかに揺らした。
「アインお兄様はここに住んでるわけでもないし、あちこち飛び回ってるから難しいかもしれないわねえ。リッカちゃんと会えたのもほんと偶然ね」
「そうだな」
アインはリッカの頭をわしゃわしゃと撫でる。乱暴な撫で方にむっとしながらアインを睨みつけると、彼は真っ直ぐにリッカの目を見ていた。
「旅先で偶然再会する事があるならば、私とお前の関係が処刑人と犯罪者に変わっているかもしれないな」
「……あんたが言うと冗談に聞こえねえな」
真顔で淡々と言われると嘘と本気の境目が分からない。アインはそういう奴だと分かっていても心臓に悪い事は変わりない。
「シーちゃんが魔法の稽古、アインお兄様が剣の稽古でしょー。じゃあ私が教えてあげられる事って言うと」
「丁重にお断りだ」
「まだ何も言ってないのに!」
「そういうのはシリダリークに教えてやれよ」
リッカがびしっとシリダリークを指差すと、コルニオラは二人を交互に見比べた後で「それもそうね」と頷いた。
「というわけでシーちゃん、今夜から色んな事を実戦で勉強してみよっか」
「誰がするか」
シリダリークはコルニオラの艶かしい手つきを振り払い、リッカを恨めしげに睨みつけた。
一通り挨拶も済ませたし、そろそろ出発しよう。今朝はまだカルネリアンの顔を見ていないが、昨晩じっくり話し合ったから十分だ。
「それじゃ――」
「待て待て待てええええええい!」
リッカの言葉を遮ってよく通る声が辺りに響き渡り、召使達がさっと二つに割れて道を作る。声の主は紛れもなくカルネリアンで、一瞬にして道を譲る召使達から彼に対する忠誠心の高さを感じた……が、カルネリアンの姿を目にした瞬間その思いは吹っ飛んだ。
「何で裸なんだよ!」
一糸纏わぬ姿で全てを太陽の下に晒していた。全裸の巨漢が猛スピードで駆けてきたらそりゃ道も空けるわな、と召使達に同情する。
「うっかり寝坊してしまってな、服を着る暇もなかったから仕方なく!」
「あんた僕が客だって事忘れてない?」
客の前に醜い姿を晒す主人がどこにいる。見かねた召使の一人が上着を渡したがカルネリアンは礼を言って羽織るだけだ。肝心な所が隠せてない。目のやり場に困る。
「客?」
カルネリアンは初めてその単語を知ったような顔をした。
「リッカは既に客人ではなく我輩の友であろう」
「はあ?」
誰がいつどこであんたと友達になった。リッカの抗議の眼差しに対し、カルネリアンは「またまたー」とやけに親しげに肩を叩く。
「昨晩我輩と共に杯を交わしながら世界平和について熱く語っておいて、その冷たい態度は頂けんぞー」
酒瓶で殴り倒してやろうか。
そんなリッカの苛立ちなどどこ吹く風といった様子で、カルネリアンは右手を差し出した。
「達者でな」
「…………」
差し出された右手をじっと見る。何か細工をしている風には見えない。ただ純粋に握手を求めているだけだ。
「あんたも下らねぇ理由で死ぬなよ」
カルネリアンの右の手の平を軽くはたいた。ぱんと軽い音が響く。
「なんと」
カルネリアンは間抜け面でリッカの顔と自分の手の平を交互に見る。
「リッカが我輩の身を案じるとは! なんというデレ期! なんという友情!」
「ちげーよ! 僕が全力を出しても倒せなかった奴が下らねぇ事で死んだら僕の立つ瀬がないだけだ!」
「リッカちゃん、その台詞は典型的なライバル系ツンデレキャラよ」
「物語の終盤で『勘違いするな。利害が一致したから一時的に手を組むだけだ』とか言って味方についちゃうタイプだ」
「違うっつってんだろ!」
シリダリークとコルニオラの横槍に思わず剣を抜いて切りかかるがあっさりと受け止められる。ああそうだ畜生魔王どころか魔王の家臣にすら勝てないんだと苛立ちが加速する。
「……もういい!」
武力行使は出来ずいくら話しても好意の裏返しと受け止められるだけ。リッカは鼻息を荒くしながら彼らから背を向けて歩き出した。旅荷物に詰め込まれた彼らの善意が重い。
魔王とその家臣達からの見送りの言葉がリッカの背中に次々と投げかけられる。どこまでお人好しな連中なんだと呆れていると、一際大きな声が辺りに響いた。
「我が友よ、貴様の行く道に幸多からん事を!」
そんな大層な事を言う前にお前はパンツをはけ。
* * *
日が高く昇り、腹が昼食を訴えて切ない鳴き声を上げる頃。リッカは小高い丘の上に立ちガルハヤ帝国を見下ろしていた。
魔王の根城。魔物の巣窟。人類の敵。様々な表現で人間から目の敵にされているその国は、その佇まいを眺めているだけではごくごく普通の小さな国にしか見えない。
魔族とは本当に悪なのだろうか。確かに魔族による被害は現実に存在する。しかしそれは言葉も通じない野生の魔物によるものが大半で、頻度で言えばただの野犬や熊が人を襲う事例と差はない。
他より魔素を多く溜め込んでいる。その一点だけであらゆる生物を「魔族」という枠に当てはめて十把一絡げに扱うのはあまりにも乱暴ではないか。
とはいえカルネリアンらのような魔族を即座に人間と同じように接する事はできない。揺るがされた価値観は一朝一夕で落ち着くものではない。
ぱき、と小枝を踏む音がした。振り向いてみると見覚えのある真っ赤な肌の少女がそこに立っていた。リッカの姿を認めた少女が小さく息を呑む。細い足は震え、籠が落ちてそこからメーロの実が転がりだしてリッカの足元までやってくる。口をぱくぱくと動かすそれもまた、見覚えがあった。
メーロの実を拾い上げると、すかさず指先に噛み付いてきた。噛む力は強いが耐えられない程ではない。果実に傷がつかないよう慎重に指先から外し、少女に向けてふわりと投げ渡す。
「この間は、悪かったな」
メーロの実を受け止めた少女は、リッカの言葉に警戒心と戸惑いがない交ぜになった視線を寄越した。ガルハヤ帝国を訪れて早々に出くわして、剣を突きつけて脅したのだからこれぐらいの反応は当然だ。いくらでも殺しに来いと鷹揚に構えるカルネリアンの方が異端だ。
「じゃあ」
リッカは少女から背を向けて歩き出す。少女は何も言わず、その視線はリッカに向けられている事は背中越しでも感じられた。
草木のまばらな道をざくざくと踏みしめて歩く。頬を撫でる風は未だに冷たく、春はまだ少し遠い。
丘を下りきった頃になって後ろを伺ってみると、少女が小さく、目を凝らさなければ分からない程控えめに手を振っていた。城の人々によるやたらと熱烈な送迎に比べると貧相なものだが、それでも十分だ。
リッカは視線を前に戻して少女に対して背を向けたまま一度だけ手を振り、少女の反応を確かめる事なく歩みを再開した。