揚羽蝶のエレジー [1]
深い闇の中、十八号は目を開けた。
闇に目が慣れるまでの間、辺りの物音にじっと耳を澄ます。かすかな風の音と、それに揺らめく葉の音が聞こえる。辺りの空気は夜独特の涼しさに満ちており、風が吹くとやや肌寒く感じられた。息を吸うと緑の匂いが体中にしみわたる。
「めんどくせえな」
闇に目が慣れて見えてきた自然だらけの風景に、十八号は舌打ちした。辺りを見回すと遥か遠くに町の灯がちらちらと見えた。ダークマターの飛行能力ならあそこまで飛ぶのにさほど時間はかからないが、それでも面倒なことなのは変わらない。
十八号は重力の糸を断ち切って宙に浮かび、街に向かって最高速度で飛んで行った。
この星の名称がどういうものだったかはすぐに忘れてしまったが、自然が豊かな星であることは事前の調査で分かっていた。食料が豊富で文明もそれほど発達しておらず、外惑星とのコンタクト手段は持っていなかった。故に、ダークマター一族の食糧補給地の一つとして挙げられていた。
そして今、食糧補給の為に十八号や他のダークマター達がこの星にやって来ていた。
町の上空までたどり着くと、ゆっくりと地面に降りた。石畳の硬質だが温かみのある感触を足の裏に感じた。辺りは広い円形の広場になっており、十八号はその中央付近に立っていた。綺麗に敷き詰められた石畳は昼間に見ればさぞ美しいものなのだろうが、今は夜の闇に覆われていた。広場の周りには開放的な造りの喫茶店や商店が並んでいるが、何より目に留まるのは教会だった。
広場の周囲三分の一ほどを占める巨大な教会で、巨大な扉と天井に飾られた十字架が闇に屈することなくその存在を主張していた。巨大な扉の左右からはエンタシスの柱が等間隔で並んでおり、そのどれもに細かな装飾がなされていた。きっと扉や壁面にも細かな装飾はなされているのだろうが興味はなかった。
教会から目を離し、ふと後ろを振り向くとすぐそこに大きな銅像が建っていた。円形広場のちょうど中心に建てられたそれは、厳めしい顔つきの男の銅像だった。過去の偉人なのだろうな、と思って銅像の台座に刻まれた文字を読むと「チェルムズフォード」という名前と生没年が刻まれていた。彼が何をした男なのか、そう言ったことは全く刻まれていなかったが特に残念だとは思わなかった。興味もない。
円形広場の東西と南から住宅街に通じる道があった。十八号は深く考えずに南の道を選んだ。こんな田舎にいても楽しくもなんともない。さっさと仕事を終わらせて帰りたかった。
家や商店に侵入し、食料を盗んで行く。
たったこれだけの事をこの俺がしなくてはいけないのか、と十八号は苛立っていた。ダークマターは沢山いるのだから、俺をわざわざこんな所まで寄越すな。今回の仕事のメンバーを選んだのは誰かは知らないが、その「誰か」に対して十八号は怒りを覚えた。
早々に仕事を終わらせたいのは山々だが、中央広場一帯の商店とそこから近い全ての住宅は他のダークマターが既に侵入していた。俺の為に手近な場所に一つ残しておけよ、使えねえ奴らだな、と住宅に灯る明かりに対して毒づいた。
住宅街をひたすら進み、空いている家がないか探して回った。どの家にもダークマターが灯したのであろう明かりが点いており、これはもう仕事をサボるしかねえなと思ったところで、その家を見つけた。
古い、一階建ての小さな家だった。漆喰の壁は元々は白色だったのだろうが、長い年月の間に何とも言えない汚らしい色に変っている。ドアノブを握って回してみるが、予想通り鍵がかかっていた。
毎度のことながら面倒くさい。十八号はドアの向こうに座標を定め、瞬間移動を行った。瞬間移動はかなりのエネルギーを消費する魔法なのだが、ドアの向こう側程度ならそれほど支障はなかった。
明かり一つない部屋の中は何も見えなかった。十八号は手探りで壁際を探り、そして見つけたカーテンを開いた。外から月光が差し込み、部屋の内部の様子が若干見えるようになった。それでもやはり見えにくいことこの上ないため無造作に置いてあったランプに火を灯した。部屋が一気に明るくなる。
家の中は本当に小さかった。部屋はここ一つきりで、生活用品があちこちに置かれていた。一見すると乱雑に放置しているように見えるが、その配置は生活をする上で最も効率的なものだった。部屋の奥にはベッドが置かれており、その上で若い女性が寝息を立てていた。十八号は女性の元に近づき、様子を見る。部屋が明るくなったにも関わらず起きる気配はなく、規則正しく胸を上下させている。これならば体を乗っ取って自由を奪うまでもないな、と十八号は判断して台所の辺りを探り始めた。
十八号が背を向けた瞬間、女性が薄く眼を開けたが十八号は気付かなかった。
あちこち錆びついた台所は几帳面に片づけられていて、鍋は大きいものから順番に重ねられていた。台所の横には大きな麻袋がいくつか置かれている。十八号は麻袋の前に座り、麻袋の一つを適当に掴んで開けた。中にはパンが詰まっていた。触ってみると堅く、かなり日持ちがよさそうだった。とりあえずこれを盗もう、とその袋を自分の横に置く。他の袋には何が詰まっているか調べようとまた一つ適当に掴んだ瞬間、背後に人の気配を感じた。十八号が振り返ると同時に、
「痴漢は死ね!」
女性が振り下ろしたフライパンが、十八号の脳天を直撃した。
* * *
目が覚めると、床に寝転がっていた。起き上がろうとするがそこで手足が縛られていることに気付いた。同時に頭がずきずきと痛み、フライパンで殴られたことを思い出した。
何なんだこの状況は。十八号が戸惑っていると頭上から声が降ってきた。
「あら痴漢野郎、お目覚めのようね?」
体を転がして声がしたほうを見ると、先ほど眠っていた女性が警戒心をあらわにした表情で十八号を睨みつけていた。
「……痴漢野郎?」
頭の痛みに顔をしかめながらも十八号は尋ねる。
「そうよ。こんな深夜にうら若き女性の部屋に侵入する奴なんて、痴漢以外いないじゃない」
「俺は痴漢じゃねえよ。ここには仕事で来ただけだ」
「はあ? 仕事?」
そんな言い訳が通用すると思ってるのか、とでも言いたげな彼女に、十八号はダークマターという組織や仕事内容について簡潔に説明した。これで誤解が解けるとは思っていないが、黙ったままでは何をされるか分からない。
十八号が説明を終えると、彼女は黙って腕を組んだまま十八号を睨んでいた。十八号も黙って彼女を睨んだ。これから何をされるのかは全く予想がつかず、やや怖さも感じているのだが「見逃してくれ」と無様な面を見せるつもりは毛頭なかった。女相手にそんなことをするくらいなら死んだ方がましだ。
「……仕事ねえ」
彼女は険しい顔のままため息をついた。
「人の家にこそこそ入って盗んでいくなんて、あなたそんな仕事を誇りに思ってるの?」
「誇りとかの問題じゃねえよ、仕事だから仕方ねえだろ」
「仕事だから仕方ない? そんなことで自分を正当化してるわけ? 罪悪感とか感じないの?」
「罪悪感、ねえ」
十八号は今まで自分が行ってきた行動を思い返しながら、彼女の単純さに呆れていた。仕事だと説明したらすんなりとそれを信じ、今は仕事の内容について怒っている。痴漢云々の事は綺麗に忘れ去られているように見えた。
「多少はあるけど、仕方ねえよ」
「また仕方ない! あのね、自分が同じ目に遭った時の痛みとか考えて行動したりしないの? 悪事をする時はそれぐらい考えて行動しなさいよ、せめて」
「はいはい、分かった分かった」
「はいは一回!」
はい、と言い直すと彼女は満足げに頷いた。が、頷くだけで十八号を縛るロープをほどく気配は見せない。
「……おい、お前の言いたいことは分かったから早くほどけよ」
十八号がそう言うと、彼女は信じられないといった表情で十八号を見た。
「仕事の件は済んだけど、痴漢の件は済んでないわ」
「はあ?」
予想もしない言葉に十八号の声は裏返った。ここに来たのは痴漢ではなくて仕事だと説明したはずだ。その事をもう一度彼女に言うと、彼女は十八号の腹を蹴った。手加減のない一撃に十八号の視界がぐらりと揺れた。
「仕事だから若い独身女性の部屋に忍び込んでいい、なんてそんな理屈があんたの一族にはあるわけ?」
反論をしようとした瞬間、彼女の蹴りが再び飛んでくる。
「それとも何? あんた私に好意でもあるわけ? まあ私も花盛りの年齢だから分からないでもないけど、でも物事には手順ってのがあるでしょ。いきなり深夜に寝室に忍び込むなんて性急にも程があるわ」
何故好意があるなんて論理展開が行われるのだ、と十八号は混乱しつつも、解放の糸口はここだと判断してしゅんとした表情を作ってうなだれて見せた。
「……そう、だな。確かに性急すぎた」
十八号の態度の急変に、彼女が戸惑うのが分かった。
「そ、そうよ。最初は路上で話しかけるとか、そういう自然なところから始めるべきよ」
「ああ……そうすべきだったな……。一人で舞い上がってしまってた、ごめん」
「……反省すればいいのよ」
「ありがとう。こんな俺を許してくれるとは優しいな、君は」
彼女がしゃがみ、ゆっくりとロープをほどき始めた。その間十八号は彼女の顔をじっと見ていたが、彼女の方は頑なに十八号と目が合わないようにロープの結び目を凝視していた。
「……まだ許したわけじゃないわ」
ぼそぼそと呟くように言いながら、彼女は十八号の手足を縛るロープを全てほどいた。十八号は立ち上がり、「まだ許したわけじゃない?」と首をかしげた。
「明日、最初からきちんとやりなおしなさい」
「最初から?」
「そうよ。道端を歩いているところ声をかける、店で何を買おうか悩んでいるところに来てアドバイスをする、暴漢に絡まれているところを颯爽と現れる、なんでもいいから自然な方法で私と知り合いなさい」
訳が分からない。十八号が表情でそう訴えても彼女は無視を決め込んで十八号をぐいぐいと家の外へと押し出した。戸惑う十八号を家の外へと押し出すと、彼女はにっこりと笑い、
「じゃあそういうことだから明日ね! 明日来なかったら呪ってやるから!」
ドアをぴしゃりと閉めた。
* * *
「ふうん、面白い人だねえ」
医務室のソファに座り、テレビを見ながら三十二号――愛称ミツはにこにこと微笑んだ。テレビにはスプラッター映画が写っており、ミツの穏やかな笑顔とはかけ離れた惨劇が繰り広げられている。
「あんな奴は初めて見た」
十八号はソファの後ろに立ったまま腕を組んでいた。スプラッター映画は好きではないが嫌いでもない。ただ、悲鳴がうるさいのが少しだけ癇に障る。
「センパイ、そんな人に惚れちゃったの?」
「俺が? あれに? ふざけんなよ」
「でも、今の話だと惚れたって言ったようなもんだけど」
「馬鹿、あれは演技だ。誰があんな女に惚れるか」
こいつは分かっているくせに、わざとこういう事を言ってからかってくる。俺がお前にダークマターとしてのいろはを教えてやったのにこの態度は何なんだ、と不満を手の平に乗せてミツの頭をはたく。
「いったーい」
「ビデオに映ってる奴らが感じてる痛みは「いったーい」程度じゃすまねえだろうな」
十八号がそう言った瞬間、映画の中で血しぶきが舞った。おー、とミツが小さく歓声を上げる。血しぶきが舞うことがそれほど素晴らしいことなのか、とミツの感性が分からなくなる。
「……で、明日また行くの?」
「は?」
「明日また来て自然な方法で私と知り合え、って言ってたんでしょ?」
確かに、そんなことを言っていた。が、こうして無事に帰ることができたのにわざわざあの星まで戻るなんて考えられない。向こうの文明はこの星に辿り着くほど発達もしていない、約束を破っても彼女がここまでやって来て暴力をふるうなんてことはあり得ない。
「女の命令なんて聞けるかよ」
もう彼女と会うことはない。よくよく思い出してみればなかなかの美人だったが、特に残念だとは思わなかった。
医務室を出て長い廊下を歩く。ここから十八号の部屋までは相当距離があり、加えて階段の上り下りが多く体力の消費が激しい。医務室を出たばかりなのにその事を考えると少し気が重くなる。
ここに帰って来てからすぐに医務室に行ったのは気まぐれだった。奇妙な女性に出会ったことを誰かに話したかった。いつもならば取り巻きにしている三下のダークマターにでも話しているところだったが、残念ながら彼らは今仕事で他の星へ出向いていた。彼ら以外に十八号が話をするのはミツしかおらず、気づけば十八号はミツに彼女の事を話していた。取り巻きが帰ってくるのを待つ、という選択肢もあったはずなのに何故かミツに話していた。
「……そんなに今すぐ話すようなネタじゃねえよな」
俺はそんなに彼女の事を誰かに話したかったのか? 十八号は自分の事が分からなくなる。
無意識のうちに道を歩き、角を曲がるとそこには紫髪の男、グーイがいた。十八号は思わず顔をしかめた。
グーイは十八号が最も嫌っているダークマターだった。一般ダークマターより実力がある、それだけで彼は偉そうな態度で日々を過ごす。心が読めるという能力をいいように使って他人で遊ぶ腐った男。彼のほうも、十八号を一目見て顔を歪めた。最も見たくない顔を見てしまい、十八号は思わず言葉が漏れる。
「げ、おまえかよ」
「それは俺の台詞だ」
グーイは露骨に顔を歪めて見せる。
「おまえさあ、いい加減どっか行けよ」
さっさと死んでくれよ。お前みたいな頭でっかちのダークマターは組織のお荷物なんだよ。グーイが人の心を読めると知った上で、十八号は心の中で暴言を吐く。
「残念ながら、当分死ぬ予定はないぞ」
グーイが口の端を引っ掛けるようにして笑う。その笑い方が憎らしい。十八号はグーイを見るたびに彼を殺したい衝動に駆られた。実力的に見て殺せるはずがない、と頭では分かっていても心は殺意で満たされていた。
「俺より弱いくせに、よくそんな暴言が吐けるな?」
お前の実力は一般ダークマターの平均のほんの少し上程度のものだろう、とグーイが嘲っているように聞こえた。
俺は弱い。突かれたくないところを突かれた十八号は、
「……俺はお前とは違うんだ!」
勢いだけの台詞をグーイにぶつけて足早にその場を去った。部屋への道すがら、その言葉を反芻して自分は他のダークマターと何が違うのだろうか、と考えた。
部屋に着くまで考えたが、なにも、思いつかなかった。
* * *
ダークマターとしての日々は多忙とは言い難い。むしろ、その逆だ。食糧や必要物資の補給、防衛などやる事は多くあるが、ダークマターの数が多いため一人一人の仕事量は少ない。一日仕事をこなせば、数日間は仕事はない。
空いた時間をどう過ごすかは個々によって違いがあった。自己鍛錬に励む者、知識を深める者、遊び呆ける者、何もしない者。休日の過ごし方でダークマターの個性が見える。
仕事を終えた次の日、十八号は部屋で寝転んでぼうっとしていた。疲れているから寝転んでいる、という訳ではなく特にやりたいこともないので寝転んでいた。二度寝でもしようかと考えたが、それができるほどの眠気もなく、ただぼうっと天井を眺めていた。そうしているうちに時間は過ぎ、一日が終わる。十八号の休日の多くはそれで終わっていた。
休日の過ごし方としては最低だとは十八号も自覚していた。しかし、やりたいことが見つからないので何もできない。時折色々なことに手をつけてみるのだが一日で飽きた。
何も考えずにぼうっとしていると、不意に腹が大きな音をたてた。時計を見れば昼飯時で、そういえば朝飯は食べていなかったので胃は空っぽと言っても過言ではなかった。
十八号はベッドから起き上がり、食堂に向かった。
食堂では多くのダークマターが昼飯を食べながら談笑していた。誰もが穏やかに幸福そうな笑みを浮かべており、十八号はその笑顔とは対極のむすくれた表情で、トレイを片手に食事を受け取る人々の列に並んだ。
列の先頭の方では家事全般を担当している桃髪の少女、ブロッブが料理を渡していた。家事全般を担当している、というとかなり過酷な仕事のように思えるが、彼女はダークマターから人気があり、多くのダークマターから手伝って貰っているのでさほど大変な仕事ではないらしい。
着々と列は進み、十八号の前に並ぶダークマターがブロッブから食事を受け取った。その際ダークマターが彼女に声をかけた。
「いつもお疲れさん。大変だな」
ねぎらいの言葉にブロッブは微笑みを浮かべる。
「ありがとうございます。貴方もお仕事お疲れ様です」
「そういやさ、ミツとは今どんな感じなんだ?」
「え、な、なんでそこでミツさんが出てくるんですか」
ミツの名を耳にした途端、ブロッブの顔は見る見るうちに真っ赤になる。こいつは何故あんな奴を好いているのだろう、と十八号は常々不思議に思っていた。
顔を真っ赤にして言葉にならない言葉を呟いているブロッブを目にしたダークマターは、
「ま、がんばれよ。恋せよ乙女、成せば成る」
とだけ行って列を離れて仲間のダークマターの元へ向かった。
十八号は黙って列を詰め、まだ顔が赤いブロッブから料理を受け取り、何も言わずに列を離れた。
誰も座っていないテーブルに料理を置き、一人で食事を始める。取り巻きの奴らを探して一緒に食べる、という選択肢もあったのだが、ただの食事のために人探しに時間を割くのは勿体ない。もくもくと料理を口に運びながら、先程のダークマターとブロッブの会話を思い出す。
「……不毛だな」
ブロッブがミツを好いている、という事実はダークマターの誰もが知っていた。ミツの名を出すだけでブロッブは真っ赤になるのだから、当然と言えば当然だった。
その事実は、おそらくミツ本人も知っている。しかしミツはブロッブに対して特別な反応は返さず、いつも通りの笑顔でいつも通りに接している。
つまり、ミツはブロッブの事を何とも思っていない。
恐らく誰もがその事に気づいている。が、誰もそれをブロッブに言わず、時折彼女をからかいながらも応援している。実らない恋にも関わらず応援されている、とは十八号からすれば無意味そのものであった。
「…………」
ふいに、昨日出会った彼女の顔が浮かんだ。そういえば、今日自然な形で出会うようにと言われていた。
「……めんどくせえなあ……」
正直な話、気乗りしなかった。しかし、午後も寝転がるだけで潰すよりも彼女と会ってやった方が有意義ではあると思った。
食べ終えた食器はそのままにして、十八号は食堂を後にした。
* * *
彼女が住む町に辿り着いたのは、もう日も暮れかけている頃だった。夕日に照らされているためか、昨日見た町の様子とはうって変わったものになっていた。夕暮れ時にも関わらず通りには多くの人がおり、民家の玄関では中年女性が集ってぺちゃくちゃと何かを喋っている。昨日訪れた円形広場では老若男女がうろついており、広場周辺の喫茶店では客がケーキと紅茶を楽しみながら雑談をしている。広場の多くを占めている教会の扉は開いており、教会の中にもまた多くの人々がいた。よくもまあこれだけ多くの人間が沸いて出てくるものだ、と十八号は少し呆れた。
十八号は円形広場から離れ、彼女の家に向かった。これだけ人間がいる中、彼女一人を探し出すのは骨が折れる。彼女の家の周辺で待っていた方が確実に楽だろう。
「――いい加減にしてって言ってんでしょ!」
彼女の家まであと少し、といったところまで歩いた頃、ふいにそんな声が飛び込んできた。声のした方に目をやると、家と家との隙間、薄汚れた路地にがっちりとした体格の男が立っていた。背を向けた彼の前には誰かが立っており、じっとその様子を観察してみると、女性と思しき人物が男に絡まれている図であると解釈できた。
「ああ? 人の服を汚してくれてその態度かよ?」
男の野太い声が耳触りだ。十八号はその路地に向かい、無言で男の背後に立った。男は十八号に気づくことなく、その女性に対して謝罪や服の弁償を要求している。今にも暴力を振るいそうな男達とは対照的に、
「そんなボロっちい服、今更汚れたって大して変わりはないんじゃない?」
女性は冷笑を浮かべて男を馬鹿にしていた。
「てめえ……ちょっと身の振り方ってもんを教えてやろうか?」
男はぱきぱきと指の骨を鳴らし、女性に殴りかかった――
――が、十八号が男の腕をつかんで引きとめた。女性の目と鼻の先で頑丈な拳は止まった。殴られたら相当痛いと予想できるはずなのに、女性の顔には怯え一つなかった。それどころか、人を舐めきった笑みを浮かべている。
男は敵意をむき出しにした表情で振り返り、十八号を睨む。
「邪魔すんじゃねえよ!」
今度は十八号に向かって拳が飛んでくるが、怒りに任せた攻撃ほど読みやすい攻撃はない。十八号はひょいとそれを避け、男の後ろに回って音もなく剣を抜いた。そして男が振り返るよりも先に首筋にその冷たい刃を当てる。
「大声で騒ぐな。耳障りだ」
十八号が男の耳元で威圧感を込めてそう言うと、男の態度は空気の抜けた風船のようにしゅんとなった。首筋から刃を離しても男は暴力をふるうことなく、無言でその場を去って行った。
「……何やってんだよ、お前は」
男が視界から消えたのを確認してから剣をしまい、彼女の方を向いたと同時に、
「こんなベタベタな出会い方を選ぶあんたの神経が分かんないわ」
彼女は蔑むような視線を十八号にぶつけてきた。
* * *
「――で? これで満足かよ?」
円形広場の一角にある洒落た喫茶店で、十八号は向かって座る彼女に不満の表情をぶつけた。
「出会い方としては零点ね。最悪」
彼女は十八号の不満顔にまるで気付かないふりをしながら、やって来たウェイターに紅茶とケーキを頼んだ。
「もっといい出会い方もあるでしょうに、なんで「暴漢に絡まれているところを助ける」なんてものを選ぶかな」
「じゃあどんな出会い方が百点なんだよ」
彼女は水の入ったコップを暇そうに撫でまわしながら、少し考えた。
「私が食パンくわえて急いで走っている時に、T字路や十字路の角でぶつかるとか」
「そっちの方がベタじゃねえか」
「ベタじゃなくて王道よ、王道。乙女心が分かんない奴ね」
「分かりたくもねえよ」
そう答えると、何故か水をかけられた。
ウェイターが紅茶とケーキを運んできた頃、「そういや、名前は?」と彼女がふいに訪ねてきた。
「名前?」
「名無しの権兵衛なんて言ったらぶん殴るからね」
紅茶に砂糖を入れながら、彼女は上目使いで十八号を睨む。普通上目使いと言えば女性の可愛らしい仕草の一つなのだが、今の上目遣いには可愛らしさの欠片もなく、むしろ凶悪な仕草と言ってもよいものだった。
「ダークマター十八号」
十八号が正直に答えると、彼女は「うわ変な名前」と即座にけなした。
「それって何なの、やっぱり十八番目に作られたから十八号とかそんなノリなの?」
「そんなノリだ。で、お前の名前は?」
「あー、私はねえ。名無しの権兵衛」
「ぶん殴るぞ」
半ば本気で言ったのだが、彼女はそれを冗談と捉えてうふふと笑った。
「ディアナ」
いい名前でしょ? と彼女は続ける。十八号は頷いたが、これは彼女の凶暴さや理不尽さを欠片も表していない名前だなと思った。殴られるので、口には出さない。
互いの名前を知り、さてこれからどうしようと十八号が思案していると、彼女はうつむいてぼそぼそと何かを呟いていた。「十八、うーん、十八か」と辛うじて聞き取れる。
「おい」
十八号が声をかけると、彼女は「よし決めた!」とぱっと顔を上げた。
「決めた?」
「トウヤ」
「は?」
彼女の口から飛び出した意味不明の単語に首をかしげた。疑問符を浮かべる十八号とは対照的に、彼女は晴れやかな顔を浮かべていた。
「あなたのあだ名よ」
「あだ名?」
「そ。十八だからトウヤ。いいあだ名でしょ? 私のネーミングセンスを褒め称えなさい」
「安直じゃねえか」
十八号がそう言うと、彼女は紅茶に砂糖を混ぜる時に使ったスプーンで十八号の額を思いっきり突いた。
予想外の痛みに無言でうずくまり苦しむ十八号の頭を彼女は軽く撫でる。
「この程度でダウンとはだらしないぞ、トウヤくーん」
きっと今の彼女はこれ以上ないほど爽やかで憎たらしい笑顔を浮かべているのだろう。そう思うと怒りがこみ上げたが、トウヤというあだ名はすっと心に染みた。