英雄/side-T [2]
それからの日々は、充実していた。父と共に書斎の本を読みふけり、幻界に関する記述があればそのページの耳を折った。そうして集めた情報から父と話し合い、幻界に行く方法を探った。
勿論、恐怖を感じない日は無かった。白い手袋のお陰で普段はそのことを気にしないで済むが、手を洗うときなど手袋を外さざるを得ない状況になると、黒く染まった爪を見てずしりと気分が沈んだ。
母も父の口からトートの現在の状況を知ったらしく、夕飯の折などに優しい言葉をかけてくれた。
幻界に関する知識を深め、両親の温かい言葉を受けているうちに、自分は絶対に助かるという自信を持つようになった。元に戻って、両親と共に幸せに暮らすのだ。確固たる思いがトートの中に生まれていた。
幻界に行く方法として最も手っ取り早いのは、夢を見ることだ。夢を制御することが出来れば、幻界の中の夢の世界は自由に歩き回ることが出来る。夢の世界に住むであろうナイトメアを探すのも容易になる。
しかし、夢を制御するなど誰にも出来ないことで、誰もがまるで暴れ馬に乗っているかのように、自分の意思とは関係なく夢の世界を駆け回っている。トートは毎晩夢の内容を覚えていよう、夢に少しでも干渉しようと強く意識して眠った。だが翌朝目覚めると夢の内容はさっぱり覚えていなかったり、覚えていても自分の意思とは無関係に夢が展開したりしていた。意識するだけで夢を何とかできるほど、幻界は甘くない。
ならば道具を利用すれば何とかできるのではないかと、トートと父は本に載っていたそれらしき道具を集められるだけ集め、片っ端から使ってみた。が、それらは何の効果も果たさなかった。落胆も大きかったが、その程度で諦めるトートと父ではなかった。
何ヶ月も、何年もかけてトートと父はあらゆる手段を試みた。
* * *
それは新月の日の夜のことだった。トートは自室で一人本を読みふけっていた。町の古本屋で買い求めたぼろぼろの本で、幻界に関する考察が小難しい言葉で延々と書かれていた。
本をキリのいいところまで読むと、しおりを挟んで本を閉じ、立ち上げって大きく伸びをした。開けっ放しの窓から風が入り、カーテンを揺らした。その隙間から見えた夜空を見て、トートの動きが止まった。
――まただ。
何故だか最近、新月の日に夜空を見ると血が騒いだ。自分の意思とは関係がなく、まるで自分以外の誰かが血を騒がせているかのように感じた。まるで、というか、ナイトメアが血を騒がせているのだろう。そのお陰で新月の夜はなかなか眠れなかった。前回の新月の夜の時は結局眠れずに朝を迎えていた。今回も眠れないのだろうなと思うと、気分が少し憂鬱になった。
騒ぐ血を抑えながら、ごろんとベッドに横になった。特に何も無い天井を眺めながら、ぼうっと時間を過ごした。
どれぐらい時間が経っただろうか、そろそろ本の続きを読もうと起き上がろうとしたとき、微かだがぴりぴりした空気を感じた。
何かあったのだろうか。
トートはドアノブに手をかけたが、どたどたと言う騒がしい足音を聞いて咄嗟に手を離した。あの足音は両親や使用人のものではない。誰かが……それも複数人が、この家に侵入している。数歩後ずさりして、部屋の真ん中に立った。
自分は、どうするべきだろうか?
手に嫌な汗がじわりと浮かぶのを感じた。窓から逃げるべきだろうか。幸いにもこの部屋は一階なので、窓から逃げるのに何の支障もない。
しかし、得体の知れない侵入者がいる家に、両親や使用人を放っておくような真似はできない。あれだけトートと共に努力してくれた、トートの心の拠り所である彼らを見捨てることなど出来ない。
じっとその場で立ちすくんでいると、突然ドアノブが乱暴な音を立てた。がちゃがちゃと音を立て、一瞬の静寂の後激しいノックの音がした。
のうのうと鍵を開けるわけにも行かない。トートが黙ったままでいると、ノックの音はより一層激しくなり、しまいには何かでドアをがんがんと叩き始めた。
ドアが少しずつ壊れていくにつれて、トートの心は不安と恐怖で満たされていった。
――ドアが壊れる寸前、窓からびゅうっと強い風が吹き、トートの意識はそこで途切れた。
* * *
瞼越しに朝日が差した。目を開けると、鮮やかな緑が目に入った。身を起こすと、軽やかな風がトートの髪を撫でた。周りには木々が立ち並び、背後にはトートが住む家があった。自分は部屋にいたはずなのに、何故こんなところにいるんだろう。トートは若干の不安を覚えながら、家に向かった。
――木々の根元にある幾つもの死体には気がつくことなく。
シャンデリアが、落ちていた。
それだけではない。床に引かれたカーペットは引き裂かれ、焼け焦げ、壁にかけられていた絵画は真っ二つに折られていた。飾っていた壷などの高級品も一つ残らず壊されていた。昨日までの面影は、まるでない。
嫌な予感が全身を駆け巡った。トートははやる気持ちを抑えながら両親の部屋に向かった。
両親の部屋のドアは壊されており、廊下から部屋の中が見えた。ベッドの上に転がる二つの死体も、見えた。
「……父さん! 母さん!」
トートは二人の下に駆け寄り、その手を握った。が、その冷たさに驚いて取り落としてしまう。体中につけられた無数の刺し傷、真っ黒に染まったベッド、ぷんと香る独特の臭い。トートは吐いた。
「そん、な……」
衝撃が大きすぎて、涙も出なかった。目の前にあるものが、まるで別世界のもののように感じられた。
誰か生きている人はいないのか。
トートは衝撃を引きずったまま、両親の部屋を後にして家中を探し回った。
しかし見つかるのは滅茶苦茶に壊された家具類と、両親と同様の方法で殺されている使用人達だけだった。
――昨晩、何があった?
それを知るべく、トートはふらついた足取りで家を出て、町へ向かった。
* * *
町は賑わっていた。
トートの家とは正反対の、明るく楽しい雰囲気で満たされていた。道行く人々が笑い、鼻歌を歌っていた。何となく見つかってはまずいという思いがあり、物陰に身を潜めながら人々の会話に耳を澄ました。
「やあ、町長さん。おめでとう」
「ああ、君か。おめでとう」
中年の男二人の会話が聞こえてきたのでそちらに意識を向けた。
「ようやく生活も楽になりますな」
「全くだ。あいつら、最近になって余計に大金をせしめるようになって……一時はどうなることかと」
「ただでさえ高かったのに、何故あんなに高額に吊り上げたんですかね」
「ふん、遊びだろ遊び。貴族様はそれぐらいしかやることがないんだ」
「しかし、町長さんの決断は凄いですな」
「こうも呆気なく終わるとは、もっと早くこうしといたらよかった」
「ははは、まあいいじゃありませんか。……おや、あそこにいるのは息子さんじゃないですか。随分大きくなりましたねえ」
「ああ、もう5歳になる。凄く頭がいいんだ」
「ほほう、じゃあいい町長になれますね」
「その姿が見れるのは、何十年先の話だろうな」
そう言って談笑した二人の話はそれからは世間話に移ったので、トートはその場から立ち上がり、町を後にした。
自分の家が町民から土地代を取って、それで暮らしていることは知っていた。しかし、ここ最近になって大金をせしめるようになった、というのは初耳だった。生活は普段と変わらず、大金を取っている素振りなど全く無かった。
先程の会話から、何が起こったのかは見当がついた。大金を取ったことにより、自分の家と町民との関係が崩壊したのだ。その結果、町民は武器を持ち、トートの家族を殺した。そうしないと自分達が生きていけないから。
「……じゃあ、何故……」
何故、両親は大金を取るようになったのだろうか?
トートは走って家に帰った。
* * *
両親の部屋には、相変わらず両親だった「それら」があった。トートはなるべくそちらに目を向けないようにしながら、部屋を探った。まるで泥棒のようで後ろめたい気持ちもあったが、引き出しを開けたりタンスの中のものを全て出したりした。しかし見つかるのは日常生活に使うものばかりで、怪しいものは何も見つからない。半ば諦めた心境でベッドの下を覗いてみると、そこには見慣れない小さな箱が置いてあった。ベッドの下からその箱を出してみると、埃を全くかぶっていなかった。トートは少し躊躇しながらも、箱を開けた。
箱の中には、折りたたまれた紙が一枚だけ入っていた。期待と不安がない交ぜになって震える手で紙を開いた。紙の中の、父の筆跡が語った。
――トート。お前がこれを読むということは私と母さんはこの世にいないのだろう。その前提で、話をしよう。
お前がナイトメアに乗っ取られた、という話を聞いてから私と母さんは話し合った。幻界に関しては素人である私達の力では、努力してもきっとナイトメアにたどり着くことはできない。ならば、専門家を呼んで知恵を借りるしかないだろう、と。
私達は専門家を探し、そしてその人を呼ぶための然るべき料金を貯めようと決めた。
私達が町の人達から土地代を貰い、それで生活していることはお前も知っていると思う。長年の慣習だからか、町の人達は文句も言わずに土地代を納めてくれた。それが家計をかなり圧迫しているのにもかかわらず、だ。
しかし、最近になって私達にとって不穏な動きが町の人達の間にあった。あの土地代は法外なのではないか、あれさえなければもっと豊かな暮らしができるのではないか。彼らは、きっとそういうことを思っていたのだろう。
……私と母さんが死んだとすれば、きっと彼らに殺されたのだろう。それ以外、原因は見つからない。ひょっとしたら使用人やお前も殺されてしまっているのかもしれない。でも、お前が死ぬなんてことは私達には考えられない。だから、この手紙を書いている。
トート。これを読み終わったらまず、これから言う場所に行って地面を掘ってみなさい。私達が貯めてきたお金と、有能な専門家の連絡先と料金を書いたメモがある。そこにあるお金だけでは専門家は呼べない。トートにはすまないが、呼びたければもう少しだけお金を貯めてくれ。……しかし、それはもうトートのお金だ。「専門家」に縛られず、好きに使ってくれて構わない。
……思ったよりも、長くなってしまった。最後に一つ。
お前は、私達の大切な息子だ。どうか、幸せになってほしい。
* * *
手紙が言う場所に行って、地面を掘った。そこは屋敷から少し離れた森の中で、誰も立ち入らないような陰鬱な雰囲気があった。
両親の死を目の当たりにした時は驚きで涙が出なかったが、手紙を読んだときは自分一人だけが生き残ったということをひしひしと感じ、胸の辺りがぎゅうと締め付けられたようになって、それで心が一杯になって悲しむ余地もなかったため涙が出なかった。あちこちから見聞きする物語だと、そういうときは泣くシーンなのに実際は一滴の涙も落ちなかった。
地面をさらに掘り進めると、シャベルが何かにぶつかってかちんと音を立てた。慎重にその辺りの土を掘り出すと、金属製の大きな箱があった。持ち上げてみると予想よりも軽く、少し動かすと中身がかさかさと動く音が聞こえた。
地面の上に箱を置き、開いた。
中は、三分の一ほどを紙幣が占めており、残りの空間には小さなメモ以外何もなかった。メモを見ると誰かの名前と住所、そしてトートが見たこともない桁の金額が記載されていた。きっと、この箱いっぱいに紙幣を集めてもまだ足りないだろう。
「……貯まるわけ……ないよ……」
今までの土地代から貯金したとしても、貯まるよりもはるかに早くトートの体はナイトメアに乗っ取られていただろう。
――だから。
だから、土地代を値上げしたのだろう。ナイトメアに乗っ取られるよりも早く、専門家を呼ぶために。町の人達が暴動を起こす可能性が跳ね上がるが、それすら厭わずに。
「…………」
手元に目をやると、父がくれた真っ白な手袋が滑らかに光った。
手袋の上に、涙が落ちた。
「……どうして……!」
何故今になって泣いてしまうのか分からなかった。両親の死よりも、両親からの手紙よりも、このお金が一番「現実」を感じさせてくるからだろうか。両親が隠していたお金。トートが平和にナイトメアを探しながら生きていたら気付くことのなかったお金。それがいま、自分の目の前にある。
「いらないのに……!」
こんなお金のために死んで欲しくなかった。そもそも自分は、両親と幸せに暮らすためにナイトメアを探していたのだ。両親が死んでしまっては、何のためにナイトメアを探せばいいのか分からなかった。
「こんなの、いらないのに……!」
箱にすがり付いて、トートはひたすら泣いた。
* * *
――それから、何年かが過ぎた。
トートは相変わらず屋敷に住んでいた。壊された家財道具などはあらかた片付け、血の染みた絨毯などは全て捨てた。出来ることなら毎日掃除をしたかったのだが、これだけ広い屋敷を一人で掃除するのは不可能だった。掃除するだけで一日が終わってしまう。その結果、家のあちこちに埃がたまり始めた。
屋敷の外壁には、少しずつツタがからみついてきた。面倒なので切り取らず、そのままにしていた。いつかこのツタが屋敷全体を覆ったって構わなかった。
屋敷の裏には、木の枝を組み合わせただけの簡素な十字架があり、その下には両親と使用人たちの骨があった。基本的に遺体はそのまま埋めているが、唯一つ、父がかけていた眼鏡だけは一緒に埋めなかった。何故だか埋めることが躊躇われて、結局はフレームを治して度の入っていないレンズをはめて、トートがかけることにした。
墓の横には両親が貯めた金が入った箱を埋めてあった。両親の遺言通りに金は自由に使えばいいのだろうが、良い使い道が思い浮かばずに結局埋めた。
一人きりの生活は、最初は慣れなかった。全てを自分一人の力でしなければならない、というのは不可能だった。出来る限りのことは自力でしたが、どうしても無理なことは町まで行ってこっそりとそのために必要なものを盗んだ。良心が痛んだが、自分が生きるためには仕方のないことだった。
人のものを盗んでまで生きたいのか、という疑問はあった。両親を失った今、自分が生きる意味などなかったが、だからといって死ぬような度胸もなかった。ただ、惰性で生きていた。
ナイトメアに関する調査は一切しなくなった。もう、ナイトメアを見つけて目的を達成しても嬉しくもなんともない。こうやって一人っきりで生きていくぐらいなら、さっさとナイトメアにこの体を明け渡したほうが楽ではないかとも思った。
そんなトートの意思とは反対に、ナイトメアの侵略は遅々としていた。あれからもう何年も経つと言うのに、爪から始まった侵食は手首と足首までしか進んでいない。他に目立った変化といえば、右目の視力が異常に良くなったことぐらいだ。片目だけ視力が上がるとかえって不自由なので、右目は長く伸ばした前髪で隠した。
両親が死んだとき以来、新月の夜になると決まって意識を失った。この現象は一体なんなんだろう、と考えるがすぐに止める。どうせナイトメアの力の影響なのだろう。幸い、自分は一人きりだ。この力で誰かを不幸にすることなどない。もしトートがナイトメアに乗っ取られても、悲しむ人などいない。
――だから。
だから、早くナイトメアが自分を「殺して」くれないだろうか。トートはそれだけを思いながら時を過ごしていた。
* * *
ある日の朝、近くの川辺まで朝食を釣りに行く時、トートは墓の前でそっと黙祷した。それは毎日の習慣になっていて、冥福を祈ることもなくただ目を閉じるだけの形だけの黙祷になっていたが、トートは気にしなかった。幻界という妙な世界を調べていたにもかかわらず、トートは幽霊の類の話は全く信じていなかった。黙祷なんて自分の心を落ち着かせるためのものだと考えており、今のトートの心は落ち着いているため黙祷はさして重要視していない。
川辺まで行くと、先客がいた。ゆったりと流れる川の流れに釣り糸をたらし、じっと獲物がかかるのをその男は待っていた。
先客がいるのはとても珍しい、というか、初めてのことだった。こんな人里離れた辺境の川辺に釣りに来るとは、男はよほどの変人らしい。
トートがじっとその様子を後ろから眺めていると、やがて男は一匹の小魚を釣り上げた。ぴちぴちと激しく動く小魚を男はしばらく眺めていたが、すぐに小魚を川へ帰した。そして再び川に釣り糸をたらした。
大物狙いなのだろうか。トートはゆっくりとその男に近づき、男の傍にあるバケツに目を落とした。釣った魚を入れるためのバケツなのだろうが、一匹の魚も入っていなかった。
男はちらとトートに目を向けるが、すぐに川の流れに目を戻した。
「釣れますか」
トートが問いかけると、男は黙って首を左右に振った。
「大物狙いですか?」
「……いや、手の平に納まるくらいの奴なんだが……」
釣り針に魚がかかり、男は魚を釣り上げる。それは手の平に収まるくらいの小魚で、きっと男が探していた魚だろうとトートは思ったが、男はすぐに魚を川に帰してしまった。
「狙ってたのは、今のじゃないんですか?」
「もう少し丸っこい。あと黄土色をしている」
そんな魚いたっけな、とトートが首を捻っていると男は釣り針を引き上げた。
「お前はこの辺りの住民か?」
「ええ、まあ」
「ここで釣りは?」
「毎朝してますが」
ふうむ、と呟きながら男は釣り道具を片付け始めた。
「じゃあ、たい焼きという魚はここで釣れたことはあるか?」
「は?」
唐突に菓子の名称が出てきて、トートの思考は一瞬固まった。
「……あの、それ……お菓子ですよ?」
「だが鯛の一種なんだろう? どこかで釣れるはずなんだが……」
たい焼きは鯛をかたどったお菓子だし、そもそも鯛は海水魚だからこんな川にいるはずはないしと、言いたいことが一瞬で山のようにできたが、男の真剣な表情を見る限り冗談でもないらしい。
何だこの妙な男は。トートは鯛のことは後回しにして、男に名前を尋ねた。
男は、ゼロと名乗った。