霧の涙 第二話「亡霊 -departure-」

「君の名前は何ですか?」
 カイゼルは恐る恐る紅茶に口をつける少女に問いかけた。誰の目から見ても少女が怯えているのは明らかなので、極力優しい表情と声を作った。
 紅茶を一口飲んだ少女はカイゼルの顔色をちらちらと窺いながら、ぼそぼそと呟いた。
「……リタ、です」
「それが君の名前ですね?」
 小さく頷く彼女に対し、カイゼルは籠の中からクッキーを一枚取って彼女に差し出した。
「リタ君。とりあえずクッキーを食べて、紅茶を飲んで、リラックスしてください。君が何故ここに来たのかは、その後でお聞きします」
「……はい」
 リタはカイゼルからクッキーを受け取り、一口かじった。さくさくとクッキーを食べる音に混じって、腹の虫の音が静かな小屋の中に響いた。クッキーを食べる手を止め、リタは腹に手を当てて顔を真っ赤にする。
「……ご、ごめんなさい」
「いえ、お気になさらず。お腹が減っているのなら好きなだけ食べてくださいね。パンもクッキーもまだまだあります」
 足元に置いていた袋を持ちあげ、ぽんぽんと叩いてみせた。リタは赤い顔のままで、初めて微笑んだ。

 リタが満足するまで食べている間、カイゼルは無言で待っていた。話したいことは山のようにあるが、今の彼女に言っても仕方のないことばかりだ。カイゼルはただ温和な微笑みを浮かべ、黙々とパンを口に運ぶリタを眺めたり窓の外の景色を眺めたりしていた。
 何個目かのパンを平らげ、紅茶を飲み干したところでリタはカイゼルの方を見ながらもじもじと呟いた。
「……あの、ごちそうさまでした。美味しかったです」
「美味しかった? このパンが美味しく思えるとは、君は相当お腹を空かしていたようですね」
 カイゼルがからかうように言うと、リタはもう一度顔を真っ赤に染め上げた。
「……それで、リタ君。君がここに来た理由は何ですか?」
 リタのカップに紅茶を注ぎながら問いかけると、リタはそっと首をかしげた。
「よく分からないままに来てしまいました」
「よく分からないままに?」
 紅茶に角砂糖をいくつか入れながら、リタは小さく頷く。
「何が起こったのか、全然分からないの」
「つまり、何が起こったのか知りたいと?」
 リタは角砂糖をかき混ぜる手を止め、暫く沈黙していたが、
「……うん」
 確かな声でそう答えた。先程までの怯えきっていた少女とは違う「何か」がそこに現れていた。その変化にカイゼルは微笑みを浮かべる。
「分かりました。それでは、リタ君が体験したことを全て話してください。途中で詰まっても、話の順序が無茶苦茶でも、説明になっていなくても、リタ君が話しやすいように話してくれればそれで十分ですから」
 リタは紅茶を一口飲み、深く息を吸った。

 * * *

「……成程、経緯はよく分かりました」
 カイゼルは空に近くなった籠からクッキーを取り、一口かじった。彼女の話し方はたどたどしく、所々で順序が逆になったり言葉に詰まったりと、正直に言うと聞き取りづらい話だったがカイゼルは理解できた。
「それでは、何から説明しましょうか……といっても全てを完全に説明できる、というわけではありませんが」
 さくさくとクッキーを食べ終え、紅茶を一口流し込んだ。
「リタ君が見た黒いもやについて、とりあえず説明しましょうか」
 リタはカイゼルの目を見て、小さく頷いた。

「まず、人は死んだらどうなると思いますか?」
「……え」
 突然の質問にリタはぽかんとしていたが、すぐに「死んだらどこかで生まれ変わると思う」と答えた。
「そうです。死者の魂は新たな肉体に宿って生まれ変わるんです……本来なら、ね」
「本来なら?」
「今、何者かがその理を捻じ曲げているんですよ」
 魂が肉体に宿る、そんな当たり前の行為を許さない人がいる。
「死者の魂が縛られて、肉体に宿ることができないでいる」
「縛られる?」
「方法は分かりませんが、とにかく「生まれ変わること」が出来なくなりました」
 カイゼルはそこでふいにリタを指さし、「さてここで問題です」と笑顔を浮かべた。
「も、問題?」
「生まれ変わることができなくなった死者の魂は、どうなったのでしょう?」
 暫くの間リタは考え込んでいたが、ふっと「もしかして」と声を漏らした。
「そうです。リタ君が見た黒いもやは、転生できなくなった死者の魂です」
 にわかには信じがたいことですが、裏は取れているんですよと付け足した。
「死者の魂は望んであのような姿になっているわけではありません。彼らは、転生を果たしたいのです」
「……転生、を」
「ええ。だから彼らは己が宿る肉体を求め、この世の生ある者を襲っています」
 リタ君が襲われたのも、その為ですよと付け加えると、リタは小さく震えていた。
「……襲われた人は、どうなるの?」
「生ある者を襲い、無理やりに肉体を得ようとしても転生は果たせません。襲われた者の魂が肉体からはじき出されるだけです」
「魂が、肉体から?」
 リタの不思議そうな顔に、カイゼルは小さく首を振った。
「詳しいメカニズムは不明ですが、確かにそうなるんですよ。そして、はじき出された魂は死者の魂と同様の存在になり、生ある者を襲う」
 残された肉体は魂がなくても生きる。そんなわずかな違いはあるが、転生が可能にならない限り、この世から生ある者が絶えない限り、この負の連鎖は続く。
「おまけに彼らは「魂」ですからね。生きた者には彼らを完全に倒す術はありません」
 ある程度のダメージを与えれば一時的に姿を消すことはあっても、いずれまた復活する。
「僕は彼らの事を便宜上「亡霊」と呼んでいます。……リタ君を襲った黒いもやは、間違いなくそれでしょう」
 魂を抜かれなくて何よりです、とリタを労うと、彼女は俯いて自分で自分を抱いた。

「……それと、リタ君が会ったという少女。彼女もきっと「亡霊」です」
「え」
 リタから聞いた話だけでははっきりとは断定できないが、カイゼルは今まで得た情報を元に自分の考えを口にした。
「亡霊には、共食いをする習性があるんです」
 亡霊に空腹という概念があるのか、転生できないフラストレーションが溜まった結果の行動なのか、今まで亡霊と話をすることが出来なかったからその辺りははっきりとしない。しかし、亡霊が亡霊を食べるのは事実だった。
「亡霊を食べた亡霊は、その力を吸収してより強く、より高い知能を得るようになります」
 リタが最初に出会った黒いもやのような亡霊は最低クラスで、本能のままに人を襲うだけの単純なものだ。それが共食いを重ねるにつれ、次第に知性を持っていく。
「多くの、本当に多くの亡霊を吸収した個体は、人間と全く同じ姿を取り、人間と全く同じ振る舞いを見せるようになります」
「……それじゃあ、私が会った女の子も」
「目以外は人間そっくりという事は、相当数の亡霊を吸収したんでしょうね」
 カイゼルがそう説明すると、リタは口に手を当ててじっと何かを考えていた。リタが何を考えているのか追求することはせず、カイゼルは次の質問をじっと待った。待つのは、苦ではなかった。

「……黒いもやと女の子の事は、分かった。それじゃあ、どうして私は何もしていなかったのに「亡霊」は消えたの?」
 俯いたままぼそぼそと呟くように言った言葉に、カイゼルはううんと考え込んだ。
「君の話では、自分の足元から黒い霧がわき上がった、黒い霧にのまれたら亡霊が消えた、ということでしたね」
「うん」
「それは君が、特別な存在だからです」
 答えになっていない答えだとカイゼルは自分でも思ったが、予想通りリタの顔には疑問の色が浮かんだ。
「……どういうこと?」
「うーん……これは僕の専門ではないので、詳しくは後で合流する僕の仲間に訊いていただけますか」
 カイゼルは「亡霊」やその周辺の事には造詣が深いが、「黒い霧」のようなことは人に話せるほどの確たる知識がない。カイゼルが無根拠にあれこれ喋るよりも、この類の事象を多く見てきた仲間が話す方が遥かに確実だ。
 リタはカイゼルの言葉に納得したわけではなさそうだが、とりあえず頷いた。
「……うん、わかった」

 * * *

「……すみませんが、リタ君に頼みがあります」
 言葉が途切れ、ちびちびと紅茶を飲んでいたリタに対し、カイゼルは話を切り出した。リタは紅茶を飲む手を止め、カイゼルの目を見つめた。
「僕達の旅に、協力していただけませんか?」
「協力? それに、僕達って?」
「僕達……僕とオーロとネーロ、君が出会った双子の二人ですね。それとあと一人、ジョーカーという青年。僕達四人は、転生の理を曲げた者を討つために旅をしているんです。……この旅に、リタ君。君も加わって欲しい」
「……え?」
 あまりにも唐突な申し出だからだろう、リタは暫くの間言葉を無くしていた。
「君のその「黒い霧」。僕には詳しいことは分かりませんが、大きな力になる。僕達の仲間になってくれたら、凄く心強いんです」
「……で、でも」
「今まで暮らしてきた村を離れるのは辛いかもしれません。でも、村にとどまっていては、リタ君が大切に思っている人々を救う事も出来ないんですよ」
 亡霊に襲われて魂を抜かれた村人は、確実にいる。そんな村人達を救うには、理を曲げた者を討ち、正しい転生のサイクルに戻さなければ魂は解放されない。肉体に還ってこない。カイゼルがそう説明すると、リタの瞳に迷いが生じた。
「このまま亡霊に怯えながら村で暮らすか、僕達と旅をしてかの者を討つか。僕は強要はしません。選ぶのは君です」
 それだけ言うと、カイゼルは椅子に座り直して自分のカップに紅茶を注いだ。リタもまた紅茶を継ぎ足し、無言で紅茶を一口飲んだ。

 沈黙の中、カイゼルは待った。リタはじいっと下を向きながら紅茶を飲み、無言で考え込んでいた。選ぶのはリタだとは言ったが、それは嘘だ。もしもリタが村に留まることを選んだ場合は、カイゼルは無理矢理にでも彼女を連れていかなければならなかった。しかしそれは彼女の心を傷つけ、様々な支障が生じる可能性がある。その場合はどのように接すべきか。カイゼルがじっと様々な思惑を巡らせていると、リタはふいに口を開いた。
「……カイゼル」
 カイゼルがリタを見ると、リタもまた顔を上げてカイゼルの顔を見た。
「私、一緒に行く」
「……そうですか、ありがとうございます」
 カイゼルが笑顔を浮かべて右手を出すと、リタも微笑を浮かべて右手を出して手を握った。リタの手は、優しい暖かさに満ちていた。

 * * *

 リタが旅に同行すると決まると、カイゼルはそそくさとテーブルの上のパンとクッキーを食料袋の中に放り込み、身支度を整えた。リタがその行動の素早さに驚いているうちに、カイゼルはリタの横に立って手を差し伸べた。
「それでは、早速ですが参りましょうか」
「……どこへ?」
 リタは戸惑いながらもカイゼルの手をとり、カイゼルは空いた手で小屋の扉を開けた。
「それはおいおい説明しましょう」
 小屋の外に出て、カイゼルは迷うことなく森の中を歩き始めた。リタはよく分からないまま手をひかれてついてくる。出会ってそれほどの時は経っていないというのに、リタは既にカイゼルの事を信用しているようだった。自分の身元は何一つ明かしていないというのに、こんなにあっさり信用してくれる子供の純粋さにカイゼルは心の奥底で感謝した。
 森の中をまっすぐに突き進み、少し汗が滲んでくる頃にカイゼルとリタは森の出口にたどり着いた。久しぶりに見る森の外の眩しさにカイゼルは目を細める。
 辺りを軽く見回すと、木にもたれるようにして何かを話し合っている二人の姿が目に入った。カイゼルはリタの手を引いて二人に歩み寄った。
「お待たせしました」
 カイゼルが声をかけると、金髪と黒髪の双子は同時に「ほんとにな」と嫌味を返してきた。
「で、その子はついてくるの?」
「ええ。リタ君です。仲良くしてくださいね。……虐めたりしないように」
「そう言われると虐めたくなるよなあ」
 金髪の少年が意地の悪い微笑を浮かべ、リタがあからさまに動揺を見せた。
「リタ君。もし虐められたらすぐに言ってくださいね。直ちにこの子達の晩御飯にそこら辺の小石を混入しますから」
「地味な仕返しだなあ」
 双子は顔を見合わせて苦笑し、それにつられてリタも小さく笑った。

「さて、改めて自己紹介しましょうか」
 カイゼルはリタと向き合い、胸に手を当てて軽く頭を下げた。
「僕はカイゼル。今は、しがない研究者をしています」
 何か困ったことがあればすぐに僕に言ってください、と付け加えるとリタは小さく頷いた。
「君達も自己紹介しなさい。どうせ君達の事だから、ちゃんと名乗っていないでしょう」
 カイゼルが一歩引き、双子はカイゼルの言葉にほんの少し頬を膨らませながらもリタに軽く頭を下げた。
「俺はオーロ。見て分かると思うけどネーロの双子の兄。趣味は悪戯と帽子収集」
 金のウェーブがかった長髪を後ろで束ねた少年が悪戯っぽい笑顔を浮かべた。彼の頭には花飾りがついた帽子があり、隣にいる少女も全く同じ帽子を被っていた。
「僕はネーロ。オーロの双子の妹。趣味は悪戯と帽子収集」
 黒の長髪を後ろで束ねた少女が悪戯っぽい笑顔を浮かべた。所作も表情の出し方もそっくりで、双子だとしても似すぎている、わざと似せているのだろうなと二人の一歩後ろでカイゼルは感じていた。が、リタはそんな思いは抱いていないのだろう、素直に双子に感動した様子でたどたどしくも頭を下げた。
「ええっと、リタです。よろしくお願いします」

 簡単な自己紹介を済ませると、カイゼルはポケットからコンパスを取り出し、方角を確認した。
「それでは、早速ですが行きましょうか」
「どこに? カイゼルさん、聞かないと何も教えてくれないところがイヤ」
 こういう時は地図を出して説明すべきなんじゃないの、とネーロがむくれたがカイゼルは全く気にならなかった。
「僕は聞かれないと何も教えないタイプです。嫌と言われても、性格なので仕方ありません。我慢してください」
 そう言ってにこりと微笑んでやると、オーロとネーロは二人して「これだからカイゼルさんは!」と露骨に肩を落とした。
「……で、僕達が向かうのはトゥラターレという町です。その道中でジョーカー君と合流し、必要物資を調達します」
「観光は? ていうか遊びは?」
「お好きにどうぞ」
 カイゼルの答えにオーロはガッツポーズを作ったが、
「オーロ君にもネーロ君にも僕は何も期待していませんから、好きにしててください。僕に迷惑がかからない程度に」
 と言い足すとガッツポーズを作った手ががっくりと下がった。
「……あの、私はどうしたらいい?」
 ネーロの影からおずおずとリタが尋ねてきた。カイゼルはにこりと微笑んで答える。
「リタ君は、オーロ君達と観光を楽しんできて下さい。君は「町」というものを思う存分楽しむべきですよ」
「げー、何なのその態度の違い。僕達にもそれぐらい優しくしてよ」
「十分優しく接しているつもりですよ?」
 カイゼルはにこにことオーロとネーロの肩を叩き、「それじゃあ行きますよ」と町への道を歩き出した。
「……もう嫌だこの人」
「いいかリタ、カイゼルさんが優しいのは今だけだと思うから覚悟しとけよ」
「……そうなの? 今だけなの?」
 オーロとネーロがリタにあることないこと吹きこんでいるのが背中越しでも聞こえたが、カイゼルは何も言わなかった。生まれ持った性癖はどうしようもないと、彼らの吹聴癖についてはとっくに諦めていた。

 * * *

「紅茶のカップが……二つ」
 生活感が全くない小屋の中で、茶髪の男はカップを一つ手に取った。中に残った紅茶は生温く、先程まで誰かがこの紅茶を飲んでいたことは明らかだった。
「すれ違いかあ」
 残念だなあ、と男はくつくつと笑った。
「ねえ、アピーナ。お前は本当に運が良かったねえ」
 男が振り返り、何もない空間に向かって声をかけた。
「貴方とは違って、日頃の行いが良いからですわ」
 少女の声が何もない空間から響き、次の瞬間には黒い日傘を携えた紫髪の少女がそこに立っていた。真っ黒に染まった両目が、嘲笑に細められる。
「ひどいなあ。俺だって良いことはしてるつもりだよ?」
「その割には、意中の人とは会えなかったようだけど?」
「そうなんだよねえ。勘付かれたのかな」
 男は肩をすくめ、困った表情を見せたがその顔はすぐに笑顔に戻る。
「ま、準備が整ったらすぐに会いに行くけどねえ」
 男はぬるい紅茶を一口飲み、呟いた。
「カイゼル、オーロ、ネーロ」
「……それにジョーカーさんとリタさん」
 少女が男の呟きに続けるように言葉を紡ぐ。
「……面白く、なりそうだねえ……」
「そうですわねえ」
 男と少女は小さく笑いあい、男はカップの中に残ったぬるい紅茶を床に捨てた。

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