四鬼の街 最終話「立つ鳥跡を濁さず」
頬を撫でる風の冷たさを感じると、冬が近いのだと改めて思う。流刑街を訪ねた時にササメを襲った二人組のごろつきは「寒い冬を過ごす為に支援しろ」と金と服を奪おうとした。
……そうだ、その窮地を助けてくれたのがナツギリだ。ササメを残してごろつきを殺したのは、単に飲み相手を欲し、どちらかといえばササメの方がましだと判断した結果だ。とはいえ、救われた事に間違いない。
それからは色々な事があった。いずれも九死に一生を得るような経験で、今、流刑街の外れにある墓地に立って息をしているのは奇跡ではないだろうか。
ササメの眼前には五基の墓が並んでいた。ほんの少し盛り上がった土の上に粗末な枝を十字に組み合わせた墓標が突き刺さっているだけの質素な墓だ。枝には名前を彫るだけの強度も無く、土の上に書いた名前も雨が降れば消えてしまうだろう。
「あら、時間は大丈夫なの?」
背後から声がする。振り向くとそこにはぼろぼろのローブを纏ったトウジの姿があった。
「ほんの少しだけなら」
ササメがそう答えると「そうなの」とトウジは横に立って墓をじっと見下ろした。
「昨日は夢みたいな出来事だったわね。……全てを直に目撃した貴方にとっては、悪夢かしら」
「どうでしょう」
あの時、目の前で繰り広げられた光景そのものは悪夢でしかなかった。しかし、あの場にいた人達から感じ取った何かが「あれは悪夢と形容すべきではない」とササメに語りかけている。悪夢で済ませてはならないと。
トウジはそれぞれの墓前に雑草をそっと置いた。枯れかけのゴミの様な雑草だが、墓前に手向けられると何故だかほんの少しだけ輝いて見えた。
「皆にお礼を言わなきゃいけないわね」
胸の前で十字を切り、トウジは墓に向けて静かに頭を下げる。続いてササメの方を向き、同じように十字を切って頭を下げた。
「助けてくれてありがとう」
「僕はただ、トウジさんの言う事に従っただけです。僕の分までナツギリさんにお礼を言ってやってください」
「貴方、私があの筋肉ダルマに一回でも頭下げるのに何人分お礼を言う労力を割いたと思ってるのよ。もう一度なんて御免だわ。それにこいつ、私を助ける気なんてなくてただデスクと殺し合いしたかっただけでしょ」
筋肉ダルマがいなければ、私は囚われたままだったけど。トウジはそうこぼしてくすくす笑った。
昨日、ササメが屋敷を脱出した後に試してみて分かった事だが、アスクが死んだだけではトウジの呪縛は解けなかった。デスクの命令にも逆らえず、今まで見聞きした事は正直に伝えてしまった。幸いにも彼にはササメを追いかけるだけの気力は無かったらしく「眼鏡のお兄さんはごはん持ってきてくれるんだね」とだけ確認して床にどす黒い血を残しながら寝室へ戻っていった。
その後はただひたすら書斎で待った。あの性格から考えてササメが誰かを連れてくる確率は五分五分だが、どちらでもよかった。あの状態から見てデスクはもう長くない。死に際のデスクに食われる可能性もあったが、総合的に考えて自分に利があると考えられた。
結果、ナツギリがデスクを瀕死にまで追い込みササメが止めを刺した。銃の引き金を引く事すら難しそうなお坊ちゃまがデスクの頭を撃ち抜いたのは意外だったが、ともかくトウジとしては最良の結果に落ち着いた。
騒動が落ち着き、彼らの墓をこしらえたのが昨日。それから一晩経って今はもうそろそろ昼食時になろうかという頃だ。
「……トウジさんは、これからどうするんですか?」
「元の生活に戻るだけ。……と言いたいけど、この外見で教会に戻るのは難しいわね。墓守にでもなろうかしら」
トウジの声に暗さは無い。今までと同じように、凪のように落ち着いている。
「前向きですね」
「ありがと。そう言うササメさんはどうするの?」
「昨日も言いましたけど、僕は王都に帰ります」
同じ説明を何度もするのは好きではない。ほんの少し棘のある物言いもトウジは「相変わらずちょっと腹立つわね、貴方」とにこやかに受け流す。大人だ。
「王都に帰って、それを『先生』に渡して、それからどうするの?」
トウジはササメが小脇に抱える一冊の本を指差した。早朝から屋敷の書斎を調べて見つけたこの本は、ざっくりとページを繰ってみると流刑街の事が書かれているようだった。出来る事ならこの本を精査した上で他の本棚も調べていきたかったが、迷路じみた本棚にぎっしりと詰め込まれた本を全て調べるには正午までのひとときはあまりにも短い。結局時間切れまでに見つけられたのはこの一冊だけで、中身もきちんと確認できていない。
これが「当たり」なら王都への帰還は逃げではなくなる。先生からの信頼を損なう事も、学者への道を断たれる事も無い。そうなれば万々歳だが、もし外れであっても事実を受け止める事は出来そうだ。吹っ切れたと言うべきか。
「これが価値ある資料でもそうでなくても、僕は僕の人生を楽しみたいです」
価値ある資料であれば学者としての道。そうでなければ今まで見向きもしなかった新しい道。どちらにしろ、精一杯楽しんでやろう。
惰性で人生を潰したくない。好きな事を楽しんで、自分の信条を築き上げて、死に際には良い人生だったと胸を張って言えるような、そんな人生を送りたい。
流刑街で出会った人々の姿を見ていると、何となくそう思う。度を越えているし他人も巻き込むが、彼らは彼らの信条に従って好きなように生きている。ろくでもない連中にこんな事を思うのは腹立たしいが、その生き様はほんの少し、羨ましい。
「……そろそろ宿に戻ります」
日が高くなってきた。荷造りはもう済ませているが、最後にもう一度だけ部屋の確認をしておきたい。宿の亭主にも挨拶をしておかなければ。
「もうこの街には帰ってこないのよね?」
「そのつもりです」
余程の理由が無い限り、二度とこの街は訊ねない。学ぶ事はあったように感じられるが、だからといってこれ以上滞在するわけにはいかない。下手を打てば死ぬ。
「じゃあ、今日一日ぐらいは貴方の為に祈ってあげるわ」
「一日だけですか」
「貴方なら神様の力を借りなくても自分で道を見つけられるでしょう?」
「随分高く評価してくれてるんですね」
流刑街の住人からはただのカモ、あるいは路傍の石としか見られていないと思っていただけに意外だ。
「昨日の話を聞いて分かったのよ」
トウジはササメの方を向き、銃をしまっている辺りを指差す。
「貴方みたいな、虫も殺せないような人がデスクを殺した。しかもその理由は筋肉ダルマの死体を守るため。他人の為にそこまで出来る人が、ただのヘタレなわけないでしょう」
「あれはただ、そう思っただけのその場の勢いというか……褒められるような事ではないですよ」
流刑街だからお咎めなしだが、王都なら捕まって縛り首にされている所業だ。
「殺人を褒めてるんじゃないの。他人の為に新たな一歩を踏み出す事が出来る、ってのはとても大事な資質だと思うのよ。ササメさんなら大切な誰かの為に道を切り開いて、自分の信条を見つけて行けるわ」
「そうですかね」
「ついでに言うと、二度とこの街を訪れないのは賢明ね。ここにいるのは私を含めて自分の為だけに動く利己的な連中だから、利他的なタイプは実力が発揮できなかったり利用されたりして早死にするわ」
「ご忠告感謝します」
ササメはぺこりと頭を下げて、それではと街に向けて一歩踏み出した。
「トウジさん、お元気で」
「ササメさんもね」
トウジはあっさりと挨拶を済ませると、墓の方に目を向けた。ササメも街の方に目を向け、ざくざくと土を踏みしめて歩き出す。
* * *
宿に帰って荷物を点検し、宿の亭主に礼を言って雑談をしているとあっという間に正午になった。宿を拠点とする住人達が戻ってきて、昼食の用意で食堂はにわかに慌ただしくなる。
「これでも持ってけ」
宿の亭主は無地の紙箱をササメに手渡す。中身を確認するとサンドイッチが詰め込まれていた。レタスだけでなく卵やハムまで入っている。ササメは丁重に礼を言い、荷物を持って宿を後にした。
玄関先でほんの少し待っていると、遠くからゆっくりと馬車がやって来た。王都のそれとは比べ物にならない粗末な馬車だが、ようやくこの地獄から抜け出せるのだから有難い。
ササメが軽く手を挙げると御者も軽く手を挙げ、馬はさらに速度を落として停まる。荷物を抱えて馬車まで駆け寄ると、唐突に荷台が開いてそこから一人の青年がひらりと舞い降りた。
三流手品師のような格好をした青年だ。彼は御者に金とどこからか取り出した造花を手渡し、ササメの姿を認めると「こんにちはー!」と場違いに明るい声で挨拶をしてきた。ササメも「こんにちは」と無難に返す。
「お兄さん今から帰るの? それじゃあさ、おすすめスポットとか知らない?」
「はい?」
恐らくササメより年下なのだろうが、異様に馴れ馴れしい。何だこの青年は。
「僕さ、この街は血で血を洗う殺し合いが連日連夜繰り広げられてるって聞いて来たんだけど、そういうのってどこでやってるの?」
「……路地裏とか、治安の悪そうな所に行けばいいと思いますよ」
ササメが忌避する事を目当てにやって来る。これが流刑街の住人のあるべき姿なのだろう。利己的な人間が集い、それぞれがそれぞれの信念や趣味嗜好を以てぶつかりあい殺し合う。
正直に言ってササメはこの街が嫌いで消えてしまえばいいと今も思っている。しかし、トウジやこの青年の様なタイプの人間には、普通の社会では受け入れられない自らの信念をぶつける場が必要なのだろう。かつてトウジが「清濁併せ呑む器」と表現した理由も今はよく分かる。まだ許容は出来ないが、理解できただけササメもほんの少し変わったのだろう。
「路地裏かあ。ベタだけどそういうもんだよね。ありがと!」
青年はにっこりとほほ笑み、身一つで駆けて路地裏に消えた。荷物は無いのだろうか、と荷台の中を覗いてみるが何もない。何の武器も持たずに路地裏に入り込むとは無謀なものだ。
「王都まで」
ササメは御者に短く告げて荷台に乗り込む。ぺらぺらのクッションが敷かれた座席はお世辞にも良いとは言えない。この街に来る時もそうだったが、王都に辿り着くまで乗り心地の悪さに耐えるのがまた一仕事だ。
馬がいななき、荷台が揺れる。小さな窓から外を眺めると、見覚えのある景色が次々と後方へ流れていく。ササメは暫くの間その光景を目に焼き付けていたが、街を抜けて荒野が広がってくると座席に座り直して目を閉じた。もう二度と、あの街並みを目にする事は無いだろう。
流刑街で出会った人々の顔が瞼の裏に浮かぶ。彼らの多くは既にこの世にいない。冗談のように人が死にやすい世界だったなと思いながら、ササメは胸の前で十字を切った。
(――さよなら)
* * *
「……というわけです」
「成程」
王都の中でも特に学問が発展した区画の中、とある喫茶店の片隅でササメは先生に結果を報告していた。久しぶりに見る先生は相変わらず愛想が悪いが、ササメが持ち帰った本をしきりに指で撫でている。
「この本の内容はざっと検証させてもらった」
結果は先生の様子を見れば分かる。口角はぴくりとも上がっていないが嬉しそうだ。
「よくやった」
「ありがとうございます」
ササメは静かに頭を下げた。
「まさか本当に資料を持ち帰ってくるとは思わなかった」
「……え?」
顔を上げると、先生はコーヒーを一口飲んでいた。ササメも釣られて自分が注文した紅茶に砂糖を入れて飲む。流刑街では味わえない丁寧で高級な味わいにほっと心が安らいだ。
「あの街に行って、ここでは到底味わえない『現実』を体感して、何かを学んだうえで逃げ帰ってくればいい。そう思って出した課題だった」
「え?」
「後はちゃんと生きて帰ってこれるか、運を試す要素もあったか」
「え?」
それはつまり――
「……僕が本を探して駆けずり回ったのは無駄だったんですか!」
あれだけ襲われて死にかけたのに!
ササメが悲鳴に似た叫びをあげると、先生は「無駄ではない」とぴしゃりと言った。
「流刑街の価値ある資料を探し出した事。何度も危機に陥りながらも生還した天運。お前は立派な学者の卵……いや、ヒナだ」
「あんな思いまでしたのにヒナですか」
「一人前と呼ぶには経験が浅すぎるからな」
先生はもう一度コーヒーを口に運ぶ。先生のブラックコーヒーとササメの手元にある砂糖入りの紅茶が、一人前と半人前の差を如実に表しているように思えた。
「……お前は春からどうするつもりだ」
「学院で教授の手伝いをしながら研究活動をする予定です」
学者として活躍する為の一般的なルートだ。いい教授に当たれば研究活動もはかどるのだが、こればかりは運だ。学生に毛が生えた程度の新米に上司を選ぶ権利は無い。
「そうか」
先生はふうむ、と何かを考え始めた。この時の先生は放っておくに限る、とササメは店員にクッキーを頼んで思考が終わるのを待った。
「……一つ、提案がある」
クッキーを一枚食べた頃になって先生は重い口を開いた。思ったよりも早い。
「私の元で働かないか」
「…………」
もう一枚食べようと伸ばした手が止まる。ワタシノモトデハタラカナイカ?
先生が発したとは思えない言葉にササメはぱちぱちと何度も瞬きをする。
「今の学者は部屋に閉じこもって紙束と向き合う輩が多すぎる。もっと積極的に外界と接触し、生の情報を自らの手で採集する習慣を付けなければ学問の未来は暗い」
「そう、ですね」
先生がいつも言っている事だ。
「今まで私は先陣を切って学者の在り方を体現してきたが、私一人の力ではこの閉塞した状況を打開する事は出来ない。学問の未来の為に戦うにはもっと数が必要だ」
「……それが、僕、ですか?」
ササメがおずおずと自分を指差すと、先生はしかめっ面で頷いた。
認められたい一心で流刑街を訪ねたササメとしては、この話は諸手を挙げて喜びたい。しかし、予想のはるか上を行く提案に「ありがとうございます」と曖昧に笑う事しかできなかった。
「先生の傍で学び、戦わせて下さい」
宜しくお願いします、と頭を下げる。見えなかったが、先生も軽く頭を下げたのは分かった。
「それで、具体的には今後先生のお仕事にご一緒すればいいんですか?」
「そうだな。春先には資料採集の為長期出張をする予定だ」
先生は王都に居を構えているが、一年の大半を出張で潰している。それに帯同するササメも、これからはあまり王都に滞在できなくなるだろう。それは少し寂しいが、先生の元で得られる知識と経験は何物にも代えがたい。
「どこに行かれるんですか?」
「流刑街だ」
先生は事もなげにそう言い放ち、ササメはその言葉の意味を理解するのに数秒かかった。流刑街に長期出張?
「……え、ええと、資料ならそこにありますよね?」
「だが、お前の話では書斎はまだ調べ切れていないのだろう? もしそこに貴重な資料があればどうする」
「それはまあ……放っておくわけにはいきませんけど……」
分かっている。先生の言う事は正論だ。
「……流刑街ですよ? 死ぬかもしれないんですよ?」
「春先までに準備は整える。それに、死を恐れて資料採集が出来るか?」
先生は獣のような獰猛な笑みを浮かべる。何故かナツギリの笑顔が重なった。
先生がこうなってしまえばササメの意見などもう聞き入れられない。
それでも頭を抱えて叫ばずにはいられない。
「――いやだああああああああ!」
暴力の欠片も無い平和な街中で、ササメの悲痛な叫び声が響き渡った。