霧の涙 第一話「発端 -preface-」

 太陽が東から昇って西へと沈んでいく事と同じように、毎日が同じ行為の繰り返しである事は彼女にとって当然のことだった。そこに不満はなく、代わり映えのない日常でも彼女は満足だった。失うものもない、得るものもない、単調な毎日。いつまでもいつまでもそんな日々が続くのだと、彼女は思っていた。

 * * *

 カーテンを開けると、朝の心地よい日差しがリタの頬を刺激した。空は雲ひとつない快晴で、家の裏手に広がる小さな草原が日の光を反射してきらきらと輝いている。いつも通りの光景にリタは目を細め、朝食を作りに台所へ向かった。
「いただきます」
 こじんまりとしたテーブルの上にパンとマーガリン、卵とベーコンのスクランブルエッグを並べ、手を合わせた。リタ一人が朝食を食べる音が家の中に響く。ずっと一人で生活をしていたが、特に寂しいとは思わなかった。近隣の人達とは仲がいいし、全くの孤独というわけではない。
 朝食を摂り終え、朝にするべき家事を一通り行う。いつもと同じ順序、いつもと同じ時間。洗濯物を干し終え、風にはためく衣類を眺めながら、リタは幸せに目を細めた。
「今日は、何をするのかな」
 そう呟きながら洗濯物が風で飛んで行かないか点検し、しっかりと留められていることを確認するとリタは家を出て村の中心部へと向かった。

 村の中心部と言ってもぱっとするものは無く、ただ他の場所よりも商店が密集しているぐらいしか違いは無い。店先で仕事の準備を始めている人々はリタを見ると「おはよう」と挨拶をし、リタも軽くお辞儀をして「おはようございます」と挨拶を返した。
 小さな店をいくつも通り過ぎ、一軒のパン屋の前でリタは足を止めた。焼きたてのパン独特の香りを胸一杯に吸い込みながらパン屋の扉を開けた。
「おはようございます」
 色とりどりのパンを眺めながら大きな声を出すと、厨房の方から返事のようなそうでないような、何ともよく分からない声が聞こえた。リタが厨房への扉を開けてひょっこりと顔を出すと、「やあ、リタちゃんおはよう」と厨房の奥にいた中年の男が笑顔を見せた。
「おはようございます、クロスタおじさん。今日は何をしたらいい?」
「ん、ちょっと待ってな」
 クロスタと呼ばれた中年の男は厨房の奥でパン生地を練りながら、きょろきょろと辺りを見回した。パン生地を練るリズムに合わせて首を動かすその仕草は中年男性にあるまじき愛らしさで、何度見てもリタは微笑みをこぼしてしまう。
「薪が少なくなってるな。今日は薪拾いを頼む」
 かまどの脇を見ると、普段うず高く積まれている薪の量が確かにかなり少なくなっている。リタは「はい!」と返事をし、薪を入れるための籠を背負い、小枝を刈るための小さな鉈を片手にパン屋を飛び出した。
 小柄なリタの身体とは不釣り合いな大きな籠を背負い、リタは村を離れ、村外れの森へ入った。木々の隙間から差し込む日の光の温かさを受けながら落ちていた枝を拾い、手に届く範囲の枝を鉈で刈り取って背の籠に入れていった。
 前を見るとどこまでも木々は続いている。村の大人達も把握しきれていないほど森は広く、どこまで森は続いているのか確かめてみたい気もするが、子供のリタが確かめられるわけがないと分かっていた。森の入口付近をうろうろすれば薪は十分に集まるし、確かめられなくても問題は無かった。
 黙々と薪を集め続け、陽が最も高く昇る頃には籠いっぱいの小枝が集まった。森に来た時よりも随分重たくなった籠を背負い直し、額に光った汗をぬぐう。森の中を駆け抜ける風が少し熱くなった体を冷やしていく。
「今日はこれぐらいで十分かな」
 籠の重みを背に感じながら、リタは森の出口へ向かった。今からパン屋に帰れば丁度昼食の時間になる。今日のまかないは何だろう、と想像を膨らませるとより一層お腹が空いてきた。

 * * *

「…………?」
 村に着いてすぐに、何かが起こっていることが理解できた。この辺りは村の外れで民家も少ないのだが、それでも人の気配に溢れていて温かで、安心できる空気が常にあった。その空気が今は、ない。
 リタは籠をその場に置き、手近な家に駆け寄って窓を覗き込んだ。しかし死角にいるのか外出しているのか、そこに人の姿は無い。不吉な予感がじわじわと胸の鼓動を速めていく。家の裏手も確認しようと窓から離れた瞬間、何者かが木の枝を踏む音が背後から聞こえた。
 ああよかった。人がいる。リタが顔を輝かせて振り向くと――そこに「それ」はいた。

 影が立っている。
 一目見て抱いた印象はそれだった。光を反射しない淀んだ黒いもやが、かろうじて人の形をとってそこに立っている。輪郭もはっきりとしない、目がどこにあるのかも分からないが、それがリタをじっと見ていることは感じ取れた。
「……な……何……これ……?」
 それから伝わる不吉な雰囲気にリタの背筋は凍った。自然と、足が一歩二歩と後退する。それに合わせるように黒いもやもリタに近づいていく。
「や……嫌……っ!」
 震える手足を無理やりに動かして、黒いもやから背を向けて走った。得体が知れないものに対する恐怖だけではない、もっと本能的な部分が黒いもやを恐れていた。
 黒いもやが追いかけてきていることは振り向かなくても分かった。手足がちぎれても構わないと言わんばかりにリタは走る。恐い。逃げなければならない。リタの思考はそこで止まり、周囲の景色に気を配る余裕など完全になくなっていた。
 ろくに体を鍛えていなかったリタの体力が尽きるのは早かった。足がもつれ、それでも必死で走り続けたが石に躓いて転んだ。
「痛……っ」
 すぐに立ち上がろうとするリタの前に、黒いもやが立ちはだかった。ふと周りを見ると同じような黒いもやがいくつもいくつも現れていた。圧倒的な恐怖を前にして、リタは腰が抜けて立てなくなる。黒いもやはリタを取り囲み、じわじわと距離を詰めていく。
「……嫌……」
 もう逃げられない。心臓が早鐘を打ち、瞳からは涙がこぼれた。黒いもやの一つがゆっくりと手を伸ばし、リタの首に触れる。今まで感じたどの冷たさとも違う、いやに生々しい冷たさがリタの全身を襲う。その瞬間、リタは叫んでいた。

「来ないで!」

 全身の血が逆流するような、奇妙な感覚が沸き上がった。
 黒いもやが後ずさりする。足元を見ると、先程まで黒いもやがいた場所に黒い霧が立ち込めている。霧はまるで意思を持つかのようにするすると広がり、黒いもやを包み込んだ。黒いもやは霧から逃げようともがくが、霧はまとわりついて離れない。
 そしてリタが瞬きをした間に周囲の黒いもやは一斉に形を失い、煙のように消え去った。
「……え……?」
 きょろきょろとあたりを見回すが、黒いもやはどこにも見当たらなかった。圧倒的な恐怖も消え去った。残っているのは、リタの足元から沸き上がる黒い霧だけだった。その霧も、リタが触れようとした瞬間に消えた。
「何が……起こったの……?」
 何もかもが分からない。リタはその場にへたり込んで放心した。
 村の人達はどこにいるのだろうか。あの黒いもやは何だったのか。何故あれほど圧倒的な恐怖を抱いたのだろうか。先程自分の足元から生まれた霧は何だったのだろうか。
 あまりにも情報が少なく、今考えてもどうしようもないことを考えていた。唐突に現れたわけの分からないことの連続に、冷静な頭を失っていた。
 どれぐらいの時間が経ったのか分からないが、ふとリタの前に影が差し込んだ。リタはぼうっとした頭で影の主を見上げた。
「お見事ですわ」
 リタと目が合うと、影の主は小首をかしげてにこりと微笑んだ。黒い日傘を差し、黒を基調としたフリルの多い可愛らしい衣服に身を包んだ少女だったが、その両目は真っ黒に染まっていた。人外の者である事は明らかで、リタはずるずると後ずさりをした。圧倒的な恐怖感こそないが、柔和な微笑みの奥に潜むものがリタに警戒心を与えた。
 警戒心を抱いたリタを見て、少女はもう一度微笑んだ。
「ふふ、ご安心なさい。今は、貴方に危害を加えるつもりはありませんわ」
 少女はリタから数歩離れ、ひょいと軽く飛び上がった。重力を無視するかのような軽やかな跳躍で、民家の屋根の上に着地した。
「貴方こそ、私達が探していた方ですもの」
「私……達……?」
「それにしても貴方の霧の力……素晴らしいものでしたわ」
「……霧の力……?」
「ご存じないの? 少し、意外ですわね」
 少女は日傘を閉じ、丁寧に畳んだ。少女の背後に太陽があり、リタからは逆光で少女の表情は見えなかった。
「それでは、ごきげんよう」
 リタが少女を呼びとめるよりも早く、少女の姿は塵のように風に舞って消えていった。

 * * *

 一体何が起こっているのか、まだ一つも分かっていない。しかし、少女と会話を交わしたことにより、リタは少しは冷静さを取り戻せた。リタは立ち上がり、土を払って村の中心部へと向かった。中心部に行けば、きっと何かが分かるはずだ。
 村の中心部に近づくにつれ、一度は身を潜めていた不安感がむくむくと起き上がる。リタはその不安感を押し殺しながら、歩いていった。

 村の中心、憩いの場として使われる円形の広場に入ると、そこに人が二人、いた。久しぶりに見る人の姿にリタは嬉しさを覚えるが、足がすくんで二人の元に駆け寄ることができなかった。
 その二人は、先程リタが襲われたのと似たような黒いもやの集団に囲まれていた。黒いもやの目的がその二人であることは分かっていたが、圧倒的な恐怖でリタはやはり動くことができなかった。
「これはちょっとやばくない?」
 風に乗って、二人のうちの一人、黒髪の少女の声がリタの耳に届いた。
「どこが? 俺らにかかれば楽勝だろ?」
 もう一人、金髪の少年の声もまたリタの耳に届く。少女は白い服を、少年は黒い服を着ていることと髪の色を除けば二人は非常によく似ており、彼らは双子なのだろうと推測できた。
「うーん、オーロがそう言うなら楽勝かもね」
 少女がそう呟きながら、どこからともなく長い鎖を取り出した。
「じゃあまずは動きを止めること、っと」
 少年がにやりと笑いながら、どこからともなく大きな鎌を取り出した。
 二人が身構えると、黒いもやが一斉に彼らに襲いかかった。二人は黒いもやが発する圧倒的な恐怖に動じることもなく、ひょいひょいと黒いもやの攻撃から身をかわす。攻撃の合間の僅かな隙に、少女は鎖で黒いもやを縛りつけ、少年は大鎌で黒いもやを切り裂いていく。不思議なことに、大鎌で切り裂いたというのに黒いもやは倒れることなくその場で硬直していた。
 二人は踊るように立ち回り、黒いもやは少しずつ動きを止められていく。二人の華麗な姿に、リタは目が離せなくなった。恐怖心に固まって動けない自分とは大違いの雄姿に、ある種の羨望を抱いた。
 あっという間に、広場で動き回るのは二人だけになった。数え切れないほどの黒いもやは鎖に縛られて、大鎌で切られて動けなくなっていた。
「ほら、楽勝だろ」
「うん、楽勝だったね」
 少女は持っていた鎖を少年に手渡し、その場にごろりと寝転んだ。
「それじゃあ、後始末はよろしく」
「めんどくせえことは全部俺に押し付けるよな、ネーロは」
 少年は鎖を大鎌の柄尻に取り付け、鎖を軽く引っ張ってしっかり取り付けられていることを確認した。何をするのだろうとリタが見ている中、少年は鎖の先端をしっかり握りながら、大鎌を勢いよく投げた。勢いよく放たれた大鎌は、鎖に引っ張られてぐるりと進む方向を変え、少年を中心とした大きな円を描いた。円の中にいた黒いもやは、大鎌に刈り取られ、鎖になぎ倒され、その形を崩して塵のようになって消えていく。あっという間に大鎌は一周し、周りにいた黒いもやは一つ残らず消え去った。円の中心にいた少年と、大鎌に当たらないよう寝転んでいた少女だけがその場に残る。
「はい、終了ー」
 少年は地面に落ちた大鎌を拾い、鎖を外して少女に投げた。少女が鎖を受け取り、立ち上がると同時に鎖はふっと消え、少年の大鎌も同様に消えた。
「お疲れ様でーす」
 二人は「いぇーい」とどうにもやる気のこもっていない歓声とともにハイタッチをし、同時にリタの方を向いた。リタもまた二人を見ていたので、目が合った。どうすればいいか分からずその場に突っ立っていると、二人がリタの元へ駆け寄ってきた。
「もう大丈夫だよ、怪我は無い?」
 少女がリタの肩を優しく叩き、リタはこくこくと頷いた。
「こんな中を出歩いてて、よく無事だったな」
 あれに捕まったら終わりだったんだぞ、と少年が事もなげに呟いた言葉に、リタは身震いした。先程リタは捕まりかけていた。事態が全く把握できないが、自分がとても危ない橋を渡っていたことは理解できた。
「……何があったのか、よく、分からないの」
 説明しようにも、何をどう言えばいいのか分からない。じっと塞ぎこむリタの手を、少女が突然に握った。
「ねえ、僕達の知り合いに、この事に詳しい人がいる。良かったら会ってみない?」
「え?」
「知らないまま、っていうのは気持ち悪いしな。俺も会った方がいいと思う」
「だよねー! それじゃあ、行きますか」
「え、ちょ、ちょっと待って」
 戸惑うリタの言葉を綺麗に無視して、少女はリタの手を引いて歩きだし、少年もその横を歩いた。

 * * *

 リタを連れて二人はずんずん歩き、村の中心部どころか村を離れ、迷うことなく今朝リタが薪を拾った森の中へと入った。森の中を慣れた足取りで進み、リタが知らない森の奥深くへと入っていく。
「ねえ、どこに行くの?」
 とリタが聞いても、二人は「それはお楽しみ」と意味深な笑みを浮かべるだけだった。
 道と言えないような道を進み続け、リタが少し疲れを覚えてくるころになって、「着いたよ」と少女がリタに声をかけた。その声につられて顔を上げると、古い小屋が木々に埋もれるようにちんまりと建っていた。小屋の周りには木々以外何もなく、人が生活していようには見えない。
「ここに、いるの?」
「ああ。俺らはちょっと野暮用で村に戻るから、悪いけど一人でそいつと話をしといてくれ」
「え」
「大丈夫、大丈夫。優し……くはないけど悪い人じゃない……と、思うから」
 少女の曖昧な言葉にリタは途端に不安に見舞われた。
「ほ、本当に大丈夫なの? なんだか、怖いよ」
「死にはしないから大丈夫だって! そんじゃな」
 少年と少女はリタの肩を力強く叩き、あっという間に森の中へと去って行った。一人残されたリタは、恐る恐る小屋の扉と向き合い、
「……うう……怖い……」
 扉の奥にいるであろう人物の気配を探りながら、震える手で扉を開いた。

 小屋の中は恐ろしいほど殺風景だった。中央にテーブルと椅子が置かれている以外は何もなく、隅には埃が山のように積もっている。どう見てもここに定住しているとは思えない。
 テーブルの上には小さな籠が載せられており、そこには質素なパンと何枚かのクッキーが詰め込まれていた。籠の横には大きなティーポットと、温かな紅茶が注がれたカップが二つ、置かれていた。
 そして、テーブルの向こう側に眼鏡をかけた銀髪の男が座っていた。男は紅茶のカップを一つ取り、角砂糖を一つ入れてかき混ぜた。その優しげな所作から悪い人ではないような雰囲気が感じ取れたが、先程の少女の言葉を思い出すと本当はどうなのか分からない。
「そんな所に立っていないで、座りなさい」
「え、あ、はい」
 男に勧められるがままに、リタは椅子に座って紅茶を一つ受け取った。テーブルを挟んで向かいに座る男を、リタはじっと見つめた。
「さて……」
 男はにこりと微笑んでから、紅茶を一口飲んだ。
「初めまして、僕はカイゼルと申します」

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