英雄/side-K [2]

「しかし、あなたも物好きですね」
 古い洋館のすぐ外で、僕とトートは地面に寝転がって空を見ていた。洋館には暇を潰す道具は何も無く、少し前にカービィが「どうやって暇を潰しているんですか」と聞いたらトートは「空を眺めています」と答えた。「だって空を見ていると悩みとか、未来とか、時間とか、細かいことがどうでもよくなるじゃないですか」
 果たして空を眺めるだけで時間は潰れるのだろうかと、最初は半信半疑で彼の暇潰しに付き合っていた。それが今や、僕にとって最良の暇潰しになっていた。
「物好き?」
 寝転がったままトートの方に顔を向けるが、トートは空から目を離さない。僕は目線を空に戻した。
「だって、私が洋館に住む化物だと知った上でここに何度も来ているのでしょう?」
 よほどの物好きですよそれは、とトートは呟く。
 僕は少し迷ったけれど、空にむくむくと盛り上がる積乱雲に後押しされて、言ってみることにした。
「……トートは」
 発した言葉の真剣さを感じ取って、トートは空から目を離して僕の顔を見るのが分かった。
「トートは、どんなことでも受け入れてくれそうな優しさがあるから」
 そこからは一気に、記憶がないことを、それに関する悩みをトートにぶちまけた。今まで誰にも話したことが無かったから、話の順序がおかしかったり言葉が途切れ途切れになることもあったけれど、トートはきちんと耳を傾けてくれていた。
 ただし、自分の寿命がとても長いこと、他の星から来たことは話さなかった。トートならそれらの話をも受け入れてくれそうな気もするけれど、それが僕の過信で、受け入れられずに嫌われたらどうしようという思いが僕の口を重くしていた。

「……だから、ずっと名乗らなかったのですね」
 話を聞き終わると、トートは再び空に目を戻した。僕も目を戻すと、さっきの積乱雲はどこかに消えていた。
「町の人たちには偽名を言ってたんですけど、なんか、トートさんには嘘を言いたくなくて」
 しばらく無言が続いた。お互い何も喋らず、風の音だけが聞こえる。居心地は悪くない。いや、良い。
「……で、どうするつもりなんですか?」
 トートがそう呟いたときも、最初は複雑な風の音かと思って気に留めなかった。が、トートの声だとすぐに気付いた。
「どうするつもり?」
「近い意味で、遠い意味で、どうするつもりなんですか?」
 より複雑な答えが返ってきた。しかたなくもう一度鸚鵡返しに問いかける。「近い意味?」
「いつまでこの町にいるのか、この町で何をするのか、といったところですね」
 少し考える。いつも通りの滞在ならば、適当に滞在して住民に疎まれる前にさっさと星を後にしていた。
 だが今回はどうだろう。
 町は親切だが没個性的で、いつも通り。だけど、ここにはトートがいる。化物で、僕に近くて、僕が初めて心許せる人であるトートが。
「どうしたらいいと思う?」
 出来ることならトートと一緒にいたい。僕にとって初めての「友達」といえる人だから。
「それは、遠い意味でどうしたいかによります。あなたは最終的に記憶を取り戻したいですか? それとも記憶よりも安定した生活を望みますか? 両方を望みますか?」
 考えるまでも無かった。
「記憶です」
 何百年も悩まされてきた心のつかえだ。今や、これを取るためなら何をしてもいいような心境になっている。
「それならば、記憶を取り戻すためにこの町で何が出来るか、それを考えましょう」
 再び沈黙が、先程と同様の心地よさが戻る。記憶を取り戻す方法を考えたが、そんな抽象的で曖昧なものを取り戻す術はそう簡単に思い浮かばない。

 ぼうっと考えていたら浅い眠りに落ちていたらしく、ふと気付けば空が茜色になっていた。
「そろそろ、帰ろうかな」
 僕が身を起こすと、トートもつられて身を起こした。長い間寝転んでいたせいか、トートの髪には寝癖がついている。それがなんだかおかしくて、笑った。
「ひどい寝癖ですよ」
「あなただって」
 トートも静かに笑った。頭に手をやってみると、確かにいつもとは違う方向に髪がはねている。髪、でひとつ気になることを思い出した。
「そういえばさ、トートさんっていつも前髪で右目隠してますよね」
「ああ」
 彼は少し気まずそうに前髪に軽く触れた。その手はいつも白い手袋に包まれていて、それも謎と言えば謎なのだがそこはまた今度聞いてみることにした。
「それって、何か意味があるんですか?」
「ありますよ」
 どんな意味が、と聞く前にトートは手で僕の生まれる直前の言葉を遮った。
「そろそろ日が暮れます。帰ってください」
 そこにいつもの温かみはなく、僕はそれに少し怯えを感じた。何が何でも帰らせる、と言った気迫のようなものがあった。

 * * *

 その日の夜、いつもならすぐに寝付けるのに今日に限ってなかなか眠れなかった。原因は分かっている。あのトートの声の鋭さと無機質さだ。
――右目のことを聞かれるのは嫌だったのかな。
 もしそうだったなら、なんてことをしてしまったんだろう。町の人なら嫌われてもなんとも思わないけれど、トートに嫌われることだけは何としても避けたかった。
 明日にでも謝りに行こう。僕の頭はそう考えていたのだけれど、僕の心は今すぐ謝りに行きたがった。ほんの少しの葛藤の末、僕は迎賓館から出て走った。

 深夜の町は驚くほど静かで、生命の気配と言うものが全く感じられなかった。「あなたが悶々としている間にこの町はゴーストタウンになりました」と言われても納得してしまうほど、静まり返っていた。
 僕はその雰囲気を不思議に思いながらも、森に向かって走った。トートに謝らなきゃ、と言う思いで胸が一杯だった。
 そして森が見えてきた頃、同時に動物の唸り声のようなものが聞こえた。獣の唸り声に近いが、僕が知っているどの獣の唸り声にも当てはまらない。
――新月の夜になると洋館から化物の声が聞こえるようになった。
 町の人々の話が不意に蘇り、夜空を見上げた。そこに月はない。まがうことなき新月だ。
「……トート……?」
 森から聞こえる唸り声はトートの声ではない。でも、その唸り声の主はトートなのだろう。僕が知るトートと唸り声の違いに戸惑う。
 謝りに行きたい、と言う気持ちは戸惑いに乗っ取られた。トートは今、一体どうなっているの?

「何をしているんですか」
 突然、僕の背後から刺すような声が響いた。思わず飛び上がる。
 振り向くとそこにはランタンを持った町長の姿があった。寝巻きにスリッパと言ういでたちから、相当慌てているらしいことが分かる。
「いえ、なんとなく眠れなくて」
 まさか今から森に行って化物に謝ろうかどうか考えていました、なんて言えるはずもない。
「とにかく、早くここから離れてください!」
 町長は僕の腕を掴み、強引に早足で歩き出した。
「今日は新月の日ですよ、鳴き声が聞こえたでしょう?」
「ああ、あれがそうなんですか。珍しい獣がいるんだなあとは思いましたけど」
「……全く、のんきなお方だ」
 迎賓館までの道すがら、町長は新月の夜は外出を禁じていることを説明し、これからはそのルールを守ってほしいと僕に釘を刺した。
「そんなに、化物って恐ろしいですか?」
 僕がそう問いかけてみると、町長はぶるっと身震いして「恐ろしいに決まってるじゃないか!」と早口にささやく――というようなことはなく、意外にも苦笑いを浮かべた。
「実はそんなに恐ろしいとは思わないんですよ」
「それなのに禁じているんですか」
「私もおかしいと思いますよ。でも禁じておかないと実際に事件を見た年寄り連中にうるさく言われるんでね」
 そこでふと町長は立ち止まり、「そうだ」と小さく呟いた。
「あなたに一つ頼みたいことがあります」
「……なんですか?」
 この話の流れから、頼まれることはある程度推察できた。嫌な予感がした。
「この奇妙な習慣を断ち切るために」
 町長はちらりと森のほうに目をやった。その続きは聞きたくなかったけれど、耳をふさぐ前に飛び込んできた。
「化物を殺してくれませんか」
 嫌な予感的中。しかも、最悪の予感。僕は動揺を隠せなかったけれど、町長はその動揺を違う意味にとってくれたらしく、申し訳なさそうに深々と頭を下げた。
「無理のあるお願いだとは分かっています。けれども、うちの自警団だけだと心もとないのです。あなたも協力してくださると助かるのです」
 反射的に言葉が出た。「自警団?」
「ええ。近々自警団で化物を殺しに行こうという計画があるんです。それに協力してほしいんです」
 トートの洋館を取り囲む人々、人間にしか見えないトートを集団で殴りかかる人々、トートが死んだことを確認してああやれやれやっと平和になったと談笑しながら去っていく人々、それらの光景がとてもリアルに浮かんだ。背筋がぞっとした。
「僕が」
 口をついて言葉が出た。たった一人の友達を守る方法は一つしか思いつかなかった。
「僕が一人でやります」
 町長は目に見えて驚いた。僕は町長を無視して言葉を続けた。
「僕は、実力には自信があります。化物も、一人で殺せます。自警団は、むしろ邪魔です」
 本当は自分の実力に自信もないし、化物を殺すつもりもないのだけれども、友達のためならいくらでも嘘はつける。
「だから、僕に任せてください。それに、万が一僕が死んでもあなたには何の不利益もないでしょう」
 それだけ言うと、僕は一目散に迎賓館に駆け戻った。化物を殺すことを心に決めた顔を作って町長と話を続けるなんて、出来るはずもなかった。

 * * *

 翌日、僕は草むらの中でじっと息を潜めていた。隣にはトートがいて、同じように息を潜めている。彼の手には簡素な弓があって、矢はぎりぎりに引き絞られていた。矢が狙う先には一羽の兎が耳をぴくぴくと動かしながらせわしなく顔を動かしている。
 耳の動きがぴたりと止まり、兎の赤い瞳が草むら越しに僕とトートの姿を捉えた。その瞬間、兎の体をトートが放った矢が貫いた。兎はその勢いで少しだけ吹っ飛び、動かなくなった。
 トートは無言で立ち上がり、その兎の体を抱き上げた。白い手袋が、きれいに洗濯した服が赤い血に染まっても構うことはなかった。
「……ごめん」
 そう呟くトートの瞳には兎に対する罪悪感があって、どうして彼が化物で殺されなければならない存在なのだろうと僕は憤りのようなものを感じた。

 化物退治の旨をトートにはまだ伝えていなかった。早く伝えて早くここから逃げるように言わないと駄目だとは分かっていたけれど、実際にトートに会うとどうしてもトートと化物が一致しなくて言い出せずにいた。
 僕のそんな葛藤を知ってか知らずか、トートは晩御飯のための狩りに僕を誘った。「私が食べる分だけですから、一匹仕留めたら終わりですけどね」と弓と矢を一本だけ携えたトートは少し申し訳なさそうに笑った。
 そして今、トートは仕留めた兎を抱き上げている。

「やっぱり、むごいですよね」
「え?」
 兎の体から矢を引き抜き、その先から滴り落ちる血を眺めながら、トートは呟いた。
「私なんかが生きるためにこの子を殺すのは」
 トートは少しずつ体温がなくなっていっているであろう兎の体を抱きしめ続けていた。光を失った兎の瞳がトートの顔を見ていた。
「……それでも、殺すことを止めずにいて。私は、そんなに生きたいんですかね。自分で自分が分かりませんよ」
 彼は自分が生きること自体に疑問を持っている。僕はそれがとても危ういことに思えた。不意に言葉が飛び出した。
「……トートさんは生きるべきですよ!」
「え?」
「トートさんみたいな、優しい人は、生きるべきなんです。もっと、他の、趣味で狩りをやったり利益のために戦争したりする人こそ死ぬべきなんですよ!」
「私が優しいなんて」
 トートの目には明らかに戸惑いが浮かんでいた。優しい人は、自分が優しいと言うことを自覚していない。
「優しいですよ。僕の話を聞いてくれたじゃないですか」
 今まで会った人達は、表面上は友好的であっても、素性の知れない旅人と話し合ってくれなかった。僕の話を聞いて、答えをくれて、話し合ってくれた人はトートが初めてだった。
「僕と「話して」くれたのはトートが初めてだったんだよ!」
 トートに死んでほしくない。もっと生きる意志を持ってほしい。何故か涙がぽろぽろとこぼれたけれど、悲しい涙ではないのだから気にしない。
 兎を抱いたまま、トートはうつむいて軽く前髪をいじった。前髪に少し血がついた。
「……私は、優しくなんてありません」
「ちがう。トートが優しくなかったら、世界中どこを探したって優しい人なんていないよ」
「私は……皆さんのために早く死ななければならない存在なんです」
 兎を片手に抱いたまま、トートは自由なほうの白い手袋の指先をくわえ、それを外した。僕が小さく息を呑むのと同時に、外した手袋が地面に落ちた。

 トートの手は、黒かった。
 世の中にはさまざまな人種があって、中には黒に近い肌色をしている人もいるのだけれど、その黒さよりももっと深く、澄んだ漆黒だった。人間の肌の色ではないことは容易に分かった。
「私はいずれ、世界に迷惑をかける存在になります」
 そう言葉を続けるトートには、いつもどおりの優しげな空気があった。黒い手とその空気の不釣合いさに戸惑う。
「本当に優しい人ならば皆のために死ぬところなのに、だらだらと生き続けているんです」
 私は優しくないですよ、と微笑んだ。
「ちがう」
 黒い手は確かに化物らしいし、昨夜聞いた唸り声はトートの中にいる「迷惑をかける存在」のものだろう。だけど、化物だからって、迷惑をかける存在だからって、死ぬべきだというのはおかしい。化物にだって生きる権利はあるし、迷惑なんてどんなに努力しても誰かにかけてしまうものだ。
「トートはもっと、生きることに執着しなきゃだめだよ。僕だって」
「僕だって?」
「……化物なのかもしれないけど、生きたいと思ってるよ」
 どんなに人から避けられても、忌み嫌われても、僕は生き続けてきた。こっぴどい目に会った後なんかは流石に死にたいと思うこともあったけど、すぐに生きる気力は取り戻してきた。その根底には記憶を取り戻したいという目的があった。
「……ねえトート、約束しよう!」
「約束?」
 トートに生きる意志がないのは僕のような目的がないからだろう。
「僕、いつかこの町を出て行くでしょ。でもさ、いつかまたここに帰ってくるから」
 ならば、小さなことでもいいから目的を作ればいい。僕は手を差し出して握手を求めた。トートの黒い手に触れることは、怖いともなんとも思わない。
「絶対、その時また会って話をしよう!」
 トートは突然の申し出に、僕が差し出した手に驚いた風に見えた。
「僕ら、友達でしょ?」
 僕がそういって歯を見せて笑うと、
「……友達、ですね」
 トートもぎこちなく歯を見せて、その黒い手で僕の手を掴んだ。

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