空の旅人 第二話「偽り」
私の一日は香を焚く事から始まる。
甘ったるく眠気を誘う香りは早朝に似つかわしくないが、部屋を香で満たしておく事はこの仕事において雰囲気作りという点で重要である為、仕方なく焚いている。当初は絶えず眠気と闘っていたものだが、今となっては全く気にならない。慣れとは恐ろしいものだ。
香炉を所定の位置に置き、仕事道具や装飾品の類に変わりはないか丁寧に調べる。視界など無いに等しい暗闇の中では非常に骨の折れる作業だが、これも慣れてしまえば苦痛ではない。とはいえやはり時間のかかる作業であり、確認が終わる頃には朝日の温もりが窓から伝わってきていた。
「おはようございます」
こんこんとドアが叩かれる。向こう側から聞こえる声は隣に住む老婆のものだ。老人特有の弱弱しさがない声を聞いていると、この女性は本当に老婆なのだろうかと疑問に思うが、間近で相対すると彼女は確かに老婆だった。
「どうぞ」
私がドアに向かって声をかけると、失礼しますと呟いて老婆が部屋に入ってくる。そのゆったりとした丁寧な所作から、この部屋の一切に触れて動かしてはならないという思いが感じられる。老婆が私の世話をするようになって数年が経つが、その丁寧さは一つも損なわれていない。果たして彼女は本当に老人で、日々老いていっているのか疑問に思ってしまう。
「昨日は胡桃がたくさん取れましたから、胡桃パンを焼きましたよ。それと」
「チーズ」
老婆の言葉を先回りしていうと、老婆は「お分かりになりました?」と笑う。
「私がここに来てから、あなたは毎日チーズを出すじゃないか」
「だってチーズはうちの名産品ですもの。それに毎日綺麗に食べてくださるから、お嫌いではないのでしょう?」
「まあ」
確かに美味い。
「ならば良いではないですか。美味しいものを毎日食べる。長生きにはそれが一番ですよ」
「ものすごい説得力だ」
老婆が手渡してくれた胡桃パンを一口かじる。焼き立て特有のふんわりとした触感と胡桃の程よい硬さが心地良い。
「それと運動も大事ですよ。あなた、今日も一日ここに閉じこもっているつもりでしょう」
「それが仕事だから」
老婆の咎めるような口調にわざとらしく肩をすくめる。
「仕事と命、どっちが大事なのかしら」
「その二択を迫られるほど老いたつもりはない」
「まあ、嫌味ったらしい」
そう言いながらも老婆は私の分まで紅茶を淹れる。私のような若造の嫌味など慣れっこなのだろう。
ここ数年の生活において、私は二種の人間としか関わっていない。一種はこの老婆で、もう一種は仕事相手の人々。この二種の人間と言葉を交わすのは、決まってこの甘ったるい香りに包まれた部屋だ。
老婆と、人々と、甘い香の部屋。私の世界はこの三つで成り立っている。小さな世界だと、私も思う。
* * *
「旅人?」
ある日の昼食中、老婆が唐突に発した単語に私は顔を上げた。
「そう。昨日からここに来てるのよ」
「それはまた珍しい」
ここに旅人が来るなんて数年ぶりだ。大した資源も技術もない「退屈」をそのまま具現化したような国に訪れる物好きは少ない。近くに大国でもあれば交通の要所として栄えることも出来るのだろうが、生憎この近辺には驚くほど何もない。
「で、その旅人さんがあなたに会いたいそうですよ」
「会いたいなら会いに来たらいいじゃないか」
見知らぬ輩の訪問を断るほど狭量ではない。私だけでなく、この国に住む人々は大抵がそうだ。旅人を煙たがるどころか歓迎して宿や食事を無償で提供する。人の流れが少ない田舎の国は閉鎖的になる事が多いのだが、この国は数少ない開放的な田舎の国だ。
「ええ、ええ。ですから、昼食後にここを訪れるそうですよ」
「昼食後か」
つまり間もなくやって来る。
「一人で?」
旅人の多くは一人で動いている。二人から五人程度のグループで行動する者もいるが、多くは事故や賊の襲撃、あるいは仲間割れで結局は一人になる。複数人で行動しているのは、それを当たり前とする遊空民族か、旅人狩りを生業とする空賊くらいのものだ。
「随分とお若いお二人ですよ。あなたよりも少し年下じゃないかしら」
「へえ」
暇を持て余した世間知らずの若者が旅の魅力に取り憑かれたのだろうか。だとしたら国外という無法地帯では真っ先に淘汰される存在だが、この国に来たと言う事はそれなりに腕が立つのか、あるいは運が良かったのか。
「しかも、男の子と女の子」
「へえ」
恋人同士で夢を見て外の世界へ飛び出したパターンか。随分と気楽なものだ、と言葉を交わしたことすらない二人に対して皮肉を飛ばす。
昼食を終えて一息ついている間に老婆は後片付けを済ませ、来客用の菓子を置いてそそくさと部屋を後にした。その手際の良さは、私の持つ老人像とやはりかけ離れていた。
閉め切った部屋でも、外界の変化はどこからともなく忍び寄る。太陽が高く昇るこの時間帯は、部屋も程よく暖められて非常に心地良い。香の効果も相まって抗い難いほどの眠気が襲ってくる。客が来ない日は遠慮なく仮眠に勤しむものだが、旅人が来る今日この日は眠るわけにはいかないだろう。
眠気と格闘してしばらく経ち、ふいに扉が叩かれた。その力強い音は明らかに老婆が発する音ではなく、私は椅子に座り直して「どうぞ」と入室を促した。
扉を開けて部屋に入ってきたのは、二人の人間だった。かすかに警戒心を滲ませた気配は明らかに国の住人ではない。間違いなく、老婆が言っていた二人の旅人だろう。
「初めまして。私の名前はネム。この国で占い師をしている」
二人が向かいの椅子に座ったことを確認し、先に自らの名を名乗る。
「君達は、男性の方がラウルさん、女性の方がフォルテさんだね」
女性が「どうして知っているんですか」と驚きの声を出す。一方の男性は「住民の誰かから聞いたのか」と呟く。
「そう思うのも自由だし、思わないのも自由だ」
私は意味深な笑みを浮かべ、静かに腕を組む。「で、私に何か用事が?」
「占いを」「ただの雑談を」
二人が同時に答え、フォルテが「占ってもらえるチャンスなのに、どうして雑談なんですか」と抗議する。しかしラウルは「占いは当てにならない」とその抗議を退けた。占い師本人の前でそんな事を言える神経の太さが旅人らしい。
「ただの雑談だって何の当てにもならないだろう」
「占いの為の無意味な手順を省けるだけましだ」
ラウルの声は一貫して落ち着いており、これはただの熱に浮かれた旅人ではないなと私にも察する事が出来た。
「じゃあいいです。私だけ後で占ってください」
とふてくされたように言うフォルテの声は感情豊かで跳ね回るようだ。悪く言えばうるさくて落ち着きがなく、熱に浮かされた旅人だとしても違和感はなかった。
雑談を提案したのはラウルだったが、いざ話し始めてみるとラウルよりもフォルテの方が話の主導権を握っていた。毒にも薬にもならない内容を話し、私の言葉に耳は傾けているが的外れな相槌を打つことも多い。やたらと健康的な老婆の話をすると「やっぱり美味しいものを食べるのがいいんですかねえ」と声を弾ませた。
「そうそう。昨日から何種類かのチーズを頂きましたが、ネムさんはどのチーズがお好きですか?」
「どの、と言われると」
チーズの種類と味の違いは分かるが、老婆が持ってくるチーズはどれも美味い。その中から好きなものを挙げろ、というのはなかなかに難しい。
「全部かな」
旅人の財布の事情を考えるとこれ以上ない残酷な答えだが、躊躇なく答える。案の定フォルテは「お勧めを買おうと思ってたのに、聞いた意味が無いじゃないですか」とむくれた。その横でラウルが「それ以上食うとチーズ臭くなるぞ」と口を挟む。
「チーズ色に染められるなら本望です」
「チーズ色に染められた人間の真後ろに座る人間の気持ちも考えろ」
「ラウルさんもチーズ色に染まればいいじゃないですか。どうせ次の国に着くころには臭いも取れてますよ」
執拗にチーズを勧めるフォルテと、それを淡々と断るラウルの応酬に思わず微笑みと「懐かしい」という呟きが漏れる。二人ともその呟きを聞き取り、同時に言葉を発した。
「「懐かしい?」」
案外この二人は似ているところがあるのかもしれない、と思いつつ「私はここに来る前は、旅人だった」と正直に告白する。この国の住民は全員が知っている事だし、隠す必要もない。
「ネムさんが、旅人?」
意外そうな声を上げたのは、やはりフォルテだった。ラウルは何も言わなかったが、私の言葉に耳を傾けているのは分かる。
「何十人もの大所帯だったから、旅人と言うより遊空民族に近いかな。意外だった?」
「ええ……まあ、そりゃ」
旅をしていた頃の事は今でもよく覚えている。何十人もの人間をやすやすと抱え込む巨大な飛行船。気の合う仲間と飲む酒の美味さ。数少ない若い女性の仲間に気に入られようと色々なものを貢いだ事。貢いだ割に報われるものはなく失恋した事。訪れた国で貴重な情報が得られた時の高揚感。賊に襲われて命を落とした仲間。まぶたの裏には数々の経験が今も色鮮やかに焼き付いている。
「君達は、空の底って知ってる?」
私の問いかけに対してフォルテは「うーん」と唸るが、ラウルはその意味を呟く。
「この世界の『最下層』の俗称か」
「そう」
無数の島々が空中に浮かび、人々はその島の上で生活を営んでいる。人一人が立つのがやっとという小さな島もあれば、島の端が見えないほどの巨大な島もある。高低差や地質の差から、島にも色々な表情があり、そこに住まう人々は当然島によって全く異なる文化を有している。
人々が空を飛ぶ手段を得、異文化間の交流が始まった事により、異なる文化は異なる国としての性格を持ち始める。他国と友好な関係を結ぶ国もあれば、他国を侵略し植民地とする国もある。後者は自らに地の利がある――つまり、他国と比べて高度が高い国が多い。そして、侵略で豊かになった国は「下層」への探索を進め、いつしか「空の底」という概念が出来上がった。
この空をひたすらに落ちて行き、辿り着く場所。そこへ向かって行った者は全員が行方不明となり、一切が謎に包まれた場所。「空の底」という概念が生まれたのが侵略国であったからか、そこはあらゆる物資に恵まれた理想郷と言われることが多い。
「そんな場所があるんですね」
ラウルから簡単な説明を受けたフォルテは、ほうとため息をつく。
「でも、それが今の話とどう関係するんですか?」
「簡単な話だ。私が旅人として在籍していたのは、空の底を目指して旅をする人々の集まりだったんだ」
「へえ。今時珍しいな」
ラウルが意外そうに反応する。
一切が謎に包まれた空の底を、危険を冒してまで目指そうとする者は確かに少ない。旅をする事自体が危険な行為であるのだが、空の底を目指して旅をすると言う事は国々を辿って下層へ進んでいくと言う事だ。そして、上層部が豊かな侵略国であれば、下層は貧しい植民地である確率が高い。
普通の旅人であれば、高度を変更する事でリスクをある程度操作できる。しかし、空の底を目指すとなると貧しい国ばかり訪れることになり、物資の補給を始めとしたあらゆる行動が難しくなる。それ故に、空の底を目指すと言う事は自殺行為と言われても仕方のないことだった。
「空の底にさえ行けば、何の不自由もない生活も待ってるんだ。って信じてたからね」
我ながら恐ろしい妄想に取りつかれていたものだと思う。数年前にこの国を訪れて、旅人を辞めたことは幸運だったと今は思う。
「信じてたのに、どうして旅人を辞めちゃったんですか?」
フォルテのもっともな質問にネムは正直に答える。
「大所帯で旅をしていると物資の調達が難しいんだ。そろそろ厳しくなってきそうだから人員整理しようかという事で、ね」
私が旅人集団から外されたのは、人員整理を始めてすぐだったと記憶している。彼らの今後の旅路を予想してみると、真っ当な手続きを経てこの平和な国の住民になれた事は本当に幸運だった。中途半端に使える者であったなら、貧しい国で乱暴に捨てられる可能性もあった。何が良い方向に作用するのかは、本当に分からない。
「占い師なんて、旅で一番いらない人材だろう?」
私がくつくつと笑うと、ラウルは「そうだな」と相槌を打った。その言葉や彼の発する雰囲気は、無機質に私の挙動を観察する機械のようだった。
「……で、この国に来てからは占い師として活躍してる、ってわけですか」
ふんふんとフォルテは勝手に納得して頷いているが、おおむね合っている。
「活躍と言っても退屈なものだけどね。一日に一人、客が来たらいい方だ」
「占いって具体的にはどういう感じなんですか?」
そろそろ話の本題に入ろうと言わんばかりにフォルテの声が弾み、それに反比例するようにラウルは静かにその場に佇む。
「その前に一つ。星を見るとか、大気の流れを読むとか、その人を取り巻く有象無象に問いかけるとか、人によって占いの方法は様々だ。だから、私の占い方が全ての占い師に通じるわけではない、という事は分かっておいて欲しい」
「はい!」
フォルテががたんと身を乗り出す一方、ラウルは静かに席から立ち上がった。
「先に帰る」
愛想の欠片もない一言だけ残してラウルは部屋を後にする。フォルテはそんな愛想の無さにも慣れた様子で「占ってもらったら宿に帰りますね」とラウルの背に言葉を投げた。
扉が閉まり、二人きりになるとフォルテはふふ、と笑った。
「分かりやすいでしょう?」
「興味がない話題に移ったらハイさよなら、だね」
「何を考えてるかは分かんないんですけど、何かをする理由は分かりやすいんです」
フォルテ曰く、彼は物事の全てを損得勘定で見る傾向があり、そこに情や気遣いは入らないのだと言う。無愛想で口数も少なく、頭の中は分からない。けれども、損得勘定のみで下される決断と行動は非常にシンプルで分かりやすい。
「だから、ラウルさんと旅をするのは気楽でいいです」
そう呟くフォルテの声からは、意味深な色がほんの少し感じられる。考えてみればラウルのような旅人がフォルテのような者を連れるというのはなかなかに不可解だ。何か事情があるのだろうが、深入りするのも良くないだろう。
「だから、気になる?」
あえて話題を逸らしてみると、フォルテは「ど、どど、どうしてそうなるんですか」と面白いように動揺した。
「恋占いはそんなに得意じゃないから、期待しないでね」
「恋占いなんて頼みませんよ!」
間髪を入れない反応は実に分かりやすい。私は苦笑をこぼしながら占いの準備を始めた。