ハネモノ 最終話「これから」

 手に巻かれた包帯をするすると解くと、手の甲と手の平に刻まれた傷跡が露わになった。痛みや違和感はすっかり無くなっているが、この傷跡だけは消えずに残っている。足に巻かれた包帯も解くと、同じような傷跡が刻まれている。
「名誉の負傷、ってやつだな」
 ルピナスは窓に向けて手をかざす。彼女を守る事が出来たのならば、いくら傷ついても悔いはない。窓の向こうに広がる青空はどこまでも青く、雲一つない――そう、孤島の姿も無い快晴だ。
 怪我の治療の為に城の一室に閉じ込められてからどれぐらいの時間が経ったのだろう。城に戻って来て数日は意識を失っており、そして退屈な療養生活を送り続けていると日付の感覚も曖昧になる。
 もうこれは完治したと訴えていいのではないか、と思った矢先にこんこんと扉がノックされた。
「ルピナス様、失礼します」
 そう言って入って来たのはカモミールだった。
「よ。カモミールちゃんは相変わらず可愛いな」
 ルピナスが軽口を叩くと、カモミールは「まあ」と笑みを浮かべてほんのりと頬を赤らめた。
「嬉しいのですが、そういうお言葉はベリス様の為に取っておいた方がいいと思いますよ」
「ベリスちゃんは今日はどこに?」
 ベリスの怪我はルピナスよりも浅く、既に傷も癒えていた。毎晩寝る前にルピナスに会いに来るが、それ以外の時はあちこち探険しているらしい。ベリスらしいと言えばベリスらしい。
「今日は、砂浜の方を見ると仰っていましたね」
「そっか。……あ、もうこれで治ったと思うんだけど、そろそろ勝手に動いて良いか?」
 ルピナスは両手をカモミールに見せる。カモミールは傷跡を何度か指先で撫でた後に頷いた。
「大丈夫だと思いますが、後でお医者様に確認してもらった方がいいでしょう」
「慎重だなあ」
 ルピナスは苦笑しつつ扉をくぐる。頭の中では城を出て砂浜に向かう最短ルートが目まぐるしく探られている。
「ルピナス様」
 そんなルピナスを呼びとめるようにカモミールは声をかける。
「全員が完治した暁にはパーティーを行いたいと思います。その時に父が言うと思いますが、今、この場で私の言葉で言わせて下さい」
「何?」
 カモミールはルピナスに向けて、深く頭を下げた。
「私達……そして国民を……いえ、この世界に住む人々を救って頂き、本当にありがとうございました」
「一国の姫様が俺みたいな奴に頭を下げるのはよくないぜ?」
 ルピナスは頭を掻いて苦笑した。
「それに、人々を救うとかそんなつもりなかったし。俺はただ、ベリスちゃんを助けたかっただけだよ」
 それは最初から心に決めていた事だった。その為に奔走した結果、たまたま規模が大きくなっただけで、ルピナス自身に「人々を救う」と言った英雄じみた目的はない。礼を言われる事は嫌ではないが、あまり英雄視されると違和感を感じてしまう。
「俺はただの盗賊。勇者様なんかじゃないから、誤解すんなよ?」
 ルピナスはひらひらと手を振って部屋を後にした。

 城の出口を探して通路を歩く。暇潰しに城内を散歩した事があるとはいえ、まだ城の構造に明るくないルピナスは適当に検討をつけて進んでいた。
「おや、お前さんは」
 そんな中でばったり会ったのは、ルピナスより遥かに小柄な雀の獣人――スターティスだった。分厚い紙の束を両腕に抱え、老眼鏡が少しずれている。
「スターティスさん。何でこんな所に」
 彼はユノキスで民族学者として暮らしていた。彼が老体に鞭打ってリヒダ・ナミトの城まで来るのは少し意外だ。
「ベリスさんと、あの若造……サシアムの事でな。それぞれたった一人の生き残りとなると民族学者として色々聞きたい事もあるんじゃよ」
 その為なら外出だってするわい、とスターティスは胸を張る。が、すぐに顔を曇らせる。
「……ベリスさんは話をしてくれたから良かったが、サシアムの方は……」
「…………」
 ルピナスはサシアムの事を思い出した。
 二人の手で気絶させられたサシアムは、飛行船で運ばれてこの城の地下牢に収容された。逃げ出す事が出来ないように魔法を封じ、厳重な警備をつけた。意識を取り戻してからのサシアムは一言も発することなく、尋問する者の言葉も無視してじっと目を閉じていた。その強固な意志を見てこれは長期戦になるな、と身構えた矢先――サシアムは姿を消した。
 警備が薄くなった訳でも、魔法の封印が解けた訳でもない。傷つけられた者はおらず、少し目を離した間に視界を奪う程の白い霧が瞬時に現れ、サシアムは文字通りその場から姿を消し、何故か一羽の白い鳩が代わりにいた。
 即座に城中が捜索され、今も範囲を拡大しつつサシアムを探しているが、手がかり一つ見つかっていない。
「話が聞けんのは残念、で済むがの」
 スターティスは言葉を途切れさせたが、何を言いたいのかは分かる。更生した訳ではない彼の行方が知れない、というのは確かに不安だ。
 しかし。
「でも、もうあんな事はできねえよ」
 サシアムが姿を消して間もなく、空を漂っていた孤島はゆるゆると高度を下げて海中に沈んだ。勿論騒ぎになって、沈んだ孤島を人魚が調査した。孤島に築かれた都市は光を失っており、都市機能は失われているように見える、という結果だった。
 サシアムが都市機能を止めたのか、それとも彼の身に何かが起きて維持できなくなったのか。サシアムの行方が知れない今、どちらが正解なのか分からない。ただ、彼の武器であった「都市」が失われたことは確かで、今後サシアムが再起したとしても今回のような事態にはならないだろう。
 スターティスもそれは理解しているのだろう。うんうんと頷いているが、やはりその表情は暗い。
「奴が悪事に手を染めた事は分かっておるし、生きていたとしても今後大それた事は出来ない事も分かっておる。ただ、昔に少し関わりがあっただけで情が湧いてしまうのは年のせいなんじゃろうな」
 年寄りはいかんの、と呟いてスターティスはルピナスが向かう方向とは反対側に歩き出した。ルピナスはその後姿を目で追っていたが、やがて城の出口に向けて歩く事を再開した。

 城を抜けて砂浜に向けて街中を歩く。魔物の被害からの復旧は進んでおり、作業に精を出す人々の顔は明るい。
「よお」
 復旧作業を眺めていたルピナスの肩を叩いたのはコデマリだ。作業着を身に纏っており、その胸にはコデマリの名と国家の者であることを示す刺繍が入れられている。
「お前、それ」
 ルピナスが胸元の刺繍を指差すと、コデマリはふふんと得意げに胸を張る。
「国直属の技師になってやったぜ」
「すげえじゃん。おめでとう」
「飛行船の修理をやってのけたのは俺だからな。これぐらいの待遇は当然だ」
 クバサで知り合った当初から「技師になる」と夢を語っていた事を考えると素直に祝福すべきなのだろうが、偉そうに鼻の穴を広げるコデマリを見ていると何故だか腹が立つ。「お祝いだ」と言いつつ鼻先を軽く叩く。
「と言う事で、近いうちに俺はクバサから荷物を回収してこっちに住む。お前はどうする?」
「そうだなあ」
 クバサに戻ってまた盗賊稼業を再開するのだろうか。ルピナスは漠然と将来について考え始めたが、どうにも他人事に感じられて現実感がない。
「お前は手先が器用だし頭の回転も悪くない。また盗賊に戻るのは勿体ねえと思うんだけど」
「そりゃどーも。ま、もう少しゆっくりしてから考えるよ」
 盗賊に戻って小さな悪事を重ねる事にも抵抗がある。かといって代わりの稼業はすぐには思い浮かばない。もう少しの間だけ、周囲に甘えて色々な可能性を探ってみたい。
 ルピナスはコデマリに砂浜への道を尋ね、まずは港に向かって海岸線に沿っていけばすぐだという回答を得た。
「何でまた、砂浜に。あそこは観光地でもねえから何もねえぞ」
「俺だってわかんねえよ」
 ベリスがただの砂浜に興味を持つ理由なんて。
 言葉の意味が分からず首をかしげるコデマリの肩を軽く叩き、「ま、せいぜい頑張れよ」とだけ言い残してルピナスは港に向けて駆け出した。

 港には数隻の船が泊まっていた。船乗りと思しき男達が木箱を抱えて歩き、街中と同じように活気で溢れていた。ルピナスは潮の匂いをかぎながら海岸線に沿って歩く。コデマリの言う通り、港の先の海岸線沿いに砂浜が広がっている。砂浜には殆ど人影がない……というか、一人しかいない。ルピナスがいる場所からはまだまだ距離はあるが、それがベリスであることは一目で分かった。
「あら、ルピナスじゃない」
 ベリスに向けて駆け出そうとするのを制するかのように、海面から声がした。聞き覚えのある愛らしい声につられて振り向くと、海面からロミが顔を出していた。にっこりと微笑むその顔は、相変わらず可愛らしい。
「ロミちゃん」
「久しぶりね。怪我はもういいの?」
「ああ、もう治った」
 このままロミと談笑していたい思いもあるが、それよりもベリスと話がしたい。そわそわと砂浜の方を見るルピナスの様子に気付いたのか、ロミは「砂浜に用事があるの?」と問いかけた。
「ちょっとな」
 ロミも砂浜の方を見て、そこにベリスがいることに気付き、ルピナスの目的も自然と分かった。
「引き止めちゃったかしら、ごめんね」
「いや、いいよ。久しぶりにロミちゃんの顔が見れて嬉しかったし」
「私もルピナスが元気そうで嬉しい。でもね」
 ロミはベリスとルピナスを交互に見て意味ありげな微笑を浮かべた。
「そういう事はベリスだけに言って。誤解しちゃうから」
 それだけ言うと、ロミはとぷんと海の中へ潜っていった。
「……嬉しいような辛いような」
 控えめに言っても可憐な顔立ちのロミに好かれるのはこの上ない幸運だろう。それはとても嬉しい事なのだが、好意に応えられずロミを傷つけてしまう事は少し辛い。
――でも。
 ルピナスは心の中でロミに謝りながら、ベリスと会う為に走り出した。

 * * *

「ベリスちゃん!」
 ルピナスは砂浜に座って海を眺めるベリスに駆け寄り、隣に座った。日光に照らされた砂浜は温かく、接地面からじわじわと全身が温められていく。
「ルピナスか」
 ベリスはちらりと横目でこちらを見てきたが、すぐに海に視線を戻した。
「こんな所で何してるの?」
「海を見ている」
 ルピナスは海の方へ目を遣った。太陽の光を受けてきらきらと輝く海は、確かに綺麗だ。
「君こそ、何故こんな所に来たんだ」
「ベリスちゃんに会いたかったから」
 間髪を入れずにそう返し、先程のコデマリの質問をふと思い出す。
「ベリスちゃんはさ、これからどうするの?」
「これから?」
「全部終わって、飛行船で生活する事もなくなっただろ」
「ああ」
 その事か、とベリスは頷いた。
「私は、世界中を見て回ろうと思っている」
 クバサで不時着してから、ベリスはルピナスと共に色々な場所を見てきた。全てが新鮮で興味深く、世界は広いのだと理解する事が出来た。こうして身の回りが落ち着いた今も、ベリスの興味は平穏な生活よりもまだ知らない世界に向き続けている。
「一つ、君に頼みがあるんだ」
「頼み?」
 ベリスちゃんの言う事なら何でも聞くよ、とだらしのない笑顔を浮かべると、ベリスは「変な顔をするな」とルピナスを殴る……事はせず、神妙な顔で「頼みと言うのは他でもない」と言葉を紡ぐ。
「私と一緒に世界中を見て回って欲しい」
「……え」
 ルピナスはぱちくりと瞬きをした。嫌がってもついて行こうと考えていただけに、願ってもない申し出だ。
「私一人で見る世界より、君と共に見る世界の方が段違いに良いからな。君さえよければ、一緒にどうだろう?」
「行く! 絶対行く! 行きます!」
 とんでもない殺し文句だ。ルピナスは興奮を必死に抑えて壊れた玩具の様に何度も頷く。ベリスちゃんとの二人旅! いろんなものを見て回って、時には野宿もして、場合によっては――
「うおおおおおおおおっ!」
「うるさい」
 矢も盾もたまらず叫びだしたルピナスの頬を、ベリスは容赦なく平手打ちした。

「あああ……お嬢様、何と恐ろしい提案を……っ!」
「俺様はお前の過保護ぶりが恐ろしいわ」
 二人の様子を砂浜から少し離れた藪の中から見守っていたのは、ビオラとラジだった。ルピナス達からは気付かれないほどの距離を取っているが、獣人の聴力を駆使すれば二人の会話は容易に聞き取れる。
 街中でルピナスを見かけたのは偶然の事だった。コデマリとかいうトカゲ男と親しげに話しており、ビオラは何となく声をかけるのを躊躇って様子を伺っていた。コデマリと別れて歩き出したルピナスの後を付けたのも、特に理由は無かった。ただ何となく嫌な予感がしただけだ。
「絶対付いていってやる……! 二人きりなんて許しませんよ……!」
 嫌な予感は的中してしまった。ビオラはぎりぎりと歯軋りをしながら二人を、というかルピナスを睨む。
「いい加減子離れしろよ」
 ラジは呆れ顔で呟いた。彼はいつの間にかビオラの横で覗きに興じていたが、驚く気にもなれない。
「怪我人がふらふら出歩くな。死ぬぞ」
「お気遣いどうも」
 ラジはぽんぽんと自分の腹を叩いた。一時は生死の境をさ迷っていたと言うのに、短期間でここまで回復した事にはビオラもいささか驚いた。まだ完治はしていないものの、この害虫じみた生命力を考えるとそれも時間の問題だろう。
「……貴様が死ぬときはどうやって死ぬんだろうな」
 ビオラは想像の中で何度もラジを殺そうと試みた。しかし彼は何をしても決して死ぬことはなく、へらへらと腹立たしい笑顔をビオラに向ける。そういう事もあって生理的な嫌悪感は正に青天井と言ったところだった。
「さあねえ。まだ暫くは生きるつもりよ」
「出来る事ならば私の目の前で無様に死んで欲しいものだな」
「そうかい」
 ラジはにやにやと嫌らしく口角を吊り上げた。ビオラがラジを嫌っている事は態度から明らかだが、本当に嫌いならばそんな台詞は出ないはずだ。ビオラ自身も気付かない心の奥底の本音――気に食わないがラジを認め始めている事を察したラジは、笑みを浮かべながらビオラの肩を軽く叩いた。
「当分死ぬ予定はねえから、思う存分苛立ってくれ。犬っころ」

 そんな二人の気配に気付くことなく、ルピナスとベリスは並んで座って海を眺めていた。綺麗とは言え何てことはない風景だが、ベリスは飽きもせずにじっとしている。
「……あのさ、ベリスちゃん」
「何だ?」
 ベリスは海から視線を外してルピナスの顔を見る。好奇心に満ちた純粋な目で見つめられるだけで、ルピナスは体温が上がって頬が赤くなるのを感じた。
「ええと……いい機会だし、はっきり言っておこうと思うんだけど」
 自然と手は自身の胸の辺りを掴み、視線が不安定に泳ぎ始める。今まで可愛い女の子に向けて易々と放った言葉が、どうにも喉に引っかかって出てこない。ルピナスはそんな情けない自分に叱咤激励するかのように頭を振って深呼吸し、一息に言った。
「俺、ベリスちゃんの事が好きだ」
 友人ではなく、異性として。そう付け加えようとしたが、言葉にならなかった。ぱくぱくと金魚のように口を動かすルピナスに対し、ベリスはさして驚く事もなくきょとんとしている。
「何だ、そんな事か」
「そ、そんな事って……」
 ベリスちゃんは分かってないからそんな事が言えるんだ、と抗議しようとしたルピナスの声にかぶせるように、ベリスは言葉を続ける。
「私も君に対しては特別な気持ちを持っている。それが君の言う『好き』なのかどうか、今の私には分からない。だから」
 ルピナスの顔をじっと見てから、ベリスはにこりと笑った。
「これからの生活の中で、私が君に対して抱く気持ちは何なのか。そしてその気持ちを持つ者にふさわしい行動を教えて欲しい」
「……ベリスちゃん……」
 その笑顔は反則だ。ルピナスは心拍数が大きく跳ね上がるのを感じた。
「悪いな。もっと知識があれば、もっと歯切れのいい回答が出来たのだが……私にはまだまだ、知らない事が多すぎる」
「ぜ、ぜぜぜ、全然気にしてないよ! 俺が何でも教えるから! な!」
 ルピナスはぶんぶんと首を振る。ベリスは申し訳無さそうにしているが、孤島へ向かう前夜にベリスから聞いた心情はどう考えても好意でしかない。後はルピナスが色々な事を教えてベリスを一人前の女性に育て上げればいいだけの話だ――そう、一人前の――
「あああっ! ち、違うから! 一人前の女性って言ってもそんな意味はまだ考えてないから! うん!」
「何をぶつぶつ言っているんだ」
 ベリスは小さく首を傾げた後、海の方へ視線を戻す。ルピナスはごにょごにょと何の意味もない言葉を呟いていたが、すぐに黙って海を見遣った。無防備なベリスの左手に自身の右手を静かに重ねる。

 気がかりな事、不安な事は山のようにある。ルピナスがもし一人だったら、あっさりとそれらに押し潰されてしまうだろう。
 でも、隣にはベリスがいる。それだけでルピナスは気がかりな事、不安な事にも立ち向かい、一つずつ解決していく気力が際限なく湧いてくる。ベリスの為なら何だって出来る。逆に言えば、ベリスがいなければ何もする気が起きないだろう。
 強くなったのか弱くなったのか分からないが、間違ってはいないだろう。その証拠に、太陽の輝きが、たゆたう波が、温かな砂浜が、全てが祝福してくれている。全身から幸福感がこみ上げる。幸せだと、胸を張って言える。
「これからも、宜しくな」
「ああ」
 ルピナスとベリスはきらめく海を眺めながら、互いの手を静かに握り合った。

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