王城ステイ 第三話「勇者と雪」
顔に当たる空気がやけに冷たくて目が覚めた。ふかふかと魅力的な温もりを放つ布団から半身を起こし、窓を見やる。
「……雪?」
窓の外には真っ白な世界が広がっていた。ベッドから降りて窓の傍に立ってみると、底から冷えるような寒さがガラス越しに伝わってくる。雪はもう降っておらず、窓の外には不気味なほどにしんとした静けさだけがある。
今は山羊の月……野宿がつらい季節だ。ガルハヤ帝国で雪が降ってもなんら不思議ではない。雪が降るほどの冷え込みに気付かなかったのは、紛れもなくコルニオラのせいだ。彼女の姿はベッドの上にはもう無いが、鼻をひくひくと動かしてみるとリッカのものではない甘ったるい匂いがかすかにした。
「……タチの悪い夢、じゃねえんだな……」
酒に酔っていなかったから、昨夜の事ははっきりと覚えている。何もかもが初めてで、何もかもが刺激的で、何もかもが一方的だった。いつか経験する事だと思っていたが、まさか十五歳で、魔王城で、魔王の妹が相手とは予想だにしなかった。
もう済んでしまった事とはいえ、意識するだけで気が滅入る。両親に向けて土下座したい。母はともかく父は怒るだろう。父の正義感の強さは嫌と言うほど分かっている。
(隠し通して、忘れちまったほうがいいよなあ……)
これは人生の汚点でしかない。魔王を殺して英雄となり、その後出会うであろう運命の人と過ごす初夜――それがリッカにとっての初めてだ。昨夜は何も無かった。そういう事にしよう。
あれこれ考えていると腹が減ってきた。リッカは部屋を後にして謁見の間兼食堂へ向かった。
腹が減ったのは恐らく昨夜の運動が原因だとか、そんな事はまるでない。
* * *
謁見の間兼食堂には、数人の召使とカルネリアンとシリダリーク、そしてコルニオラの姿があった。誰もが椅子に腰掛けて朝食を口にしており、長机の上には温かなスープに焼きたてのパン、一口サイズに切り揃えられた果物がずらりと並んでいる。
長机の周りには華奢な燭台が等間隔で並べられており、その上には蝋燭ではなく炎「だけ」がちろちろと燃えている。一つだけでは頼りない炎も、頭数の多さのお陰でこの開放的な空間をほんのりと暖める事が出来ていた。
「おお、リッカ。おはよう」
リッカの姿にいち早く気付いたカルネリアンが親しげに片手を挙げる。その能天気な笑顔を睨み付けながらリッカは彼の傍に座る。あつらえられていたかのように席が空いており、切られてもいない生の果物とナイフがその前に置かれていた。
「スープを飲むか? 温まるぞ」
カルネリアンが軽くスープ皿を掲げて見せたが、リッカは首を横に振った。
「魔物の餌なんか誰が食うか」
目の前に置かれた生の果物を手に取ってじっくりと観察する。宝石を思わせる透き通った赤、陽光の恵みをたっぷりと吸った黄、ふわふわとした触り心地の桃色。どれも馴染みのある果物で、かたちも色も匂いも何ら不自然な点は無い。
ナイフで実を半分に切って断面を見てみると、燭台の明かりを受けてきらきらと輝くほどにみずみずしい果肉がぎっしりと詰まっていた。
新鮮な一級品の果物。それ以外の何物でもない。
リッカは半分に切った実にそのままかぶりつく。味も妙な所は無く、さっぱりとみずみずしい甘さで朝食には丁度いい。
「ところでリッカ」
無言で果物を頬張るリッカに声をかけてきたのはシリダリークだ。隣に座るコルニオラの執拗な「あーん」攻撃から逃れながら器用に朝食を口にしている。
「今日の晩飯は年の数だけ寝かせた葡萄酒とランダ牛のポトフにするか?」
「……は? 魔物が作った料理なんて食わねえし、そもそも何でお祝い料理なんだよ」
ランダ牛のポトフと言えばお祝い料理の定番だ。高価な牛肉を野菜と一緒に何時間もかけてじっくりと煮詰めるという手間も金もかかる料理だが、それだけ心がこもっていると言える。リッカの誕生日に母が作るポトフは身も心も温まる大好物だ。
加えて年の数だけ寝かせた葡萄酒となると、リッカを祝おうとしていることは明らかだ。まるで解せないという顔をしていると、シリダリークはスープをぐいと飲み干してにやりと口角を吊り上げた。
「昨夜はお楽しみでしたね?」
「うっ……!」
それか!
思い出したくもない事をほじくり返されてリッカは思わず頭を抱えて呻き、コルニオラは「お楽しみ?」と意味ありげな微笑を浮かべた。
「リッカちゃんったら意外と激しかったわねえ」
「やめろ!」
果物を切り分けたナイフを投げたがあっさりと片手で白刃取りされる。
「そうかそうか、大人の階段を一つ上ったわけだな。実にめでたい! 今日は雪も積もったし良い事尽くめだな!」
「やめろっつってんだろ!」
抗議の意を込めて机を強く叩く。何人かの召使がこちらを見ただけで、彼らもすぐに朝食を食べる作業に戻った。
「大体何で雪が積もるのが『良い事』なんだよ! 今ぐらいの時期ならいくらでも積もるだろ!」
「愚か者!」
リッカの言葉をカルネリアンはぴしゃりと一喝した。威厳に満ちたその声にリッカの身体は思わず硬直する。
「貴様の故郷では積雪など他愛もない事かもしれん。だがな、ここガルハヤ帝国では年に一度積もるかどうか程度の雪しか降らん。故に、積雪は我々にとって極めて特別な意味を持つ」
特別な意味――つまり雪は生活に必要不可欠なものなのだろうか。すぐに思いつく利用法は飲用水や保冷材といったものだが、もっと他に魔物独特の利用法があるのかもしれない。雪を利用したゴーレム生成なんかも有り得る。
あれこれと考えをめぐらすリッカの前で、カルネリアンはたっぷりと間を取ってから厳かに口を開いた。
「――雪遊びだ」
「……はあ?」
耳を疑った。雪遊びだと? 冗談も程々にしろと言いたかったが、カルネリアンの顔は真剣そのものだ。
「雪達磨、かまくら、そり、雪合戦……雪には実に多様な利用法があると言うのに、年に一度しか雪に触れる機会がない。これを特別と言わずに何と呼ぶのだ!」
「…………」
バカだ。こいつは救いようのないバカだ。
簀巻きにされた姿やリッカを起こすためだけに執事服に着替えた姿を見て薄々感づいてはいたが、ようやく今、確信した。
「今日は忙しくなるぞお。朝の間にそりに興じつつかまくらを作り、昼食はかまくらの中で火をおこしてスープを飲みながらパンを炙って食う。そして午後からは待ちに待った雪合戦を執り行い、最後に全員で雪達磨を製作する。合間合間にはその他やりたい遊びを心の赴くままに楽しむのだ!」
そう早口にまくし立てるカルネリアンの瞳は子供のようにきらきらと輝いており、リッカより年上とは思えない落ち着きのなさだった。周りも呆れているのではないかと思い見渡してみるが、召使は誰もがうんうんと期待に満ちた眼差しで頷いており、コルニオラもどことなく楽しそうに頬杖をついている。唯一シリダリークだけが気だるげに欠伸を繰り返していた。
食い物の恨みで主人を簀巻きにするような奴が乗り気ではないのは意外だったが、リッカがそれを問う前にシリダリークは「やっぱ今日はダメだわ」とカルネリアンに向けて呟いた。
「今日一日有休な」
「おう分かった。寝とけ寝とけ」
「有休?」
聞き覚えのない言葉にリッカが首を傾げていると、コルニオラが「有給休暇の略よ」と説明をしてくれた。しかし「有給休暇」そのものの意味が分からない。
「そうねえ、簡単に言えば休んでてもその日の分のお給料が貰える制度ね。シーちゃんの場合だと、一年働いたら十日は休んでもお給料が貰えてるんだったっけ?」
「おうよ」
「休んでても金が貰えるとか聞いたこともねえぞ」
「そうだろうな。制度としてはまだ実験段階で、この城に勤める者達にとりあえず試してもらっているだけだからな」
あと数年は実験を続けて制度に穴がないかを確認し、それから内容を一般向けに分かりやすくまとめて新しい制度として制定するのだと言う。
「ふうん」
魔物はよく分からないことを考えるものだ。組織の下で働いて金を稼ぐ職も確かにあるが、そんなものはほんの一部だ。多数派ではなく少数派の為に無い頭をひねって妙な制度を作るなど時間の無駄でしかない。それともこいつらは、将来的には組織の下で稼ぐ方が主流になるとでも思っているのだろうか。
リッカのそんな疑問には気付かずに、カルネリアンは「よし!」と立ち上がってぱんぱんと手を鳴らした。
「手の空いた者から順次城の裏手に来ること! そりやスコップといった道具類、及び防寒具の持ち込みも大いに結構! この貴重な機会、皆で大いに楽しもうではないか!」
おおーっ、と歓声に似た声が召使達から湧き上がり、軽やかな足取りで朝食の後片付けを始めた。
「よしリッカ、我輩達も一足先に楽しもうか」
「え」
誰が魔物なんかと雪遊びするか、と言いかけたリッカに対し、カルネリアンはそっと顔を近付けて耳打ちしてきた。
「我輩を殺すチャンスかも知れんぞ」
「…………」
召使を交えた雪遊び。それに勇者も混ざるなど第三者からすると言語道断だが、これは考えてみれば混戦に近い状態なのかもしれない。しかも遊びとなると普段より隙が多い可能性も高い。少なくとも、夕食時に突然斬りかかるより成功率は高い。
「どうしても嫌なら部屋に戻れば良い。ひとまず外に出て雪に触れようではないか!」
カルネリアンはリッカの首根っこをがっしと掴み、意気揚々と言った足取りで謁見の間兼食堂を後にした。返事を待たずに首根っこを掴んで外に連れ出すのが客に対しての振る舞いかと文句も言いたくなったが、雪に関する童謡をご機嫌に歌われるとその気も失せてしまった。
(……バカには何を言っても無駄か)
リッカのついたため息はカルネリアンの歌声に呆気なくかき消された。
* * *
城の裏手に広がる空き地は雪原になっていた。空き地のそこここに散乱した瓦礫も、不自然な陥没も盛り上がりも、全てが平等に雪に厚く覆われてなだらかな丘を作り上げている。
既に雪は止んでおり、リッカとカルネリアンがざくざくと雪を踏みしめて歩く音だけが辺りに響く。この世の音と言う音が雪の下に閉じ込められたのかと思うほどに、辺りは静寂に包まれていた。
「我輩らが一番乗りか。どれ、かまくらを作る場所でも先に見積もっておくか?」
「勝手にしろよ」
わざとらしく吐いたため息も白い。カルネリアンは上半身は裸でマントを羽織っているだけと言う変態的な薄着のくせに、寒さを感じている様子もなくきょろきょろと辺りを見回していた。馬鹿は風邪を引かないとはこいつを表す言葉ではないだろうか。
カルネリアンがこちらに背を向けた瞬間を狙って剣を抜いて突きを繰り出すが、あっさり避けられてしまう。
「人が集まるまで模擬戦でもするか?」
カルネリアンは避けたついでと言わんばかりに振り向いてにかっと笑うが、リッカは静かに首を横に振った。
「……いい」
何度か不意打ちを狙ってみて分かった。魔王はちょっとやそっとの隙を突いても、殺すどころか傷一つつけられない。模擬戦などもってのほかだ。
最初に出会った時の簀巻き状態が最高のチャンスだったのではないか。あの時もっと慎重に、かつ確実に攻めていれば、魔王の首を獲れていたかもしれない。あれほどのチャンスはもう二度と訪れないのではないか――と、後ろ向きになりかけた思考回路を前向きに戻す為にリッカは自身の頬をぱちんと叩いた。
今、リッカは客人として魔王の傍で寝食を共に過ごしているのだ。魔王の思惑が見えない以上警戒を緩めるわけには行かないが、耐え忍んでいればいずれ好機は訪れる。
その為には暫くの間は大人しくしておいて魔王の油断を誘うのもいいのかもしれない。小さな隙を逃すまいと躍起になっていると魔王もこちらに心を許せないだろう。
(小さな隙を犠牲にして、大きな隙を呼び出すんだ)
リッカがぼんやりと今後の計画を練っている間に、家事を終えたらしい召使達がわらわらと集まってきた。その中にはコルニオラもいたが、彼女の表情は憮然としている。コルニオラの格好もやはり露出度が高いままで、兄妹揃って馬鹿なのだなあと納得した。
「シリダリークの様子はどうだった?」
「ぐっすり。やっぱりこれだけ冷えると駄目みたいね」
「寝込みは?」
「襲ったら絶交って寝る前に言われたから諦めた」
既成事実を作るチャンスだったのになあ、とコルニオラはがっくり肩を落としたが、それも一瞬の事。「こうなったら今日一日暇だからね、目一杯遊ぶわよ!」と拳を高く突き上げて明るい笑みを浮かべた。
「ほら、リッカちゃんもそんな所に突っ立ってないで! 一緒にそりに乗る? かまくら作る? それとも野外プレイ?」
「最後の選択肢はおかしい」
「やっぱり? これだけ冷えてる中でさらに脱ぐなんて風邪引くもんね」
「そうじゃなくて!」
「ああ公衆の面前なのが気になる? 大丈夫よ誰も気にしないから」
「そうでもなくて……!」
これでは埒が明かない!
リッカは大きく舌打ちをしてから手近な召使からそりを奪い取り、比較的大きい雪の丘を登り始めた。
積雪など故郷では見慣れたものだが、ガルハヤ帝国では非常に珍しく、また歓迎すべきものらしい。
どこからか呼び出した獣にそりを引かせる者。雪を押し固めてかまくらを作る者。かまくら用の雪をたっぷり積んだ猫車を押す者。雪合戦に備えて大量の雪玉を用意する者。皆がそれぞれ自由に雪と遊び、大人も子供も輝くような笑顔を浮かべている。召使だけでなく城下町の住民と思しき人々までいつの間にか集まっていた。
リッカは彼らから少し離れた場所に座り、頬杖を突きながらその様子を眺める。
子供はともかく、いい大人がたかが雪でここまではしゃげるのは本当に馬鹿らしい。しかし、故郷でよく見られた雪遊びの光景と何ら変わりないように思えた。遊んでいるのが人間か魔物か、子供だけなのか大人も子供も混じっているのか、その程度の違いしかない。
(その程度……)
いや、「その程度」が大きな差なのだ。リッカは軽く頭を振って彼らの様子を観察する作業に戻った。
* * *
昼食はカルネリアンの予告通り、かまくらの中で用意された。カルネリアンと数人の召使が作り上げたそのかまくらは、かまくらにあるまじき大きさを誇っていたが、雪遊びに興じた召使や城下町の住民全員が入るとかなり狭苦しい。
かまくらの中央、地面からほんの少し離れた空中に穏やかな炎が浮かべられ、長剣を突き立てて作られた三脚から吊るされたスープ入りの鍋が炎で温められていた。
鍋には芋と鮮やかな赤の根菜、そして葉野菜と薄切りにした肉が無造作に放り込まれている。
炎の周りには木の棒に刺さったパンがぐるりと並び、炎にあぶられて焼きたてのパン独特の芳香を放っていた。
パンもスープも非常に食欲をそそる香りを放っていたが、リッカは川魚に木の枝を刺して焼いて食べた。いくら美味しそうでも、魔物が作った餌を食べるなんてプライドが許さない。
「スープもいらないのか」
隣に座るカルネリアンが木製の器に盛ったスープを差し出してきたが、リッカは首を横に振った。
「材料も手順も見ていただろう? 貴様らの作る料理と何ら変わりはない。美味いし、身体も温まるぞ」
確かにスープの作り方自体は至極単純なもので、よからぬものを混ぜた素振りはなかった。しかし、魔物が作ったと言う一点で駄目だった。魔物が用意した食材を元に自分の手で昼食をこしらえるのが最大の妥協点だ。
リッカは黙々と魚を焼いて食べ、カルネリアンは「まあ魚も美味いよな」と呟いてスープをリッカの傍に置いた。
「魔王、お客さんが来てる」
昼食も終わりに近づき、気の早い者達が雪合戦に向けてそわそわし始めた頃、一匹の門番がかまくらに入ってきた。
「客? どういう輩だ」
「法王様の使いを名乗る三人組で、手紙を届けに来たんだとよ」
「分かった。その三人をここまで連れて来い」
「はいよ」
門番はくるりと身を翻して軽快な足取りでかまくらを後にした。カルネリアンも手元のスープをぐいと飲み干して立ち上がった。そしてかまくらの中にいる召使達に向けて「良い遊び仲間が来たぞ」とにやりと笑った。
* * *
「これはこれは魔王閣下。この寒い中でも露出狂まがいの大胆な服装、相変わらずお元気そうで残念です」
「貴様も相変わらず口が悪いな」
法王の使いを名乗る三人の男のうち、リーダー格と思しき男がへらへらと軽薄な笑みを浮かべながら親しげに片手を挙げた。カルネリアンは彼の毒舌にも慣れた様子で片手を挙げる。
三人ともが白銀に輝く立派な鎧を身にまとっており、リーダー格の男は三十代後半に見える顔を晒しているが、男のすぐ後ろに控える二人は頭全体を覆う兜を被っている為表情も年齢も分からない。
白銀の鎧や手荷物に刻まれた紋章は、彼らが紛れもなく聖塔騎士団――アルマース教における最高の武装集団の一員であることを示していた。以前アルマース教の総本山である宗都スクロドフスカを訪ねた際に遠目で目撃した事はあるが、これほど近くで聖塔騎士団の姿を見るのは初めての事だった。
「法王様からのありがたいお言葉をお届けに参りました」
リーダー格の男は懐から一通の手紙を取り出し、カルネリアンに手渡した。その際、カルネリアンの手に触れてしまわないよう細心の注意を払っている事はリッカの目にも明らかだった。カルネリアンもそれに気付かないはずはないのだが、眉一つ動かさずに「ご苦労」と手紙を受け取った。そしてその場で封を開け、中身にざっと目を通す。
「いつも通りの内容だな」
「慈悲の心に溢れた辛抱強い説得と言います」
「命は助けてやるから奴隷になれと言う要求のどこに慈悲があるのかね」
「我らの神に逆らいし醜悪な生物を殺さず、我々の更なる発展の礎にしてやろうと言うのですよ。歴代で最も優しい法王だと私は思いますがね」
「まあ、確かに今までの法王と比べるとましな要求だ。流石は若様だが、柔軟性があと一歩足りない」
「法王様を若様呼ばわりとはね」
リーダー格の男は肩をすくめる。
確かに今の法王は歴代の法王と比べると格段に若い。実績と実力を求められる法王の職は、生涯を聖職者として過ごし研鑚を重ねた四十代から五十代の人物から選ばれるのが常だ。しかし今の法王は二十三歳と言う異例の若さで選ばれ、大きな話題を呼んだ。彼は実績こそまだ少ないが、飛びぬけた実力を持ち教会内での信頼も厚く、豊富な才覚を与えられ神に愛された法王として人々に快く受け入れられた。
今までの旧態依然とした法王とは違う何かをしてくれるのではないか、とリッカも密かに期待している。それだけに「若様」呼ばわりはムッとするものがある。
「……で、返答は?」
「いつも通りだ」
「了解」
リーダー格の男はやれやれと肩をすくめ、後ろに控える二人の男に合図を送る。二人の男は同時に頷き、同時に白銀の剣を抜く。
「毎回恒例になりますが、法王様への手土産に魔王の首を頂いても?」
「毎回恒例になるが、お断りだ」
カルネリアンの返答に「ですよねー」とリーダー格の男は気の抜けた声を出しながら剣を抜く。一瞬にしてあたりの空気がぴりりと張り詰めたものになるが、カルネリアンは「まあまあ」と呑気な声で三人をなだめた。
「今日は雪が積もる良い日だ。ここはひとつ、共に雪合戦でもせんかね」
「はあ?」
リーダー格の男の声が裏返った。
カルネリアン以外の全員が一つのチームとなり、カルネリアンの顔面に雪玉をぶつける度に一点加算。逆にカルネリアンの投げた雪玉が顔面に当たった場合は十秒間その場で静止する事。制限時間は五分で魔法の制限などは無し。雪合戦終了後、一点につき十秒間カルネリアンはその場に棒立ちになり指一本動かさない。一点も得られなかった場合のペナルティは特に無し。
「……で、どうかね?」
カルネリアンの提示したルールにリーダー格の男はううんと唸った。周りにいる者は全員味方で、顔にさえ当てれば憎き魔王は十秒間無抵抗。こちらが負けても失うものは何もない。あるとすればプライドぐらいのものだ。
「……こっちに有利すぎやしませんかね」
何か裏があるのではないか。そう疑われても仕方のない出血大サービスぶりだ。
「これぐらいせんと貴様らは話に乗らんだろう。それに」
カルネリアンはリーダー格の男やリッカ、そして召使達をぐるりと見渡してからにやりと笑う。
「貴様ら全員を相手取ったとしても、我輩は負ける気がせんよ」
「大口を叩きやがりますねえ」
いいでしょう、と呟いて男は剣を収めた。二人の男もそれに倣う。
「こいつらのうち一人を審判としますが構いませんね? 顔面に当てたのに『当たってない』と主張されたら困りますので」
「ならばこちらも一人、審判を出そう。避けたのに『当てた』と主張されたら我輩も困るのでな。……コルニオラ、やってくれるな?」
「はあい」
コルニオラは審判を勤めることになった男に一歩近づいて「よろしくね」とにっこり微笑みかけた。男は無言で会釈をしたが、その目線は彼女の大胆な胸元にちらちらと向けられていた。無理もないよなあ、とリッカは他人事のように頷いた。
カルネリアンは軽い足取りで裏庭の中央部へと向かい、召使達やリーダー格の男がその後に続く。
「君は人間に見えるが、何故ここに?」
リーダー格の男の不意の問いかけに、リッカは経緯を正直に説明した。
「……つーわけで魔王討伐を目指す同志になるかな? 雪合戦も本気でやるぜ」
「それはそれは頼もしい。子供らしい機敏で柔軟な立ち回りを期待してますよ」
リーダー格の男はへらへらとした笑みを浮かべながらリッカの頭を乱暴に撫でる。馬鹿にしたような扱いに少し不快感を感じた。
やがてカルネリアンの周りを召使達とリッカ、そしてリーダー格の男とその部下がぐるりと取り囲む。こぶし大の雪玉が各々の手に握られており、一瞬の静寂の後でコルニオラの「始め!」の一言で無数の雪玉が獣じみた咆哮と共に一斉に放たれた。
無数の雪玉が全方位から横殴りの雨のように降ってきても、カルネリアンは余裕の態度を崩さなかった。数歩前へと踏み出し、目で追えないほどの手さばきと足さばきで片っ端から己に襲い掛かる雪玉を粉砕していく。実に鮮やかな舞うような動きで全ての雪玉を粉砕し防いだのは、時間にしてほんの数秒間。カルネリアンの顔周りにはひとかけらの雪も付いておらず、お返しと言わんばかりに放たれた雪玉が召使達の一人の顔面を鋭く捕らえた。
「はっはっは、この程度かね?」
カルネリアンの挑発に召使達は沸き、「死ね!」「給料上げろ!」「もっと休ませろ!」と口々に好き勝手な文句を言いながら雪玉を投げ始めた。リッカやリーダー格の男も同じように雪玉を投げ続けるが、カルネリアンは軽々とそれらをいなし、わずかな隙を突いて雪玉を投げて反撃する。
雪玉をぶつけようと躍起になっている内に時間はあっという間に過ぎ、コルニオラと男の「そこまで!」の声が辺りに響いて全員がぴたりと動きを止めた。
「今回はお兄様の勝ち。私もこの人もそれで依存はないわ」
「ふふん、言っただろう。我輩は負ける気はせんと」
カルネリアンが誇らしげに胸を張る。魔法すら使っていないにもかかわらず、雪の粒は四肢にしか付いていない。これだけのハンデを与えても余裕綽々といった様子で、改めて魔王の恐ろしさを垣間見た気がした。
「どうする。もう一度やるか?」
カルネリアンの提案に、リッカだけでなくリーダー格の男や召使達もしっかりと頷いた。
* * *
結局、日が暮れるまで雪合戦は続けられた。結果は散々なもので、カルネリアンの顔面に一発の雪玉も当てることは出来なかった。
「やっぱり魔王様は化け物ですね。余程の隙を突かない限り勝てる気がしません」
リーダー格の男はそう言って城を後にし、召使達は家事を片付けるべく足早に城へと帰っていく。リッカも夕食の準備をしなければならない。野菜スープと肉の香草焼きでも作ろうか――作るべきメニューと手順を考えながら歩き始めた足を制するように「リッカ」とカルネリアンが声をかけてきた。
「今日は楽しかったな」
「どこが。あんたを殺すチャンスを逃してこっちは腹が立ってんだよ」
「そうかね? 途中から殺す殺さない云々より、我輩に雪玉をぶつけたい気持ちしかなかったように見えたが」
カルネリアンは首を傾げて心底不思議そうに呟いた。
「あんたの目は節穴だ」
リッカは短く言い捨てて城へと向かった。地面には召使達の足跡がはっきりと残っていた。鳥のような細い足、獣のような丸い足、なんだかよく分からない何かを引きずったような跡、人間と同じような靴。ここまでごちゃごちゃと色々な足跡が混ざっていると、リッカの足跡も紛れてしまってどれがリッカのものかすぐに分からなくなる。
(楽しくはない)
それは事実だ。
(けれども)
途中から雪玉をぶつける事しか頭になかったのもまた事実だ。とにかくカルネリアンの顔面に雪玉をぶつけ、間抜けな顔をさせたい。その思いだけで雪玉を投げて、先の事は頭からきれいに抜け落ちていた。
百歩譲って雪合戦に熱中していたのは認めよう。しかしそれは決して楽しいものではない。結局は「十秒間の無抵抗」という、簀巻き以上に太っ腹なサービスを逃してしまったのだ。考えれば考えるほど徒労感が全身を襲う。
「……メシだ、メシ」
腹を満たせば徒労感も収まる。リッカは改めて夕食を作る手順を考えながら歩調を速めた。野菜たっぷりの温かなスープを思うと、ぐうと腹が鳴いた。