色は匂へど [1]
昔読んだ小説で、科学技術によって人の心が分かるようになった人々の話があった。人々はそれが良いことだと信じていた。だからこそ、科学の力をその分野に惜しみなく注ぎ込んだ。研究が大成すれば、全ての人が何の疑問も無くその結果を受け入れた。
最初は、言葉にせずとも思っていることが分かり合えることに喜んだ。言葉という前時代的な手段に頼らずに意思の疎通ができる。新たな道を切り開いたと研究者達は喜びに沸いた。
しかし、喜びは長く続かなかった。思っていることがそのまま他人に通じるというのは恐ろしいことだと気づき始めた。他人に隠しておきたい本音や秘密が垂れ流しになってしまう。人の意外な本性を知ってしまう。人々は混乱に陥った。その話の結末は忘れてしまったが、その話はグーイの心に深く刻み付けられていた。
何故なら、グーイもまた人の心が分かる能力を持っていたからだ。
グーイの人の心が読める能力は生まれつき持っているものらしい。そうゼロから聞いた。
グーイにとってゼロとは唯一敬愛している存在だった。ゼロは強大な力を持っているのだが、それを破壊に使わずに創生の方向に利用していた。グーイはゼロのそういう平和主義的なところが好きだった。
「恐らく、『生前』のお前にそういう能力があったのだろうな」とゼロは言った。
ゼロはグーイ以外にも多数の命を作り出している。彼らは一様に同じ外見をしており、ダークマター一族と呼ばれている。外見が同じで性格は全く違うものだから、グーイは最初戸惑った。
ダークマターを作る際、流石のゼロでも全くの「無」から命を作り出すのは不可能だ。だから、彼は人間の死体を下地に利用している。ゼロは下地というと無機質な印象がするからか、下地に利用した死体のことを「生前」と呼んでいる。
グーイの「生前」にそういう能力があったことはゼロにも予想外のことだったらしく、考えていることが分かると伝えたときはゼロもたいそう驚いていた。
「少し手を加えればその能力を消すこともできるが、どうする?」
グーイは少し考えたが、断った。そもそも自分は他のダークマターより戦闘能力に優れている存在として作られた。ならば、この能力を利用すればもっと強くなれる。もっと強くなれば、ゼロにもっと貢献できる。グーイにとってゼロに尽くすことが生きる意味だった。
ただし、ひとつだけゼロに頼んだ。ゼロの心だけ読めないようにしてくれないか、と。
「ゼロ様のお心を読むなんて、反逆に等しい行為じゃないですか」
難しいことだと分かっていたが、切に訴えた。ゼロは快く引き受けてくれた。
* * *
グーイの能力はオンとオフが切り替えられるような器用な能力ではなかった。傍にいる人の心が頭の中に流れ込んでしまう。戦闘中であろうとそうでなかろうと。
そして多くの人間は自分の考えていることを誰かに一方的に読まれることを嫌う。ダークマター達も作られた命とはいえ、心は限りなく人間に近い。であるから、ダークマター達はグーイを避けた。
グーイの方もダークマター達を避けた。自分達のことは棚に上げて他人の欠点を探して優越感に浸るような輩など接しても意味が無い。たまに善人面してグーイに近寄ってくる奴もいるが、彼らの醜い本性はすぐ分かった。
誰も彼もがグーイを疎んでいる。誰に近づいても罵詈雑言がグーイの頭に流れ込んできた。彼らを避けようとどれだけ努力しようとも、完全に他人の悪意を遮断することは不可能だった。
この世に溢れる悪意という悪意を、グーイは生まれてすぐに味わいつくした。
心からの善人と言えるダークマターは、ただ一人いた。
彼はゼロが初めて作ったダークマターで、一号と呼ばれていた。一号はゼロの秘書をしており、ゼロに次いで高い地位にいる。それでいて、グーイや他のダークマターのような下っ端にとても優しく接する。最初、グーイは彼のその態度は偽善だと考えていたが、接してすぐに彼が本物の善人であると分かった。
確かに、一号の中にも苛立ちや怒りはあるのだが、それを表に出さない。他人に当り散らさない。暇だからといって他人を貶めて遊ばない。彼は黒い感情の無い平和を心の底から望んでいた。
「そんなのは、理想論だ」
とグーイが言ってみると、一号は苦笑した。
「確かに、そうですね。でも、少しずつでも近づけていけば、きっとできるはずです」
「現実を見ろよ」
毎日黒い感情を直に浴び続けているグーイにとって、一号の考えは理解しがたいものだった。けれども、グーイは彼のことが嫌いではなかった。彼の傍にいると黒々とした感情が少し落ち着いた。
* * *
ある日、グーイは何気なく一号のもとを訪れた。彼はゼロの秘書として常にゼロの傍にいるため、彼に会うとは同時にゼロに会うことでもあった。
ゼロの部屋は広い。広いのだが、あちこちによくわからない機械や薬品が散乱しているため、その広さを実感することはできない。機械や薬品はゼロが作ったもので、それらにはたいそうなお金がかかっているらしい。
「誰がそのお金を苦労して捻出しているのか、ゼロ様は分かっているんですかね」
と一号は昔言っていた。その時の表情と心に嫌なものはなく、まるで親が手間のかかる子供の世話をしているかのような印象があった。
部屋の中央に金属でできた無骨なベッドが置かれていた。それはゼロが命を作り出す際に「生前」を置くためのもので、今、ベッドの上にはひとつの死体があった。
身長からして子供だろう。全身に深い怪我を負っており、特に首から上の損傷がひどい。髪がなく、顔の判別もできない。世界の暗部に慣れているグーイでも少し顔をしかめた。
「何だよ、これ」
口をついて出た質問に、ゼロが答えた。
「『生前』だ」
「俺も、昔はこんなのだったんですか?」
「そうだ」
髪も顔もない、ひどい怪我を負った青年の死体を想像してみる。それが今の自分の体だと思うと、妙な気分になった。傷跡ひとつない、この温かい血の流れる体が元はこんな冷たい死体だったのか。
「これは、子供じゃないですか? 今まで子供のダークマターなんていませんでしたよね?」
ダークマター一族は全員が同じ外見で同じ年齢だ。今ベッドに置かれている「生前」はどう見ても子供の体だ。これからダークマターを作っても今までのダークマターより小さくなるのは明らかだ。
「子供のような存在も、社会に必要だろう?」
ゼロはうっすらと微笑んだ。
ゼロが命を作る際は、秘書である一号も部屋を追い出される。命を作るというのは非常に集中力を使う作業で、誰かが傍にいるだけでもだめらしい。
普段は自由奔放でとても一族の長とは思えない子供っぽい行動を取っているだけに、そういう一面を見せられると彼が凄い人物であると改めて認識させられる。
「あんな人でも、やるときはやりますから」
ゼロと接する時間が最も長い一号も、毎回部屋から追い出されるときは彼を尊敬のまなざしで見ていた。
「グーイさん、子供のダークマターのこと、どう思います?」
ゼロの部屋から離れ、一号の部屋に向かっている最中、一号がグーイに聞いた。
「まず、孤立するだろうな」
子供であるから何の役にも立たない。外見も違いすぎる。孤立することは簡単に予想できた。
「ゼロ様のことだから、何か考えがあるとは思うんだが」
ゼロの心は読めないから、彼の真意は分からない。ただ想像してみるしかない。
「グーイさんに彼の世話を頼むかもしれない、ゼロ様がそう言っていましたよ」
「え」
予想外の言葉に、久々に驚いた。一号の心を読んでもそれが嘘だとは言っていない。
「今からでも、愛称を考えておきます?」
「何で俺が」
「確か、彼はダークマター百六十八号になる予定です」
「呼びにくいな」
現在百六十七人もダークマターがいることに少し驚いた。そんなにいるとは思っていなかった。
「イロハ、なんてどうでしょうか。安直ですが分かりやすいと思います」
「イロハ」
口に出してみる。なるほど、悪い気はしない。
* * *
一号の部屋に着いて、グーイは一号と別れた。一号と別れてすることも特になかったが、一号に依存してしまうようになりたくなかったので、グーイは一号と過度に接することを避けていた。
当てもなく長い廊下を歩き、ふと気がつけば行き止まりまで来ていた。踵を返して来た道を戻っていく。
ここ、ファイナルスターは星全体がダークマター一族の本拠地であり、星の全てが建造物で覆われていた。庭もなく、グーイはこの星の「地面」を見たことがない。空もわざわざ屋上まで上らないと見えない。グーイは地面にも空にも興味がなかったのでそれらのことを残念とは思わなかった。
星全体が本拠地であるから、その広さは目を瞠るものがある。グーイも生まれたばかりの頃は一号の案内がなければすぐに迷った。時には遭難しかけることすらあった。しかし、今のグーイは完璧な地図が頭の中にあり、自分の庭同然のものになっていた。
再び適当に歩き、時折すれ違うダークマターから負の感情を投げつけられた。もう慣れているのでどうということもなかった。
自室に戻ろうと思いついて道を曲がったとき、ダークマター十八号に会った。グーイは思わず顔をしかめた。
十八号はグーイが最も嫌っているダークマターだった。彼は他のダークマターよりも露骨にグーイを嫌い、心と言葉の両方でグーイを罵った。誰よりも汚い心を持ち、他人を蹴落とす時にしか生きがいを感じない腐った男。彼のほうも、グーイを一目見て顔を歪めた。
「げ、おまえかよ」
「それは俺の台詞だ」
グーイも露骨に顔を歪めて見せた。
「おまえさあ、いい加減どっか行けよ」
さっさと死んでくれよ。十八号の心はそう言った。どっか、とは天国か地獄か、とにかく死後の世界のことだろう。
「残念ながら、当分死ぬ予定はないぞ」
グーイは口の端を引っ掛けるようにして笑った。十八号の悪意にはもう慣れていたので、暴言を吐かれても心は痛まなかった。だが、心は痛まなくても苛立ちは募る。グーイは十八号を見るたびに彼を殺したい衝動に駆られた。
「俺より弱いくせに、よくそんな暴言が吐けるな?」
十八号の実力はダークマターの平均よりほんの少し上程度のもので、グーイはどんなダークマターをも軽く凌駕する実力を持っていた。自分より明らかに弱いのに何故こんなに露骨に反抗できるのかがグーイにとって不思議だった。
痛いところを突かれた十八号は言葉に詰まり、
「……俺はお前とは違うんだ!」
と月並みな台詞を吐いて足早にその場を去った。グーイは彼の背中に向かって中指を立てた。とてもゼロに作られた命とは思えない醜さだ。
自分の部屋が世界で一番落ち着く場所だった。心を読む能力というのは意外と多くの人が持っていると聞いたことがあるが、能力の有効範囲は人それぞれであり、グーイの場合は半径約三メートルが有効範囲だった。それを知った一号の計らいで、グーイの部屋の周囲は空き部屋となっていた。おかげで自分の部屋にいると誰の声も聞こえない。
安普請のベッドに腰掛け、読みかけの推理小説を読み始めた。ありふれた密室殺人の小説で、まだ殺人が起こったばかりのところだった。
グーイは小説や漫画のようなものを読むのが好きだった。登場人物の心を読むことはできない。誰が犯人だとか誰の過去がどうだとか知ることもない。先の読めない展開がどんどん広がっていく。それが、妙に新鮮で楽しい。
小説を読みふけり、気がつけば深夜になっていたのでベッドに横になって眠った。小説は第二の殺人が起こったところだった。
* * *
翌日、グーイはゼロに呼び出された。ゼロに呼び出されることは滅多にないことなのでグーイの心は喜びに弾んだ。
「ゼロ様、お呼びでしょうか?」
部屋の扉を開けると、ゼロの姿を認めると同時に胸元に何かが飛び込んできた。グーイよりも小さいものの、人間のようで、温かな体温を持っていた。
「グーイ?」
その人間のようなものがグーイの顔を見て小首をかしげた。それは一号を幼くしたような顔立ちをした少年で、顔中に満面の笑みを浮かべていた。
「あの、これは」
「ダークマター百六十八号。グーイ、お前に百六十八号の指導を頼みたい」
「え?」
グーイは驚いてゼロと百六十八号を交互に見た。ゼロは微笑み、百六十八号はやはり満面の笑みを浮かべている。ひどい怪我をして髪も顔もなかった死体だったとは思えないほど生き生きとしていた。
「……俺に指導なんてできるわけないですよ。自分のことで精一杯だってのに」
実際、今受けている悪意を消化するだけでグーイの心は精一杯だった。これ以上の負担を負えそうにない。
「いいか、これは命令だ」
ゼロが一言でグーイの抗議を切り捨てる。
「……分かりました」
百六十八号の顔を見る。彼の顔にも心にも、邪念というものがなかった。子供というのは世界を知らないから邪念も持たないのだなと思った。
「グーイ。これは、お前のためにもなる」
百六十八号と部屋を出る直前に、ゼロがそう言ったのが聞こえた。
『グーイさんに彼の世話を頼むかもしれない、ゼロ様がそう言っていましたよ』
昨日一号が言った通りになってしまった。とんでもないお荷物を背負ってしまった。グーイは心の底からため息をついた。
「ダークマター百六十八号」
なんとなく名前を呼んでみると、
「はい」
百六十八号はまっすぐな返事を返した。
「お前の部屋は、どこにある?」
「部屋? 知らない」
予想はしていた。
仕方ないので、一緒に百六十八号の部屋を探すことにした。各ダークマターの部屋は基本的に番号順に並んでいるため探すことに苦はなかった。案の定、百六十七号の部屋の隣に百六十八号の部屋はあった。
「ほら、これがお前の部屋だ」
「僕の部屋?」
百六十八号はドアを開け、中に置いてある安普請のベッドと机と空っぽの本棚を見て歓声をあげた。歓声をあげるほどのいい部屋ではないのだが。
ベッドに飛び込んで意味もなく枕を叩く百六十八号にグーイは声をかけた。
「百六十八号」
「なに?」
百六十八号は枕を叩く手を止めてグーイの目を見た。
「お前、俺はいわば先輩なんだぞ」
「センパイ?」
「偉い人って意味だ。だから、敬語で話せ」
「ケイゴ? なにそれ?」
グーイはため息をついた。敬語も知らないなんて厄介なやつの世話をする羽目になったものだ。
「まあ、語尾にです、とか、ます、とかつける言葉遣いだ」
「です、か。分かった」
じろりと睨む。敬語で話せと言っただろう。
「……です」
よろしい。
「いいか。ここではお前が一番下の順位だ。他のダークマターは全員お前の先輩だ。つまり、どうすべきか分かるな?」
「敬語、です?」
「そうだ。誰かと話すときは必ず敬語で話せ。何を言われても決して言い返したり怒ったりするな」
例え十八号のような醜い奴が相手でも。それが「子供」として生まれた百六十八号の宿命だ。
「イロハ、分かったな?」
昨日一号が百六十八号のあだ名を考えたのを思い出して、それで呼んでみた。
「……イロハ?」
百六十八号は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「お前のあだ名だ」
「イロハ、ですか」
百六十八号はイロハ、イロハかあ、と何度も呟いた。気に入ったらしい。
「……じゃあ、俺は部屋に戻るから何か困ったら俺の部屋に来いよ」
ドアを開けて百六十八号の部屋を出た。後ろから声がした。
「グーイ、ありがとう」
振り返ってじろりと睨んだ。
「……です」
「さん」が足りない。ドアを閉めて百六十八号の部屋を後にした。