英雄/side-T [1]
「本気か?」
彼の声が背後から聞こえた。この話をしてからここまでの道中、彼は何も言わなかったから、その言葉は突如空から降ってきた何かのように思えた。
「本気ですよ」
トートは振り返らずに答えた。彼が何かを言いよどんでいる気配があったが、何を言いたいのかは大体想像がついていた。
彼は「生きる」ということをとても大事にしていた。そして異常とも言えるぐらい「死」を恐れていた。かつて彼は死ぬことはつながりが絶たれること、と言っていた。なんとなくだが、トートはその意味が分かっていた。だからこそ、彼は今自分がやろうとしていることを止めようとしているのだろう。
「……考え直す気は、ないか?」
彼のその声は、いつものどこかとぼけた調子は無く、これこそが彼の本性なのだろう、という雰囲気があった。
トートはきっと険しい顔をしているであろう友人に対して、今まで生きてきた中で一番落ち着いた声で言った。
「私は――」
* * *
とある貴族の第一子として、トートは生まれた。子宝に恵まれず、一族の存続が絶望視されていた中での誕生だったため彼はこれ以上ないというほど過保護に育てられた。
望むものは全て与えられた。豪勢な食事を毎日腹いっぱい食べた。使用人は勿論のこと、両親すらトートの言いなりだった。大きな洋館の小さな王様としてトートは欲望のままに生きた。
我慢をするということがなかったので、あっという間に出来うる限りの遊びを飽きるまでやりつくしてしまった。トートは退屈に苛立ち、何か目新しいものはないかと屋敷中を探し回った。
ある日、トートは父の書斎に無断で入り、めぼしい本はないかと整然と並ぶ本の背表紙を指でなぞった。全て読んだことのある本であり、内容も大体で思い出せた。父の書斎には魔法に関する本が数多くあり、彼はそれらを読んでその意味を理解していくうちに、自然と魔法が使えるようになった。魔法は普通人から教わるもので、本から会得するのは非常に難しいことだと父は言っていた。
「トートは、魔法の才能があるな」
と父は眼鏡の奥の瞳を喜びに細めながら、トートの頭をくしゃくしゃと撫でた。褒めてもらうのはよくあることだったが、何故だか特別に嬉しかったのを覚えている。
一冊の本に目が留まった。
ずしりと重たいその本を本棚から取り出し、ページを繰った。その本もまた魔法に関する本で、他の存在を魔法で呼び出す魔法――召喚魔法について書かれた本だった。かつての自分は書かれてある内容は理解したが、実力不足だったのか、実践することができなかった魔法だ。
ただし、それを試したのは随分昔のことで、魔法の腕前も向上した今ならばこの魔法も出来るかもしれない。
退屈と好奇心に駆られ、トートは召喚魔法を試みた。召喚魔法の中でも最高難度である、幻界の存在を召喚する魔法を。
召喚魔法は、召喚する対象のイメージを明確に掴まなければ、成功するのは難しい魔法である。現実に存在するものならば比較的対象を想像しやすいが、幻界に存在するものとなると想像すること自体が難しい。幻界は精神的なもの、あやふやなもので構成された未踏の世界のため、「イメージを明確に掴む」ということ自体が不可能である。
トートは幻界の存在として、昨日夢に見たものをイメージした。夢というのは幻界の世界の一部らしいので、そこで見たものをイメージしておけば幻界の存在が来るだろう。
そう、軽く考えていた。
魔法を唱え終わっても周辺には何も現れなかった。いつもどおりの静かな家。両親も使用人もこの家にいるのだが、トートの機嫌を損ねさせてはいけないと、彼らは極力音を立てずに生活していた。
何か起こるだろうと五感を研ぎ澄まして周囲を観察したが、特に何も起こらないまま数分が過ぎた。
なんだ、失敗か。
そう思ってため息をついて本を閉じた瞬間、
「召喚してくれて、ありがとう」
辺りに声が響いた。トートは慌てて辺りを見渡すが、部屋に何も変化は無い。幻界の存在というのは目には見えない存在なのだろうか? それとも、それとも、それとも、今ある知識を総動員して様々な仮説を立てた。そんなトートの動揺をよそに、声は続けた。
「しかしこの召喚は半分成功、半分失敗といったところだろうか」
「……半分失敗?」
「私は完全にはこの世界に召喚されていない。「私」の一部が君の中に呼び出された形になっている」
自分の胸に手を当ててみる。いつもと変わらずに心臓がどくんどくんと言っている。
「どこ? 僕の中のどこにいるの?」
「強いて言うなら、脳だろうな。私は君の精神にいる」
反射的に頭を触った。同時に頭の中に意識を向けてみるが、特に異変は感じられない。
「君はまだ、私の存在は声以外に知覚出来ない。しかし、いずれ知覚できるようになる」
「……いず、れ?」
「私は現実世界に来たかった。……しかし、こういう形ではない。自由な体を持ち、自由に行動できる、そういう形で召喚されたかった」
「…………」
「こういう形になってしまったからには仕方ない。私は君の体をいずれ頂戴する」
「……え?」
「こうも半端だと幻界に帰ることもできない。そうするしか私が自由になる術はないのでね」
「ぼ、僕はどうなるの?」
「さてね。できるだけ君の心と体を壊さないようにしたいところだが、どうなるかは私にも分からない」
声はぶつぶつと何かを呟き続けていたが、トートの耳にはその半分も入らなかった。声が言ったことはとても恐ろしいことなのだが、トートの中の「子供」がその現実を否定し、無視していた。一方で、トートの中の「大人」は早急に対策を立てねばならないと叫んでいた。その二つがぶつかり合ってトートの思考はふらふらと左右に揺れた。これは現実なのか、夢なのか、それすらよく分からなくなっていた。
いつのまにか、気を失っていた。
* * *
目を開けると、心配そうに顔を覗き込んでいる両親の顔が見えた。
「ああ、トート。よかった。目が覚めて」
母の目尻に涙がにじむ。状況が良くつかめないが、どうやら気を失っていたらしい。トートはゆっくり身を起こした。そこで自分がベッドに寝かされていたことに気付いた。
「……トート」
父が静かにトートの瞳を見た。その手には先程トートが利用した召喚魔法の本があった。
「何を……していた?」
果たして先程の出来事が現実なのか。ひょっとしたら退屈のあまり見てしまった悪夢ではないのだろうか。トートは自分の体が得体の知れない何かに乗っ取られるかもしれないという恐ろしい現実を認めたくなかった。何を言えばいいのか分からず沈黙していると、父はそっとトートの額に手を当てた。
「……熱は無いな。きっと貧血だろう。念のために少し休んでおきなさい」
額から手を離し、父はにこりと笑った。いつも振りまいている笑みなのだが、何故か今はそれが救いのように思えた。
「さあ、母さんも部屋に戻りなさい。私は少し、トートと話をする」
「ええ……ああ、ただの貧血で本当に良かった。トートに何かあったらどうしようかと」
母はトートの体をぎゅっと抱きしめ、それから静かに部屋を後にした。
父と二人きりになった。その途端に父の顔から笑みが消え、深刻な表情で本をぱらぱらとめくった。
「……トート。何を召喚しようとした?」
トートは父のページを繰る手を止め、自分でページを繰ってそのページを開いた。
「……これ、を」
恐る恐るそう言うと、父は眼鏡のつるをつまみながら無言で読み始めた。
「幻界の、何を召喚しようとした?」
「昨日夢で見たものを」
奇妙な夢だった。よく分からない場所で、紫色の肌で尖った耳をした男が一人で立っていた。男が右手をかざすとそこに白いもやが集まり、男はそれを口と鼻から吸い込んだ。そして左手をかざすと、今度は反対に黒いもやがそこからあふれ出た。黒いもやは薄く広がり、やがて見えなくなった。
目が覚めるまで、男はその行為を繰り返していた。
夢の内容を教えると、父の眉間のしわがいっそう深くなった。
「もしかしたら……それはナイトメアかもしれないな」
「ナイトメア?」
「そう。凄く強い力を持つ夢魔だ。一説によればナイトメアは吉夢を食べて悪夢を生み出す存在と言われているが……詳しいことは全く分かっていない」
「……僕が見た、夢は……?」
「丁度、吉夢を食べているところだったのかもしれない」
「…………」
トートがじっと黙っていると、父は静かに大丈夫だよ、と言った。
「召喚に成功したわけではないだろう? そんな顔をするんじゃない」
顔を上げると、いつもの父の笑顔があった。トートがやろうとしたこと、それが失敗に終わっていると思って安心したらしい。
「……父さん」
それは違うんだ。
「あんまり暇だからって、とんでもないことに手を出すんじゃないぞ」
父はトートの頭をくしゃくしゃと撫で、立ち上がった。ドアに向かって歩き出す。
父さん、それは誤解なんだ。失敗するよりも、成功するよりも、厄介なことになっているかもしれないんだ。
「それじゃ、ゆっくり休んでおくんだよ」
「……父さん!」
その大声にドアを開けようとした父の動きが止まり、トートの方を振り向いた。
「どうした?」
「…………」
召喚してから気を失うまでの間にあったことを言おうとした。しかし、言葉が出なかった。現実を認めたくない自分が伝えたい言葉を塞き止めていた。
言わないと、と気持ちばかりが先走る。これは僕一人で抱えきれる問題じゃない。誰かに、父に、母に、言わないといけない。その気持ちとは裏腹に、口から出てくるのは言葉の無い吐息だけだった。
「……うん、大丈夫だよ。ただの貧血だからな」
父はにこりと笑い、部屋から出て行った。
誰もいなくなった部屋で、トートは一人頭を抱えた。現実を認めたがらない自分が情けなくて仕方が無かった。
* * *
数日が過ぎた。両親はあのことを貧血だと考えており、何事も無かったかのように日常を過ごしていた。トートは何度もあのことを言おうとしたが、両親を目の前にすると何も言葉が出なかった。
ナイトメアに自分が奪われてしまうかもしれないという恐怖もあったが、それよりもこのことを打ち明けて両親に嫌われてしまうかもしれないという恐怖の方が大きかった。勿論、両親のことは信頼していたが、臆病な部分が告白に歯止めをかけ続けていた。
情けなくて臆病な自分を罵っているうちに、時は容赦なく流れていった。
ある日の朝のことだった。
トートは両親と共に食事をしていた。全員が率先して話すタイプではないので、食卓は静かなものだった。トートは黙々と朝食を詰め込み、ふと手元に目が行った。
「…………?」
食べる手を止め、両手の爪をじっと見た。爪の根がわずかではあるが、黒く染まっていた。生物の温かみが無い無機質な黒色は、こすっても取れなかった。
黒い爪が、生えようとしている。
「あ……」
フォークとナイフを取り落とした。かちゃん、という音を耳にして両親がトートに顔を向ける。
「や……いやだ……」
ナイトメアに体が侵食されていく。それが始まったのだと、体ががくがくと震えた。
「トート? どうしたの?」
「いやだ……嫌だっ!」
母の問いかけも無視し、トートは椅子を倒す勢いで立ち上がり、恐ろしい現実から逃げ出すように走った。
自室に飛び込み、鍵をかけてドアにもたれかけた。震える体を抱きしめたが、震えは治まる気配を見せなかった。ちらりと爪を見るが、すぐに顔を背ける。
こんこん、とノックの音が聞こえた。ドアノブを回そうとする音がしたが、鍵がかかっているので開かない。しばらくの沈黙の後、
「……トート? どうしたんだ、いきなり走ったりして」
父の声がした。
「……父さん……」
爪の根を見て、臆病な自分を急き立てた。言わないと。言わないと。
「……あ、あのときのこと……覚えてる?」
「あのとき?」
「ぼ、僕が……倒れたときのこと……」
「ああ、貧血の時のことか」
「……実は……」
つっかえていたものを少しずつ取り出すように、途切れ途切れにあのときのことを吐き出した。その合間も、体も声も震え続けていた。
全てを話し終わると、父はふうむ、とドアの向こうで小さく呟いた。
「……とりあえず、鍵を開けてくれないか。トートの顔を見て話したい」
「……い、いやだ。今は、誰も見たくないし、誰にも見られたくない」
体ががたがた震えてる、情けなくてみっともない姿を見られたくない。爪に現れた異常を見られ、嫌悪されたくない。
「…………」
「ナイトメアが表に出始めたんだよ? 僕の体の中は一体どれぐらいナイトメアになったの? 僕は後どれぐらい、僕でいられるの? 怖いよ。止まらないんだよ!?」
いっそのことなら、一瞬で楽になれる方がよかった。こんな、なぶり殺しのようなやり方で自分を失いたくない。
「……奪うならさっさと奪えよ! なんで、なんで……!」
持てる限りの言葉で自分の中にいるナイトメアを罵倒するが、ナイトメアからの返答は一切無かった。
頭をかきむしり、その場にへたり込んだ。恐怖のあまり、気が狂ってしまいそうだった。
父の足音がした。それに伴い、父の気配も遠ざかる。一人きりの部屋でトートはがたがたと震え続けた。
* * *
それきり、トートは自室にこもった。食卓にも行かなかったが、母が食事を部屋の前まで持ってきてくれたので問題は無かった。母の足音が去ってから、食事を部屋の中に持ち込んで食べた。今は、誰にも姿を見られたくない。
母は頻繁にトートの部屋の前を訪れた。飲み物や間食を持ってくるついでに「大丈夫?」や「ゆっくり休んでいいからね」などの問いかけや気休めを一言二言呟くが、トートが何も答えずにいるとそのうちに母は諦めてその場を去った。
そんな母とは対照的に、父は全くトートの部屋の前を訪れなかった。部屋の前を歩くことすらなく、父の動向はトートからは全く読めなかった。何をしているのか少し気になったが、それよりも自分の身に起こっていることのほうが遥かに重大だった。
ナイトメアの侵食は少しずつ進んでいた。劇的に、というわけではなく毎日ほんの少しずつ、爪の黒さは増していった。
たまらなく、恐ろしかった。
トートにとっては長いような、短いような不思議な時間の中で爪がついに全て黒く染まった。黒い爪は以前の爪よりもやや硬く、爪切りを使うときは少し力を込めなければ切れなかった。
爪を剥げば以前のような、人間の爪が生えてくるのではないかと思ったこともあった。しかし、そんな甘い考えが通用する訳がない上、爪を剥ぐ勇気も無かった。
いっそ自殺すれば楽になれると思ったこともあった。部屋を探れば自殺するのに使えそうな道具もあったが、爪を剥ぐ勇気もないトートに自殺など出来るはずもなかった。
じわじわと忍び寄るナイトメアの気配に怯えるでは駄目だとも分かっていた。幻界に関する文献を漁れば何らかの対処法が見つかるかもしれない。頭では分かっていたが体が分かってくれなかった。
そんなある日のこと、父がトートの部屋のドアを叩いた。
「久しぶりだな、トート。……話がある」
トートは父にナイトメアについて告白したときのことを思い出しながら、無言でドアにもたれかけた。
「書斎にある幻界に関する本を片っ端から読んできた。……何か、対処法がないかと思って」
「…………」
「……流石に、トートみたいな珍しいケースの対処法は載っていなかった」
ずしりと言葉がのしかかった。声にならないうめき声を父の耳に入らない程度に小さくあげた。
「……でも、私が考えるに……ナイトメア自身なら」
どこか迷いながらも、父は言葉を続けた。
「幻界に行ってナイトメアに会えたなら……トートの中のナイトメアを何とかできるかもしれない」
「…………?」
「トートの中にいるのはナイトメアの一部だろう? 幻界にいるだろうナイトメアの本体に会えたら……あるいは……」
トートは静かに、胸の高鳴りを抑えた。父が考え付いたに過ぎない頼りない仮説だが、トートが助かる道が一つ、見つかった。
「……私はまた書斎にある本を調べてみる。でもその前に……お前の顔が見たい」
「……父さん……」
黒く染まった爪を見た。このままでは駄目だということは分かっていた。恐ろしさに背を向けず、立ち向かっていかないと自分が助かる道は見つからない。
弱気な自分を奮い立たせ、震える手でドアノブを回した。
ドアの向こうには幾分かやつれた父の姿があった。こんな情けない自分の為に色々と努力をしてくれたのだろうかと思うと胸が痛くなった。
「トート、少し痩せたか?」
「……父さんこそ」
父は穏やかに微笑んで、おもむろにポケットから白い手袋を取り出した。随分とくしゃくしゃになっていたが、良質の素材特有のきらめきのようなものがあった。
「これ、着けてみろ」
突然のことに戸惑いながら、父の言うままに手袋を着けてみた。手袋は驚くほど馴染みがよく、まるでトートのために作られたもののように感じられた。トートが驚きながら父を見ると、父はトートの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「ほら、こうすればお前は立派な人間だよ」
爪だけじゃないか。まだまだ時間はある。大丈夫だよ――言外の言葉を聞き取り、トートは胸に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
「……父さん……僕も、がんばるよ」
「うん、一緒にがんばろうな」
白い手袋を肌に感じながら、トートはとても久しぶりに笑った。