色は匂へど [3]
数日後、一号がグーイの部屋を訪れてきた。今までグーイが一号の元を訪れてばっかりで、その逆は今回が初めてのことだった。
「何か用か?」
相手は一号なので驚きを隠さないでいた。これが十八号だったら何が何でも驚きを隠していた。
「いえ、特に用はないのですが、イロハさんとの生活は上手くいっているかどうか気になりまして」
「それだけか?」
それだけのためにわざわざ来るとは、一号も暇人だ。心の声を聞いても他意が無いことが分かる。
「……イロハは、変な奴だな」
「変?」
グーイは一号に今までのイロハの言動を話してみた。特に意図はなく、ただ一号の意見を聞いてみたかっただけだった。
「――確かに、少し変わった子ですね」
一号は微笑を浮かべてそう言った。少なくともイロハに対して悪い印象は持っていないようだ。
「少しじゃないぞ、あれは」
「グーイさんはイロハさんのことを、どう思われますか?」
「……苦手だ」
イロハには皆が持っているような黒い感情がない。それが良いことなのか悪いことなのか分からないが、少なくともグーイはそんなイロハが苦手だった。
何の臆面もなく思ったことをそのまま口にする。グーイはその言葉のおかげで大いに調子を狂わされている。
「でも、表情は柔らかくなりましたね」
「え」
思ってもみない言葉が返ってきたので戸惑う。表情が柔らかくなった?
「前よりも、優しい感じがします」
「嘘だろう」
目眩がした。
「いいことじゃないですか。強い人は往々にして柔らかいものですよ」
一号は目を細めて笑った。彼の脳裏にはゼロの姿があった。
「柔らかい、ね……。イロハのおかげでそうなったとは思いたくないな」
「十中八九、そうですよ。イロハさんの強さがグーイさんにもうつっているんですよ」
「イロハが強い? 冗談だろ」
子供で、ロクな防具も付けられないイロハが強いとは到底思えない。グーイの方が何十倍、何百倍も強いはずだ。
「イロハさんは、強いですよ」
一号はもう一度繰り返す。気まぐれな言葉ではなく、確信のある言葉。
「彼は、全てを愛しています」
* * *
一号が去った後、イロハが来ることも、グーイの方から彼に会いに行こうとも思わなかったため、自室で推理小説を読んだ。
真犯人の悲しい独白と探偵の明るい未来を示す言葉。真犯人は未来に希望を抱いて罪を償い始める。そこで小説は終わった。
「…………」
読み終えた推理小説を本棚に戻してからベッドに腰掛け、しばらくぼんやりとした。
今読んだ小説内の探偵の言葉がグーイの心に残っていた。イロハが言いそうな、ありふれた言葉だった。
下っ端のダークマターに持ってこさせた昼飯を食べ、グーイはイロハに会いに行こうと思い立った。屋上にたたずむイロハの姿が目に浮かんだ。
「――お前さあ、自分の立場ってもんを分かってるのかよ?」
屋上の扉を開けようとしたところで、誰かの声が向こう側から聞こえた。反射的に扉に張り付き、耳を済ませた。心の声は聞こえないのでここから三メートルは離れている。気配からして数人いるらしく、誰もが品の悪い喜びに浸っている。
その内の一人、先程の声の主が十八号であることはすぐに分かった。吐き気がした。
「なんにもできねえくせに、俺様に恥かかせやがって」
何かを蹴る音。十八号の取り巻きがどっと笑う。
何を蹴っているのか。最悪の事態が想像できてしまった。
「悔しかったらやり返してみろよ。……ま、できねえんだろうけどよ」
蹴られている者は何も言わない。ただ荒く呼吸を繰り返している。
「おら、土下座しろよ」
十八号か取り巻きか、誰かが何かを掴んで地面に押し付ける音がした。何故かグーイの動悸が激しくなった。
「申し訳ありません、許してくださいって言えよ。クズが」
グーイははやる気持ちを落ち着けた。あいつだという確証はないじゃないか。仮にあいつだとしても、俺はあいつとは他人じゃないか。
そうして躊躇するグーイの気持ちに止めを刺す声が、辺りに響いた。その声がした瞬間だけ、世界から彼の声以外の音が消えたような錯覚がした。
「イロハは、イロハが言ったことを後悔してないです」
グーイは頭で考えるよりも早く、扉を開けた。
そこにいたのは予想通り、十八号と彼の取り巻きが数名。そして彼らに囲まれて横たわっているイロハの姿。
「……あんたかよ……」
十八号はグーイの姿を見て顔を引きつらせ、
「クズ、てめえグーイなんか呼びやがって!」
イロハの頭を手加減することなく蹴った。
「やめろ!」
グーイは十八号との距離を一瞬で詰め、思いっきり殴った。十八号は軽く吹き飛び、少量の血を吐いた。
取り巻きが一斉に身を固める。例え彼らが一度に襲い掛かってきても無傷で勝てる自信がグーイにはあった。
「俺と戦うつもりか?」
と言ってみると、取り巻きは途端に自信を無くし数歩下がった。ただ一人、吹き飛ばされた十八号が敵意をむき出しにしてグーイに掴みかかってきた。グーイは掴んできた手を捻りあげ、十八号を蹴り飛ばした。
十八号はもう一度掴みかかろうとしたが、
「…………」
ふと足を止め、その数秒後には下卑た笑いを浮かべた。それは誰か気に入らない奴の苦しむ姿を見る時や、すてきな作戦を思いついたときに十八号が浮かべる笑みだった。
残念なことに、グーイの能力の範囲外にいたためグーイには彼の笑顔の真意が分からなかった。
「……グーイさんよお。おまえ、本当にそいつのことを大事に思ってんのか?」
そう言いながら、十八号はおもむろに剣を抜いた。ダークマター全員が持っている平均的な値段と切れ味を持つ剣だ。
「……さあな。俺でも分かんねえよ」
グーイは殺気をオブラートに隠しながら戦闘体勢に入る。これでいつでも十八号を殺すことができる。ただし殺しは最終手段。ゼロが無用な死を望んでいないことをグーイはよく知っていた。
「役立たずと嫌われ者が互いの傷を舐めあって過ごす……傑作だな」
十八号が牽制に小さな雷を放つ。グーイは素手で払いのける。
「組織の隅っこでウジウジしやがって……吐き気がするんだよ!」
今度は本気で雷を放ってきた。グーイも同じ雷を放ち相殺する。十八号は矢継ぎ早に雷を放ち続け、グーイもまた応戦し続けた。さっさと距離をつめて十八号を倒してしまいたかったが、こうも連続して攻撃を出されては近づくこともできない。グーイは舌打ちした。
しかし何故剣を抜いているのに雷で戦うのだろうか。グーイはそれが不思議だった。剣を抜いたから接近戦で来るかと思っていた。
「…………」
雷を相殺しながらその理由を考え、それらしい理由が思い当たった。
剣を出せばグーイは間違いなく戦闘体勢に入る。戦闘体勢に入れば、例えオブラートに包んでいても殺気が出る。鋭い感覚を持つ者なら、遠くからでもその殺気を察知できる。屋上の、それも包み隠した殺気を察知できるほどの人物は、一人しか思い当たらない。
その人物が、もし殺気を察知すればどうするか、グーイは簡単に予想できた。そして殺気を出してからの時間経過を考えて、その人物がやってくるのはもうすぐだと分かった。
「――何をしている?」
グーイがその結論を出した直後に、ゼロの声が屋上に響いた。
* * *
ゼロがやってきた途端に十八号もグーイも雷を出すのを止めた。
ゼロは今まで見たこともないくらい険しい顔をしてグーイと十八号、取り巻き、イロハを見ている。
「何を、している?」
「ゼロ様……」
十八号がグーイに殴られた箇所を痛そうにさすりながらゼロの元へ擦り寄った。
「グーイが、グーイが……イロハにひどい暴行を加えていました!」
嘘だ。グーイは声に出してそう言ったがゼロも十八号も何も言わない。
「それを俺が見つけて止めようとしたのですが、グーイは俺をも攻撃してきまして……ああゼロ様、来てくださってありがとうございます!」
ぺこぺこと十八号が頭を下げる。
なるほどこういう作戦だったのかとグーイは納得した。自分とグーイの殺気でゼロを呼び出し、全てをグーイの仕業にしてゼロにグーイを処分させる。確かに、こうでもしない限り十八号にグーイは倒せない。
しかし十八号は大きな勘違いをしている。特殊な能力のおかげか、グーイはゼロと話した時間が他のダークマターよりも長い。ゼロはグーイの人格をよく知っている。ゼロはグーイはこんなことをしない、とすぐに十八号を糾弾するだろう。
「さあゼロ様! あの悪魔めを一思いに殺してください! そうした方があいつのためにもなるのです!」
「…………」
ゼロはその静かな瞳でグーイをじっと見ている。グーイは目を逸らさずにその瞳と向かい合った。
ゼロは絶対に信じてくれる。裏切らない。グーイはそう信じきっていた。
「……十八号」
瞳はグーイを捕らえたままで、ゼロは十八号に声を向けた。そしてすぐに十八号に非難の言葉をぶつけ、相応の罰を与えるに違いない。グーイは溢れる期待を抑えることができなかった。
ところが。
「お前の言うことは、もっともだ」
とゼロは言った。
グーイは最初その言葉が信じられなかった。嬉しそうに下卑た笑みをこぼす十八号の顔がやけに鮮明に脳に焼きついた。心の中のゼロに対する何かががらがらと崩れ落ちる音が聞こえた。
「……嘘だ……」
グーイは一歩後ずさりした。足が何かにぶつかった。何かと思って見てみると、傷だらけのイロハがそこにいた。
イロハの怪我はひどいものだった。肌の大部分が紫色に変色し、両目と鼻がこっぴどく潰されている。これではもう目は見えないのは確かだ。手足は奇妙な方向に捻じ曲がり、爪は全て無くなっていた。
「……イロハ……?」
そっと触れてみると、まだ温かさはあった。けれども意識があるのかどうかは分からない。
ふと顔を上げると、ゼロが両手に赤い色の珠を浮かべているのが見えた。それは爆発を起こすもので、殺傷力に問題はないものだった。
「……嘘だ! 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!」
ゼロが自分を殺そうとしている。イロハが生死の境に立っている。
そんなこと、はあってはならない。
「何でだよ! 何で何で何で!? ゼロ様ゼロ様ゼロ様ゼロ様……」
グーイは狂ったようにゼロの名を呼び続けた。そうしないと、本当に気が狂いそうだった。
ゼロのずっと後方で、十八号が得意げに笑みを浮かべているのが見えた。それもまた、グーイの精神に追い討ちをかけた。
「どうして? どうして? どうしてゼロ様は」
言葉が続かない。舌が上手く回らない。
「……ここに、お前の幸せはない」
ゼロはグーイにしか聞こえないような小さな声で言った。そして両手の赤い珠のうちひとつを投げた。それはグーイの頬をかすめ、すぐ傍で爆発を起こした。
「……俺、は……」
ここに、俺の幸せはない。
グーイの体中の力が抜けた。へなへなとその場に座り込み、ただゼロを見上げることしかできない。
「もう一度言う。ここに、お前の幸せはない」
先程よりもゆっくりとした口調でゼロは言った。まるで覚えの悪い生徒に何かを教える先生のように。
背後から服の裾をつままれる感覚がした。グーイが振り返ってみると、イロハが殆ど原形をとどめていない手でグーイの服の裾をつまんでいた。
「……イロハ……?」
イロハはその手を力なく持ち上げ、かろうじて指と分かるもので何もないところを指差した。グーイがその先を見ると、そこには大きな青空があった。
「空……?」
イロハの手が力尽きたようにグーイのポケットの上に倒れた。グーイはズボンに異物感を感じた。
はっと思い当たってズボンのポケットを探ると、そこにはダークマターの核があった。エネルギーが詰まった核。
「…………」
目の前に立つゼロ。背後には青空。死しか道は残されていないと思ったが、他にも道はあった。あまりにも大きすぎて、気づかなかった道が。
「……ゼロ様……」
グーイはイロハを抱きかかえて立ち上がり、片手に核を握り締めた。
そして、笑った。
「……いや、ゼロ。俺は、てめえには殺されねえよ」
「……ほう? どうするつもりだ?」
ゼロの目に殺気が宿る。もう一つの赤い球を今すぐにでも投げそうな雰囲気だ。
「こうするつもりだ!」
グーイは核を握りつぶした。手のひらから核のエネルギーが全身に染み渡る。イロハを抱えてダークマターのいない遠い星に瞬間移動して逃げるぐらいのエネルギーを手に入れた。
自分の持てる力の全てを賭けて、瞬間移動を実行した。
* * *
瞬間移動は短い距離でも多大な力を使う。普段のグーイならば自室からファイナルスターの大気圏外に出るだけで力を使い果たしてしまう。
しかし核の膨大なエネルギーのおかげでグーイとイロハは見知らぬ星の大地に降り立った。
山の頂上に降りたらしく、眺望は抜群だった。無限に広がる草原と海、そして七つの島々がグーイとイロハを迎えた。
グーイの目から、自然に涙がこぼれた。あまりにも美しすぎる世界。どうして今まで世界が美しいことに気づかなかったのだろう。どうして世界の暗部にだけ目がいっていたのだろう。
イロハを地面に寝かせる。鼻の辺りに手をかざしてみるとかすかな呼吸を感じた。まだ生きている。
「……イロハ、大丈夫か」
グーイは戦闘に関してはプロであるものの、治療に関しては素人同然だった。応急処置のやり方も知らない。
どうして治療のやり方を学ぼうとしなかったのか。グーイは満身創痍のイロハを目の前にして深く後悔した。
「……グーイ……?」
風がささやくような声でイロハが答えた。
「イロハ。もうあいつらはいない。大丈夫だ」
実際は、ゼロの脅威が消えただけでイロハの命が風前の灯であることは変わりないが、嘘をついた。
「……ここは、どこですか……」
「星の名前は知らない。けど、ダークマターはいない」
「……とても、きれいなところです……」
「景色、見えるのか?」
イロハはミリ単位ながらも首を振った。
「いっぱい、光があるです」
確かに、ファイナルスターよりも遥かに光の濃度が高い。これほど光に溢れた星は初めてだった。
「……イロハ、少し休め。ひどい怪我だ」
グーイはもう一度イロハを抱えあげ、たまたま近くにあった洞穴の中に寝かせた。洞穴の中は適度に湿気があって涼しく、心地良い。
イロハは一言二言何かを呟いていたが、すぐに眠った。
それから数日間は、洞穴の中でじっとしていた。
薬草を探して山を歩いてみたものの、赤土の山に草は一切生えていなかった。草原まで降りれば何かあるかもしれないが、イロハを残して遠くまで行くのは不安だった。
イロハの体調は日に日に悪くなっていった。
瀕死であるにもかかわらず彼はグーイと話し、外の世界を感じたがった。
「……イロハが借りたかった本、読めなかったです……」
ある時イロハはそう呟いた。
「本? あの時の推理小説か?」
「うん……」
グーイはファイナルスターで最後に読んだ推理小説のあらすじを思い返した。
「……大体の話なら、教えてやるよ」
グーイの言葉に、イロハは笑った。他人からみればただの口元の痙攣のように見えるかもしれないが、確かに笑った。
さらに数日が経ち、グーイの体にも異変が起こった。
脱力感があり、動くのが億劫になった。呼吸もしづらい。明らかに異常だ。
「……まさか……」
グーイは洞穴から平和で光に溢れた景色を睨んだ。
ファイナルスターは闇に包まれた星。そこで生まれたグーイや他のダークマターは必然的に闇が体中に染み渡っている。闇に慣れている体は、この光に溢れた星を拒絶している。このままでは拒絶反応が激化して最悪の場合は死んでしまうかもしれない。
どこか他の星に移らなければならないが、イロハを抱えて移動するにはフルパワーを出す必要がある。が、既に拒絶反応で弱り始めた体にそんな力を出すのは不可能だ。
「…………」
グーイはイロハを見つめた。そして頭を抱えた。
自分はとても強いはずなのに、自分自身も、イロハも救うことができない。情けなくて涙が出そうだった。
「……グーイ……」
イロハの声がして、グーイは彼の傍に移動した。
「……今まで、ありがとうです……」
「……死ぬ奴が言うせりふだぞ、それ。イロハも趣味の悪い冗談を覚えたな」
グーイは笑ってみたが、イロハはかすかに首を振った。
「イロハは、幸せ者です……」
「おまえ、そんなひどい目に遭っても自分が幸せ者だと思うのか……?」
今度はかすかに頷いた。
「辛いことがあるから、楽しいことを楽しいと思えるですよ」
イロハは続ける。
「楽しいものやきれいなものを、そのまま楽しく、きれいに感じ取れるのは幸せ者のしるしです」
「……それ、本当だろうな……?」
イロハはそっと微笑む。グーイは笑えなかった。胸が万力で締め付けられているようだった。涙腺も完全に壊れていた。
「……イロハが死んでも、こころは死なないです」
「こころ?」
イロハは震える手で自分の胸に手を当てた。
「イロハのこころ、グーイにあげるです」
「……なんだよ。わけわかんねえよ」
頬を伝って流れ落ちる涙が、イロハの手を濡らした。
「……死ぬなよ! お前、俺より強いんだから!」
この星に来てグーイは気づいた。イロハは強い。全てを肯定して、愛する。それが強い者にしか出来ないことだと、長い間気づかなかった。
どうして強いイロハが死んで弱いグーイが生き残るのか、理解できない。世界はどうしてこんなに理不尽なのだ。
「……グーイ……」
イロハはグーイの頬にそっと触れる。
「……ありがとう……」
ぱたりと、その手が地面に落ちた。
グーイは、もう動かないイロハの手をぎゅっと握った。
* * *
もうこのままこの洞穴で死んでしまおうか。
グーイはイロハの遺体の手を握りながら、何日もその場に座り続けた。腹も減っているし喉も渇いていた。さらに拒絶反応も進行して、体調はひどいものだった。
だが、それがどうした。イロハの受けた苦しみに比べたらかわいいものではないか。
「……イロハ……」
涼しい洞穴の中とはいえ、イロハの遺体の腐敗は着々と進行していた。少しずつイロハの遺体が人外の物体に変化していくのは、見ていて辛かった。
ならば弔ってやればいいではないかとも思うのだが、そうするとイロハが消えてしまうような気がして、それも嫌だった。
「…………」
どうしてもっとイロハと話をしなかったのだろうか。彼との思い出を反芻すると、自然とまた涙が出た。
「……どうして……」
世界には美しいもの、楽しいことが沢山ある。なのにどうして、自分の周りには辛くて悲しいことばかりなのか。
美しいもの、楽しいことをそのまま感じ取れるのは幸せ者のしるし。
しあわせになりたい。グーイは切に願った。死ぬのはいやだ。でも、しあわせになれないなら、死ぬほうがましだ。
イロハの胸元に目をやると、奇妙なものが目に入った。弾力があって不思議な柔らかさのある、小さな黒い物質。
グーイははっとしてイロハの胸元からそれを取り出した。触感を確かめる。間違いない。核だ。
『イロハのこころ、グーイにあげるです』
イロハの言葉が蘇った。イロハのこころ。イロハの核。
『核にはその人のエネルギーが詰まっている。上手に扱え』
ゼロの言葉が蘇った。核に詰まったイロハのエネルギー。
グーイはイロハの核を片手に、洞穴を出た。
赤土の山。緑の草原。凪の海。輝く島々。青い空。空を泳ぐ鳥。
世界はこんなに美しい。そして、残酷だ。
グーイはイロハの核を日にかざした。気のせいだろうか、イロハの声が聞こえた。
『生きていれば絶対、しあわせになれるです』
それは、あの推理小説で探偵が真犯人に言った言葉だった。
そうさ、生きていればいくらでもチャンスはある。なにがなんでも、しあわせになってやる。
グーイはためらうことなくイロハの核を飲み込んだ。
体の中を熱いエネルギーが駆け巡る。
(……イロハ……!)
拒絶反応は吹き飛んだ。エネルギーが有り余る。
有り余ったエネルギーをどう使うかは、決めていた。
(……生き返ろ!)
核の中に残ったイロハのこころを、新たな人格として形成する。
ずっとファイナルスターで暮らしていたイロハに、もっといろいろな世界を見せてやりたい。それが例え核から作った偽者のイロハでも。
本物のイロハは死んでしまった。でも、グーイの中に生まれる「イロハ」を大事にしたい。
今度こそ、たいせつなものを守り通したい。
* * *
グーイの中に新たな人格が生まれる様子を、ゼロは上空から見ていた。
瞬間移動は逃げるのにちょうどいい便利な能力だが、ほんのわずかだが軌跡を残してしまうのが難点だ。
グーイとイロハが瞬間移動で消えた後、慌てる十八号達を置いてゼロは瞬間移動の軌跡を辿っていった。そしてこの星にたどり着いた。グーイとイロハも見つけた。
二人を見つけても、ゼロは何もしなかった。ただ気配を消して彼らの様子を観察していた。
今、グーイの体に変化が現れた。少しずつ、彼の身長が縮んでいく。グーイの体が幼児退行している。珍しい現象にゼロは目を見開いた。
幼児退行は百六十八号とほぼ同じ年代にさしかかった辺りで止まった。同時にグーイが倒れた。
どうやら別人格形成によるショックで気を失っているらしい。ゼロはグーイの傍にそっと降りた。
「…………」
グーイの額に手を当てる。やはり、闇の色が濃い。この光溢れる星では生きられない濃度だ。
ゼロはグーイにほんの少しの力を注いだ。闇の色が薄れるように。この星で生きられるように。
力を注ぎ終えると、グーイの呼吸が安らかになった。ゼロは立ち上がって今度は洞穴へ向かった。
「百六十八号……」
腐敗の進んだ百六十八号の遺体を抱えあげ、ゼロはひっそりと光溢れる星――ポップスターを後にした。
* * *
『百六十八号』と刻まれた十字架が、ファイナルスターの墓地に差されていた。周りにはいくつもの十字架があり、全てにダークマターの型番が刻まれている。
ゼロは百六十八号の墓前に座って静かに目を瞑っていた。
そこへ、一号が花束を持ってやってきた。花束といっても祝い事の際に使われるような華美なものではなく、地味で彩りに欠ける花束だ。
「ゼロ様……」
一号はゼロに花束を手渡し、ゼロは花束を百六十八号の墓前に供えた。
「……彼のあだ名は、イロハでした」
一号の声は震えていた。
「イロハ、か。いいあだ名だな」
ゼロと一号は静かに目を瞑り、黙祷した。
「……あの、ゼロ様。グーイさんは……?」
ゼロと一号は墓地を離れ、ゼロの部屋へ向かっていた。
「さあ。今頃どこかで私を恨んでいるかもしれないな」
私は彼を裏切ったようなものだしな、と付け加えた。
「……どうして、異端は嫌われるのでしょうか」
グーイもイロハも他のダークマターとは違っていた。だから、あんな目に遭った。一号は彼らのことを好いていたが、他のダークマター達は彼らの存在を許さなかった。
ゼロがああして他の星へ逃げるように促さなければ、彼らに未来はなかった。
「……グーイさん、幸せになれますよね?」
不安に駆られて一号はゼロに尋ねた。
ゼロは静かに、はっきりと頷いた。そして言った。
「生きていれば絶対、しあわせになれるさ」