空の旅人 第三話「仕事」
島に侵入した私達を出迎えたのは、風雨に晒されてぼろぼろになった漆喰の壁だった。抉れて骨組みが見えてしまっている部分や、亀裂の間から覗く小さな緑を見る限り、私が生まれるよりずっと前からここに存在していた事が分かる。そもそも家の造り自体が粗末なせいか、年月を重ねた事による老朽化はかなりのものであり、辛うじて家屋の体を成していると言ったところだった。
一般人なら入るどころか近づく事すら敬遠する頼りない立ち姿だが、国外で野営をする空賊からすると、雨風をしのげるだけで頼もしいものだろう。多くの日々を野営で過ごす私には、その気持ちはよく分かる。
「この建物を挟んだ向こう側にカイゼルはいる」
ラウルは壁に背を付け、剣の柄をそっと撫でた。剣が鞘から抜けないように紐で巻きつけているのは、今回の仕事内容を踏まえての事だろう。私も両腰のリボルバーにそっと触れ、全身に仕込んだナイフの位置を頭の中で再確認する。銃弾はゴム弾ではなく鉛のままで、ナイフは数本を木製のものに差し替えたが、他は紛れもない本物だ。
人を殺す事はなるべく避けたいが、自分の身を守る為ならば仕方ない。襲われた場合はもちろんの事、旅費を稼ぐための仕事ならば、私は銃の引き金を引く。
「交渉に当たっているのは四人。残り二人はこの中か、あるいは死角に潜んでいるか」
ラウルは建物の角からそっと顔だけ出して様子を窺っている。私は辺りを見回してみるが、背の低い草が生えているだけの大地には、人一人が隠れられるスペースはない。死角が生まれるとしたらこの建物の陰くらいだろう。大人しく待機しているガルバートの後ろも死角は死角だが、見ず知らずの人間が近づくと威嚇して逃げだす彼女の性格を考えると、死角にはなり得ない。私はいつでも発砲できるように銃を抜き、深く息を吸って身構えた。
「どうします?」
「四人は俺が引き受ける。二人はお前に任せた」
妥当な判断だ。二人がかりで四人を大人しくさせる方がかかる時間は少ないが、残りの二人を取り逃がす可能性、奇襲を受けて全滅する可能性、何より私が誤射をしてしまう可能性を考えると別れた方が良い。自慢ではないが、私が狙い通りに銃弾を命中させる事は滅多に起こらない。
「分かりました。無茶はしないで下さいね」
「お前がそれを言うか」
ラウルは鞘に入ったままの剣で私の額を小突く。手加減はされているのだろうがそこに親愛の情はなく、簡単に言えば、痛い。
額を抑えて呻く私を尻目に、ラウルは「生き延びることを第一に考えろ」と言って剣を片手に駆け出した。
「分かってますって」
飽きるほど言われた言葉に私は頬を膨らませ、両手に拳銃を下げて踵を返した。
* * *
ラウルが様子を窺い飛び出していった角は、壁に向かって右側の角だ。死角に潜んでいるとすれば、この建物の中か左側の角を曲がった先だろう。私は右手の拳銃の照準を進行方向に向けながら、慎重に歩を進める。
左側の角から顔をわずかに出して先の様子を確認する。わずか数歩の距離を開けて男の姿があった。ぼさぼさの髪と土に汚れた粗末な服を見る限り、空賊の一人で間違いない。こちらからは背を向けてしゃがんでおり、向こう側の様子にすっかり気を取られている。
ラウルは既に仕掛けているらしく、銃声やナイフが弾かれる音がここからでも聞こえる。私は静かに男の背後に歩み寄り、銃口を頭に押し付けた。男の身体がびくりと反応し、振り返ろうとするがそれを声で制する。
「振り返ったら撃ちます。武器を捨てて手を上げて下さい」
「てめえ、何者だ」
「答える義務はありません」
努めて感情を押し殺した声を出す。男は観念したように肩をすくめ、銃を建物の屋根に向けて放り投げ、数本のナイフも同様に処分した。時折こちらを向こうとしたり上を見ようと首を動かすが、その度に銃口を押し付けて威嚇する。
「……捨て終わったぞ」
男は静かに両手を挙げ、忌々しげに呟く。私は右手で銃を握ったまま、空いた左手で木製のナイフを取り出した。さっさとこの男を気絶させ、残りの一人を探さなければならない。恐らくは建物の中にいるだろう。
「なあ、俺達があんたらに何をした? 許してくれよ」
「あなた方が何をしたかは関係ありません。私達は、あなた方を捕らえるよう依頼を受けただけです」
「捕らえる?」
「依頼主の希望です。何やら、あなた方に聞きたいことがあるようなので」
「あの眼鏡野郎か」
私は何も答えず、深く息を吸う。銃口を男の頭から離し、男がこちらを向く前に木製のナイフを首筋に向けて振るった。どこを強く打てば気絶させられるかは、身をもって経験している。
「動くな」
唐突に、頭上から別の男の声が降ってきた。私は反射的にナイフを止め、声が降ってきた方向を見上げる。
屋根から半身を乗り出した男が、私に銃口を向けていた。目の前に座る男と同じような格好をしているが、短く刈り上げられた髪は目の前の男と比べて多少は清潔感がある。
「武器を捨てて手を上げろ」
銃を向けられては逆らう術がない。私は木製のナイフを足元に捨て、続いて右手の拳銃をゆっくりと地面に置いた。
「全部捨てろ」
ぼさぼさ頭の男はこちらを向き、左腰の拳銃を指差した。私はその言葉に従って二丁目の拳銃を地面に置く。まだ何か言いたそうな顔をしていたので、隠し持っていたナイフを数本、地面に投げ捨てる。
「これで最後です」
ナイフを捨て終え両手を挙げると、ぼさぼさ頭の男は私の拳銃を拾い上げて銃口をこちらに向ける。ラウルから貰った銃をこんな男に触れられるのは腹立たしいが、騒がず睨みつけるだけに抑える。
背後で何かが土を踏みしめる音がして、振り返る前に後頭部に銃口が突き付けられた。屋根にいた男が降りてきたのだろう。それを確認したからか、ぼさぼさ頭の男は私の拳銃を地面に捨てる。
「さっさと殺せばいいでしょう」
私からすると彼らを生かすことに価値はあるが、彼らからすると私を生かすことに価値はない。殺してしまった方が楽なのは火を見るより明らかだ。
「貴重な人質を殺すわけにはいかねえなあ」
ぼさぼさ頭の男は親指で後ろ――ラウルが四人と交戦している辺りを指差す。未だ銃声は響いているが、四人が静かになるのは時間の問題だろう。
「人質?」
ふふ、と思わず笑いが漏れる。
「私があの人に対して人質となり得るとお思いですか?」
あり得ない。私は心の底から苦笑した。ラウルにとって私はただの取引相手であり、命を賭して守るような間柄ではない。仮に私が人質となったところで、彼は自分が生き残る為ならば何のためらいもなく私を見捨てるだろう。幸か不幸か、ここには空賊の船やカイゼルが乗っていた船があり、ガルバート以外の移動手段は簡単に調達できる。
私の言葉にぼさぼさ頭の男は戸惑いの色を見せたが、すぐに気を取り直したのか私の背後にいる角刈りの男と目を合わせて頷いた。
「少しでも隙を作らせたら十分だ」
人数の上ではこちらが有利なのだから、少しでも気を引く事が出来ればその隙を突いて一斉に攻撃すればいい。小さな島で暮らす貧乏な新米空賊らしい作戦だが、この状況ではそれがベストだろう。もし私が同じ立場だったなら、同じ事をするかもしれない。
「……で、あいつもあの眼鏡もブチ殺して貰えるもんは貰ったところで、慰謝料には到底釣り合わねえよなあ?」
「そうだなあ、全然足りねえなあ」
二人の男は示し合わせたようにぐふふと笑う。品の無い笑い声は不快で顔をしかめる。
「まだ何か隠し持ってるかも知んねえし、落ち着いたらまずは隅々まで身体検査だな」
「身体検査、ですか」
「そうだ。頭の先から爪の先までくまなく丁寧に検査してやる」
「六人がかりでですか? 随分大げさですねえ」
肩をすくめて冗談っぽく言うが、ずっしりと心が冷え込んでいくのが自分でもわかる。
「なあ、先に服だけ破いちまったほうが良くねえか? その方がこいつも大人しくなるし、相手もびっくりするだろ」
「お前飢えすぎ」
角刈りの男はその提案に吹き出すが、否定はしなかった。私の意思を無視して好き勝手に話を進めるその様は、人間ではなく野獣に近い。暗く冷たく沈んだ私の思考は、二人の気が緩んでいることに気付く。
「抵抗したら刺すからな」
ぼさぼさ頭の男は私が捨てたナイフを拾い上げ、私に向かって歩み寄る。昨晩研いでおいたそのナイフなら、この服を切り裂くぐらいの事は簡単にやってのけるだろう。使い古した安物の服だが、引き裂かれて台無しになるのは勿体ない。
男の顔が間近に迫る。口元から耐え難いほどの悪臭が放たれ、目頭にはやにが溜まっている。そして男の目に宿る好色を認めた瞬間、私の感情や倫理は冷たい思考に飲み込まれた。
「不潔で助平な人は嫌われますよ」
この二人を殺しても罪悪感を抱かないほどの極寒の思考に。
私は突きつけられた銃口から逃れるようにしゃがみ、角刈りの男に向けて足払いをかける。突然の出来事に驚く間もなく角刈りの男は倒れ、その間に私はブーツの内側に仕込んでいたナイフを抜き出し、ぼさぼさ頭の男の足と地面を縫い付けるように深く突き刺した。
「ぎゃあ!」
突然の痛みにぼさぼさ頭の男は悲鳴を上げるが、私はそれを無視して角刈りの男の元に歩み寄る。男の右手には拳銃が握られており、私は男の右手首を思い切り踏みつける。
「あああっ!」
さすがに成人男性の骨を踏み砕くほどの力は私にはない。しかし銃を手放させるには十分だ。私は男の銃を奪い取り、頭部に狙いをつけて数発撃った。何発かは男の鼻や頬に命中し、一発だけが男の額を貫いた。静かになった角刈りの男を一瞥し、ぼさぼさ頭の男の方に向き直る。男は面白いように怯えて逃げようとするが、足に刺さったナイフがそれを許さない。
「逃げようとしたら撃ちます」
銃口を男の頭に向ける。男は両手を挙げてひいひいと涙をこぼし始めた。
「ああ、よかった。汚い獣でも、逃げるなって言葉の意味くらいは分かるみたいですね」
「お、おい、捕らえるのが目的だろ? 殺しちまったら駄目なんだろ?」
「私達が請けた仕事は『空賊を捕らえる事』です。自分勝手で下品な獣を捕らえる事ではありません」
男に一歩近づく。
「た、助け……」
「私にしようとした事を、他の誰かにした事がありますか?」
正直に答えないと撃ちます、と付け加えると男は泣きながら何度も頷いた。
「その時、その人が言う事にあなた方は耳を傾けましたか?」
顔も知らない誰かの必死の抵抗と懇願の声。そして、それすら興奮のスパイスとして楽しんだ男達の様子が容易に想像できる。
「あなた方がその人を人間ではなく玩具として扱ったのと同じように、私はあなた方を人間ではなく駆除すべき獣と扱います。簡単な話でしょう?」
「たす」
引き金を引いた。
* * *
それからの事は、よく覚えていない。
カイゼルとラウルの会話や報酬の受け渡し、そしてカイゼルが気絶した空賊と死んだ空賊を船に詰め込んで出発する様子、全てを見聞きしていたし、受け答えもしていた。ただ、一種の放心状態にあって普段通りに会話する事もなくぼうっとその場をやり過ごしていた。
「そろそろ元に戻ったらどうだ」
夕食を食べ終え、たき火をぼうっと眺めている頃になて、ラウルは声をかけてきた。彼の隣には小さなコンロが置かれており、小さな炎はせっせとやかんを温めている。
「元に戻るも何も、私はいつも通りの元気なフォルテちゃんですよ」
「鉄面皮みたいな無表情がお前のいつも通りか」
「……私、ラウルさんみたいになってますか」
「そうだな」
ぼうっとしているとはいえ、そこまで無表情になっているとは思わなかった。私はため息をつき、ほんの少し冷えた指先をたき火で温めた。
「ぼうっとしてて聞き逃しちゃったんですけど、カイゼルさんはどうして死体も持って帰ったんですか?」
「死体からもそれなりに情報が得られる、と言っていたな」
「……情報、って何なんですか? 言っちゃ悪いですが、あの人達はチンピラまがいの獣ですよ?」
「お前、俺とカイゼルの会話を全然聞いてなかっただろう」
ラウルはふう、とため息をついた。すみませんと萎縮する一方で、たき火に照らされるラウルの顔がひどく魅力的で思わず見とれてしまう。
「結論から言えば、あの空賊はカイゼルの実験用のモルモットにされる」
「モルモット」
つまり、実験台。どういう実験かは皆目見当がつかないが、彼らを使って実験を行う事で、カイゼルが求める情報を得られる。なるほど、嘘はついていないし、死体にもそれなりの利用価値があるのだろう。
「手頃なモルモットを探して旅をしていたところ、偶然にもあの空賊と知り合った……というか、絡まれた。で、旅人を利用して労せずして目的のものを入手しようと計画した」
「結果、その目論見は大成功というわけですか」
「そうなるな」
無事に実験を乗り切ったとしても彼らは生きられないだろうな、と何となく感じた。だからといって、彼らに対して何らかの感情を抱くには至らない。
「……あの、ラウルさん」
「なんだ」
ラウルはやかんの中身が沸騰している事を確認すると、コンロの火を止めた。
「もし、私が人質になって『こいつの命が惜しければ武器を捨てて手を上げろ』って言われたらどうします?」
「命令を無視してそいつを殺す」
「ですよねえ」
ラウルは旅荷の中から見覚えのある袋を取り出した。それは紛れもなく、私が買おうとして買えなかったあの茶葉だ。
私の視線に気付いたラウルは「カイゼルが『余分に買っていたので報酬のおまけにどうぞ』だと」と短く説明する。
「時間稼ぎをして相手の油断を待つ手もあるが、相手がプロだとそれは通じない。相手に考える隙を与えず速攻で潰すのが、二人とも生き残る確率が一番高い」
「え」
少し意外な言葉に戸惑う。
「私も助けるんですか」
「取引相手を無駄に死なせることはしない」
「ラウルさん……」
じんわりと胸が熱くなる。ラウルは私に特別な感情など抱いていないと分かっているが、取引相手として他人より少し高い地位にいる事を嬉しく思う。
「とはいえ、自分の命が最優先でお前の命は二の次だから、状況によっては見捨てる」
「ですよねえ」
それで十分だ。ラウルの傍にいられて、彼は私を取引相手として特別視してくれる。それだけで十分、幸せだ。
ラウルが淹れた紅茶を受け取り、一口飲む。林檎の香りが心地良く、たっぷりの砂糖が入った甘味は緊張を解きほぐす。
「……怖かったです」
ゆるゆると緊張が解けるにつれ、二人の男の眼や態度を思い出す。沈めていた恐怖が溢れてきて、自然と目から涙がこぼれた。
「……せっかく抜け出せたのに、また、逆戻り、するのかと……」
ラウルは何も言わず、静かに紅茶を飲む。私がどんな経験をしたのかは、初めて出会ったあの時から既に察しがついているのだろうが、彼は今までそれに関して何も言わなかった。配慮などではなく、単に関心が無いからだろうが、その無関心さが心地良い。
涙と恐怖を流し終えた頃には紅茶は空になっていた。私はラウルに頼んでもう一杯だけ淹れてもらい、それを一気に飲み干して寝袋に入る。
もぞもぞと体を動かして落ち着いた途端、津波のように眠気が押し寄せてきた。自覚はなかったが、相当疲れていたらしい。
目を閉じる寸前、たき火が消えて辺りが暗くなるのを感じた。ラウルが消したのだろう。
「…………」
ふと頭に疑問がよぎる。
私に関心が無いのなら、私が泣き止むのを待たずに明日の準備やほかの作業にかかっていたはずではないだろうか?
なのに、彼は私が泣き止むまでの間、紅茶を飲む以外の事は何もせずにただ座っていた。気持ちいいほどの無関心だと思っていたが、もしかすると、あれは彼なりに気を遣っていたのかもしれない。
ひょっとしたら、彼は私に取引相手以上の気持ちを――
「……いやいや」
それはない。
ただの取引相手であってもそれなりに気は使うだろう。都合のいい方向に考えが飛躍しすぎた。
これ以上何かを考えているとまた突拍子もない方向に考えが飛躍するかもしれない。私は考える事を止め、眠る事に専念した。