空の旅人 第一話「取り引き」

 青い空が、どこまでも広がっていた。雲一つない晴天で、降り注ぐ日光はほどよく温かい。青空の中にはちらほらと島が浮かんでおり、島の上に生えた木々や草原が風に吹かれて揺れていた。そんな青空と島しかない風景の中を、一隻の船がのんびりとしたスピードで飛んでいた。
 何百人と言う人数も収容出来そうなほどの大きな船だった。船体は赤や黄色で彩られており、これ以上ない程目立っていた。甲板は非常に広く、隅の方に小さな船室だけが甲板上に設置され、残りの船室は全て船体に押し込められている。その結果膨れ上がった船体は、カラフルな彩りも相まって滑稽な雰囲気を醸し出している。
 そのなんとも滑稽な船の甲板に、数人の男女がいた。

 * * *

 甲板の船首に近い場所に折りたたみ式のテーブルが置かれ、その上には出来立ての料理が並んでいた。テーブルを挟んで向かい合うように座っていたのは、二十代後半の黒髪の女性と十代後半の茶髪の青年だった。黒髪の女性はにっこりと友好的な微笑を浮かべているが、茶髪の青年は無表情に目の前に出された料理を眺めていた。
「ラウルさん、冷めないうちに召し上がってくださいね」
 黒髪の女性はそう言いながら自分の分の料理を頬張るが、ラウルと呼ばれた茶髪の青年は首を横に振った。
「このような場では、人から食べ物を頂かない事にしているので遠慮します」
 そう言いながらラウルは自分の鞄から保存食を取り出し、不味そうにそれを頬張った。
「このような場、とは?」
「一言でいえば国外です。法の制限がないので、何が起きるか分かりませんし。例えば、食事に睡眠薬を混ぜて眠らせて、その間に荷物を奪って張本人を殺す、なんて事が起こっても不思議ではないんですよ」
 さらに言ってしまえば、乗ってきた船を勝手に格納庫にしまわれて退路を断たれたこの状況下では普段よりも警戒を強める必要があった。しかしこの場でそれを言うと状況が悪くなるのは目に見えていたので、それ以上は何も言わなかった。
「そうですか……信用していただけなかったのは残念ですが、会ったばかりですし仕方ありませんね」
 黒髪の女性はにこりと微笑み、「ところで」と話題を切り替えた。
「私達はサーカス団を結成しています。ラウルさんは、サーカスというものをご存知ですか?」
「はい」
 実際に見た事はないが、本でサーカスに関する知識は得ていた。
「ここで出会ったのも何かのご縁、私達のサーカスをご覧になりませんか?」
「サーカスを、ですか……」
 ラウルが訝しげに目を細めると、黒髪の女性は「もちろんお代は頂きません」と付け足した。
「ただ、その分普段の公演よりも見劣りするものになりますが……いかがでしょう」
 ラウルは少し思案した後、頷いた。

 それからの黒髪の女性の行動は早かった。操舵室から部下の男達を呼びだし、てきぱきと指示を与えた。あっという間に甲板の上に簡単なステージが組まれ、華やかな音楽が流れ始めた。船室の扉からきらきら光る衣装を身にまとった者が次々と現れ、それぞれがラウルに軽く一礼をしてから飛び跳ねるように踊り始めた。
 踊り、地上曲芸、道化芸、動物曲芸など、様々な曲芸がラウルの目の前で繰り広げられた。どの曲芸も完成度が高く、かなりの回数練習を重ねたのだろうと察する事が出来た。
 一通りの曲芸が終わると彼らは踊りながらステージから退場し、ステージ上には誰もいなくなった。これで終わりかと黒髪の女性の方に目を遣ると、その瞬間ラウルの上を黒い影がよぎった。空を見上げて黒い影の正体を目で追うと、そこには桜色の鱗の竜が空を飛んでいた。竜はくるりと身を翻し、再び船の頭上を飛んだ。今度は船と接触するぎりぎりの所まで高度を下げており、竜が船を通り過ぎる瞬間、誰かが竜の背から飛び降りてステージの上に着地した。
 今までの演者よりも遥かに豪勢で高そうな衣装を身にまとった桃色の髪の少女だった。少女はラウルの目を見てにっこりと笑い、ぺこりと頭を下げた。
「…………」
 ラウルは睨みつけるように少女の笑顔を観察し、少女は再び高度を下げて近づいてきた竜の腕に軽やかにつかまり、慣れた足取りで腕を登って竜の背に乗った。そして少女は手綱を握り、竜は「ぷええ」と気の抜けるような鳴き声をあげて空に高く舞い上がった。
 少女の手綱さばきに従って竜は空を飛びまわり、少女はその動きに合わせて竜の背で軽やかに踊り飛び跳ねた。時に竜の背から落ちる事もあったが、それも計算の上のことなのだろう、すぐに竜は落ちる少女の下に飛んで受け止めた。
 その後も少女と竜は息の合った芸を繰り広げ、それは今までの他の芸者が色あせて見える程に洗練された見事な芸だった。最後に竜が翼を大きくはばたかせて気の抜けるよう鳴き声をあげ、少女は竜から飛び降りてステージの中央に着地した。少女は乱れた髪を少し整え、ラウルに向かってにこりと笑いかけて頭を下げた。そしてくるりと踵を返して船室に戻って行ったが、船室に入る瞬間に少女の瞳から光が消えたのをラウルは見逃さなかった。

「楽しんでいただけましたか?」
 部下の男達がステージを片付ける傍らで、黒髪の女性はラウルに問いかけた。
「そうですね」
 と曖昧な返事を返しながらラウルはそれとなく周囲を観察した。部下の男達の人数、位置、会話の様子から見える上下関係、等々の様々な要素を把握し、そこから導き出される選択肢を取捨選択していった。
「さて……サーカスを見て頂いた所で、一つラウルさんにご提案したい事があります」
「提案?」
 ラウルが訝しげに黒髪の女性を睨むが、黒髪の女性は睨みを意にも介さずににこりと微笑んだ。
「実はこのサーカス団、ある問題を抱えておりまして」
 すっかり冷めた料理を部下の男に下げさせ、黒髪の女性は懐から紙の束を取り出して机の上に置いた。紙の束にはびっしりと人名が書かれていた。
「団員が増えすぎてしまって、とても全員を養える程の余裕が無くなってしまったんです」
「……で?」
 何を提案されるか感じ取ったラウルは険しい顔をしたが、黒髪の女性はそれに押されることもなくラウルの目をじっと見た。
「このリスト内の団員を、一人でもいいので買っていただけませんか?」
 リストには団員の名前の他、年齢や性別、特技などが一人ずつ書かれていたが、ラウルはそれに目を通すことなく首を横に振った。
「結構です」
「お一人だと旅も大変でしょう? お値段が心配でしたら、お安くしますよ」
 黒髪の女性が提示した金額は人一人の値段として考えると破格の安さだったが、それでもラウルは首を横に振った。
「それは要するに、奴隷を買えという事でしょう? そんなものは、いりません」
 強い口調で言って席を立つと、今までステージの解体作業をしていた男達が一斉に作業を止め、ラウルを取り囲んだ。
「……本当に、いりませんか?」
 黒髪の女性が席を立ってラウルの目の前に移動してにこりと微笑んだ。その微笑みには先程まであった温かみが消えていたが、ラウルはそれに動じることなく再び首を振った。
「……そうですか……残念、ですね」
 黒髪の女性は顔を俯け、ぱちんと指を鳴らした。それに反応してか男達がラウルとの距離を詰めようとしたが、指が鳴らされた瞬間にラウルは黒髪の女性の首を掴み、携行していた剣を抜いた。突然の事にひるんだ男達に対し、ラウルは剣を黒髪の女性の胸部に押し当てて短く言った。
「近付くとこいつは殺す」
 その言葉が本気である事を悟った黒髪の女性は男達に離れるよう指示し、ラウルは警戒しながら黒髪の女性を引き連れて船室の扉まで移動した。
「俺の船はどこにある?」
 黒髪の女性にだけ聞こえるように囁くと、黒髪の女性は「一番下の格納庫」と短く答えたが、その顔には不敵な微笑が生まれていた。
「船を取り返して甲板まで運んで、この船から逃げられると思ってるの? 諦めなさい」
「悪いが、逃げ出すつもりはない」
 ラウルは黒髪の女性の喉を掴む手を離し、その首筋に剣を当てた。黒髪の女性が「何を」と言葉を発するが、その続きを言う前にラウルは剣を横に引いた。
「まずはお前ら全員、大人しくさせる」
 黒髪の女性の首から真っ赤な血飛沫が飛び、黒髪の女性がその場に崩れ落ちるのを確認する前にラウルは扉を開けて船の中へ入って行った。

 * * *

 扉を閉めて甲板の様子に耳を澄ましてみると、突然の事に動揺している空気ではあるが、ラウルを追おうとする動きはなかった。黒髪の女性と男達とのやり取りから予想していた通り、黒髪の女性がこの集団のトップであり、全てが黒髪の女性の意のままに動いていた。こんな集団は頭を潰してしまえば、残るのはまともな指揮系統を持っていない烏合の衆だ。
 船室は細長い通路が少しだけ続いており、通路の左側に扉が一つある以外は突き当たりに階段が下に伸びているだけだった。格納庫へ進むには階段を降りればいいのだろうが、ラウルはそうせず左側の扉――操舵室の扉を開けた。

 操舵室の中には三人の男がいた。二人はステージの解体をしていた男達と似たような風体をしており、残る一人はみすぼらしい服を着た痩せた男で、操縦桿を力なく握りしめていた。
「誰だてめえ? 新入りか?」
 二人の男が訝しげな表情を浮かべてラウルに近づいてくるが、ラウルは何も言わずに手近な位置にいた男の胸を逆袈裟に切り上げた。その男が切られた事を認識する前にラウルはもう一人の男と距離を詰め、切り上げた剣を素早く持ち直してもう一人の男の胸を袈裟に切り下ろした。
「……あ?」
 二人の男はそれぞれ自分の胸に手を当て、そこから溢れ出す血を不思議そうに眺めていた。放っておいてもすぐに死んでしまうが、ラウルは二人の男の胸を強く蹴り飛ばした。二人の男は操舵室の壁に叩きつけられ、何か言いたげにしていたがすぐに気を失った。
「ひっ……」
 突然の事態に痩せた男はがたがたと体を震わせたが、ラウルは痩せた男には剣を向けず操縦桿の横に置かれた地図に目を通した。
「この船は今どこに向かっている?」
「え……あ……」
 痩せた男は歯をかたかたと震わせており、その眼は返り血を浴びたラウルのシャツや新鮮な血が付いた剣を見ていた。震えるだけで喋る気配のない痩せた男にラウルはため息をついた。
「安心しろ、奴隷を殺すつもりはない」
「……ほ、本当か?」
 痩せた男はほっとした表情を浮かべ、この船の目的地をラウルに告げた。目的地はここから最も近い大きな国で、この船の速度から考えると後半日ほどで到着しそうだった。
「分かった。そのまま運転しておけ」
 半日もあれば十分だ。ラウルは剣を抜いたまま操舵室を後にした。

 この船がサーカス団を装った奴隷商船だという事は、この船がサーカス団であると黒髪の女性から聞いた瞬間から予想できていた。サーカスのような娯楽に金を出す国や町が多いとは決して言えないこの世の中で、これほどの規模のサーカス団を経営するのは不可能だ。サーカス団員を奴隷として売る奴隷商船、と考える方がよっぽど現実的だ。
 予想が確信に変わったのは、竜に乗った少女だった。ステージに居る間は不自然なまでに完璧な笑顔を見せ、船室に入る瞬間その瞳からは光が消えていた。その様子だけで、少女が厳しくしつけられた奴隷である事は分かった。そして、ラウルをこの船に誘い込んだ黒髪の女性の思惑も理解できた。
 ラウルを奴隷にする。それが黒髪の女性の目的だったのだろう。一人旅の青年なら奴隷売買等の適当な話題で気を引いて、その隙に部下の屈強な男達を使ってたたみかければ簡単だ。次の国に着くまでの間のちょっとした時間つぶし、ちょっとした臨時収入にはなるだろう。
 だが、あまりにも対応がお粗末すぎた。これほど隙だらけの奴隷商人に捕まる気は毛頭ない。黒髪の女性とその部下は全員大人しくさせ、ついでに金品を巻き上げてからこの船を後にしよう、とラウルは決めていた。

 * * *

 操舵室を後にしたラウルは突き当たりの階段を下りた。階段を下りた先も似たような構造になっており、細長い通路といくつかの扉、そして今ラウルが降りてきた階段のすぐ隣に更に下に降りる階段が続いていた。黒髪の女性の言葉を信じるならば、格納庫に向かうには更に下に降りる必要があった。ラウルは注意を払いながら更に階段を下りた。
 階段を下りた先は最下層のようで、近くにそれ以上の階段は見当たらなかった。やはり細長い通路が続いているが、扉は通路の右側に一つ、突き当たりに一つあるだけだった。通路の右側の扉にはこれといった特徴はないが、突き当たりの扉には「格納庫」と彫られたプレートがはめ込まれていた。注意深くその扉の向こうの気配を探るが、僅かに物音がするだけでそれほど人数はいないように感じられた。
「…………」
 ラウルは剣を構えながら静かに格納庫の扉を開けた。

 格納庫には男が一人いるだけだった。男はラウルから背を向けて立っており、まだこちらには気付いていないようだった。男の目の前にはラウルが乗っていた船があり、その手にはハンマーが握られていた。ラウルはゆっくりと足音を立てずに男に近寄り、間合いに入った所で床を蹴って一気に距離を詰め、男の首筋に背後から剣を当てた。
「動くな」
「なっ……」
 男は振り向こうとしたが、ラウルが首筋に当てる剣に力を込めると大人しくなった。男の目の前にあるラウルの船は原形を保ってはいたが、エンジン部分だけは取り出され、叩き潰されて醜く歪んでいた。これではもう動かない事は明らかだったが、ラウルは焦ることなく男の態度に注意を戻した。
「……奴隷ではない船員は、船長を含めて全部で何人だ?」
 男はかすかに震えながらも「な……七人……」と答えた。図体の割に気が弱いらしく、ハンマーもとっくに手放して首筋には冷や汗が流れていた。その状態で嘘をつける程の度量も無さそうなので、とりあえずはその言葉を信じることにした。既に船長を含めて三人大人しくさせ、四人目はこうして捕えた。残りの三人は甲板で作業をしていた三人だろう。思ったよりも人数が少なく、大人しくさせる作業は簡単に終わりそうだった。
「な、なあ、何でもするから殺さないでくれ」
「……船員の数に間違いはないな?」
 より強く剣を喉に押し付けて聞くと、男は小刻みに何度も頷いた。
「だから、見逃してくれよ、もうこんなことしねえからさ」
「……お前は、馬鹿か」
 ラウルはそれ以上男の言葉を聞かずに押し付けた剣を横に引いた。呆然とした男の喉から血飛沫が飛び、ラウルの船に赤く斑な模様をつけた。
「この状況で情けをかけるような奴が、一人旅出来るとでも思っていたのか?」
 男は剣を片手に踵を返したラウルをうつろな瞳で見ていたが、やがて男は何も言うことなく「大人しく」なった。

 ラウルは格納庫の扉の前で立ち止まり、耳をそばだてて通路の先に人の気配があるかどうか探った。すると丁度階段から数人の男が駆け降りてくる音がした。男達は大声で暴言を吐き、粗雑な命令を下しながら格納庫へと近づいてきた。彼ら扉を開けた時に死角になる位置にラウルが立つと同時に、格納庫の扉が勢い良く開かれた。
「おらぁ! 逃げ場はねえんだからさっさと出てこいや!」
 三人分の耳障りな大声が格納庫に響く。ラウルは音も立てずにコートの内側に隠していたナイフを取り出した。隠している事を忘れてしまいそうなくらい薄くて軽い、強度に不安のあるナイフだが、投擲武器としてはそこそこ使いやすいものだった。先頭に立つ男の首筋に素早く狙いを定めてナイフを投げると、ナイフはまっすぐな軌跡を描いて男の首に突き刺さった。何が起こったか分からないままナイフが刺さった男は倒れ、すぐ後ろに続いていた若い男が慌てて倒れた男に駆け寄る。
「待て、迂闊に近づくな!」
 最後尾の枯れた声の男が若い男に向かって叫ぶが、気付くのが遅かった。枯れた声の男が叫んだ時にはラウルはすでに若い男との距離を詰めており、反撃の隙を与えることなく剣を脳天に叩き込んだ。
「くっ……」
 枯れた声の男はあっという間に仲間が二人葬られた事に舌打ちしつつも銃を構えた。前を歩く二人からは少し距離を開けて歩いていたおかげでラウルとの間にも距離があり、銃を撃ち込む余裕は十分にあった。最後の最後で油断したな――と枯れた声の男は勝利を確信して引き金を引いた。しかしその瞬間、ラウルは今しがた脳天を割った若い男の死体を枯れた声の男に向かって突き飛ばした。勝利を確信して撃たれた銃弾は若い男の死体に命中し、枯れた声の男が舌打ちして再び引き金を引く前に、ラウルの剣がその胸を貫いた。

 * * *

 枯れた声の男が死んだのを確認して、ラウルは剣に付着した血を拭って鞘に収めた。これで船員は全員大人しくなった。それでも念の為に常に剣に手を添えながらラウルは格納庫に戻り、自前の船の前に立った。船体に損傷はないが、取り出されたエンジン部分は完膚なきまでに壊されていた。恐らく船体はこの後分解して木材として売り、古い機構のエンジンはただの屑鉄として処分するつもりだったのだろう。船の横に積まれたラウルの旅荷物も、次に到着する国で売り払う予定だったのだろう。金を得る、というよりもラウルの退路を断つ、というのが目的だったのだろう。
 ラウルは使い物にならなくなった船を暫く眺めてから、格納庫を後にした。通路を歩いて最下層にあるもう一つの部屋の前に立ち、扉をじっと眺めた。かすかに人の気配はするが、船員のような荒々しく殺気だったものではない。ラウルはそれでも警戒しつつ、扉を静かに開けた。

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