揚羽蝶のエレジー [2]
休日になると彼女に会いに行くようになった。それは会いたいから会っている、という訳ではなく、改めて知り合ったあの日、うっかりダークマターの仕事は暇で休みが多いことを漏らしてしまったからである。
「ふうん、じゃあまめにここに来れるんだね」
と彼女はにこにこと微笑みながら、十八号の頭を鷲掴みにした。微笑みの裏の「来なかったら握り潰すぞ」という脅し文句がその手の平から伝わってきた。
その気になればそんな脅しは無視して、元の平凡な生活に戻ることもできたが、その気にはならなかった。平凡で退屈な生活に戻るよりも、こうして彼女と過ごす方が幾分か刺激的で有益だと十八号は気づいていた。
十八号には彼女を異性として見る気は全く無く、彼女を暴力的で滅茶苦茶な生き物と捉えていた。だいたい異性交遊にはロクな思い出がないから、わざわざそんな目で彼女を見る気にはならなかった。
恐らく彼女はあの夜の会話から、十八号は自分に惚れていると思っているだろう。だからといって、いつまでも彼女に惚れているふりをする気はない。恋愛ごっこをしてやるメリットなど何一つないのだ。十八号は自然体で彼女と接した。彼女もまた、恋愛がどうのこうのなど言わずに、普通に十八号と接していた。
「そういや、あの銅像は誰なんだ?」
ある日の昼下がり、円形広場の周りにある喫茶店のオープンテラスの中で、十八号は広場の中央に建てられている大きな銅像を親指で指した。
「気になる?」
彼女はケーキに乗ったチョコレート製の蝶をフォークでつつきながら、目線を上げずに言った。
「そんなには。けどまあ、それ以外話すこと思いつかねえし」
「無言の空気を楽しむとかそういう趣味はないわけね」
彼女はどこか残念そうなため息をつき、銅像の人物について説明を始めた。
「あれはね、チェルムズフォード卿。今から何百年か前に活躍した貴族ね。元々は庶民だったらしいけど、実力で貴族に成り上がったって言われてるわ」
「成金か」
「まあ、そうね。……で、彼がした業績は」
彼女はそこで一旦言葉を切り、ケーキの上のチョコレートの蝶をフォークですくい、皿の上に乗せた。彼女の良く分からない行動に首をかしげる十八号を無視して、彼女はフォークを逆手に持ち、
「魔女狩り」
チョコレートの蝶を真っ二つに割った。
「魔女狩り?」
「そう。昔からね、この国は伝染病なんかの災いは魔女が起こしていると信じられているの」
「非科学的だな」
「あなたの星ほど科学が発展してないんだから、仕方ないでしょう? で、チェルムズフォード卿は災いを断つために大規模な魔女狩りをしたの。何年にも渡って魔女を探して狩り続けて、彼が見つけた魔女は数百人とも数千人とも言われるわ」
「何をどうやって、そいつが魔女だと分かるんだ」
まさか家の中に大きな鍋があってイモリのスープなんかが作られているかどうかではないだろうな、と冗談を飛ばすが彼女は反応しない。
「それは彼なりの理論があったらしいけどね。私達庶民には知らされなかったわ」
「ふざけた野郎だな」
「それで、魔女狩りも終わってこれで災いは無くなった、って拍手喝采のめでたしめでたし、ってわけ」
「……それで終わりか」
「終わりね」
彼女は先ほど割ったチョコレートの蝶の片割れをフォークですくい、ぽりぽりと食べる。
「もっと波乱万丈な人生を送った偉人かと思ってたんだがな」
「残念でした」
チョコレートの蝶の残った片割れを彼女はつまみ、十八号のコーヒーの中に放り込んだ。「あ」と言う間もなくチョコレートの蝶はカップの底に沈み、コーヒーの黒さに紛れて見えなくなった。
「コーヒーを砂糖も入れずに飲むなんて信じられない」
十八号はスプーンでカップの底をさらい、チョコレートの蝶をすくい上げた。しかし大部分が溶けてしまっており、もはや蝶とは言えない小さな塊になっていた。
「だからってチョコレートを入れるな」
「案外美味しいかもしれないじゃない」
飲んでみたら? と彼女はからかうように言う。彼女にコーヒーをかけたくなる衝動に駆られるが、我慢してその代わりにコーヒーを一口飲んだ。
「…………」
「どう?」
「……意外と美味い」
不思議な甘さがコーヒーに生まれていた。
「まじで?」
彼女は何故か残念そうな顔でため息をつき、そして十八号の手からコーヒーカップを奪い取ると、何の躊躇いもなくコーヒーを十八号にかけた。
* * *
「あはは。それでセンパイはどうしたの?」
医務室のソファに座りマンガを読んでいたミツは本を閉じ、自分の横に作り上げたマンガの山の中にそれを放り込んだ。
「帰った」
マンガの表紙に描かれている手術着姿の男を見ながら、十八号はむすりと答えた。医務室には医学の本はなく、あるのはこういった医療マンガだけなのだから恐ろしい。
「復讐もしないで?」
「あれに復讐したらさらに三倍返しされるぞ」
「おお、それはこわい」
ミツは自分で自分を抱きながら、大げさに震えて見せる。十八号はすかさずミツの頭を叩いた。どうしてこいつはこうも人を小馬鹿にした態度ができるのだろう。
「センパイ、その人にいい様にあしらわれちゃってんじゃん。それでいいの?」
「うるせえな。どうせ暇潰しなんだよ」
十八号はミツに背を向け、廊下に出る扉を開けた。その瞬間、十八号の背後から声が飛んでくる。
「暇つぶしのつもりがいつの間にか熱中しちゃってた、って事にならないようにね」
十八号は足を止め、振り返る。今の声はいつものミツにはない何か妙なものがあった。
「暇潰しが……なんだって?」
十八号の少し真剣味を帯びた声に対し、ミツは不思議そうに首をかしげた。
「ひつまぶし? ああ、食べたいねえ。ちょっと高いのがネックだけどおいしいもんねえ」
問い返すのも面倒になり、十八号は無言で医務室を後にした。
休日になれば彼女に会いに行く、という日々は忙しかったが充実もしていた。彼女にいい様にされている分、疲労は明らかに以前よりも増しているが、「いつでも切り離すことができる」と考えればその疲労もさほど重荷ではなかった。十八号の気分一つで彼女との付き合いは消滅し、以前のようなのんびりとした生活に戻れるのだ。
「トウヤ」
彼女が自分の事をそう呼ぶのもいつしか当たり前になっていた。十八号は自分が「トウヤ」と名付けられたことは誰にも言わず、彼女だけが十八号の事をトウヤと呼んだ。
ダークマターとして生きる十八号と、彼女と接する時のトウヤ。
どちらも十八号であることは間違いないのだが、「トウヤ」でいる時は「十八号」でいる時よりも若干心が落ち着いた。
その心の落ち着きを深く考えようとはしなかった。考えようとするたびに「暇潰しのつもりがいつも間にか熱中しちゃってた、ってことにならないようにね」という言葉が十八号の心に釘を刺した。
彼女は、ただの暴力的で滅茶苦茶な生き物だ。
* * *
その暴力的で滅茶苦茶な生き物と二人きりで、トウヤは町から遠く離れた小高い丘に寝転んでいた。柔らかい草に身を預けるトウヤのすぐ隣で、彼女は寝転んで星空を眺めていた。夜空には雲ひとつなく、星がちかちかと瞬いている。
「今夜流星群が見れるそうだから一緒に見よう」
そう提案してきたのは彼女の方で、トウヤの意見を無視して夜になると彼を引き連れてここまでやって来た。
とっておきの場所だと彼女が言っていた通り、星は確かによく見える。しかし、肝心の流星は一つも見えない。
「……おい、流星群が見れるんじゃなかったか」
トウヤが寝転んだまま顔を横に向けて抗議すると、彼女も寝転んだままトウヤを見、そっとその手をトウヤにかざした。
その予想外に優しい動きにトウヤが面食らっていると、その瞬間その手は鋭く深くトウヤの顔面をひっぱたいた。
「男は黙って待ちなさい。そんなすぐに流星群が見れるはず無いでしょ」
あまりの痛みに言葉を無くしているトウヤを見て、彼女は「うん、それでよし」と満足げに頷いた。
流星群が来るまでの間、トウヤとディアナは無言で待った。会話など無くても、ただ寝転んで待つだけでも、不思議と退屈はしなかった。
時間はひたすら流れ、トウヤがうとうとしはじめた頃、「来た」とディアナが呟いた。
空を見ると、一筋の流れ星が現れた。トウヤが体を起こし、その流れ星が消える様を眺めていると視界の端でまた新しい流れ星が生まれる。次々と生まれる流れ星に、トウヤは目が離せなくなる。それはディアナも同じことらしく、彼女も無言でじっと寝転んでいる。
流れ星は次々と尽きることなく降ってくる。初めて見るその光景にトウヤは何も言えなくなる。思えばこうしてじっくり自然と向き合ってみるのは初めてのことだった。ダークマターとして長い年月を生きているのにもかかわらず、だ。
「……お母さん……」
流れ星の賑やかさにかき消されそうなほどか細い声で、ディアナが呟く。
「お母さん?」
トウヤが怪訝そうな顔をすると、ディアナは流星群から目を離してトウヤにその視線を向ける。
「私のお母さんね、私が小さい頃に死んじゃったのよ。お母さんが、ていうか私の周りの家族全員」
「…………」
「それで……まあお恥ずかしい話ではございますが、今ちょっとそれ思い出して感傷に浸っちゃったのよね。あー恥ずかしい」
ディアナは両手で顔を覆い、大きなため息をつく。その姿は今までの傍若無人な怪物とはかけ離れた、たった一人で生きるか弱い女性のように見えた。
ふいにトウヤの中に何かが沸き上がる。それを言葉にしようとするが、喉の奥でつっかえて何も言うことができない。
「そうだ、トウヤにこれあげるね」
胸元をごそごそとまさぐり、ディアナは銀製の揚羽蝶のネックレスを取りだした。寝転んだまま差し出されたそれを、トウヤは黙って受け取る。
細かな細工がなされた美しいものだった。銀の揚羽蝶のところどころに宝石があしらわれ、夜のわずかな光を受けてきらきらと光っている。貴金属には興味がないトウヤだが、これは相当貴重で高価なものだと分かった。
「……これ」
「私が持っていても仕方ないの、それ」
何かを言おうとするトウヤの顔を見ながら、ディアナはほほ笑む。
「無くしたらぶっ飛ばすわよ」
本当にいいのか? その確認の言葉を飲み込んで、トウヤは頷いた。
それから二人は夜が明けるまで、流星群を眺めた。
自分の中に沸き上がったこの気持ちが、「暇潰し」の終わりを告げた。
* * *
次の休日、十八号は初めて彼女と会うことなく一日を過ごした。今、彼女と会うことはとても出来なかった。
「暇潰し」ではなくなってしまった。切り離すことが、今までよりも遥かに難しくなってしまった。傷が浅いうちに諦めてしまった方がいいと頭では分かっていた。しかし、どうしてもそれができない。
久しぶりに沸き上がる感情に振り回されている。長い年月を生きてきたが、これをコントロールすることはどうしてもできない。辛い思いをすることは分かり切っているのに、どうしても避けることができない。
誰かに相談などできるはずもない。取り巻きに言ったところで世間一般の回答が帰ってくるだけだし、ミツに相談など論外だ。一号やゼロに相談するという手もあることはあるが、こんな下らない事を相談しに行く自分が間抜けのように思えて、結局誰にも相談はしなかった。
捨てるか、否か。
数日間悩んだ末に、十八号は決めた。
「――ん、久しぶり」
昼下がりに突然家に訪れたトウヤに対し、ディアナは普段通りの憎たらしい笑顔を浮かべた。
「話がある。入れてくれ」
「乙女の城に単身突撃とは勇気がある」
ディアナはからかうようにトウヤの額をつんつんとつつく。トウヤはそのからかいにも一切表情を変えず、真剣な表情でディアナを見る。
その表情から何かを察したのか、
「まあ、入ってもいいよ。やらしい事したら警察に突き出すからね」
すっと身を翻し、トウヤを家の中へと招き入れた。
ディアナの家の中は以前入った時と全く変わりがなかった。ここまで変化がないというのもある意味芸術的だった。トウヤは椅子に座り、台所で紅茶の準備をするディアナの後ろ姿を見つめた。
「今日ね、この町にお役人さんが来るんだって」
細い指が紅茶の葉をつまむ。
「何でも首都からはるばる来るらしいんだけど、うちみたいな田舎町に何の用かしらね」
重たそうにやかんを持ち上げ、ティーポットに湯を注ぐ。
「あれかしら、田舎には美人が多いから嫁探しとかかしら」
紅茶を作る所作の一つ一つに、改めて彼女が女性であると知る。
「嫁探しだったら私、立候補しようかな。玉の輿よ、玉の輿」
愛おしい。彼女を守りたい。強く、そう思った。
「玉の輿に乗れたら都会の可愛い服とか買い放題で美味しいものも食べ放題よ、最高だと――」
ディアナの言葉を待たずに、トウヤは後ろから彼女を抱きしめた。
場が静かになり、通りを行き交う人々の話し声が聞こえた。
「……トウ……ヤ……?」
ディアナは戸惑いながらも、背負い投げも肘鉄もせずに大人しくしていた。彼女は何もしない。その事が、ただ嬉しい。
「……ディアナ」
深く息を吸い、この思いを言葉にしようとした。
その瞬間、誰かが家の扉をノックした。ディアナはトウヤの腕をほどき、扉の鍵を空ける。肘鉄を食らわせて腕をほどきに来るかと思っていただけに、何の暴力も振るわずにトウヤから離れたのは少し意外だった。
ディアナが扉をあけると、そこには高級そうな服をまとった見知らぬ老人が立っていた。トウヤが知らないだけで、ディアナやこの町の住民からすると有名人かもしれないな、と思ったがディアナは「どちら様ですか」と警戒の表情を浮かべて尋ねた。
「私を知らぬとは、この町はかなりの田舎だな」
老人はふん、と忌々しげなため息をつき、自分の背後に控える従者を呼んだ。従者はすすす、と音もなく老人の横に立ち、一枚の紙をディアナに見せた。ディアナはそれを黙読し、
「……ふうん、このお爺さんが今日来るお役人さんなのね」
イケメン役人の嫁探しじゃなかったか、と残念そうに肩をすくめた。
「で、うちに何の用? お嫁さん探しなら私は無理よ」
「ディアナ――フルネームはディアナ・エリファスで間違いないな?」
老人の言葉に、ディアナの体が少し強張るのがトウヤにも分かった。
「ええ、それが何か?」
「父親の名前はルイ・エリファスで間違いないな?」
「…………」
ディアナが沈黙すると、老人の背後に控える従者たちが各々の腰に手をかけた。銃だ、とトウヤは直感的に理解する。不穏な空気を感じ取り、ディアナは一歩退き、トウヤは彼女を守るようにその前に立って老人と相対した。トウヤの睨みを受けても老人は顔色一つ変えず、今にも銃を引き抜いて発砲しそうな従者を手で制した。
「君は誰かね」
「どうでもいいだろ。あんた、何の用なんだよ」
トウヤは剣を抜き、老人の眼前にその切っ先を向ける。命の危険が迫っているにもかかわらず、老人の表情は依然として変わらない。
「……なるほど、君は魔女の使い魔か」
「はあ?」
予想もしない単語に剣の切っ先がわずかだが揺れる。
「ディアナ・エリファスの父親、ルイ・エリファスは……いや、「エリファス」の血筋の者は全て不可思議な力を持っている」
「…………」
「数百年前、私の先祖が行った魔女狩りにより大半の魔女は消えた。しかし、「エリファス」の血だけは消すことが出来なかった。何故だと思うかね」
「知るかよ」
「エリファスの者は他の魔女よりも賢かったからだ。偽名を用いる、姿を変える、田舎の村民に取り入る、魔術の証拠は徹底的に消す……ここまで苦労させる魔女も後にも先にもエリファスの者達だけだろう」
老人がさっと手を挙げる。従者たちが無言で銃を抜き、構える。
「だがその苦労も今日で終わる」
向こうは銃で大勢。こちらは剣でたった一人。勝率は限りなくゼロに近いが、トウヤは剣を下ろさない。勝つことはできなくても、ディアナが逃げおおせるぐらいの時間は稼げるかもしれない。
……勝つことができなくても? 今自分が思ったことにトウヤ自身が驚いた。命を賭してまで、ディアナを守りたいと思っているのか、俺は。
「ディアナ・エリファス。国家の名の元に魔女裁判で裁かせていただく」
老人が引くと同時に、従者たちがじりじりと距離を詰めてくる。自分の間合いに入ってきたら斬りかかるつもりで、トウヤは従者たち一人一人の立ち位置、距離を確認する。
「なーにピリピリした空気になっちゃってんの?」
張りつめた空気の中、ディアナはトウヤの腕を掴み、剣を下ろさせた。「何を」と言うトウヤに対しディアナはにこりと笑い、そして従者たちに向けて両手をひらひらと振った。
「そんな物騒なもん出さなくても、私は抵抗しないわよ。受けて立とうじゃないの、魔女裁判」
* * *
裁判というのは名ばかりで、実際は魔女裁判にかけられるということは死を意味する。そう言っていたのは他ならぬディアナだった。
広場にある大きな教会へ、ディアナとトウヤは連れられていた。抵抗させないためにか、ロープのようなもので後ろ手に縛られており、前後には銃を抜いた従者が無表情にはりついていた。
「どういうつもりだよ」
トウヤが小声でディアナに尋ねると、
「トウヤ、私があげたあのネックレス、今つけてる?」
まるで答えになってない言葉を返してきた。あのネックレスというと、やはり銀製の揚羽蝶のネックレスだろう。あれなら、見えないように服の下につけていた。無言で頷くと、ディアナはトウヤの顔をまじまじと見た後ぷっと吹き出した。
「あれ女物よ? トウヤって女装趣味あるわけ?」
「ねえよ」
女物だからこそ、外からは見えないように服の下につけているのだ。
「ま、付けてるんなら大丈夫。なんとかなるわよ」
何の根拠があってそんなことが言えるんだ。トウヤがそう言う前に、「着いたぞ」とぶっきらぼうな声がした。
顔を上げると、巨大な教会が鐘を鳴らして待っていた。
教会の中には溢れんばかりの人間で埋まっていた。椅子はとても足りず、立って待つ人々が椅子と椅子との隙間、通路という通路を埋めている。
老人を先頭とした従者の一団が現れると、ざわめきが止んで人がすっと割れ、祭壇へと続く一本道が現れた。どこかの国の昔話でこういう話があったな、とトウヤは思い出す。確か、民衆を連れて他国に亡命する話で、海を割って逃げて亡命に成功するという荒唐無稽な話だ。
祭壇の上には神父と思しき法衣を纏った中年男性が立っており、老人と従者の一団を快く出迎えた。老人は祭壇脇の椅子に座り、従者たちはディアナとトウヤの見張り役を残して祭壇の裾からどこかへと消えた。
「……それでは、魔女裁判を始めましょうか」
神父は老人から書類の束を受け取り、それをつらつらと読み上げ始めた。ずいぶんと長ったらしく遠まわしな表現を使っているが、要するにディアナの家系は魔女の家系である、すなわちディアナも魔女である、魔女は国に災いをもたらす、だから魔女は処刑しなければならない、というものだった。
何か反論はありますか、と尋ねてくる神父に対し、ディアナは「あるわよ」と微笑んだ。
「まずね、私が魔女の家系だから私も魔女ってのは納得がいかないわね。とんでもなく頭の悪い子がいたとして、じゃあその子の頭が悪いのだからその子の親も頭が悪い、祖父母も頭が悪い、その事血がつながっている者はみんな頭が悪いってこと、あると思う? ないわよそんなこと。それと同じで、私のお父さんが魔女だったからって、私も魔女ってことは言えないんじゃないの?」
「しかし、家を調べた結果コショウも見つかってますよ。あれは魔女しか使わない薬でしょう」
「はーあ……これだから神様にトチ狂ったおっさんは困るのよ。いい? あれはね、薬じゃなくて調味料よ。まだそんなに有名じゃないけど、コショウを使ったら独特の風味が出てとても美味しいの。私のお隣さんも使ってるはずだから聞いてみたら?」
「魔法に関する書籍も多数見つかってますが」
「なーに? 魔法とかそういうファンタジーが好きで魔法を詳しく知りたいと思うのも駄目なわけ? そうやってあなた達は若い子達の想像力の芽を潰していくわけね。で、潰して何のメリットがあるのか聞きたいわ。教えてくれる?」
「首都では最近になって伝染病が流行り出していますが」
「それが私のせいだと言いたいの? とんだ言いがかりね。伝染病なんてね、大体ネズミが原因よ。昔の文献とか調べたらその辺はすぐに予測できると思うんだけど。こんなことする前にさっさとネコでも駆り出してネズミ駆除に励んだ方がいいんじゃない?」
「しかし……」
神父は言葉に詰まり始める。ディアナの予想外の抵抗に戸惑ってもいるのだろう。トウヤもまた、彼女の抵抗には驚いて何も言えずにいた。
壇上は少しずつ静まり、その代わりに裁判を見守る民衆がざわざわとざわめき始める。ディアナは魔女なのか? 魔女ではないのか? 民衆の中に戸惑いが生まれているのがトウヤにも分かった。この戸惑いが大きくなれば、もしかしたらこの魔女裁判は無罪放免で終わるかもしれない。トウヤの中にかすかな希望が生まれた。
「……どうしたの? もうネタ切れ? そんなもんじゃあ私が魔女だって決めつけるには百年早いわね」
「…………」
完全に黙りこくる神父の横で、老人がはーあ、と溜息をつきながら椅子から立ち上がった。そして神父を押しのけて壇の中央に立ち、背筋をぴんと伸ばして民衆を睨んだ。
「――騙されるな!」
決して大声ではない。しかし、その一言で民衆のざわめきがぴたりと止んだ。
「魔女の遺伝性の否定、薬は調味料、想像の芽を潰すな、伝染病はネズミが原因」
民衆はしんとして老人の言葉に耳を傾けている。先ほど生まれたかすかな希望が、少しずつ溶けていくのが分かった。
「……信じるな! ディアナ・エリファスは今我が国に伝染病をまき散らしつつある悪の魔女だ! 我々独自の調査によりその裏は取れている!」
ざわめきが生まれる。民衆の心が、あっという間に傾いて行く。「独自の調査による裏」とはどのようなものなのか。その点は一切疑問に思うことなく。
「今この国に生き残っている魔女はディアナ・エリファスただ一人だ! ディアナ・エリファスを裁けば伝染病は収まる! この国から災いは無くなる! この国は、永遠の幸福を手に入れられる!」
ざわめきは次第に大きくなり、それはやがてある一つの思念を伴った雄叫びになる。
――魔女を裁け。
その雄叫びに呼ばれてか、先ほど消えた従者達が長い丸太を担いで戻ってくる。従者達は無言で丸太を立て、根元をしっかりと固定した。その高さはちょうど人一人を縛り付けるにぴったりで、固定した丸太の根元に従者達は木の枝や紙くずを配置し始める。
これから何をするかなど、トウヤにも分かった。
「……残念、流石に無罪放免は無理だったか」
トウヤの横で、ディアナが残念そうに笑う。笑っていられる状況ではないのに、笑う。
「……なんとかなるんじゃねえのかよ」
「なるわよ」
着々と準備が進められていく中、彼女は続ける。
「うちの家だけかもしれないけど、揚羽蝶にはね、ある意味が込められているの」
「意味?」
「流星群見に行ったとこ覚えてる? あそこの一番高い木の根元にね、その意味を書いたメモが隠してあるから」
「今ここで言わねえのかよ」
「照れくさいの。それぐらい察しなさい、鈍い奴は嫌いよ」
手が自由だったならば、彼女はきっとトウヤの後頭部をはたいただろう。後ろ手に縛られて自由を奪われていることがこれほど悔しいと思ったことはなかった。
数人の従者がディアナの肩を掴む。「痛いわね。レディはもっと丁寧に扱えって言われなかった?」などという彼女の抗議も無視し、彼女を担ぎ上げて丸太にくくりつける。
老人がマッチに火を灯す。民衆の雄叫びがひときわ大きくなる。「止めろ」と叫ぶトウヤの声は雄叫びにかき消される。
火が灯ったマッチは老人の手から離れ、紙くずと木の枝の隙間に入り込む。小さな火は紙くずに、木の枝に移り、火は少しずつ炎と化していく。
トウヤは頭が真っ白になるのが分かった。彼女を守らなければならない。その一心で自分を押さえつける従者をはね飛ばそうとするが、従者はびくともしない。
それならば仕方ない、とトウヤはリアル化を試みた。体に闇を纏い、能力を爆発的に上昇させるこの技はリスクが高いが、今はリスク云々言っている場合ではない。ありったけの力で闇を呼び出そうとした――が、闇はひとかけらも現れない。
リアル化ができない。こんな事は今までなかった。何故だ――トウヤは思考をめぐらせ、やがて自分の手首を縛るロープに辿り着く。
ひょっとしたら――このロープは、魔法を封じる効果のあるロープなのではないか?
魔法を封じる道具というのは、意外と存在する。魔法が発達した国ではその道具を上手く利用して生活をより豊かにしているが、大抵はその道具が発する不思議なオーラにより神聖なものとして扱われていることが多い。
このロープは、そのオーラ故に魔女狩りの時にのみ使う神聖な道具として用いられているのではないか?
トウヤがもがいている間に、炎は彼女の爪先を舐める。熱さは伝わっているはずなのに、彼女は凛とした顔で前を睨んでいる。
「ディアナ!」
ありったけの大声で彼女の名を呼ぶ。従者がトウヤの口を塞ぐ。彼女はゆっくりとトウヤの方を向く。炎は、彼女の足を包む。
愛おしいと思った。守りたいと思った。それなのに、このざまは何だ。悲しさなのか、悔しさなのか、もっと複雑な感情なのか、トウヤの目からは涙が止まらない。
ほんの数十分前、トウヤが抱きしめた彼女の胴体を炎が包む。塞がれた口からトウヤの慟哭がかすかに漏れる。
彼女と過ごした日々が脳裏に蘇る。痴漢と勘違いされてフライパンで殴られた。暴漢から助けたらベタすぎると怒られた。トウヤというあだ名を考えてくれた。コーヒーにチョコレートを入れられた。夜が明けるまで流星群を眺めた。殆どの記憶の中で、彼女は彼に暴力を振るっていた。その時々ではその暴力は理不尽でトウヤを苛立たせていたが、今はそれがひどく懐かしい。もう一度、暴力を振るってほしいとさえ思う。
蘇った映像の中に全く見覚えのない映像もあった。トウヤは多少気にかけたものの、それには固執しなかった。
炎の中で、彼女はトウヤをまっすぐ見つめて、そして笑った。
流星群の夜に見た弱弱しさは全く無い、いつも通りの憎らしげな笑みだった。
* * *
「諸君!」
老人は、灰と化した丸太の前に立って声を張り上げた。不思議なことに、その声は十八号の声と重なって聞こえた。
「魔女は死んだ!」
マジョハシンダ。十八号と全く同じ声がそう叫ぶのが聞こえる。十八号の頭の奥にある「何か」にひびが入る。
「即ち、この国から災いは消えた!」
十八号と全く同じ声を持つ、別の人物がそう叫ぶのが聞こえる。ぴしぴしと、ひび割れは広がっていく。
「「永遠の幸福を享受して生きよ!」」
別の人物、それは――
ぱきんと音を立てて、何かが壊れた。