王城ステイ 第二話「勇者と子供達」
世界は回っていると言ったのはどこの学者だっただろうか。星は回り、水は巡り、命は唯一神アルマの手によって廻る。世界は輪廻の渦で出来ている。
リッカの存在もまた輪廻の渦の一部であり、こうしている間もリッカの命は渦を巻いている。ぐるぐる、ぐるぐると。
(回っている)
何もかもが回っている。生命も、思考も、視界も。ぼんやりと目を開けたリッカの視界に映るのは、薄い灰色の天井だ。ミルク色の照明はぐるぐるといびつな円を描いている。
……有体に言えば、二日酔いだ。
(輪廻とかどうとかよく歌われてるけど、元は酔っ払いの戯言じゃねえのか?)
この不安定な視界と思考は俗世を離れた非日常を感じるに十分だ。加えて泥酔した頭なら、アルコールの過剰摂取がもたらす症状を世界規模に捉える事も出来るだろう。そんな酔っ払いの気の迷いが後世にまで残る言葉となり吟遊詩人が口ずさむ歌詞となる。
リッカの勝手な想像に過ぎないが、ぼうっと頭痛をやりすごしていると何の意味もない無駄な思索がふわふわと一人歩きを繰り返す。そう、繰り返す。これもまた輪廻の一種だ。
「お早う御座いますご主人様!」
ふわふわぐるぐると思考を野放しにする作業に水を差したのは、爽やかな朝とは縁遠い暑苦しい男の声だった。どすどすと足音と立ててこちらに近づき、リッカの視界にぬっと入り込んだのは、他でもない魔王カルネリアンだ。なぜか執事服を身に纏っている事は、ぼんやりとした視界でも分かった。
「朝食の準備は出来ております。それとも水浴びのほうがよろしいですか? それともわ・が・は・い?」
殺意が沸いた。
枕元に置いていた剣を手に取り、へろへろの一撃を放つがあっさり受け止められる。
「どうしたリッカ、二日酔いか」
無言で布団を頭から被るとカルネリアンは「そうか」と呟いてどすどすと騒がしく部屋を後にした。と思いきやほんの少し経つとまたどすどすと騒がしく部屋に戻ってきた。
この魔王は二日酔いの人間相手にもう少し静かにする事を知らないのか。リッカが恨みがましい視線をぶつけると、カルネリアンは水差しと杯をベッドの横の小さな棚の上に置いた。
「水でも飲んでゆっくり休め」
「……どうも」
痛む頭を押さえながらベッドから半身を起こし、杯に水を注いで一口飲む。無色透明でよく冷えた水は飲んでいて気持ちがいい。
「我輩とシリダリークはこれから会議がある。日暮れまで貴様に関わることは出来んが、養生しておけ。飯はその辺の召使に言えばいいし、多少楽になれば城を好きに見て回って構わない」
カルネリアンはリッカの頭をぽんぽんと軽く叩き「それではご主人様、失礼致します」と大仰なお辞儀をした。立派な執事服を着ているくせに、シリダリークと比べると随分お粗末なものだ。
「……その格好は、なんだよ」
ようやく執事服について言及すると、カルネリアンはぱっと顔を輝かせた。
「久々の客人をもてなすにはまず形からという事で執事服を着てみた。似合うかね?」
リッカが沈黙で答えるとカルネリアンは「むう」と不満げに頬を膨らませた。
「やはりメイドの方が良かったか……女装になるが化粧と髪型でごまかせるしな……。あるいはもっと攻めて裸エプロンでフライパン片手に登場? リッカ、貴様はどれが好みだ。あっ好みと言ってもそういう目で我輩を見るなよ、我輩は同性愛者ではないからな」
「…………」
殺意が沸いた。
* * *
カルネリアンが去って静かになった部屋で安静にし続け、昼を過ぎた頃になってリッカはベッドからようやく身を起こした。相変わらず倦怠感はあるが、二日酔いによるものなのか寝過ぎによるものなのか分からない程度だ。
水差しに口をつけて直接水を飲む。朝と比べると室温に慣らされてぬるくなっていたが、水分を摂るといくらか頭が冴えてきた。それと同時に昨晩の事を思い出して頭を抱えた。
「……あああ、やっちまった……」
その場の雰囲気と勢いに乗せられたとはいえ、魔物が作る料理を食べ、得体の知れない酒をたらふく飲んでしまった。見て口にした限りでは何の変哲もない料理の数々だったが、魔物の事だからとんでもない材料にとんでもない調理法で作っているのだろう。いくら味が良くても、魔物が作った料理という時点で口にしてはならないものだった。
「……食っちまったし飲んじまった……!」
昨晩の豪勢な料理の数々が脳裏をよぎる。魔物が作ったという事実を除けば見た目も味も一級品のものであり、思い出せば思い出すほど腹が減ってしまうのは不可抗力というものだ。おまけに今日はまだ水しか飲んでいない。
意識が覚醒するのに比例して空腹感は増し、リッカは自分の荷物が無いものかと部屋の中を軽く見渡した。すると扉の真横に見慣れた鞄――リッカの荷物が置かれていた。高級品に満たされた空間の中で土埃に汚れた布製の鞄は明らかに浮いている。
(……確か、保存食があったはずだ)
大して美味くも無い肉の燻製や石のように硬いパンぐらいのものだが、まともな食糧はそれぐらいしかない。
リッカは扉の前に座り込み、荷物を開く。ガルハヤの住民に詰め込まれた得体の知れない物品の数々を適当に放り投げ、お目当ての食糧袋を引っ張り出した。燻製もパンも病み上がりに近い身には少し重いが、背に腹は代えられない。
食糧袋の中からパンを一つ取り出して端をかじろうとした時、リッカの耳は扉の向こうに誰かが駆ける音を捉えた。カルネリアンの足音よりも軽やかで、子供の足音みたいだな――と考えている間に部屋の扉が勢いよく押し開けられ、リッカの体は思いっきり押されて倒れてしまう。
「だ、だだだ、誰だ!」
慌てて体勢を立て直して扉の方を見やると、そこには年端も行かない少年が立っていた。
リッカよりもはるかに幼いその少年は、紫色の肌に短く切り揃えられた赤紫の髪をしている上に、こめかみの辺りからねじれた角が伸びていた。黄色い目こそしていないが、その特徴はカルネリアンによく似ている。
少年は扉の傍で自分を睨むリッカの存在に気付き、ぱっと顔を輝かせた。
「あんたがリッカだな! 昨日からうちに来たお客さんだって親父から聞いてる」
「……誰だよ、あんた」
「おっと失礼」
少年は背筋を伸ばしてリッカの方へ向き直り、胸に手を当て芝居がかった動きで頭を下げた。
「俺の名前はグルナ。それでこっちが……って、あれ?」
少年は後ろを見て首を傾げたかと思えば扉の向こうに顔を出して「早く来いよお」と大きな声を出した。もう一人来るのかと身構えたリッカだが、暫しの間を置いて現れたのは少年よりも幼い少女だった。
「で、こっちがサーヤ。よろしくな」
「……よ、よろしく……おねがい、します……」
堂々と背筋を伸ばして立つ少年とは対照的に、少女は彼の陰に隠れておどおどとぎこちない仕草で頭を下げた。少女の肌や髪色は少年と同じ……つまり魔王と同じで、違う所と言えばねじれる程の長さも無い小さな角ぐらいのものだ。
「……お前ら、まさか魔王の……」
これだけ似ていると疑う余地は無いのだが、一応尋ねてみる。
「うん。親父は今の魔王で俺とサーヤは腹違いの兄妹」
「えっ、腹違い?」
父親があの魔王だという事は当然として、腹違いという言葉にリッカは違和感を覚えた。
普通、王の子供……すなわち王子と言えば王と王妃の間の子を指す。というか王妃以外の女性と関係を結ぶなんて国民の信頼を損なう不祥事でしかないはずだ。
だと言うのに今のグルナの言葉には「腹違い」に対する後ろめたさは一切感じられない。
そもそも思い返してみれば、昨日の宴会中も王妃のような魔物の姿は見受けられなかった。魔王はドレスに身を包んだ雌の魔物に積極的に声をかけていたが、特定の伴侶がいる風には見えなかった。あれはどう見ても節操の無いナンパ魔であり、リッカが酔い潰れた後もナンパを続けたのだろう。寝室にまで連れ込んだ可能性すらある。
「王妃はいるのか?」
「……王妃?」
「人間の国の王様のお嫁さん……だっけ?」
グルナとサーヤは揃って首を傾げている。リッカが頷いてみせるとグルナは「ふーん」と興味がなさそうに頭を掻いた。
「あのね、ガルハヤには王妃はいないんだよ」
「いない?」
「ええと……」
サーヤのいまいち要領を得ない説明を噛み砕いて解釈すると、ガルハヤ帝国には王妃と言う制度そのものが存在しないらしい。常に命を狙われる存在である魔王のたった一人の妻となるとその身に降りかかる危険は数知れず、わざわざそんな危険を犯してまで王妃になりたいと言う女性は存在しないと言っても過言ではない。だからガルハヤ帝国に王妃は存在せず、魔王は複数の女性と関係を持つ事も認められているのだと言う。
「……そんなんでよく修羅場にならねえもんだな」
複数の女性と関係を持ち腹違いの兄妹まで出来ている。リッカの常識で言えば修羅場に他ならないものだが城内にはそんな不穏な空気は無い。
「お父さんはそういうヒトだってお母さん達は分かってるからね」
「そうそう。全部分かった上で親父の子供が欲しいって思ってそうしたんだから」
「…………」
あまりにも常識はずれな事実に呆然とするリッカをよそに、グルナとサーヤは「親父はモテるんだよなあ」「おまけにスケベだしね」と納得した様子でうんうんと頷いていた。
「……で、何の用だよ」
リッカは自身の貞操観念とはかけ離れた事実を頭の隅に追いやり、立ち上がって二人を静かに見下ろした。魔物であるならそれだけで斬るに値するものだが、下手に手を出すとガルハヤ帝国から追放されてしまう。魔王を討つチャンスを無碍にしてはならないと強く自制した。
「久しぶりに来たお客さんだから挨拶して、城の案内でもしてやろうかなと思って」
「お父さんに相談したら是非やってくれって大喜びしてたよ」
二人の目を見る限り、嘘はついていないようだ。純粋な善意に満ちているのも分かったが、リッカはため息をついて首を横に振った。
「お前らの案内なんかいらねえよ。僕一人で見て回る」
「えっ、で、でも、迷っちゃうかもしれないよ?」
「こんなちっさい城でどう迷えと」
「見るだけじゃ分かんねえ情報も教えてやれるぜ」
「いらん」
「お父さんがこっそりコレクションしてるいやらしい本の隠し場所も知ってるよ」
「娘にバレてる時点で隠してるって言えんのかそれ」
「今ならどんな汚れも落とす超強力洗剤も付けてやるから!」
「通販か! 昨日と同じツッコミさせんな!」
これはどうあがいても二人は諦めないパターンだ。昨日のシリダリークとの押し問答が脳裏をよぎり、リッカは早々に両手を挙げて降参した。二日酔いが完治したわけでもない身体で舌戦を交わすほどの余裕は無い。
* * *
グルナとサーヤによる城の案内は、もたつく所も多少はあったがおおむねスムーズに進行した。子供特有の爆発的なパワーで引きずり回されるのではないかと危惧していたが、二日酔いのリッカを気遣ってかゆったりとしたペースで歩いていた。
「リッカ、それうまいのか?」
グルナが興味津々と言った眼差しで見つめているのは、リッカがぼそぼそと口にしているパンだ。味が無く硬いだけのパンは日持ちの良さと空腹を紛らわせる事しか取り得が無い。
「うまそうに見えるか?」
「全然」
「分かってんなら聞くなよ」
「わざわざそんなパン食わなくても、城のもん食えばいいのに」
リッカはため息をついてグルナとサーヤを見下ろした。サーヤは今にも泣き出しそうな顔でグルナの後ろに隠れたが、グルナはまったく動じた様子が無い。
「魔物が作った料理なんざ食うはずねえだろ」
「昨日は食べてたじゃん」
「あれはここ一年で最大のミス。これからは魔物の手垢がついた料理は絶対食わねえ」
敵意を隠そうともしないリッカの態度に、グルナは不機嫌そうに頬を膨らませた。
「……あのさあ、リッカ」
「何だよ」
城の内装を観察しながらぶっきらぼうに答える。かなりゆったりとしたペースで昼過ぎから空が赤く染まる頃まで歩くだけで城内を一通り見て回れた。やはり城としてはやや小規模だが、その分手入れは隅々まで行き届いている。認めるのは癪だが、居心地は悪くない。
「俺らの事、魔物って呼ぶのやめたほうがいいぜ」
「何で」
「『魔物』は悪口みたいなもんだから」
厳密な定義で言えば、魔物とは人語を理解しない魔族を指す。しかし世間一般の感覚では、彼らの事を魔族と呼ぼうが魔物と呼ぼうが大差ない。
「魔物を魔物と呼んで何が悪いんだよ。皆そう言ってるぜ」
「人間にとっては普通かもしれねえけどさ、それ、俺らを言葉の通じない獣扱いしてるようなもんだぜ」
「……人間に置き換えたら、サル呼ばわりされてるようなものかな?」
サーヤの呟きにグルナは「そうそう!」と何度も頷いた。
リッカは少し想像力を働かせてみたが、なるほどサル呼ばわりはいい気分ではない。しかし、人類の敵である魔物にそこまで気を回す必要はあるのだろうか。
「……まあ、気が向いたら魔物呼ばわりはやめる」
「あっ、これ永遠に気が向かないパターンだ」
グルナがどこかからかうような調子で言ったが、リッカはその言葉を無視した。
* * *
宴会時に限らず、夕食は謁見の間で行うものと決まっているらしい。召使に呼ばれて謁見の間を訪ねた時には既に夕食の準備は整っており、運び込まれた長いテーブルの上には温かな料理がずらりと並んでいた。昨日と比べると豪勢さは欠けるが、家庭料理のようなぬくもりが感じられる。
「おうリッカ、来たか」
長いテーブルの一番奥、いわゆるお誕生日席に座っているのはカルネリアンだ。向かって左隣の席にはシリダリークが座り、右隣の席は空いている。リッカはつかつかとカルネリアンに近づいて右隣の空席の傍に立った。
「もう身体の調子はいいのか? あまり刺激の強くない料理にしたが、食欲がなければ残してくれて構わない」
「メシを食いに来たわけじゃねえよ」
リッカは懐に隠し持っていたナイフを抜き、目の前に座るカルネリアンに向けて投げた。カルネリアンはそれを二本の指で挟みこむことで受け止めたが、リッカはその隙を逃さず本命――剣を抜いて脳天めがけて振り下ろした。
が、空いた手で剣も難なく受け止められる。魔法で皮膚を強化しているのか、血がにじむ気配すらない。
「元気そうで何よりだ」
リッカは全力で剣を振り下ろそうとしているが、カルネリアンは涼しい顔で動きを抑えている。
「親父、俺らがリッカを案内してやったんだからな!」
「分かってる分かってる。グルナもサーヤも偉いぞ」
世間話に興じながら、カルネリアンは剣から手を離してナイフも床にぽいと捨てる。リッカは自由になった剣で再度カルネリアンに切りかかるが、またしてもあっさりと捕らえられる。
「親父、リッカは魔族の料理なんか食いたくないって言ってた」
「なんと!」
カルネリアンが驚愕の表情でこちらを見てきたため「何が入ってたか分かったもんじゃねえし」と睨み返した。それほど力が入っていない風に見えるのに、刃先はぴくりとも動かせない。
「そうか。では何の手も加えていない食材と調理場を貸してやろう。それで自炊をすればいい」
「……自炊……?」
「料理は嫌いかね」
嫌いではない。野営をする時は近辺で調達したありあわせの食材を用いて料理をした。烏合の食材が一つの料理として完成していく様は見ていて楽しい。
リッカが沈黙を返すとカルネリアンはそれを肯定と取ったようで、満足げに頷いた。
「ではそろそろ飯を食うとするか。リッカ、悪いが貴様の飯は貴様が今から作るなり保存食で誤魔化すなりしておいてくれ」
我輩達ではどうしようもないからな、とカルネリアンはリッカの手から剣をあっさりと奪い取り、床に置いた。
今、剣を拾ってこれ以上攻撃してもカルネリアンには何の影響もないだろう。ナイフも剣もやすやすと受け止められた上に世間話まで始められたら嫌でも分かる。
「……はあ」
リッカはため息をついて席に座り、硬いパンと肉の燻製をちびちびとかじり始めた。芳醇な香りを放つ料理を見ながら何の温かみもうまみもない食糧を食べるのは、軽い拷問だった。
機械的に空腹を満たす作業の終わりが見えてきた頃、それまで静かに沈黙していた謁見の間の扉が勢いよく開かれた。それと同時に若い女性の元気な声が辺りに響く。
「たっだいまー!」
声のした方に思わず目をやると、そこにはカルネリアンと同じ肌と目で、同じ髪の色をした妙齢の女性が立っていた。下着の上にマントを羽織っただけのような露出度の高い格好をしており、豊かな胸に目が釘付けになりかけてしまい慌てて視線を逸らした。
「コルニオラ! 予定より早かったな!」
カルネリアンは親しげに片手を挙げ、コルニオラも同じ仕草を返してかつかつとヒールの音を鳴らしながらカルネリアンと向かって左側……つまり、シリダリークの席側からカルネリアンに近付いて行く。
「タンタルは相変わらずだったわ。もうちょっと新しくて面白いのが出来てるかと思ったんだけど、大して変わりなかったから予定繰り上げて帰ってきちゃった」
はいお土産、とコルニオラは背負っていた荷袋をカルネリアンに押し付けて「それに!」とひときわ甲高い声を出した。
「シーちゃんが寂しがってないかと思ってねー!」
コルニオラは体をくねらせて背後からシリダリークに抱きつくが、あっけなく押しのけられる。
「誰がいつどこで星が何回巡った日に寂しがった」
「相変わらずつれないわねえ。そんな所も好きよ」
コルニオラはめげずにシリダリークに一方的なスキンシップを図り、シリダリークは時に無視し、時に押しのけながら夕食を食べ進めていく。あしらい慣れている事は一目で分かった。
「ねえねえシーちゃん、数日ぶりの再会なんだから今夜は久しぶりにイチャイチャして寝よ?」
「俺はお前と寝た覚えはねえ。他の男と混同すんじゃねえぞこのビッチが」
「それは誤解よ。今回の旅行はいい男と出会えなかったし誰とも寝てないわ」
「……その発言、ビッチそのものじゃねえか。つうか晩飯時に客の前で話すことじゃねえだろ」
「客?」
「ん」
シリダリークはフォークでリッカを指し、客の存在に気付いたコルニオラは「あら!」と軽くテーブルを跳び越えてリッカの傍に着地した。なんでもない動作に見えるが、助走もなく軽々とテーブルを跳び越えるなんてリッカをはじめとした人間にはなかなか出来ない。先程カルネリアンに斬りかかった時と言い今と言い、やはり魔物の身体能力は人間を凌駕している事を実感した。
そんなリッカの心中などお構いなしにコルニオラはリッカの隣で膝立ちになってにこやかな態度で見上げてくる。
「はじめまして。私の名前はコルニオラ。カルネリアンの妹で、シーちゃんのお嫁さん」
「お前みたいな嫁はいらねえ」
シリダリークの棘のある一言を、コルニオラは聞こえなかったかのように「貴方の名前は?」と続けた。
「……リッカ」
リッカが渋々答えると、コルニオラは「リッカね。これからよろしく」とにっこり笑いかけてきた。その真っ直ぐな笑顔もその下に控える豊満な胸も直視できず、リッカは無言で顔を逸らした。
夕食が終わり、召使達が後片付けをしている最中もリッカは謁見の間に残っていた。眠るにはまだ少し早く、寝室に戻っても特にする事はない。食事の後で眠くなって判断力が落ちていないだろうかとカルネリアンに斬りかかってみたが、先程と同じ調子であしらわれた。
「リッカ、貴様はタンタルを訪れた事があるか?」
「ある」
的確にいなされる剣を何度も振るいながらリッカは答えた。
タンタルは大陸北東部に位置し「商業都市」の名を冠する一大都市である。全世界の流通の要と言っても過言ではなく、この町には古今東西あらゆる商品が揃っている。行商人の数も桁外れに多く、彼らをもてなす為の施設も多い。
リッカがタンタルを訪ねたのは故郷から旅立ってすぐの事だ。そこでの出来事は思い出したくないが、敢えて三言で表せばカジノ、無一文、皿洗いだ。
「あんたもコルニオラも行った事があんのか?」
「何回も行っておるよ。ヒトの発明品があふれ返っていて歩いているだけで楽しい」
「……よく騒ぎにならなかったな」
人間の町に魔物が現れたとなると地元の自警団や傭兵、勇者が駆り出される騒ぎになるはずだ。魔王が現れたとなると教会の最高武力集団――聖塔騎士団が出動しても何ら違和感はない。
だが、タンタルでそれほどの騒ぎが起きたと言う話は聞いた事がない。強いて言えば半年前に砂漠の魔物が町に迷い込みそうになった話ぐらいだ。
「そりゃ人間の町を訪ねる時は人間の姿に化けるさ。騒ぎを起こすのは本意でないのでな」
「ヒトと魔族のいがみ合いがねえ世の中になりゃ楽なんだけどなあ」
シリダリークのぼやきにリッカは「ありえねえよ」と強く否定しながらカルネリアンへの攻撃を続けた。ヒトに害を成して世界平和を妨げる害悪と共存するなんて考えられない。
「リッカはお堅い考え方ねえ」
コルニオラはくすくすと笑いながら背後からリッカを抱きしめた。
「そんな所も可愛いわよ」
「なっ……!」
布越しに伝わる今まで感じたことのない柔らかさにリッカの身体は硬直する。
「ところでリッカ、今夜のお相手はもう決まってるの?」
「こ、こ、こ、今夜の相手って」
「その様子だと今夜の、どころか人生初のお相手かしら」
コルニオラはリッカの胸元にするりと手を入れ、艶かしい手つきで胸板を撫でる。
「いやいやいや、魔物が相手とか無理、絶対無理!」
「大丈夫よ、角とか尻尾とか肌の色とか違うけど、それ以外はほとんど人間と同じだから安心して」
「安心できねえ!」
リッカは悲鳴に近い声を上げてカルネリアンとシリダリークの方を見やるが、二人揃って笑顔で親指を立ててきた。
「だ、大体、シリダリークはどうしたんだよ」
「シーちゃん? 確かに私が愛してるのはシーちゃんだけど、それとこれとは別物よ」
コルニオラの抱き付きが緩んだかと思うと、次の瞬間にはリッカの身体は軽々と抱き上げられていた。
「痛くないよう優しくしてあげるからね」
「それ普通セリフ逆って言うか離せよおおおお!」
リッカが全力で暴れてもコルニオラはびくともせず「元気がいいのね」と笑いながら謁見の間を後にして寝室に向けて歩を進めた。
* * *
「……この後、どうなると思う?」
謁見の間に残されたカルネリアンは、シリダリークに向けてぽつりと呟いた。
「ご想像の通りじゃねーの」
「……リッカにとっては貴重な経験になるな……」
「本人は望んだわけじゃねえけど」
リッカは魔族を毛嫌いしている。傍目にもそれは明らかだが、周りの雰囲気に呑まれて宴に参加するなど詰めに欠ける所はあった。押しの強すぎるコルニオラの誘いを断りきれなかったのも当然と言えば当然である。
「貴様が止めればよかったのでは……いや、止めんな、貴様は」
カルネリアンは納得したようにうんうんと頷いた。
「放っておけば今宵はリッカに狙いが逸れるもんな」
「まるで俺がリッカを生贄にしたみてえな言い草じゃねえか」
シリダリークは「心外だ」と呟いて大袈裟に肩をすくめた。
「これもお客様に対するサービスの一環で御座いますよ?」
「し、白々しい……」
耳を澄ませるとリッカの悲鳴が聞こえたような気がしたが「まあ死ぬことはあるまい」と聞かなかった事にした。