王城ステイ 第九話「勇者と聖塔騎士団」
聖塔騎士団の大規模部隊がガルハヤ帝国に向かってきている。
城の見張りがそう報告してきたのは、朝食の後片付けをしている真っ最中の事だった。敵襲の知らせだと言うのに誰も動じる事はなく、カルネリアンもシリダリークとフォークで軽いチャンバラを繰り広げながら「分かった」と答えるだけだ。報告に来た見張りも「褒美は給料アップでよろしく」と言う始末だ。
カルネリアンが動いたのは朝食の片付けを終えてからで、「それではいつも通り、バルコニーに全員集合。今この場におらん奴にも声をかけて連れてくるように」と召使達に言ってからまるで緊張感のない足取りで歩き出した。
「リッカも来いよ。滅多に見れるもんじゃねえぞ」
シリダリークもそれだけ言うとさっさと歩き出してしまう。
カルネリアンの「いつも通り」という言葉から察するに、敵襲はそう珍しくない事なのだろう。しかし聖塔騎士団を相手にしてここまで弛緩した雰囲気ではヒトの力を馬鹿にされているようで少し腹が立った。
* * *
魔王城の正門の真上に位置するバルコニーには魔王を始めとした大勢の魔物が集っていた。以前城の構造を把握するために訪ねた時は日当たりがよく広々とした場所に感じられたが、こうも魔物がひしめいていると狭苦しさすら感じる。いくつかあった昼寝用のハンモックも折りたたまれて隅の方に追いやられていた。
カルネリアンはバルコニーの縁に立ち、辺りをぐるりと見渡して「全員揃ったようだな」と頷いた。
「さて、既に知っている者も多かろうが、聖塔騎士団がこのガルハヤへ向かってきている」
肌寒い空の下、カルネリアンの声がよく通る。雑談に興じていた召使達はぴたりと静まりカルネリアンの方へ顔を向けた。
カルネリアンは召使達から背を向け、宙に向けて軽く腕を振る。すると指先からきらきらと水飛沫が立ち、落ちることなくその場に留まった。カルネリアンが指先を動かすと宙に浮いた水飛沫はうねりながらその体積を増して行き、薄く巨大な水の壁が見る間に出来上がった。
「操作盤を」
その言葉を受け、召使が厚い銅板が乗っている台をカルネリアンの傍に置いた。リッカがちらりと見た限りでは、銅板には世界地図が彫られており、いくつもの半透明の針がその上に突き刺さっていた。
カルネリアンが銅板に手をかざすと、半透明の針が空色の光を帯びた。微細な指の動きに合わせて針はじりじりと動き、カルネリアンは「よし」と呟いて指を鳴らす。
その瞬間、水の壁が波打ち、一つの映像を水面に映し出した。
「……これはまた大規模な」
カルネリアンは目の前の水鏡に映る風景を見ながら呟いた。彼から少し離れて立つリッカにもその風景は見えている。
白銀の鎧に身を包んだ一団が平地を整然と進んでいた。一団の中ほどには見覚えのある顔――そう、雪が積もった日にやって来た男の姿もあった。彼らの顔は真剣そのもので、映像越しでも殺気が感じられた。水鏡に映っているのはそんな光景だ。
「若様はなかなかの過激派と見た」
カルネリアンは召使達の方へ向き直り「見ての通り、今回の軍勢は最低でもこの程度だ」と親指で水鏡を指した。
「シリダリークは城下町全体に透過魔法。精度は最大、五感を騙す程度ならどれぐらい持つ?」
「昼飯時までだな」
「十分だ。コルニオラはシリダリークの身辺警護。万が一そいつの魔力が切れた場合は交代して透過魔法を」
「分かったわ」
カルネリアンはシリダリークを始めとした召使達にてきぱきと指示を出していく。言葉の端々を拾って判断するに、召使の大半が国民の護衛に当たり、城には見張りや宝物庫の番などの必要最低限の人員しか置かないようだ。
「兄上はまあ、適当にぶらついてくれたまえ。決して客人を刺激せんようにな」
「ああ」
「リッカも自由にしたまえ。ただ、相手は人間とはいえ魔王討伐の為に気が立っている連中だ。下手に動き回るのはあまりおすすめしない」
そいつらと組んで我輩を殺そうとするのもよかろう、と挑発的な笑みを浮かべられるとやはり腹が立つ。
「さてと」
召使達がバルコニーを後にして城下町へ向かう中、カルネリアンは水鏡をただの水の塊に戻して大きなメガホンのような形に変えていく。水の塊は形が整った端から凍りつき、見る間に氷のメガホンが完成した。
カルネリアンは氷のメガホンを手に取り、深く息を吸って口を開いた。
「あーあー、テステス、本日は晴天なり、本日のシリダリークのパンツは深緑色なり、本日の我輩のパンツの色は色以前の問題でありすなわちノーパンなり」
「いらん情報垂れ流すな」
シリダリークのツッコミも無視してカルネリアンはテストを続ける。ただのメガホンとは思えない程に声は大きく響き、城下町まで届いていると見ていいだろう。
「親愛なる諸君に知らせねばならない事がある。今日、聖塔騎士団がガルハヤまでやって来る。その規模は普段よりも大きく我輩の首を狙っている事は明白である」
カルネリアンの声はとても落ち着いている。城下町はしんと静まり返り、彼の次の言葉を待っていた。
「彼らの相手は我輩の役目。そして、諸君が血を流さないよう手を尽くすのも我輩の役目。不便をかけてすまないが、彼らの相手が終わるまでの間は家の中で待機しておいてくれ。……まあ、つまりはいつも通りの対応で良い」
連絡事項はそんなもんか、とカルネリアンは一旦言葉を切った。バルコニーから見える城下町では人々が次々と民家に入り、見る間に人影が消えていく。何人かはこちらに向けて手を振り、カルネリアンはそれに応えて手を振り返していた。
見える範囲で人影が消えたのを確認し、カルネリアンは再度口を開く。
「諸君が心配する事は何もない。全ての脅威と不安はこの我輩が取り除いてやろう」
何の迷いもない真っ直ぐな口調。暗い赤のマントをはためかせ、ぴんと背筋を伸ばして立つその姿は――
「カルネリアン・ヤルダバオート十三世の名に懸けて」
――やけに、大きく見えた。
* * *
この城には地下室がある。
主な用途は食糧や財産の保管であり、客人には見せない裏舞台のようなものだ。
それ故に地下室への入り口は幻覚魔法を何重にもかけた入念な隠蔽が施され、不正な方法で侵入すれば警報が鳴り響く。この城の中では最もセキュリティが厳しい場所と言える。
シリダリークとコルニオラは地下通路を突き進み、最奥の行き止まり……のように見せかけた扉を呪文を唱えて開いた。
扉の向こうにはだだっ広い空間が広がっていた。入り口近くの床には魔法陣が刻まれているが、それ以外は何もない。
「相変わらずなーんにもないわねえ」
コルニオラはつまらなそうに呟くが、仕方がないだろう。ここは国民を避難させる為の部屋だ。倉庫代わりにしていればいざという時に避難場所として機能しない。
「じゃ、始めっぞ」
シリダリークはそう言ってぐるぐると右腕を回しながら魔法陣の上に立った。魔力の消費を軽減させるこの陣はガルハヤ帝国門外不出の魔法陣で、詳しい原理はシリダリークにも分からない。複写も困難なためこの場所でしか利用できないが、効果は折り紙つきだ。
シリダリークは眼を閉じて深く息を吸った。体の力を抜いて意識を研ぎ澄ます。より大きな魔法を扱える姿に転移する為に。
腕の感覚が消失し、右足、左足もひとつの「脚」になる。めきめきと己の骨が変形する音が収まった頃――シリダリークは一頭の白い大蛇と化していた。
コルニオラは大蛇と化したシリダリークをしげしげと見上げながら体に触れてきた。
「こっちのシーちゃんも可愛いわよね」
「ああはいはいどーもありがとうございます」
シリダリークは魔法陣の上でとぐろを巻き、呪文の詠唱を始めた。城下町全体を透過魔法で覆い隠す……それもただ「見えなくする」のではなく、触れても「触れたこと」に気付かない、音にも匂いにも気付かない、五感を騙す程の精度で隠し続けなければならない。
非常に高度な魔法を要求されている。だからこそ、やりがいがある。貴重なレベルアップのチャンスというものだ。
「シーちゃんは忙しいけど、私はこんな何もない場所で待機ってのも暇ねえ」
コルニオラは慣れた手つきで魔法で生成した水飛沫を飛ばし、先程カルネリアンがやったのと同じようにして水鏡を作り上げた。画面は少し小さいが、その分複数の水鏡に分かれている。
ぱちんと指を鳴らすとそれぞれの水鏡に異なる景色が映し出された。バルコニーから見える城下町、カルネリアンが控える謁見の間、そして地下室前の通路がはっきりと見える。
いや、城下町全体はシリダリークの眼には半透明に映っている。つまり透過魔法が施された状態にあり、詠唱者であるシリダリークと魔法の範囲内にいる国民以外には城下町は見えていないのだ。その証拠にコルニオラは城下町の映像をしげしげと眺めて「結構なお手前で」と呟いた。
「さーて、それじゃあ騎士団対お兄様の熱い戦いの高みの見物と参りましょうか」
コルニオラは地面にぺたんと座り、とぐろを巻いたシリダリークの体にもたれかけた。いつの間にか辺りには点々と炎が灯されており、快適な温度に調整されていた。
(妙な所で気が利くんだよなあ)
シリダリークはぶつぶつと詠唱を続けながら、コルニオラの体の温かさを鱗越しに感じていた。
* * *
「相変わらず団体様相手だと城下町も見せてくれないのですね?」
謁見の間にやって来て開口一番嫌味ったらしい台詞を吐いたのは、聖塔騎士団の一隊長に当たる男だった。彼に続いて数名の騎士がぞろぞろと謁見の間に入り、それぞれが無言で剣を抜く。
「そっちは随分数が少ないようだが」
ひいふうみい、とカルネリアンは騎士の頭数を数える。悪気はないのだろうが、そういう仕草は挑発しているようであまり良い手ではない。アインは謁見の間の隅の方で小さくため息をついた。
「気のせいでしょう」
「わざわざ別れて行動しなくても、我輩ならいつでもここで迎え撃つし、魔王城の内部を探りたいなら言ってくれればいつでも見学ツアーを組んでやったのに」
カルネリアンが歯を見せて笑っても男は笑みを返さず、つかつかと魔王に歩み寄って一枚の封筒を突き出した。
「法王様よりお手紙です」
「筆まめだなあ。前に貰ってから一週間も経ってないぞ?」
「お手紙です」
「大体、ガルハヤからスクロドフスカまで片道でも一週間以上かかるだろう。若様は二回に分けて手紙を渡せと言ったのか?」
「お手紙です」
「一回目は単なる視察に留め、二回目は間を置かず、兵力が増強される前に大軍をけしかけて一気に潰そうとでも?」
「お手紙です」
「頑なだなあ」
カルネリアンは苦笑しながら手紙を受け取り、封を開いた。
その瞬間、強い閃光が視界を真っ白に染め上げる。
(単純なトラップだ)
アインは眼が眩んだまま自身の周囲にバリアを張った。封を開くと言う単純なスイッチの割に閃光は強く、現法王の実力の高さが窺い知れる。
まあ、それでもこの程度の罠で死ぬほどカルネリアンは弱くない。
「若様も貴様もお茶目だ」
徐々に戻ってきた視界の中、カルネリアンは案の定余裕の笑みを浮かべていた。男の抜いた剣がカルネリアンの首元まで迫っていたが、弾力性のあるバリアに押し返されている。
「これがお茶目に見えやがりますか」
アインから見ても分かるほどに男の腕には力が込められている。それでも刃は一ミリも動かず、やがて男は諦めたかのように剣を引いた。
その間もカルネリアンは手紙に目を通し続けており、男が剣を引くと同時に手紙を折りたたんだ。
「ここまで好戦的とはな」
カルネリアンはくつくつと笑いながら手紙をぴらぴらと振った。
「今回は挨拶代りだ、次回は本気で我輩の首を狙うと書いておったわ」
「……その通り。今回は魔王の首が目的ではない」
「城の構造把握か。ま、好きなだけ見ていくがいい」
「そうさせてもらいますよ」
男はカルネリアンに礼もせず、踵を返した。当たり前と言えば当たり前だ。
「……なあ、貴様が我輩に書を届けるようになって何年が経つ」
謁見の間を去ろうとした男を呼び止めたのはカルネリアンの声だ。
「およそ十年」
歩を止めた男はカルネリアンから背を向けたまま短く答えた。
「貴様がくれた手紙の中では、先代の法王も今の法王も考えは同じだ。すなわち聖塔騎士団の意思も変わっていない」
「そうなりますね」
「聖塔騎士団の一隊長ではない『貴様自身』は我輩や魔族の事をどう思っている?」
男の動きが止まった。
「…………」
重い沈黙が辺りを包み込み、カルネリアンが追い打ちのように言葉を投げかける前に男は謁見の間を後にした。
* * *
静けさの中に不穏さが垣間見える、そんな雰囲気だった。
聖塔騎士団がやって来ているのだから当然と言えば当然だが、いつも聞こえていた召使達の他愛もない雑談やカルネリアンとシリダリークが下らない事で競争する騒ぎも聞こえない今のこの状況には違和感しか感じられない。
時折ぎい、と音がしたかと思えば、腰掛けているベッドがきしんだ音だったりする。
「……暇だな」
カルネリアンの口ぶりからして、今回の問題は昼頃には収束するだろう。それまでこの部屋で待機すれば良いだけの話だが、あまりにも退屈すぎる。剣の素振りをするにはやや手狭で、かといって魔法の修行をしようにもこの後シリダリークに必殺技を教えてもらう為、魔力は温存しておく必要がある。本棚にはいくつかの本が入っていたが、リッカに読書の趣味はない。二度寝するにしても目が冴えている。
リッカは立ち上がって扉に耳をつけて外の様子を伺った。扉の向こうもしんと静まり返っており、近くに誰かがいる気配もない。
(出くわすとしても召使か聖塔騎士団の誰かだよな)
召使はリッカに危害を加えない。聖塔騎士団も魔王討伐で気が立っているとはいえ、人間に危害を加える事はないだろう。まさか「魔王城に滞在していると言う事は魔王の意思に従うも同じ、人間が魔王に従う事などあり得ない、よってお前は人間に化けた魔物だ」のようなとんでもない理屈をつけることはないだろう。そんな理屈をこねるのは己の正義感を他者に押し付ける事をよしとする、勇者気取りの気違いがする事だ。
「……んん?」
己の正義感を他者に押し付ける?
リッカはその言葉に引っ掛かりを覚えたが、さして気にする事もなく扉を開けた。
案の定、廊下には人っ子一人いなかった。リッカの足音だけが辺りに響き、空気は普段よりも冷たい。
それでも、かすかな不穏さは確かにあった。
(誰かいる)
すぐ近くではない。しかし、この城のどこかに魔王や召使ではない部外者が潜んでいる。それが聖塔騎士団である事は明らかなのだが、少し腑に落ちない。
(魔王を討伐する為なら謁見の間へ一直線に向かえば良いのに、何でこんな所で気配が感じられるんだ?)
謁見の間は正面入り口から入って真っ直ぐに進めばすぐに辿り着く。道に迷ったとは考えづらい。
リッカは気配を探りながら、慎重に歩き始めた。
物音が聞こえたのは、住み込みの召使用の部屋が並ぶ区域を歩いている時の事だった。曲がり角の向こう側で金属質の足音と若い男の声がする。リッカは足音を立てずに曲がり角までにじり寄り、そっと覗き込んだ。
そこには白銀の鎧に身を包んだ男が二人と、カルネリアンの娘であるサーヤの姿があった。サーヤは窓側の壁に背をつけてへたり込んでおり、二人の男がその前に立っている。聖塔騎士団の二人が魔王の娘を追い詰めている。そんな状況だ。
「……殺すか?」
二人のうち一人がわずかに首を傾けた。頭全体を覆う兜のおかげで表情は分からないが、その静かで重々しい声から彼の言葉が冗談ではない事は分かった。
「どう見ても魔王の娘、ッスよねえ……」
もう一人の男がううんと唸る。先程の男と比べて若々しい声で全体的に落ち着きがない。こちらが部下であちらが上司に当たるのだろう。
「オレらの仕事はあくまで城内の探索で魔物退治じゃない。余計な事をすると考課に響くかもしんないから見なかった事にするのが普通はベストなんスよねえ」
「その通り。では今回のケース、お前ならどうする」
「見なかった事にする、魔王の娘となると将来強大な力をつける可能性が高いから今ここで芽を摘んでおく、こいつを人質にとって魔王をぶっ殺しに行く、のどれかッスね」
上司の男は黙って頷く。若い男は「それでえ」と顎の辺りに手を当てた。
「ザコ魔物ならまだしもこいつを見逃すのはダメ。人質作戦は相手がこっちの常識が通用しない魔王だから賭けとしては分が悪い。だから今ここでぶっ殺しておくのが安牌って所ッスか」
「正解だ」
上司の男は剣を抜く。若い男も「ご褒美はこの手柄でいいスよ」と冗談めかして笑いながら剣を抜いた。
当のサーヤは逃げる事も抵抗する事もなく、今にも泣き出しそうな表情で二人の男を見上げていた。彼女の臆病な性格を考えれば当然の反応だ。
「魔物を殺す時の作法は覚えているな」
「死霊術に利用されないようにバラバラのぐしゃぐしゃのミンチにしてこんがりジューシーに焼き上げて、犬も食わないゲテモノハンバーグの一丁あがりってやつッスよね」
「概ね正解だがお前の表現方法は品性を疑う」
「品性って何スか? 食いもんスか?」
二人の男は刃先をサーヤに突きつける。後はほんの少し腕を動かすだけでサーヤに致命傷を負わせられるだろう。
このままではサーヤは惨たらしく殺される。まずは喉で次は手足でその次は目、とまるで楽しむかのように手順を確認する二人の品性は無いに等しい。
しかし、か弱い存在とはいえサーヤは魔王の娘だ。どれだけ下劣であっても彼らは人間で彼女は魔物。その事実は揺るぎようが無い。人類の敵である魔物は滅びるべきという事実も、揺るぎようが無い。
「暴れんなよー」
若い男がサーヤの胸元を踏みつける。上司の男がサーヤの喉に剣を押し当てる。がたがたと震えながらも、サーヤの瞳が救いを求めてめまぐるしく動く。
(落ち着けリッカ。こいつは魔物だ。殺されるべき存在なんだ。こいつは魔王の娘で、こいつは――)
目が合った。
次の瞬間、上司の男の右手に魔法の矢が衝突した。反射的に生成された矢は手甲を貫くには至らないが、剣を取り落とさせるには十分だった。
「え?」
リッカは思わず声を漏らした。いつの間にか自分の右手は男の手甲を指差しており、そこから魔法の矢が放たれた事は想像に難くない。
「なんだあ? 魔物かと思えばヒトじゃないスか」
若い男はサーヤから足を離してリッカの方へ歩み寄る。踏み付けから開放されたサーヤがげほげほと咳き込んでもお構いなしだ。
「隊長が言ってた客人か」
「あー、そういや言ってたッスね。赤い髪のクソ生意気で弱っちいガキがいるって」
「……クソ生意気で弱っちくて悪かったな」
「あっはっは、んな事は別にどうでもいいんスよ」
若い男は明るく笑いながらもリッカの胸倉を掴む。
「ただねえ、今のはどういうつもりなんスかあ? 場合によっちゃあアルマに逆らう異教徒としてお付き合いお願いしたいところッスねえ」
「何でかとか、分かんねえよ」
胸倉を掴み上げられたままリッカは答える。
「分からないとは?」
「僕だって教徒の端くれだ。アルマを尊敬して魔物は死ぬべきだって思ってる」
「じゃあ何で――」
言いかけた若い男を上司の男が手で制した。
「……自分の意思ではなく、あれに操られたとでも?」
男が親指で指す先にはサーヤの姿があった。
「…………」
サーヤと目が合った瞬間、リッカの身体は勝手に動いていた。
ただしそれが、サーヤに操られての事かどうか分からない。彼女の実力をリッカは何一つ知らず、そして――認めたくない事だが、リッカが反射的に彼女を助けようとした可能性もある。
「どうなんだ?」
男の口調が厳しくなる。
そうだと言えばリッカに対する疑いは晴れる。分からない、あるいは自分の意思で助けようとしたと答えれば異教徒として制裁を受けるのは火を見るより明らかだ。
たった一言。何故かその一言が、リッカの口から出てこない。
「……十秒以内にはいかいいえで答えろ。沈黙は否定と見なす」
「いーち、にーい、さーん」
重厚な雰囲気を持つ男と軽薄な雰囲気を持つ男。同じ聖塔騎士団でこうも違うのか、とぼんやり考えている間にも「ごーお、ろーく、なーな」とカウントダウンは進んでいく。
生きる為にはサーヤを犠牲にしなければならない。頭では分かっている。死にたくないとも思っている。
「はーち、きゅーう」
それでも、リッカの口は動かず、頷く事も出来なかった。
男が剣を抜く。
「じゅ」
じゅう、という言葉に被せるようにして、甲高い笛の音が廊下に響き渡った。
「あら」「…………」
男は黙って宙を仰ぎ、若い男は「タイムアップ」と呟いた。
「……タイムアップ?」
「任務終了。速やかに所定の位置に帰還すべし」
男は短く言い切ってリッカの横を通りぬけて歩き出す。
「遅刻は厳罰なんスよねー。ま、今回は限りなく黒に近い灰色って事で見逃してあげるッスよ」
「……それはどうも」
軽く頭を下げるリッカをぽんぽんと叩き、若い男もさっさと歩いて行く。
白か黒かを見極めるより撤収を優先する。聖塔騎士団が規律を重んじる集団とは知っていたが、ここまでとは思いもしなかった。
しかし、そのおかげで助かった。二人の男は金属質の足音を響かせながら廊下の角を曲がって姿を消した。
「…………」「…………」
残されたリッカとサーヤは顔を見合わせた。サーヤに目立った外傷は無く、服が多少汚れている程度だ。
「……何でこんなとこにいんだよ」
城の中には必要最低限の召使しかいないはずで、サーヤがこんな場所にいるのはカルネリアンの命令を守ったならば有り得ない事だ。
サーヤは案の定「ごめんなさい」と頭を下げた。ついでにぼそぼそと弁解のような言葉を連ねているが、要はかくれんぼをしていてカルネリアンの命令が聞こえなかったと言いたいようだ。
「ふーん。バカじゃねえの?」
リッカは大袈裟にため息をつき、サーヤから背を向けた。聖塔騎士団が撤収したと言う事はこの警戒態勢もすぐに解ける。さっさとシリダリークを探して約束を取り付けなければならない。
「……ま、まって!」
歩き出そうとしたリッカの服の裾が掴まれる。
「んだよ。邪魔すんなら――」
振り向いたところで、リッカの言葉は詰まった。
「……た……助けてくれて、あ、あ……ありが、とう……」
サーヤが泣き笑いのような表情を浮かべながら、言葉を絞り出していた。
「……別に、あんたを助けたくて助けたわけじゃねえよ。大体僕は、魔王を殺すためにここにいるんだ」
リッカはサーヤの手を振り払い、足早に来た道を戻る。リッカの背に向けて何回も「ありがとう」の言葉が飛んできたが、全て無視した。
(そうさ、助けたいなんて思っちゃいない)
いくら幼いとはいえ相手は魔王の娘だ。勇者がそんな奴を助けるなんて有り得ない。
体が勝手に動いたのはサーヤが無意識に魔法を行使したからで、リッカの自発的な行動ではない。
旅の途中で魔物退治をした時に礼を言ってきた子供の表情と、今しがたサーヤが見せた表情。
(……全然、似てない)
似てない、似てないと何度も言い聞かせながら、リッカは廊下を歩き続けた。