雲が願うもの 中
クラッコが帰って来たのは日も暮れかけ、空が真っ赤に染まっている頃だった。「ただいま」の言葉もなく大きな物音も立てなかったため、ワドルドゥがクラッコの帰宅に気づいたのは部屋の掃除が一段落して居間に戻って来た時だった。
「あれ、クラッコ」
テレビもつけずソファに寝転んでいたクラッコは、ワドルドゥの言葉を耳にするとゆっくりと起き上がり、彼女の傍まで歩み寄った。クラッコの顔からは笑顔が完全に消えており、今まで見たことのない冷徹な表情にワドルドゥは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「……ね、ねえ、クラッコ? どうしたの?」
ワドルドゥの問いに答えることなく、クラッコはどん、とワドルドゥの体を壁際まで突き飛ばした。
「……どうして、こんなことするのかなあ」
壁に背を付けたワドルドゥの両肩を、クラッコは強く掴む。身動きが取れない、痛いほどの強い力にワドルドゥは何も言えなくなった。
「……ねえ、どうして僕を騙したわけ?」
自分の体が震えていることを感じながら、ワドルドゥはか細い声で言葉を紡ぐ。
「騙して……なんか……」
「騙したじゃないか! なんで、嘘をついて僕とあいつらを引き合わせたんだよ!」
確かに、クラッコに両親と和解してほしい一心で、「たまには二人でお茶でも飲みに行こう」と嘘をついた。店に着くと、ワドルドゥはトイレに行くふりをして席を離れ、事前に連絡を取っていたクラッコの両親と交替してワドルドゥは家に帰った。
覗き見はしていなかったため、クラッコと両親がどのような会話をしたのかは分からない。分からないのだが、今のクラッコの様子を見ると楽しく和やかに和解できたわけではないことはワドルドゥにも理解できた。
「あいつらと会うなんて、僕は望んでない!」
「……お父さんとお母さんの事を「あいつら」って言うの?」
両親に対する愛情を欠片も感じられない呼び方に、ワドルドゥの心はちくりと痛んだ。
「言うよ。あんな奴ら、僕は親だなんて認めない」
「……そんな事言わないでよ……お父さんとお母さんはクラッコに会いたいって思ってるんだから!」
「そんな言葉を信じてるわけ? あいつらは、僕のことなんか好きでもなんでもないんだよ!」
そう言うなり、クラッコは袖をまくって左手首をワドルドゥに見せた。
そこには、幾重もの傷跡が刻まれていた。今まで見たことのない歪な印にワドルドゥの眼はそこから離せなくなる。
「あいつら、昔、僕になんて言ったと思う?」
「わ……わかんないよ……」
「……役立たずの、出来損ない!」
今でもはっきり覚えてるよ、とクラッコは呟き、左手首をしまった。
「……これでも、あいつらと仲直りしてほしいって思うの?」
クラッコの迫力に言葉を奪われながらも、ワドルドゥは頷いた。
確かに、クラッコの両親はクラッコに対してひどい事をしてきたのだろう。でも、今は彼らは反省してクラッコと話をしたいと思っている。クラッコにとって酷な話なのかもしれないが、それでも両親と和解すべきだとワドルドゥは感じた。これから先、一生両親を憎しみ続けるのは、あまりにも悲しい。
「嫌だよ! どうして、僕があいつらと仲直りなんて!」
ワドルドゥの肩を握る手に、より一層の力が入る。肩が痛みに悲鳴を上げているが、それ以上に心が痛んだ。
「……いらない! お父さんとお母さんなんていらない!」
クラッコはワドルドゥの肩に頭を乗せ、肩を掴む手の力がふいに緩んだ。
「僕は……ワドルドゥがいてくれたらそれでいいんだ。他には何も……いらない」
ワドルドゥの肩がじわりと湿る。何か言葉をかけようとしたが、その前にクラッコはワドルドゥから離れ、自室に入ってしまった。がちゃん、と錠の落ちる音がやけに大きく聞こえた。
掃除を再会する気力は起きず、これ以上クラッコの家に居続けるのは辛かったので、ワドルドゥは自宅への帰り道をとぼとぼと歩いていた。あれほど怒りを露わにしたクラッコを見るのは初めてで、ワドルドゥの頭の中は彼が発した怒りの言葉で一杯になっていた。
(……余計な事、しちゃったのかな)
まさかクラッコがあれ程までに両親を憎んでいるとは思わなかった。涙を流し、両親などいらないと叫ぶクラッコの顔がやけにはっきりと脳裏に焼き付いていた。へらへら笑ってすっとぼけたクラッコしか見ていなかったから、今しがた見せられたクラッコの憎しみや悲しみにどう対処すればいいのか、皆目見当がつかない。
「……あれ?」
クラッコが最後に呟いた言葉が心に引っ掛かった。
(僕は……ワドルドゥがいてくれたらそれでいいんだ。他には何も……いらない)
「…………」
言われた時はその場の勢いに呑まれて何も疑問に思うことはなかったのだが、今思い返してみるとこれはどう見ても、
「……えええええっ!」
まさかの事態にワドルドゥの頭はこれ以上ないほど混乱した。
「え、ま、待ってよそれって、え、えええ」
クラッコはワドルドゥに対して度を超えたスキンシップをしていた。いきなり抱きしめたり、頬にキスをしたり、ワドルドゥの反応などお構いなしで様々な事をされた。でもそれはシャインやブライトに対しても行われてきたことであり、ワドルドゥは彼らと同レベルの扱いを受けているのだと思っていた。
しかし、その言葉はワドルドゥはクラッコにとってシャインやブライトと同レベルではないことを告げていた。
「……ど、どうしよう……」
いくら夜風に吹かれても、混乱しきった頭は醒める気配を見せなかった。