四鬼の街 第十四話「窮鼠猫を噛む」

 再び訪れた屋敷は、ササメが最後に見た時と状態はそれほど変わっていなかった。シャンデリアは落ちたままで、一階からダンスホールに繋がる扉は瓦礫で埋もれている。違っている点と言えば、二階へ繋がる階段から一階にあるもう一つの部屋まで床にどす黒い何かがべったりと付着している事ぐらいだ。階段を塞ぐシャンデリアにもそれは付着しており、まとわりつくような臭気を放っている。
「なんだこりゃ」
 ナツギリがどす黒い何かにずかずかと近付き、指先で触れて犬のように臭いを嗅ぐ。
「よく分かんねえな」
 顔をしかめて指先をズボンで拭う。
「……ナツギリさん、ひとつお尋ねしてもいいですか」
「んだよ」
 ナツギリは玄関ホールを注意深く見渡しながら言葉だけ返す。
「どうしてこんな事に命を懸けられるんですか」
「またそれか」
 怒るより呆れの方が強いようで、ナツギリはぼりぼりと頭を掻いた。
「僕にはどうしてもわからない事ですから」
「……そんじゃ、逆に聞くけどよ」
「はい」
「てめえは何でここにいるんだ」
「はい?」
 見届けさせてくれと言ったばかりじゃないか。三歩歩けば忘れてしまう馬鹿なのか?
 口には出さなかったが、短い一言や表情からその気配は漏れていたらしい。ナツギリは面倒そうに舌打ちをした。
「何でこの街に来たんだ?」
「……流刑街に関する歴史的資料を探しに、です」
 ふうん、とナツギリは気のない相槌を打つ。
「それは、てめえみたいな頼りないもやしが『最低最悪でさっさと消えてほしい街』にわざわざ出向くに足る理由なんだろ」
「はあ」
 正確に言えば「課題をこなして先生に認められる為」が流刑街を訪れた理由になるのだが、話がややこしくなりそうなので黙っておいた。
「てめえにとっては歴史的資料とやらが、平和を捨てていつ死んでもおかしくない世界に足を踏み入れるだけの価値がある」
 ナツギリはそこで一旦言葉を切り、振り向いてササメの顔を真っ直ぐに見た。
「てめえにとっての『歴史的資料』が俺にとっての『強い奴と戦う事』だ」
「……はあ」
 人文・歴史学において第一線を歩む識者として活躍する事はササメの夢だ。貴重な歴史的資料は宝だと思えるし、憧れの存在である先生に認められる事は何物にも代えがたい。今のササメからこの夢を奪うと何も残らない空っぽの人間が出来上がるのではないだろうか。そう思える程に大切な、自分の半身とも言える事だ。
 ナツギリにとっては、強者と戦う事がそれに値する。
 素直に置き換えてみれば、強者と戦う事は何よりの宝であり、半身であるとナツギリは言いたいのだろう。そう考えると彼の心情は理解できなくもないが、殺し合いという野蛮な行いとササメが求める文化的な行いを同列に見られたくはない。
 黙りこくったササメを見てナツギリは満足したのか、一階ダンスホールとは反対側の扉――ササメがまだ足を踏み入れていない部屋の扉を勢いよく開けた。

 * * *

 部屋の向こうは寝室だった。ゆったりとした間取りで、壁際には凝った意匠のタンスが二竿並んでいる。部屋の中央には小さな木製のテーブルがあり、二脚の椅子が向かい合うように置かれていた。足元には色あせた赤い絨毯が敷かれており、石造りの壁はあちこちにヒビが入っているが脆さは感じさせない。人一人が通り抜けられる程度の窓が一つだけあり、その傍には豪奢な天蓋付きのベッドがある。その二人用の大きなベッドの縁に、デスクは腰かけていた。
「……眼鏡のお兄さんと、お客さん?」
 デスクはゆっくりとこちらを向き、目を細めた。その優美な微笑みだけ見れば天使と見紛うかもしれない。それほどデスクの顔は中性的で不可思議な雰囲気があった。
 しかし、頭から下は完全に化物のそれである。ハエトリグサの様な右腕、猛禽類の足の様な左腕、腰から生えた一対の人間の腕、蛸の様な下半身、背に生えた二対の蝙蝠のような羽……全てがどす黒く、吐き気を催す腐臭を放っていた。
「ほー、どんな奴かと思いきや……」
 ナツギリはつかつかと部屋の中央まで歩き、一脚の椅子を持ち上げてデスクに向けて投げた。それなりに重量がありそうな椅子だが、デスクは右手で軽々とそれを受け止めて噛み砕く。木片がばらばらとデスクの周囲に落ちた。
「とんだ化物じゃねえか」
「いきなり椅子を投げつける君も、人間の皮をかぶった化物だね」
 デスクは眉尻を下げるが、その口はにんまりと笑っていた。ベッドの縁から立ち上がり、真正面からナツギリと向き合う。
「食いでがありそうだ」
「見た目に違わず悪食だこと」
 ナツギリは獰猛な笑みを浮かべ、デスクは威嚇するように蝙蝠の羽を広げた。

 先に動いたのはナツギリだった。彼はもう一脚の椅子を持ち上げ、デスクに向けて投げつけた。デスクは先程と同じように右腕で噛み砕くが、先程と違ってナツギリが懐に飛び込んで腹に狙いを定めた拳を振るった。
「怖いなあ」
 腰から生えた両手がナツギリの拳をしっかりと受け止める。続いて猛禽の左腕が振り下ろされるが、ナツギリは空いた手でその腕を掴み、ぎりぎりと力を込める。あと一歩でその腕は折れてしまうだろう、と言う所でハエトリグサの右腕がナツギリの腹部に食らいつこうと大口を開けた。ナツギリは反射的にデスクから手を放し左へ跳び、鋭い歯はナツギリの腹部をかすめてがちんとその口を閉じる。
「……腕が多いってのは厄介だな?」
「君は、強いね。僧侶さんと同じくらいに」
「トウジの事か?」
「ああ、確かそんな名前だったかな」
 デスクはハエトリグサの右腕で机をクッキーのようにぼりぼりと噛み砕き、小さく咳をして口から黒い液体を吐いた。
「……気分が悪いよ。お腹が空いて仕方ないんだ。食べても食べても満たされない。僕のお腹はどうなっちゃったんだろうね」
「知るかよ」
「ねえアスク、このお兄さんを食べたらちょっとは気分がマシになるかな?」
「アスクって誰――」
 誰だよ、と言い切る前にハエトリグサの右腕から今しがた食べた机の欠片が勢いよく吐き出される。細長く先端が尖ったそれは、木片というより大振りの針と表現した方が近い。木の針はナツギリの心臓に向けて真っ直ぐに飛ぶが、あっさりと叩き落とされる。
「お兄さん、左腕、ちょうだい?」
「誰がやるか」
「いじわる! 僕もアスクも腹ペコなんだからちょっとぐらい良いじゃないか!」
 ハエトリグサの右腕から木片が矢継ぎ早に吐き出される。銃弾の雨と言っても過言ではなく、まともに受ければただでは済まないだろう。銃弾の雨の狙いはナツギリで、そのスピードと距離から避けられない事は明らかだ。その事を知ってか生来の好戦性からか、ナツギリは避ける事もせず両腕で頭部をガードしながらデスクに向けて真っ直ぐに跳躍した。
 被弾面積を最小限に抑え、同時にデスクに体当たりを食らわせる。ナツギリの巨躯から繰り出される体当たりをもろに食らったデスクは窓際まで吹っ飛ばされた。
 ナツギリの腕や体には数多の木片が突き刺さり、血がだらだらと流れ出しているが、致命傷ではない。あの状況でこの選択は最良である事はササメにも分かる。そして、瞬間的に最良の一手を選び出せるナツギリの恐ろしさもまた身に染みる。
「木でトッピングしたところで俺は美味くねえぞ」
「……アスク、この人、活きが良すぎるよ」
 デスクはゆらりと壁から背を離し、口からまた黒い液体を吐く。蛸の様な下半身からも絶えず黒い液体が流れ出しており、デスクの顔色は目に見えて悪い。
「頭がふらふらする。おなかがすいた。黒いのが止まらない。僕はこんなにひどい状態だってのに君は腕一本くれやしない。ああ、いらいらする!」
「ガキの駄々かよ」
 ナツギリは大きく舌打ちをするが、その顔は嬉々としている。一筋縄ではいかない強者であるデスクが自分の命を狙い、殺し合うこの状況が嬉しくてたまらないのは簡単に予想できる。ササメの立場に置き換えてみると、貴重な資料を発見し新たな学説を予感した瞬間に近いのだろうか。
 デスクはじろりとナツギリを睨み、蛸の様な下半身をしているとは思えない俊敏さでナツギリに飛びかかりハエトリグサの右腕を振るう。ナツギリは紙一重でそれを避けて反撃を――しようとしたが、その前に猛禽の左腕がナツギリの頭を捉えて床に叩きつけた。
「大人しくしててよね」
 ハエトリグサの右腕ががぱりと口を開ける。デスクはナツギリの上に馬乗りになり、猛禽の左腕が頭を、腰から生えた人間の腕が両腕を抑えている。ハエトリグサの牙がゆっくりとナツギリの喉元に近づく。
「舐めんな!」
 頭を抑えられながらもナツギリは吼え、両腕の拘束を振りほどいてハエトリグサの右腕を払いのけた――が、その瞬間、がちんと嫌な音がして口は閉じられた。
「……っち……!」
 ナツギリは右腕を力任せに振るいデスクを振り落として立ち上がる。振り落とされたデスクの右腕は何かを咀嚼するようにもぐもぐと動き、そしてナツギリの左肘から先が――無くなっていた。

「ナツギリさん!」
 ササメは反射的に叫んで銃を構えたが、ナツギリはササメの方も見ずに「邪魔すんな!」と吼えた。左肘からぼたぼたと血が流れ出るが、彼の横顔は今まで見た事が無い程に生き生きと輝いていた。
「左腕取られたのは初めてだ」
「……そりゃ、そうだろうね。ごちそうさま」
 ハエトリグサの咀嚼が止まり、口の中にあったものをごくりと飲み込む。
「君もけっこうおいしいね。残りも全部ちょうだい?」
「やれるもんならやってみろ」
 ナツギリは好戦的な笑みを浮かべ、デスクの攻撃を迎え撃つよう体勢を整えた。
「左腕が無くなっちゃって、それでも僕に勝てると思ってるの?」
 そう。明らかにナツギリが不利だ。勝って生き延びたいと思うのなら、ササメの補助は必須だ。いくら化物じみた外見とはいえ、頭を撃ち抜けばデスクも殺せるだろう。
 しかし、「邪魔すんな」と吼えた事や彼の思想からしてそういった補助を嫌うのは明らかだ。ササメはいつでも逃げられるよう出口の近くに陣取りながら、口出しもせず銃も構えずナツギリの思想を見守る事に徹した。
「今まで見た事も無いお宝を目の前にして諦める奴がいるか? 例え死ぬ可能性があっても、俺は諦めねえ。大体諦めたら身体は死ななくてもここが死んじまう」
 ナツギリは残った右腕で胸を軽く叩く。
「俺がここに来ててめえと会った時点で、逃げるって選択肢は無くなった。分の悪い賭けだって分かっててもよ、俺は最後まで『生き』続ける」
「……ふうん? お兄さんは、よく分からない事を言うね」
「分からなくて結構」
 ナツギリは深く息を吸い、そしてデスクとの距離を詰めた。胴を狙った回し蹴りを繰り出すがデスクの腰の両手がそれを受け、猛禽の左腕がナツギリの肉を裂こうと襲い掛かる。
「…………」
 ナツギリもデスクも致命傷を狙った攻撃を異様な密度で放ちあっている。攻撃は受け止め、また逸らされて決定的な一撃には繋がっていないが、一撃一撃が確実に互いの体を傷つけ合っていた。見る見るうちにナツギリの体は傷だらけになり、デスクの体も分かりづらいがぼろぼろになっていく。赤と黒が飛び散る。
 ササメは二人の動きを追うだけで精一杯でそれ以上の事は何もできないが、猛烈な勢いで二人の命が削られている事は肌で感じられた。

 デスクの喉元を狙った拳が、猛禽の左腕により正面から受け止められる。デスクは受け止めた拳を強く振り払い、ナツギリの姿勢がほんの少しだけ崩れる。ナツギリが体勢を戻し攻撃を再開する一秒にも満たない隙に――ハエトリグサの右腕が「大口を開けたまま」ナツギリの喉元をかすめた。
 ナツギリの左腕をやすやすと奪う程の力の強さだ。右腕による噛み千切りは正に一撃必殺と呼ぶにふさわしい。……だが、それは獲物に対して大口を開けて接近し、そして口を閉じると言うプロセスが必要になる。当然ながら、それだけ隙も大きくなる。コンマ数秒の差であるが、こうした近接戦では無視できない差だ。現にナツギリは猛禽の左腕からは小さなダメージを受け続けていたが、ハエトリグサの右腕による噛み千切りは完璧に防いでいた。
 デスクは今、大口を開けたまま右腕を振るった。口を閉じると言うプロセスを省き、口内に生え揃った牙をナイフのような超近接武器として取り扱う――それはつまり、ナツギリが予想し得なかった「隙の短縮」になる。
 瞬間的に思考が回ったササメの目の前で、ナツギリの喉元から噴水のように赤が散る。巨躯がぐらりと傾いで仰向けに倒れる。右腕を動かして立ち上がろうとするが、右手を床に付ける前にずるりと全身から力が抜ける。生き生きとしていた眼が、次第に焦点を結ばなくなっていく。
「……ナツギリ……さん……」
 ササメの蚊の鳴くような声はナツギリの耳には届かない。ナツギリはごぼごぼと三流猟奇小説のように口から血を吐きながら、デスクの方に顔を向けてにやりと笑い――それきり、ナツギリは動かなくなった。

 デスクは暫くの間その場に立ったまま荒れた呼吸を整えていた。その間も彼の体からは絶えず黒い液体が流れ出しており、周囲はナツギリの赤とデスクの黒でまがまがしく彩られていた。
「……っはあ……全く……しぶといん……だから……」
 デスクはふらふらと頼りない足取りで歩き、ナツギリの傍に立つ。デスクも瀕死である事は傍目から見て明らかだ。全身から放たれる腐臭が一層強くなり、肌で感じられる生命力がひどく弱まっている。
「……ねえアスク……ごはん……食べたら元気になれるよね……?」
 ハエトリグサの大口が、ゆっくりと開かれる。デスクは今からナツギリを食べるつもりだ。アキナガやハルミと同じように。
 ナツギリの顔は好戦的な笑みを浮かべたまま固まっていた。最期までナツギリらしいと言えばナツギリらしい。そう、彼は最期まで『生き』続けた。
 このままでは、彼の遺体がデスクによって食い荒らされる。
「…………」
 ササメは浅い呼吸を繰り返し、静かに銃口をデスクに向けた。デスクは体が思うように動かないのか、開いた大口をナメクジよりもゆったりとした動作でナツギリの頭へ持って行こうとしている。こちらの様子には一切気付いていない。
「……ナツギリさん……貴方の意志は……」
 貴方が大切にしていた事は僕には理解できない。それでも、貴方の遺体が化物に食い荒らされるのは、避けなければならないと思う。
 そう、守らなくてはならない。
「……僕は……」
 銃口は震えない。ササメは深く息を吸い、引き金を引いた。

 銃声。

 ササメはゆっくりと銃を降ろし、懐にしまう。デスクの体がどさりとその場に倒れ、額から黒い液体がどくどくと流れ出す。生命が流れ出て消えていく。
 赤と黒が入り混じり、腐臭に満ちた部屋の中で、ササメは静かに目を閉じて、ここにあった二つの生命に対して頭を下げた。

←Back Next→