雲が願うもの 後
雲の海の中で一人、クラッコは絵を描いていた。安物の折りたたみ椅子に座り、目の前のキャンバスにただひたすら色を乗せていた。直感で色を選び、直感で色を乗せていく。理性が欠片も存在しないこの時間は、クラッコにとってかけがえのないひと時だった。
「あ、クラッコ」
ワドルドゥはそんなクラッコの元へ駆けていき、彼が一心に絵具を乗せていたキャンバスを覗き込んだ。爽やかな青を基調とし、ところどころに散りばめられた白が青の爽やかさをよりいっそう強調している。初めて見るクラッコの絵に、ワドルドゥは感嘆のため息をついた。
「……すごい……」
「凄くなんてないよ、適当だよ」
クラッコはキャンバスから目を離さず、手も動かしたままでワドルドゥの呟きに反応する。
「こんなに上手いんなら、絵を売って大金持ちになれるんじゃない?」
「売れるとは思わないけどねえ」
クラッコが絵筆を動かすたびに、キャンバスに広がる爽やかな世界は深みを増していく。
「……こないださ、両親と会ったよ」
絵筆を止めることなく、独り言のようにクラッコは呟いた。
「やっぱりね、すぐ許せるほど僕は人間が出来てない」
「……そう」
「でもね、ずっと許せないままってのも何だか息苦しいから、これからはちょくちょく会ってみるとするよ」
クラッコの横顔には以前見た憎しみや悲しみは一切なく、あるのはいつもの穏やかな笑顔だけだった。
「……クラッコ……」
ワドルドゥは無意識のうちに胸に手を当てていた。心臓が普段よりも早いペースで脈打っている。
(やっぱり、そうなんだ)
クラッコに対する想いは、他の友人に対するものとは少し違う気が以前からしていたが、ずっと確信を持てなかった。というか、持ちたくなかった。よりによって、こんなどうしようもなくだらしない人間にこんな想いなど抱きたくなかった。
けれども、今回の事でクラッコを見る目が変わった。彼は彼なりに、様々な事に悩んで、怒って、悲しんでいる。へらへら笑うだけの阿呆ではない。ただ、悩みも怒りも悲しみも人に見せていないだけだった。その事を知り、ワドルドゥは今まで目を逸らしてきた想いに正面から向き合う事が出来た。
「あのね、クラッコ」
あの時、クラッコはワドルドゥに対する想いを伝えてくれた。間が空いてしまったが、ワドルドゥからも彼に対する想いを伝えなければならない。
「……あの、えっと、その」
言うべき事は分かっている。分かっているのだが、上手く言葉にできない。クラッコのようにするりと言葉が出ない自分が、もどかしい。
クラッコはそれまでずっと動かしていた絵筆を止め、ワドルドゥの方を向いた。長い前髪の奥から投げかけられる目線に、ワドルドゥの顔は一気に赤くなり、体中からどっと汗が吹き出した。
「ええっと、わわわ私が言いたいのは、その、あああああ」
クラッコの視線があっては、余計に言葉が出ない。頼むからキャンバスの方を向いて欲しい。だがクラッコはワドルドゥの心中の叫びなど綺麗に無視をして、じっとワドルドゥを見つめている。
「……もっ、もももももう、こっち見ないでよ! 言いたいことも言えないじゃない!」
「ふうん、言いたいことって何?」
へらっと笑うクラッコを殴りたくなった。もうとっくに気づいているはずなのに、わざわざこんな事を言うとはなんて性格が悪いんだ。いやしかしクラッコのことだから気づいていないかもしれない、と様々な思考がワドルドゥの中をぐるぐると渦巻く。
「ワドルドゥを見なければいいんだよね」
「……そっ、そう! キャンバスにでもお絵かきしといてよ!」
「いやあ、お絵かきはちょっと飽きてきたとこなんだ」
クラッコは絵筆とパレットをぽいぽいと放り投げ、強引にワドルドゥの腕をつかみ、ぐいと抱き寄せた。突然の温もりに、ワドルドゥの頭は真っ白になる。真っ白になっている隙に、クラッコはぎゅうとワドルドゥの体を強く抱きしめた。
「ワドルドゥを見なければ、いいんだよねえ?」
これなら見えないよ、とクラッコは実に楽しそうに笑った。その笑い声で、止まっていたワドルドゥの思考は元に戻る。ワドルドゥの視界にもクラッコの姿はないが、そこここからクラッコの体温が伝わってくる。
「……たたた、確かに見てはいないけど、ここここれはちょっと!」
「嫌?」
クラッコの短い問いかけに、ワドルドゥは言葉に詰まる。こういう時、下手に拒否するよりも素直に甘えた方がいいのだろうと、柄にもなく乙女な計算が頭の中で行われた。
「……い、嫌ってわけじゃないんだけど……も、もうちょっとだけならこうしててもいいわよ!」
が、素直に甘えるなんて事ができるはずもなく、理想とはかけ離れた言動にワドルドゥは自分が嫌になった。
クラッコはそんなワドルドゥの胸中などお構いなしに、
「わーい」
ワドルドゥを抱きしめたまま、呑気に頭を撫でてきた。それに応えるように、ワドルドゥもこそこそとクラッコの背中に手を回した。