ハネモノ 第十話「陣の意味」
森は早朝であっても鬱蒼とした雰囲気を崩さなかった。昨日の夕暮れ時と比べると辺りは明るく、森の様子も仔細に分かる。それでもやはりどこか薄暗く、森の中を歩くだけで気分が沈む。
草木に埋もれかけた道を、サシアムが先導して進んでいた。慣れた足取りで森の中を突き進み、時折立ち止まってルピナス達が追いつくのを待った。
「まだ歩くのか?」
ルピナスはうんざりした表情でサシアムに問いかけた。その手にはサシアムから借りた短刀があり、邪魔な葉や蔓を手際よく切り落としていた。サシアムにとっては慣れた道のりでも、ルピナス達にとっては不慣れで歩きづらい地形だ。少し気を抜けば蔓に足を取られて転びそうになる。
「もう少しだ」
「その台詞はさっきも聞いたぞ」
ベリスがむくれた表情で呟いたが、サシアムはそ知らぬ顔で歩を進めた。
「……なあ、ビオラ」
「何ですか」
邪魔な蔓を機械的に切り落としながら、ルピナスは小さな疑問をぶつけた。
「何であんなにラジを嫌うんだ?」
二人が初めて顔を合わせた時、ラジの態度は確かに悪かった。しかしそれに対するビオラの反応は過剰なまでの悪意に満ちているように感じられた。サシアムの家で偶然再会した時も、ビオラは彼に対して攻撃性を露にしていた。
「……何で、と言われると難しいものですね」
歩を進めながらもビオラは首をひねった。
「ちゃんとした理由は無いんですよ。ただ、生理的に気に入らないだけです」
ラジの表情、立ち居振る舞い、口調、とにかく全てが癇に障るのだとビオラは続ける。酒とタバコが入り混じった体臭も、嗅覚が鋭敏なビオラにとっては苦痛でしかない。
「あいつが癇に障る、と言うのはなんとなく分かる気がする」
「お嬢様もですか」
ビオラの驚いたような視線をベリスは完全に無視し、腕を組んで首をひねった。
「いや、何と言えばいいんだろうな……癇に障る、と言うより……」
ベリスが言葉を見つけるよりも先に、サシアムが「着いたぞ」と言った。
* * *
そこは、鬱蒼とした森を切り開いて作られた小さな空き地だった。奥には岩壁がそびえており、その岩壁をえぐるように洞穴がぽっかりと暗い口を開いている。その手前には畑のようなものが広がっていたが、作物は無残に食い散らかされていた。
「私達が被害を受けた魔物は、あの洞穴を根城にしている」
サシアムは畑には出ずに森の茂みに身を隠したまま言った。ルピナス達もそれに倣って茂みに身を隠し、洞穴の方へ目を遣った。どこまでも続きそうな暗闇があるだけで、洞穴の奥の様子など想像もつかない。
「魔物ってどんな奴なんだ?」
ルピナスはそう訊ねながら、短剣に付いた草木の汁を拭った。サシアムがこの短剣をルピナスに貸したのは、邪魔な草木を払うためだけではない。ルピナスにもそれは十分分かっていた。
「芋虫のような姿をしている」
「……芋虫?」
今まで出会ってきた、グリフォンや海龍と比べてあまりにも小さいものの名にルピナスはきょとんとした。
「動きはそれ程早くは無いし知能も低い。寝静まっている隙を突いて洞穴全体を焼き払えば、私一人でも掃討できる。しかし、あの洞穴はある植物の栽培に適した環境が揃っていてね。出来る事ならその環境を壊したくない」
「洞窟から出た時にちゃちゃっとやっちまえば済む話じゃねえの?」
芋虫なんだろ? とルピナスが言葉を続ける前に、サシアムは「しっ」と口に手を当てて洞穴の方へ目を遣った。ルピナスもつられて洞穴を見ると、それは姿を現した。
姿は芋虫そのものだったが、全長がゆうに二メートルを超えていた。真っ黒な体の節々に毒々しい赤のラインが入り、毒性を持っていることは一目で分かった。洞窟から姿を現した芋虫は、のそのそとした動きで森に入ろうとしていた。
「……確かに芋虫だけど……」
でかすぎないか、と文句を言うルピナスの眼前を矢のように炎が走った。炎は寸分違わず芋虫の体に命中し、瞬く間に全身を炎で包み込んだ。
「なんだ、簡単じゃないか」
呆れたように呟くベリスに対し、サシアムは「……いや、これはまずい……!」と表情をこわばらせた。炎に包まれた芋虫は苦しそうにのた打ち回り、耳をつんざくような悲鳴を上げた。それもただの悲鳴ではなく、何かを伝えるように抑揚があり、芋虫の頭部はこちらを向いていた。
炎が収まり、芋虫が静かになったが、サシアムはその場を動こうとしなかった。注意深く辺りを見回しており、額からは静かに汗が流れた。
「……これは、言い忘れていた私のミスだが……」
サシアムは慎重に立ち上がり、茂みから出て空き地の中央に移動した。ルピナス達も同様に空き地の中央に移動し、互いの背中を合わせて辺りの様子を探った。洞窟だけではなく、森からもざわざわと何かがうごめく気配がする。
「……魔物は一匹だけだと、いつ言った?」
次の瞬間、洞窟から、森から、数え切れないほどの芋虫が姿を現した。
周りを取り囲む芋虫は全て同じ種類なのだろう。先ほど燃やした芋虫と同じ体型、同じ模様をしていた。
「こ、こ、こ、こんなに沢山いるなら先に言ってくださいよ」
レイピアを抜きながらも、ビオラの声はひどく震えていた。尻尾も半分丸まっている。ルピナスはビオラのそんな様子から目を離し、芋虫の方をじっと見た。周りを取り囲む芋虫は全て上体を起こしており、その口からは餌を噛み千切るための歯が見え隠れしている。観察する限り毒針のようなものは見えないが、油断は出来ない。
「全部倒せばいい話だろう」
ベリスはそう言って両手に炎を浮かべ、放った。炎が芋虫に命中し悲鳴を上げた瞬間、周りの芋虫は一斉に動き出した。
芋虫の動き自体は遅い。一対一ならば攻撃を避けるのも苦ではない。しかし四方八方から噛み付きや薙ぎ払いを仕掛けられると、どうしても避ける事に集中してしまう。攻撃の合間を縫って短剣で切りつけるが、ベリスの炎と比べて効果は薄い。怯みはするものの止めを刺すには至らず、ルピナスは自分に襲い掛かる芋虫の注意をこちらにひきつけるだけで精一杯だった。
攻防の合間に他者の様子を伺うと、ビオラは未だ尻尾を丸めながらもレイピアを振り、襲い掛かる芋虫をいなしていた。短剣よりかは効果があるらしく、ビオラの周りには数匹の芋虫が転がっている。少し離れたところではサシアムがぶつぶつと呪文を唱えており、風の刃が周囲の芋虫を切り裂いていた。そしてベリスはビオラの傍で呪文を唱え、炎を次々と芋虫にぶつけていた。他と比べると派手で目を引くからか、芋虫の多くはベリスに注意を向けていた。ベリスは次々と炎を生み出して放っているが、魔法を唱えながら芋虫の攻撃を避ける事は流石に辛そうで、ギリギリで避ける場面が多かった。
「このっ……!」
噛み付きに来た二匹の芋虫をベリスは炎で薙ぎ払い、新たに呪文を唱えた。炎に苦しむ芋虫を掻き分けるように新たな芋虫がベリスの眼前に立ちはだかり、長い胴体でベリスを薙ぎ払おうとした。ベリスは後ろに跳ぶ事でそれを間一髪で避けたが、跳んだ先にもう一匹の芋虫が待ち構えていた。
「ベリスちゃん!」
ルピナスはベリスの元へ駆けようとしたが、それを遮るように複数の芋虫が一斉に攻撃を繰り出す。これはまずい――と芋虫の攻撃を紙一重で避けながら、ルピナスの目はベリスに釘付けられた。芋虫はベリスに頭から噛み付こうとし――その寸前、レイピアが芋虫の頭を貫いた。
「お嬢様、お怪我はありませんか」
ビオラは素早くレイピアを引き抜き、屈んでベリスと視線の高さを合わせた。ベリスは「大丈夫だ」と頷き、じりじりと迫ってきた芋虫に対して炎を放った。
「しかし……なかなか減らないな」
周りには大量の芋虫が倒れているが、それを踏み越えて新たな芋虫がこちらに迫ってくる。最初と比べると数は減ったのかもしれないが、このままではいつ終わるのか全く見当が付かない。
「このままでは……」
レイピアの切っ先を下げたビオラの耳に、サシアムの言葉が届いた。
「案ずるな」
確かな自信に満ちた声を聞くと同時に、地面が真っ白な輝きを放つ。
「魔法陣……?」
ルピナスは辺りをさっと見回した。輝きは風が地面に切りつけられて生まれた傷から生まれており、その傷はルピナス達や芋虫全てを囲うほどに大きな図形を描いている。サシアムが炎ではなく風の刃を用いたのはこの為か――とルピナスが感心していると、芋虫の動きがぴたりと止まった。
「お嬢様」
芋虫を金縛りに遭わせたのだ。そう理解したビオラはベリスを呼び、レイピアの刃先で地面にシンプルな魔法陣を描いた。ベリスはその図形を見て迷わず魔法陣の中に入り、呪文を唱えた。ベリスの両手に炎が現れ、足元の魔法陣が輝いて炎はいっそう大きくなった。
「……威力を高める魔法陣?」
ルピナスがそう呟いた瞬間、ベリスの手から放たれた巨大な炎は蛇のように芋虫の群れの中を駆け回り呑み込んでいった。炎はルピナスの鼻先も通り抜け、服の端が少し焦げた。
「ベリスちゃん、危ないよ! 俺に恋焦がれる気持ちは分かるけどさ、何も実際に俺を焦がそうとしなくても」
いいじゃないか、と言い切る前にビオラのレイピアがルピナスの眼前に突きつけられた。
「貴方がお嬢様に心を撃ち抜かれたことはよく分かりました。それ以上軽口を叩くなら、このレイピアで心臓を撃ち抜きますよ」
「すいませんでした」
「……コイコガレル? 心を撃ち抜く……?」
ルピナスを殺そうとした事はないのだが、とベリスは一人呟いた。
「ふむ……そろそろか」
サシアムは次々と倒れ動かなくなっていく芋虫を見ながら呪文を唱えた。するとサシアムの頭上に巨大な水泡が現れ、ぱちんと弾けて雨のように炎に降り注ぐ。見る見るうちに炎は小さくなり、やがて完全に消えた。巨大な芋虫の山も消えており、見慣れた大きさの芋虫がそこには大量に転がっていた。
「……これが、あんなにでかくなったのか?」
ルピナスは焼け焦げた芋虫をじっと見つめた。燃えてしまって体の色合いは分からないが、体つきは先ほどまで戦っていた巨大な芋虫と似ている気がした。
「魔物ってのは、動物が何かの影響を受けて変わるもんなのか……?」
クバサで遭遇したグリフォンの時に感じた疑問を、ルピナスは小声で口にした。
「皆、手伝ってくれて感謝する」
サシアムは軽く頭を下げた。それを見たビオラが「いえ、と、とんでもないです!」それよりも深く頭を下げ返した。
「それより、これで魔法陣について教えてくれるんだな」
「勿論だ。だが村の者に報告をしておく必要があるから、話は村でしよう」
* * *
「……さて、この魔法陣の意味だったな」
家に辿り着き、サシアムは木製の椅子に腰掛けてビオラが差し出した地図をじっと眺めた。ルピナス達はソファに並んで腰掛け、言葉の続きを待った。ラジが空いたソファで惰眠を貪っていたが、誰も何も言わずにラジを無視した。
「封印だ」
サシアムは短く言い、地図に描かれた軌跡を指でなぞった。
「……封印? 何の封印だ?」
「そこまでは分からない」
「はぁ? 何だよそれ。あんだけなんか知ってるような口ぶりだったくせに、分かんねえって何だよ」
ルピナスが口を尖らせたが、サシアムは「早まるな」と苦笑した。
「世界中に及ぶほどの大規模な封印だ。勿論その封印を描くためには、それなりの魔力を持つ使い手を飛行船に乗せる必要がある。そこで一つ、疑問点が生まれる」
サシアムはベリスをまっすぐに指差した。
「ベリスを『魔法陣を描く使い手』として選んだ理由は何だ?」
「……理由?」
「ベリスの魔力は確かにこれだけの規模の魔法陣を描くに足りる。しかし、他の者にもこの役目は果たせたはずだ。何故、当時赤子で不安要素が大きかったベリスを飛行船に乗せた?」
「……分かり、ません……」
ビオラは申し訳なさそうに目を伏せた。しかしサシアムはそんなビオラの様子を意に介することなく言葉を続ける。
「考えうる可能性は、ベリスにしかない特徴がこの魔法陣の真価を発揮する為には必要不可欠だった事」
「私にしかない特徴……?」
まさか、と呟いてベリスは背に生えた白い羽をそっと撫でた。
「そう、その羽だ。それが、ベリスにしかない特徴を知る手がかりだ」
「えーっと、つまり……」
ルピナスが首を傾げながらも言葉を続けようとしたが、ビオラがその後を継いだ。
「お嬢様しか持たない特徴が、この魔法陣で何かを封印する為に必要だった。だから、お嬢様は十五年間飛行船の中で過ごしたという事です」
「じゃあ、ベリスちゃんの特徴が何か分かったら、何を封印しているのかも分かって――」
「――違う形で封印が出来たら、お嬢様が飛行船で暮らす必要はなくなりますね」
そう言葉にしながら、ルピナスとビオラの顔には自然と笑みがこぼれた。ベリスを自由にする道筋が見えたのだ。まだ分からない事は多いが、それでも展望が見えた喜びは大きい。
「……それで、だ。私にはベリスの羽が示す特徴が何なのかまでは分からない。しかし、私の知人に高名な民族学者がいるから、彼に話を聞いてみるといい」
サシアムはそう言いながら何も書かれていない紙を取り出してさらさらと文を綴った。
「この大陸の最北端、ユノキスという町にいる。名前はスターティス。少々気難しいところがあるが、私の紹介なら話を聞くぐらいはしてくれるだろう」
簡単な紹介状を書き終え、サシアムはその紙をルピナスに手渡した。
「ここから歩いていくには少し遠い。馬車を利用するといい」
「何から何まで……すみません」
ビオラが感激のあまり泣きそうな顔で頭を下げたが、サシアムは「礼を言うのはこちらの方だ」と苦笑した。
ルピナスとベリスは席を立ち、ビオラも二人に急かされるようにして席を立った。
「そんじゃ、ありがとな」
三人はサシアムに軽く別れの挨拶をし、家を後にした。
* * *
「……しっかし、相変わらず騒がしいな、あいつらは」
三人が家を出た直後、ラジは目を開けて呟いた。
「起きていたのか。盗み聞きとは趣味が悪い」
「俺様が起きてたら子犬ちゃんがキャンキャン騒いでうるさいだろ。俺様なりの心遣いってやつよ」
本当に心を遣うなら寝たふりなどせずに家から出て行けばいいだろう、と言いかけたがサシアムはその言葉を呑み込んだ。ラジは以前から煙草や酒の資料を求めて何度もこの家を訪れてきたが、そんな心遣いは全く無かった。今までの行動を省みると、確かに狸寝入りはラジなりの心遣いなのかもしれない。
「良い煙草は見つかったのか」
「ぼちぼち」
「それは良かった。じゃあ早速お目当ての煙草を買いに行けば良い」
さっさと出て行けと暗に言うと、ラジは大きく体を伸ばしてソファから立ち上がった。
「そうするわ」
散らかした本はそのままで、欠伸をして尻を掻きながらラジは家の玄関まで歩いた。ドアノブに手をかけたところでラジは動きを止めて「そういやさ」と振り向いてサシアムを見た。
「何だ?」
「あー……」
ラジは視線を宙に泳がせて続けるべき言葉を捜していた。
「……ま、いいや」
しかし言葉の捜索は早々に打ち切られ、さっと扉を開けてラジは家を後にした。
「よく分からない奴だ」
サシアムは扉の鍵を閉め、酒と煙草が入り混じったラジの残り香を嗅いで顔をしかめた。