空の旅人 第一話「取り引き」

 扉の向こうに広がっていたのは船長室と思しき部屋だった。どっしりとした造りの机の上には日誌や帳簿が乗せられ、本棚には航空やサーカスについての本が整然と並べられている。その本棚の隣に黒塗りの小さな金庫が置かれており、ずしりとした存在感を放っている。試しに金庫の扉に手をかけてみるが、やはり鍵はかけられていてびくともしない。
 それ以外にめぼしいものはないが、この部屋に入った瞬間からラウルは違和感を感じていた。

――部屋が狭すぎる。

 仮に動力部がこの階層に収められているにしても、明らかに狭すぎる。単純に考えれば倍以上の広さがあってもおかしくない。さらに言えば、この部屋は通常ならもっと奥行きがあるはずだ。
 奥の壁を軽く叩いてみると、軽い音がした。注意深く壁を調べてみると、木目に紛れて深い溝があり、試しに押してみると重々しい音を立てながら壁が動いた。どうやら回転扉になっているらしく、その奥にはまた違う部屋が広がっていた。

 家具が何一つない部屋だった。窓も無く明かりも乏しく薄暗い。嗅いだ事のある嫌な臭いも少しだが、した。お世辞にも居心地がいいとは言えない部屋に、彼女はいた。正確には、彼女と一匹。
 部屋の隅で彼女はじっとうずくまっていた。ステージ上で見た自身に満ち溢れた笑顔や豪勢な衣装は見る影も無く、濁った瞳でぼろきれのような薄い服を身に纏っていた。手足には枷がはめられ、足枷にはご丁寧にも鉄丸までつけられていた。手を伸ばせば触れられそうな位置にまでラウルが近付くと、彼女は濁った瞳でラウルを見上げた。
「……あれ、今日の旅人さん、ですよね?」
 彼女の目は驚きで若干見開かれたが、それでも目に生気はない。ラウルが頷くと、彼女は少し慌てた様子で首を左右に振った。
「こんな所にいたら、見つかっちゃいますよ。格納庫なら船長室を出て――」
「その心配はない。奴らは全員、大人しくさせた」
「大人……しく……?」
 彼女はそこで初めてラウルの服に飛び散る返り血に気付き、「まさか」と息を呑んだ。ラウルはそれ以上詳しい説明はすることなく、彼女の手足にはめられた枷に目を落した。
「枷の鍵はどこにある?」
「確か……船長室の机の、上から二番目の引き出し……だったと思います……」
「あの竜の鍵もそこか?」
 ラウルは彼女から目を離し、少し離れた位置にいる桜色の竜を見た。手足に枷こそついていないものの、大きな鉄丸がぶら下げられた首輪と、数ミリでも口を開ける事を許さない口輪がはめられていた。ラウルが部屋に入ってきた瞬間から「ぶうう」と緊張感に欠ける声で威嚇していたが、ラウルに怯えているのは明らかだった。
「多分、鍵は一緒に入っていると思います」
 ラウルはそれだけ聞くと、踵を返して船長室に戻った。

 言われた場所の引き出しを開くと、いくつもの鍵束が整然と並んでいた。殆ど見分けがつかない程に似通った鍵束ばかりだったが、一つだけ明らかに本数が少ない鍵束があった。ラウルはその鍵束を掴み、再び彼女の元に戻った。
「手を出せ」
 鍵束を片手にそれだけ言うと、彼女は大人しく手を差し出した。ラウルは手枷の鍵穴に鍵を差し込み、回した。見た目の重々しさからは想像できない軽い音がして手枷は呆気なく外れた。手枷が外れて自由になった両手を信じられないものを見るような目で見つめている彼女を横目に、ラウルは彼女の足枷にも鍵を差し込んで回した。やはり軽い音がして呆気なく外れ、両足も自由になった。
「…………」
 彼女は呆然とした表情で自由になった両手足を眺め、震える足で立ち上がり、泣きだしそうな顔でラウルを見た。ラウルは彼女に鍵束を渡し、桜色の竜に目をやった。
「あの竜の枷を外してやれ」
「……はい」
 彼女は慣れない足取りで桜色の竜の元まで歩き、慣れない手つきで鍵を差して首輪と口輪を外した。自由になった桜色の竜は大きく口を開けて「ぷええ」と気の抜けるような鳴き声をあげた。ラウルが彼女と竜に歩み寄ると、彼女はぺこりと深く頭を下げた。
「助けて下さって、ありがとうございます」
 そう言って彼女はにこりと微笑んだが、ラウルは首を横に振った。
「礼を言われる筋合いはない。船員を殺したのは自己防衛で、お前を助けたのも目的がある」
「目的……?」
 訝しげな顔をする彼女を、ラウルはまっすぐに見つめた。
「お前は、どういう経緯でここにいる?」
「……それ、は……」
 彼女は言いづらそうにしながらも、ぽつりぽつりと話し始めた。

 随分と話しづらそうにしていたが、要約するとどこにでもある話だった。彼女は「色々な所に行って色々な物を食べたい」という平凡な理由で旅に出て、そしてこのサーカス団と出会って様々な話を聞いている隙を突かれて捕えられ、奴隷として働かされる事になった。
 唯一特殊な点を挙げるとすれば、彼女が竜と意思疎通が出来るという所だった。彼女の生まれ故郷が竜と共に生きる国で、竜との意思疎通はその国の国民なら誰でもできる事らしい。しかしその能力は「外」の世界では非常に珍しい。だから彼女はサーカス団の大トリとして働く事になり、売られることも無く労働も免除されるという待遇を受けていた。そんな生活を二年間、今こうして自由になるまで続けてきたらしい。
 その話が本当なら奴隷とは言い難い生活だったので「今までここで過ごしてきた中で、何か罰を受けた事はないのか?」と聞いてみると、彼女の顔はさっと曇り、何も言わなくなったのでそれ以上は問い詰めないようにした。
「……それで、だ。こうして自由になった今、お前はどうするつもりだ」
「どうする、って……」
 彼女はちらりと桜色の竜と目を合わせてから、頷いた。
「一度、家に帰ります」
「……どうやって帰るつもりだ? 二年間もこの船で放浪しているなら、故郷の場所を探す事も一苦労だろう」
「うっ」
「万が一故郷の場所が見つかったとしても、トラブルに巻き込まれず無事辿り着けるのか」
「ううっ」
 彼女が泣きそうな顔で俯いたので、ラウルは「そこで、だ」と人差し指を立てた。

「一つ、俺と取引をしないか?」

「取引?」
 きょとんとした顔の彼女の目を見ながら、ラウルはゆっくりと言葉を続けた。
「お前はその竜に乗って旅をする事ができるが、旅を続けるための知識はない。それで間違いないな?」
「うっ……はい」
「俺には三年間一人旅を続けられた知識があるが、ここの連中に船を壊された」
 だから、とラウルは一旦言葉を切り、彼女がラウルの言わんとしている事を理解している事を確認して言葉を続けた。
「お前は俺の旅の足になる、その代わりに俺はお前に旅の知識を教える」
「……それが、取引ですか?」
 互いに足りない所を補える取引ではあるが、彼女は明らかに取引の内容に恐れを抱いていた。
「何か不安な点があれば言え。不安を抱えたまま決断を下すのは、俺にとってもお前にとっても良くはない」
「…………」
 何か言いたそうに口をもごもごと動かしているが言葉にする気配はないので、彼女の現在の立場から予想できる不安な点を一つ潰す事にした。
「言っておくが、嫌なら断ってもいい」
「え」
 彼女は意外そうに目をぱちくりとさせた。
「お前がこの取引を断ったとしても、俺は他の手段で旅を続けるだけだ。強制はしない」
「そう、ですか……」
 彼女は心なしかほっとした表情を見せたが、それでもやはり不安そうにラウルの顔をちらちらと見ていた。
「……あの」
 か細い声で彼女が呟いたのでラウルが目を見ると、彼女は少し気まずそうに目を逸らした。
「一緒に、旅を、する、だけ……ですよね?」
 その言葉で彼女が何を恐れているのかを悟り、ラウルは「ああ」と答えた。
「お前はただの取引相手だ。無駄な干渉はしない」
「…………」
 彼女の顔にはまだ不安の色が残っていたが、その奥底には何かしらの決意がちらりと見えた。
「その言葉、信じてもいい……ですよね」
 ラウルが無言で頷くと、彼女も無言で頷いた。
「……分かりました。その取引、受けます」

 * * *

 彼女の話を聞くと、普段芸をする時に使っている出口がこの部屋にあるらしい。軽く見渡した限りでは分からなかったが、よく調べてみると確かに竜も簡単に飛び立てる程の大きなスライド式の扉があった。
「ここから飛んでいってそのまま逃げだそうとは思わなかったのか?」
 格納庫から旅荷を運ぶ作業をしながらラウルが問うと、彼女は「何度も思いました」と返した。ラウルの勧めで彼女の服は船長室から適当に拝借したものに着替えられていた。
「でも、もし逃げ出したらすぐに私の故郷に行って全員奴隷にする、って脅されてて……」
「……有り得る話だな」
 普通の奴隷なら、一人逃げ出した所でそいつを追いかけたり生まれ故郷に向かうような事は、コストの面を考えると有り得ないだろう。だが、竜と意思疎通ができる特殊能力があるならば変わってくる。高いコストをかけて「仕入れ」てもそれを十分に補える程の価値はあるだろう。
「あの」
 旅荷を竜の背に乗せる作業をしながら彼女が少し気まずそうに口を開いた。
「何だ」
「お名前は何て言うんですか?」
 そう言えば彼女の前ではまだ名乗っていなかったし、彼女の名前も知らなかった。
「ラウル」
「へえ、ラウルさん、ですか。これからよろしくお願いします」
「お前の名前は何だ」
「フォルテ、です。この子はガルバート。ガルちゃんって呼んであげて下さい」
 そう言いながら彼女、フォルテは桜色の竜ガルバートの顎を撫でた。ガルバートは気持ちよさそうに「ぷうう」と鳴いた。

 旅荷を積み終わり、フォルテが合図をするとガルバートが鼻先で器用に扉を開けた。強風が流れ込み、清々しい青空が姿を現した。
「最初はどこに向かうんですか?」
「……そうだな」
 ラウルはここから三日ほどかかる場所にある小さな村の名前を挙げた。当初はこの船が向かっている大国に行く予定だったが、この状況で大国に行くとここの元奴隷達と鉢合わせると面倒な事になりかねない。幸いにも少し遠い村に着くまでの食糧は十分あるので、下手なリスクは背負わずに村に向かう方が無難だった。
「分かりました! それじゃあガルちゃんの背中に乗って下さい」
 フォルテはひらりとガルバートの背に乗り、ラウルも続いてガルバートの背に乗った。
「ちょっと揺れますけど、我慢して下さいね」
 フォルテが手綱を軽く引くと、ガルバートは「ぷええ」と気の抜ける鳴き声を上げて青空の中へ飛び出した。

 * * *

 ちょっとどころではない揺れと共にガルバートは空を飛び続けた。思っていたよりも持久力は高く、夜になるまで休むことなく飛び続ける事が出来ていた。適当な広さの無人島に着陸して明かりを灯して野営の準備を始める傍らで、ガルバートは少し離れた所で大人しく草を食んでいた。フォルテの話によるとガルバートは雑食で、草でも肉でも何でも食べるらしい。ただ、雑食が過ぎて変なものを食べて調子を悪くする事も多いのだとフォルテは苦笑した。
「妙な所で私に似ちゃったんですよ」
 と呟きながらラウルが差し出した保存食を口にした。決して美味しいとは言えないそれをフォルテはゆっくりと時間をかけて食べた。
「保存食も、久しぶりに食べると懐かしいですね」
 感慨深く呟くフォルテを全く気にかけることなく、ラウルは旅荷物の中から黒塗りの小さな金庫を取り出した。振ってみるとがたごとと何かの塊があるような音がする。重さから考えて、良い風に考えれば札束が、悪い風に考えれば契約書やリストのような紙屑が入っているのだろう。金庫をじっと見つめるラウルにフォルテが気付き、首を傾げた。
「……あれ? その金庫って……」
「船長室にあったものだ。あの部屋を探しても金庫の鍵が見当たらなかったから金庫ごと持ってきた」
 あの部屋にないならば恐らくは黒髪の女性が肌身離さず所持しており、彼女の死体を探れば鍵は見つかるだろう。しかしそんな事をするよりも、金庫ごと持ち出して鍵屋で合鍵を作って貰った方が遥かに良い。
「この金庫に金が入ってたら、その金でお前の旅荷を買うか」
「えっ、いいんですか?」
 フォルテはどこか申し訳なさそうな表情をしていたが、ラウルは頷いた。
「必要最低限の旅荷くらいは買ってやる。後はお前が自分で稼いで買え」
 フォルテが少し不安げな表情をしたので「稼ぎ方は教えてやる」と付け加えると「はい!」と元気よく返事をした。

 質素な夕食を終え、ラウルはテントを張って寝袋を旅荷から取り出した。普段ならテントの中で寝袋にくるまって夜を過ごすが、フォルテがいる以上次の村に着くまではそうもいかない。
「テントで寝るか、寝袋で寝るかどうする?」
 そうフォルテに問うと、フォルテは少し考えてから「寝袋で」と答えた。ラウルが寝袋を投げ渡すと大人しくそれを受け取り、うとうとと船を漕いでいるガルバートの傍に駆け寄っていった。
「明日は日が昇る頃には出発するぞ」
「分かりました」
 寝袋にもぞもぞと入り込みながらもフォルテは返事をし、ラウルは布団代わりに冬用の外套を旅荷から引っ張り出しながらその返事を聞いた。
「じゃあ、おやすみなさい」
 フォルテがそう呟いてガルバートの体にもたれかけて目を閉じたのを確認して、ラウルは明かりを消した。
 夜の闇が、静かに二人の旅人を包んだ。

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