王城ステイ 第八話「勇者と鍛錬」

「…………」
「…………」
 太陽が徐々に高く昇り始めた頃、リッカはアインと並んで城の裏庭に立っていた。朝と言っても差し支えのないこの時間帯ではまだまだ肌寒く、油断すれば鼻水が垂れそうになる。
 アインは無言でだだっ広い裏庭を歩き、リッカは無言でついて行く。昨日あれだけの戦闘をこなし気絶したというのに、アインの仕草には痛みや疲労の色は全く見えない。
 ずず、と鼻をすする音を耳にしたアインが振り返ってこちらを真っ直ぐに見据える。
「寒いか」
「いえ、平気です」
 肌寒さはあるが耐えられないほどではない。
「かしこまる必要はない」
 アインは淡々と告げるが、ああそうですかと即座に対応できるほどリッカの思考は柔軟ではない。そもそも、突然現れてカルネリアンと激闘を繰り広げた人物に朝食が済むや否や裏庭に呼び出されて警戒するなと言う方が難しい。無口で無表情で考えの読めないアインなら尚更だ。
「……何の用、ですか」
「…………」
 アインは瓦礫の上に腰掛け、位置が悪いのかもぞもぞと尻尾を揺らした。カルネリアンの尻尾よりも遥かに太く大きく、棘の様に逆立った鱗はドラゴンの凶暴性を示しているようにしか思えない。
「……お前は、人間の客と聞いた。勇者である、と言う事も」
「ああ、はい。確かにそうですけど」
「かしこまる必要はない」
 アインにじろりと睨み付けられ、迷いながらも「確かにそうだけど」と訂正した。
「何のために滞在している? 何故ここに来た?」
「何のため、って……」
 魔王を殺す為だ、とカルネリアンの兄であるこの男に言ってしまっていいのだろうか。リッカのその一瞬の迷いを読み取ったアインに「魔王を殺す為か」と先手を打たれたので、無言で頷いた。
「ここに来る人間の大半は、魔王殺しの勇者か教義を押し付ける聖塔騎士団だ。ここに向かう時も騎士団の連中を見かけた」
 雪が積もった日にやって来た三人の男達を思い出す。彼らがまたこちらに向かってきているのだろうか。
「隣国のライヘンバッハに用があるなら良いのだが……」
 アインはそこで「話が逸れた」と言葉を切り、黙ってしまう。
「えっと……アイン、さん」
「呼び捨てでいい」
「……アイン、僕をここに呼んだのは何で?」
 リッカの問いかけに対し、アインは「ああ」と頷いておもむろに斧槍(ふそう)を手にした。
「お前に魔王が倒せるか見定める」
「え」
 リッカは反射的に数歩後ずさった。アインはお構い無しに立ち上がり斧槍を突きつける。
「私を倒せる程度の実力がないとカルネリアンは殺れんぞ」
「いや、あの、それは、火を見るより明らかってモンじゃないですかねアインさん」
 リッカのうろたえも無視して「剣を抜け」と淡々と告げられる。
「お前が私を殺しても罪に問われないよう手配している。私はお前を殺すどころか血一つ流させない。峰打ちで済ませる」
 アインは斧槍の持ち方を僅かに変える。それが峰打ちのサインなのだろうか。
「でもそのあのこっちにも心の準備ってもんが」
「…………」
 アインは無言でこちらを睨み、さらに距離を開けようとするリッカの顔に向けて斧槍を横薙ぎに振るってきた。とっさに剣を抜いて腹の部分で受け止める。硬質な音が澄んだ空気の中に響き渡った。
「抜いたな」
「抜かせたんだろーが!」
 リッカは悲鳴に近い声を上げた。

 なし崩し的に始まった手合わせは太陽が最も高く昇る頃まで続けられた。最初はおっかなびっくり防戦に回っていたリッカも、少しずつ反撃を加え次第に加熱していた。
 アインが手を抜いていたのは火を見るよりも明らかだが、その加減が絶妙に上手かった。本気でかかっても傷一つ負わせる事は出来ないが、ふとした瞬間に隙を見せたり体勢を崩したりするので上手く立ち回れば一矢報いる事が出来るのではないかと期待が持てた。
 結局リッカは傷一つつける事も出来ずに息を切らすだけで終わり、アインは涼しい顔で斧槍をしまった。
「力と経験不足だな」
「……んなもん……分かってるっつーの……」
 瓦礫の山に座り荒れた息を整える。手合わせ前に感じていた寒さが嘘のようだ。
「毎日肉を食ってトレーニング。それと実力が近い奴を相手取った実戦。それさえ繰り返せばいずれ私やカルネリアンと渡り合えるだけの実力が身につく」
「……いずれって、いつだよ」
 例え真面目に修行に明け暮れたとしても、あんな常識外れの戦いを繰り広げる化け物と対等に渡り合える気など全くしない。努力では埋められない種としての差、才能の差は歴然だ。
「全ての動きには呼吸と言うものがある」
 リッカの疑問を受けてかどうか、アインはぽつりぽつりと言葉をこぼし始めた。
「己の実力を最大限発揮できる動作の連続。その緩急――呼吸は人によって大きく異なり、呼吸が乱されれば実力が発揮できなくなる。先の手合わせで攻めあぐねた瞬間が何度かあったと思うが、それが呼吸を乱されると言う事」
 確かにそんな瞬間はあった。リッカは静かに頷いて続きを促した。
「自分よりレベルが高い相手でも、相手の呼吸を乱し自分の呼吸を守る事が出来れば勝つのは不可能ではない」
「……僕でもあんたやカルネリアンに勝てると?」
「呼吸を知る事、守る事、乱す事。これらを学ぶには実戦が最も手っ取り早い」
 アインはそこで言葉を切って黙ってしまう。暫く待ってみるが口を開く気配はない。
「……つまり、筋トレや修行で基礎的な腕力や剣の腕を鍛えて、実戦で呼吸とやらについて知っていけば、あんたみたいな魔物も楽勝って事か?」
「そうなるな」
 アインはかすかに頷いた後、リッカをじろりと睨んだ。
「それと、魔物呼びは感心しない」
「ああそうですか」
 リッカは他の魔物からも言われた小言に露骨に顔をしかめた。

 呼吸が整ってくるとふいに腹が空いてきた。日の高さから考えてもちょうど昼時だろう。
「昼だな」
 アインは短く言って立ち上がり、さっさと城に入っていった――かと思いきや、城への扉付近で召使から小包を受け取ってこちらへ戻ってきた。
 小包は二つあり、リッカの隣に腰掛けたアインはそのうちの一つを手渡してくる。人肌とは違う温かさがほんのりと感じられた。小包を開いてみると、そこには川魚の塩焼きと蒸かし芋、それと瑞々しい野菜が少々に澄んだ水が詰め込まれた瓶が入っている。
「余計な調味料は入れてない」
「……だから食えってか?」
 アインの手元の小包もまるっきり同じ中身だ。リッカが見ている中アインは蒸かし芋を一口かじり「毒は入っていない」と付け加えた。
「…………」
 それでもリッカが口をつけずにいると、アインは「法に携わる者が法を犯すような真似はしない」と蒸かし芋をもう一口かじった。
「法に携わる者?」
「聞いていなかったか」
 アインの声が意外そうな色を少しだけ帯びたが、すぐに無機質な調子に戻って「私は処刑人だ」と告げた。
「しょ、処刑人?」
「罪を犯した者を捕らえ、然るべき裁きを下す。お前は何か罪を犯した様子もない。この状況下で私がお前に危害を加えると、私が犯罪者だ」
「いや、でも……魔王を殺そうとしてるんだし」
「我々魔族が人間を裁く場合、自衛を超えた悪意ある魔族殺しは罪ではあるが、魔王殺しは罪ではない」
 その話は知っている。理屈ではそうなのだが、アインにとっては大事な弟だ。危害を加えれば法を度外視する可能性もあり得なくはない。
「魔王になる事の意味、責務、危険性は王位継承権争いに参加した私自身、よく分かっている。カルネリアンが勇者に殺される日が来たとして、勇者を恨む事はない」
 アインの低く平坦な声は無機質ではあるが、同時に威厳と説得力を含んでいた。何故アインではなく威厳も何もない馬鹿丸出しのカルネリアンが魔王なのだろうか。世の中の理不尽さにほんの少し想いを馳せながら、リッカは焼き魚を一口かじった。

「アインは何で王位継承権争いに参加したんだ」
 素材本来の味を活かした、というか素材本来の味しかしない蒸かし芋をかじりながらリッカは問いかけた。
 アインは横目でリッカを見て、少しの間黙って焼き魚を頭から食べていたが「法整備」と短く答えた。
「法整備? 魔物がんなことにこだわった所で――」
 意味がないのではないか。と言いかけた口はアインのひと睨みで閉じた。
「何を罪とするか、何が正当な裁きか、如何にして公正公平な目を得るか。ガルハヤの法も、魔族全体のモラルも、より良い発展の為にはより高みを目指す必要がある」
 より良い発展の為。聞き覚えのある単語に蒸かし芋をかじる口が止まった。
「それを成す為に王位を狙ったが、最後の最後でカルネリアンに負けて処刑人の仕事に就いた」
「昨日カルネリアンを殺そうとしたのは、その為に?」
 やりたい事の為に弟を殺そうとするのは、例え魔王殺しが罪に問われないとしても倫理的ではない。兄弟のいないリッカでもそれは分かるのだが、相手は魔物だ。例え人語を操り人間に似た姿であっても、性根は野蛮で薄汚い。魔物とはそういうものだ。
 しかし、当たり前の事実を何度も心に刻み付けるリッカの期待を裏切るかのようにアインは首を振った。
「少し違うな」
 どういうことだ、と目で続きを促す。暫しの沈黙の後、アインが答えたのはたったの一言だった。
「信頼しているからだ」
 信頼。
 何故弟を殺そうとする行為からそこへ繋がるのだ。
 眉間にしわを寄せるリッカに対して何も補足する事無く、アインは黙々と昼食を口に運んでいた。

「お前は何故勇者になって、何故魔王を殺そうとしている」
 昼食を食べ終えて瓶に残った水を飲み干した頃になり、ふいにアインが問いかけてきた。
「何でってそりゃ、魔物がいない方が平和で豊かな世界になるから」
「宗教上の敵ではなく、か」
 アインの確認するような口調にリッカは頷いた。魔王に対する敵愾心は宗教の影響も多少はあるのだろうが、リッカはそれほど信心深い部類ではない。
「魔王を殺した所で魔族が絶滅するわけではない」
「分かってる。でも、人間が魔王を殺せばその勢いに乗じて魔物を根絶する運動があちこちで起こるはずだ。そうなれば、遅かれ早かれ魔物は滅ぶ」
「成程」
 アインは深く頷き「もう少し踏み込ませてもらう」とリッカの目を真っ直ぐに見据えた。
「魔族を滅ぼせば平和で豊かな世界になると思う根拠は?」
「そんなもん決まってるだろ。魔物による被害が平和の足枷になってるからだ」
 魔物に襲われて怪我をした者、死に至った者。農作物や家畜への深刻な被害。建造物の破壊。目に見える被害は挙げればきりがなく、防衛にかかる費用や魔物を恐れる精神的負担も考えると平和への足枷となっている事は疑いようがない。
「……まあ、魔王を殺すって前提自体が無茶苦茶だから、もうちょい現実的な方法を考えた方が良いって事は嫌って言う程身に染みた」
「無茶ではない」
 アインの断定するような口調に「無茶だ」と同じく断定口調で答えた。
「昨日のあの戦いぶりを見て『頑張れば俺でも勝てる』って思えるわけないだろ。あんたらが当たり前にやってる事は僕がどれだけ努力しても手に入りそうもない事ばっかだ」
 自分があの戦いの輪に入る絵が見えない。リッカと彼らは次元が違う。
「僕はあんたらと違って何の才能もない凡人で、天才様の争いに凡人が入れる訳ねえんだ。筋力とか、呼吸とか、そんな小細工であんたらと対等の立場になれる筈がねえよ」
「魔王を殺す為に勇者としてここまで来たのに、諦めるのか」
「諦めざるを得ないだろ」
「シリダリークに教えを乞うたにも関わらずか」
「……あんたとカルネリアンが戦うのを見るまでは、隙を突けば俺でもやれるかもって思ってたんだよ」
 そもそもシリダリークが教えてくれる予定の技も上手くいけばかすり傷を負わせられる程度だ。ないよりある方がましと言えるような技で、その時からカルネリアンに対する勝ち目のなさはうすうす感じていた。
「シリダリークは魔導師として優秀だ。彼の教えを受け続ければ短期間で実力が付く。それに私もここに滞在している間は武道の手ほどきをしよう」
「敵に塩を送るにも程があるだろ。つうか今以上に魔物の手を借りたくねえし、シリダリークから貰った課題が終わったら出ていくつもりだ」
 出来る事なら今すぐにでもこの地を去りたいが、それは魔物が許してもリッカ自身が許せない。人間様が魔物の提示した課題もこなさず帰るのは自分が魔物より劣っていると言っているようなものだ。
 ここに来てからロクな事が無い。事前に想像していた内容とは何もかもが違い、どの魔物もリッカに甘く魔王殺しを咎めるどころか応援してくる。調子が狂う事この上ない。
「……ほんと、わけ分かんねえよ、この国」
 リッカは体育座りをして両膝の間に顔を埋めて呟いた。アインは何も言わないが、耳を傾けている事は分かる。
「大体、魔王っつったらもっとこう、おどろおどろしい雰囲気で人間にも部下にも容赦ない極悪非道な感じだろ? 何だよあれ」
 部下どころか国民からも砕けた調子で話しかけられ、またカルネリアンも同じような調子で返す。リッカに対しても敵ではなく客人として信じがたい程のもてなしをしている。ガルハヤ帝国に辿り着くまでの間に訪れた町や国の長と比べると異質でしかない。
「何で、皆あんな風に正直に言いたいこと言って、カルネリアンも無礼だのなんだの言わずに普通に受け入れてんだよ。おかしい。有り得ねえよ」
 魔物と言う点を抜きにしても、長と言えばもっと偉そうで、自己保身に必死で、民のストレスと税収のバランスに気を付けながら富を貯め込むものだろう。しかしカルネリアンにはそれが無く、誰も彼もが彼を「手間のかかる子供」の様に扱っている。
 長としては見た事も無い形で、彼は部下と民の信頼を得ている。
 その信頼の強さと戦いにおける桁外れの強さ。どちらもリッカが持ち得ないもので、今朝からはカルネリアンを見ると胸の内がもやもやした。僕が持ち得ないものをこいつは軽々と手にしている。勇者と魔王。凡人と天才。持たざる者と持つ者。
「……有り得ねえよ……」
 絞り出すように呟くリッカの頭を、アインは無言でわしゃわしゃと撫でた。

 * * *

 今日の夕食は余裕を持って取りかかる事が出来た。白焼きとはいえ昼食はアインの手配したものを食べてしまったため、せめて夕食は魔物の言葉に甘えず自分の手で作りたい。
 食事担当の召使からカルネリアン達の夕食と同じ食材を分けてもらい、同じメニューで次々と仕上げていく。召使と比べると手際は劣るが幸いにもメニュー自体は単純で、リッカでも無理なく作れるレベルだ。
 薄くスライスした豚肉に玉子を絡めて軽く焼き上げ、酸味の効いた果実を潰して作ったソースを振り掛ける。根菜をメインにした野菜スープと麦のご飯も並行して進めていく。このメニューなら麦ご飯よりパンの方が合うのだが、魔物の作ったパンを貰うわけには行かないし、自分で作るにも時間が足りない。召使が食事を作り終えた頃にはリッカの食事も見目は劣るがほぼ完成していた。
 こうして出来上がったリッカの夕食は、謁見の間兼食堂にてカルネリアンの興味を大いに引いた。
「なっ、ななっ、何だその椀の中の白色の物体は!」
「何って……ただの麦ご飯だけど」
 久々に作った割には上手い具合にふっくらと炊けたが、カルネリアンが気にしているのはそこではない。麦ご飯そのものに興味津々といった具合だった。
「麦ご飯と言うのか? はじめて見る料理だ……一口くれないか?」
 そう言いながらカルネリアンの手が椀に伸び、リッカはそれを遠慮なく叩いた。
「あんたなんかに食わせてやるもんか」
「ぐぬぬ」
 ぎりぎりと歯軋りをするカルネリアンのすぐ傍で、シリダリークが興味深そうに麦ご飯に目をやった。
「麦飯っつうと、ヒノ国伝統料理じゃねえか」
「知ってんのかよ」
「本でしか見た事がねえ。つうか、門外不出の幻の料理だぞ。そんなもん作れるって事はお前ってヒノ国出身なわけ?」
「いや、両親が」
 ヒノ国とは大陸東部の大密林の中に隠れるように存在する国である。交通手段に乏しく閉鎖的な社会を築いており、その結果他国とは大きく異なる文化を持っていることが特徴だ。
 両親は元々ヒノ国の住人だったが、父が勇者として国を飛び出し、閉鎖的な生活に嫌気が指していた母がその尻馬に乗ったと話に聞いている。その後の話も父の口から聞いたのだが単なるのろけ話に過ぎず、聞いた端から忘れてしまった。
 両親がヒノ国出身だと、食生活やその他の知識も自然とヒノ国のものが混じる。麦飯を始めとした伝統料理の作り方は勿論の事、伝統文化の一つである「漢字」の読み書きもリッカは習得していた。
「漢字かあ。あれってかっこいい形がいっぱいあっていいわよねえ」
「一つ一つの記号に意味があるんだろ? ちょっと興味深いな」
「ねえねえリッカ、私とシーちゃんにお似合いの漢字って何? こう、ラブラブで幸せいっぱいって雰囲気のやつね!」
「誰がラブラブだ」
「幸せいっぱいは否定しないのね?」
「飯時ぐらい過剰なスキンシップを控えて頂けたら幸せいっぱいになるので離れてくれやがりませんかね」
「ご飯時じゃなかったらいいのね?」
「お前のその、どこまでも都合のいい解釈をする神経が羨ましいぜ」
 リッカは二人の不毛なやり取りを前にしながら、コルニオラには「淫乱馬鹿女」でシリダリークには「苦労性蛇男」がお似合いだろうとぼんやりと思った。

「今日は長い間アインと一緒にいたようだが、何をしておったのだ」
 ヒノ国に関する雑談も落ち着き、夕食も半分ほど食べ終えた頃になってカルネリアンがリッカをフォークで指した。行儀が悪い。
「武道の鍛錬を」
 リッカの隣でアインがぼそっと呟いた。夕食の席についてから初めて喋ったのではないだろうか。
「それは良いな。兄上の武道の腕前は一流だ」
「お前が言うと嫌味にしか聞こえない」
「いやいや、武道に限定すると兄上は我輩より上だ。魔道の腕前や咄嗟の判断力その他諸々エトセトラエトセトラを総合すると我輩の方が競り勝つがね」
 ふふんと胸を張る姿が鬱陶しい。
「しかしアインお兄様も相変わらず弟思いと言うか何と言うか、甘いわねえ」
「弟思い?」
 鍛錬と弟思いが繋がらず、リッカは眉間にしわを寄せた。
「そうねえ……今の所、お兄様に太刀打ちできそうなのは一人しかいないけど、誰かが影で実力を付けているかもしれないでしょ。自分の実力に慢心して怠けていても良い事は無いわよ」
「それぐらい分かっておる」
 カルネリアンは渋い顔をしながらスープを飲み干した。
「で、弟思いポイントその一。忙しい合間を縫ってお兄様と本気の勝負をして実力が鈍らないようにしている」
 コルニオラが人差し指を立てるが、アインは相変わらずの無表情で夕飯を口に運ぶ。
「その二。リッカちゃんを鍛える事で有能な実力者への道を切り開いて、お兄様の慢心への抑止力にしようとしている」
 人差し指に続いて中指も立てるが、やはりアインは動じる事も無く淡々と食べ続ける。
「アインお兄様も魔王になってやりたい事があるはずなのに、お兄様が堕落しないようにこまめに気にかけてるんだから大甘よ、大甘」
「……カルネリアンの政策は私が求めるものと近い。殺して成り代わるまでもない」
 アインは食卓に視線を落としたまま呟き、「今のところは」と付け加えた。
「大甘っつうか、ツンデレだな」
「…………」
 黙って食事を続けるアインに対し、シリダリークとコルニオラはブラコンだのツンデレだのデレが暴力的だの好き放題言いまくり、
「……兄上がいない間、我輩そこまで怠けてないぞ?」
 カルネリアンは解せぬと言った様子で腕を組んでいた。

 * * *

「うーん……」
 夕食を済ませ、自室に戻ったリッカはシリダリークから貰った課題に取り組んだ。
 小皿の上の小さな火に絶えず魔法を使い続ける。地味で退屈な課題だが、何度か取り組んでみてコツは掴めてきた。自分の体内に溜め込める魔素の限界量を把握し、火を灯すという最も初歩的な魔法の効率的な使い方も習得できた。これだけでも十分な収穫だ。
 今日のアインとの鍛錬も貴重な体験だった。剣の稽古は父が主な相手だったが、旅に出てからは戦闘と言えば獣系の魔物退治ばかりで、武器を持つ相手との戦いは久しぶりだった。
 彼らから学べる事は、もっともっとある。だが、これ以上魔物の知恵を借りるのはなけなしのプライドが許さない。
「……魔物じゃなかったらなあ……」
 彼らが人間だったなら。尻尾や角が無くて肌も健康的な色であれば。ただ話をしているだけなら彼らは人間と何ら変わりない。魔物であると言うただ一点がひたすらに惜しい。
「……人間と魔物の違いって、何だ……?」
 体内に溜め込める魔素の量が多いか少ないか。定義だけで言えば、人間と魔物の境界線はそれだけだ。だが、実際は宗教上の理由や人間を襲うと言う事実が絡み合い、複雑な感情の上に「魔物」は成り立っている。
 そのはずなのだが、リッカの中の魔物像は揺らいでいた。カルネリアン達は若干の価値観の相違はあるものの、リッカの信じる「魔物」とは程遠く、ひどく人間臭い。
 リッカの揺らぎに応じるように、皿の上の火もゆらゆらと揺れる。リッカは改めて皿の上に意識を集中した。

 やがてリッカの魔力は尽き、皿の上の火は呆気なく消えた。どれぐらいの時間が経ったのか具体的には分からないが、最初の頃と比べて飛躍的に上達したはずだ。明日にでもシリダリークに魔法の伝授を打診してもいいかもしれない。
「ああー……疲れたあ……」
 魔力を使い果たした後は体と頭がずっしりと重くなる。水を飲んでさっさと寝よう、と思ったが間の悪い事に水差しは空だった。リッカは仕方なく水差しを手に部屋を後にし、台所へと向かった。

 夜の城内はしんと静まり返っており、天井に備え付けられた照明もうすぼんやりと足元を照らす程度の光しか放っていない。
 台所で水を汲み終えて部屋に帰ろうとする道すがら、不意に人の声がリッカの耳に飛び込んできた。窓の外を見ると、裏庭の瓦礫の上でカルネリアンと見慣れない女性がこちらから背を向けて座っていた。
「もう、いつ産まれてもおかしくないな」
 カルネリアンが女性の腹に手を伸ばす。それに合わせて女性がほんの少し体をカルネリアンに向けた事で、彼女の腹が大きく膨らんでいるのがリッカにも見えた。
「男の子かしら、女の子かしら」
「元気に産まれてきてくれたら、どっちでもいい」
「あなたの子供だもの、絶対に元気よ。多分、元気すぎるくらいになっちゃうわね」
「……それ、我輩を微妙に馬鹿にしてないか?」
「毎晩とっかえひっかえ夜遊びする程度に元気になりそうよね」
 女性のやや棘のある物言いにカルネリアンは「それはだなあ」と弁明するような口調になる。
「我輩にはな、ヤルダバオート家の世継ぎを作ると言う崇高な使命があってだな。だから複数の女性と関係を持ちあらゆる可能性を模索する必要があると言うか」
「そんな高尚な事ちっとも考えてないくせに」
 女性は「いいのよ」とくすくす笑う。
「あなたがどうしようもない女好きで、私は『何度か寝た女』から『子供の母親の一人』にランクアップしただけって事も知ってるから」
 何かを言おうとするカルネリアンの唇を、女性の人差し指が塞いだ。
「私はそれで十分。あなたが私を愛してくれて、あなたの血を受け継いだ子供が今ここにいる。それだけで十分幸せ」
 女性がカルネリアンの肩に身を預け、カルネリアンは女性の肩を抱く。
「あなたのいい所も駄目な所も全部、愛してるわ」
「有難う」
 カルネリアンと女性の顔が次第に近付き――そこでリッカは目を逸らして歩き始めた。流石にこれ以上は野次馬が過ぎる。
「……モテる奴は腹が立つくらいモテるんだなあ……」
 二股どころではない浮気者でもあれだけの台詞を言われる。世の中の不平等をひしひしと感じながら、リッカは部屋に戻っていった。
「……あれぐらいモテたいとは言わねえから、せめて可愛い彼女が出来ますように……」

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