ハネモノ 第十七話「仕事と約束」
がさがさと紙が擦れる音がする。ルピナスが目を開けると、石造りの天井が目に入った。色がくすみ、角が欠けたりうっすらとひびが入っている事から、それなりに年月を経ている事が分かる。
ゆっくりと身を起こすと、ぎしりとベッドがきしむ。身体にかけられていた毛布は薄く、必要最低限の安物の家具しかこの部屋には置かれていない。
四方のうち三方の壁は石造りの頑丈な壁で、残り一方には太い鉄格子がはめられている。鉄格子の一部が扉になっているが、ルピナスの予想通り扉には南京錠が下りている。
「……牢屋……?」
鉄格子の向こう側には木製の机と椅子があり、ラジが椅子に座って机の上に置かれた紙袋をがさがさと漁っていた。
「おっ、目ぇ冷めたか」
ルピナスの様子に気づいたラジは紙袋の中からリンゴを取り出し、ルピナスに向かって投げた。ルピナスは鉄格子の隙間から手を伸ばし、リンゴを受け取る。
「おっさん、ここどこだよ」
「リヒダ・ナミトのお城の地下牢」
分かってるくせにぃ、とラジはいたずらっぽく笑い、ルピナスは頷くことなくリンゴを一口かじった。
「……ベリスちゃんと、ビオラは?」
「あいつらはお城の最上階。ただのちびっ子盗賊とは違ってあの二人はお城にとって大事なゲストなんでね」
「悪かったな、ただのちびっ子盗賊で」
ルピナスは頬を膨らませ、安普請のベッドに腰掛けた。
「……しかし、まさかおっさんが特務隊の隊長だったとはなあ」
「びっくりした?」
ラジは紙袋から煙草を取り出し、火をつけた。紫煙が牢屋内にも立ちこめ、ルピナスはわざとらしくせき込んだ。
「おっさんは二十年くらい隊長やってんだよな」
「おうよ」
「じゃあさ、十五年前に俺の親父を捕まえたのもおっさんがやったのか?」
「おう」
ラジはあっさりと肯定した。
「サルビアを捕まえて死刑台送りにしたのは俺様だ。憎いか?」
「……別に」
古代都市でタテハから知らされた情報が本当ならば、サルビアは完全な悪人ではない。とはいえ一人を救うために多数の命を犠牲にしたことを思えば、お世辞にも善人とは言えない。父親かつ命の恩人であっても、善とも悪とも言い切れない上に顔も見たことがなければ、ラジに対して憎しみを抱くほうが難しい。
「……あいつは逃げ足が早い奴でなあ」
クソガキのすばしっこさはあいつの遺伝だ、とラジは昔を懐かしむように呟く。
「俺様が何度追いつめようがその度に上手いこと逃げやがったんだ。俺様が仕事で一年かけたのはあいつぐらいよ? しかも、最後は自首だし」
煙草の灰がラジの足下に落ちる。ラジはそれを意にも介さずに煙草を吸う。
「そんでだ、何回も追いかけっこしてるうちに俺様とサルビアは顔なじみになった訳よ」
「とんだ顔なじみだ」
全くだ、とラジはルピナスの指摘に対して肩をすくめた。
「過程はめんどくせえから省略して結論だけ言うと、俺様はあいつと一つだけ約束した」
「約束?」
ラジは煙草を床に捨て、ぐしゃぐしゃに踏みつぶした。まだ煙草の長さは十分にあるのに勿体ないな、とルピナスが思っている間にラジはコートのポケットから一本の鍵を取り出した。
「息子が危険な目に遭ったら助けてやってくれ」
鍵を牢屋の南京錠に差し込み、回す。がちゃん、と音がして南京錠はあっけなく外れ、牢屋の扉が開いた。
「はい、助けた。つうわけで、これでサルビアとの約束は終わりな」
流石にこれからもずっと助け続けるってのは無理だからな、とラジは付け加えた。ルピナスはそろそろと牢屋から出て、ラジの不可解な行動に眉をひそめた。
「……あのさあ、おっさんが俺を捕まえたんだよな?」
「おう」
「……で、今おっさんが俺を逃がそうとしてるんだよな?」
「そうだな」
「……それって大丈夫なのか?」
「なになに、クソガキは俺様の心配してくれるわけ?」
ラジはへらへらと笑ってルピナスの頭をぽんと叩いた。
「俺様はこの程度の悪戯で簡単にクビになるような立ち位置じゃないんでね。ほれ、さっさと逃げな。案内人も付けてやったんだから」
「案内人?」
ルピナスが首を傾げていると、部屋の扉を開けて見覚えのある顔がひょいと覗いた。
「久しぶりだな、ルピナス」
騎士のような身なりをした黒髪の少年――カミルだった。いや、本当は金髪の可憐な少女で姫という身分なのだが、この姿の時はカミルという少年だとルピナスは認識するようにしていた。
「カミル? 案内人って、お前か?」
「そうだ。そろそろ出発しないと日が暮れて城内の警備が厳しくなるぞ」
「……分かった」
ルピナスはちらりとラジを見たが、ラジは鬱陶しそうに「早く行け」とルピナスを手で追い払う仕草をした。
「行くぞ、ルピナス」
カミルは部屋の扉を開け放ち、廊下へと消えた。ルピナスは戸惑いながらもその後を追っていく。
開け放された扉を閉め、一人残されたラジは新しい煙草に火を付けてふう、と一息ついた。
「十五年も約束覚えてた俺様、偉い」
その声は少し、寂しげだった。
* * *
城の廊下には人気がなかった。等間隔で粗末な燭台が並び、小さな光を放っている。光源がその光しかないため、辺りは非常に薄暗い。
「城からの脱出口までは私が案内する。しかし、私は立場上ここから離れることはできない」
「おっ。城から抜け出すのはやめたのか」
「君達が捕らえられてから、リヒダ・ナミト全体の警戒が強められてな。城から抜け出す事が困難になった」
カミルはこつこつとブーツの音を響かせて廊下を進み、やがて行き止まりにぶつかった。灰色の煉瓦が道の終わりを告げ、木箱や干し草が無造作に置かれている。
「今、こうして君の脱獄を手助けできているのも、ハイドレイジア殿の助力があってのものだ」
「ハイド……? ……ああ、ラジか」
カミルは手際よく干し草と木箱を動かし、そこに隠されていた小さな穴を露わにした。人為的に作られたもののようで、穴の入り口はしっかりと煉瓦で固められている。
「この穴に入って道なりに進めば城の裏手に出る。城の堀の外で見張りもいないから、そのまま町に行ってくれ」
ルピナスはしゃがみこんで穴をのぞき込んでみた。四つん這いになれば通れる程の広さで、見る限り煉瓦できちんと舗装されているようだった。
「クバサまでの船賃と馬車代は後で手配する。それまでの間、すまないが町のどこかで待っていてくれないか」
「え、ちょ、ちょっと待って」
ルピナスはカミルの言葉の意味が理解できず、ぱちぱちと瞬きをした。
「俺、まだクバサに帰る気はねえぞ」
峡谷の古代都市で様々な情報が得られたが、それで終わりではない。ベリスを自由にするまで、クバサに帰るつもりは無い。
「カミル、出口は分かった。ベリスちゃんとビオラがいる場所へはどう行けばいい?」
ラジの話では確か、あの二人は城の最上階にいる。この道を通って堀の外に出たところで、二人の元へたどり着けるとは到底思えない。
この道を通って城から抜け出す時は今ではない。城の最上階へ潜入し、ベリスとそのついでにビオラを救う。城から抜け出すのはその時だ。
「なあカミル。城の最上階だ。いいルートを知ってたら教えてくれ」
カミルは穴の前でしゃがんでいたルピナスと目線の高さを合わせ、ふう、とため息をついてぱしんと平手で頭を叩いた。
「馬鹿か」
「……馬鹿って何だよ」
カミルが可憐な少女だという事を思うと、平手で叩かれて馬鹿かと言われる事はこの上ない喜びだ。しかし、今はその喜びよりもベリスを救うという行為を否定された不満の方が大きい。
「地下にいた君には分からないだろうが、今は夕方だ。もうすぐ日が暮れて夜になるが、夜は私――いや、『カモミール』さえ自由に城内は歩けない。警備の巡回ルートも複雑で、私が協力したところで今からベリスやビオラの元にたどり着くことは不可能だ」
だから、君だけは逃げてほしいとカミルは続ける。
「ハイドレイジア殿はその為に規律を犯し、動いた。あの特務隊隊長が、だぞ?」
カミルにとって「特務隊隊長」がどのような意味を持つのか分からないが、彼女が言わんとすることは理解できた。
「……ラジが俺を逃がすって事がどれだけイレギュラーかってのは分かった。でもな、俺だってこんな所で帰るわけには行かねえんだよ。このまま何もしなかったら、ベリスちゃんはどうなるんだよ」
「君の気持ちも分かる。だが、ここは一旦城を抜けてくれ」
「だから、その前にベリスちゃんを――」
「まだ分からないのか!」
カミルは大声を出した後、俯いて服に付いた藁を払い落とした。
「ハイドレイジア殿の願いは、ルピナスをこの城から逃がす事。そして、『クバサまでの船賃、馬車代』を支給する事。金の受け渡しの時を最後に、ハイドレイジア殿は君の『逃亡』に干渉しない」
「……つまり……」
「……そういう事だ」
カミルは肩をすくめ、ルピナスは頷いた。クバサに無理矢理帰されるのならばここで抵抗していたが、そうでないならカミルの助言に従った方が良い。ルピナスは四つん這いになって穴に入った。ミミナ村南部の峡谷へ向かう洞窟と同じ体勢だが、煉瓦で舗装されているだけにこちらの方がはるかに通りやすい。
「ルピナス」
後ろからカミルの声が聞こえる。声の響き具合からすると、穴の外側から声をかけているようだ。
「君は本当に、ベリスの事が好きなんだな。私の立場からすると、こんな事は言ってはいけないのだろうが……健闘を祈る」
ずず、と何かを引きずる音がして後方の光が弱まった。木箱を元の位置に戻しているのだろうと見当をつけたが、この通路の狭さでは振り向いて確認をする事も出来ない。進む先にも光は見えず、辺りは何も見えないほどに真っ暗だった。ルピナスは手探りで前に進みながら、ぽつりと呟いた。
「好きに決まってんだろ」
* * *
リヒダ・ナミトの町並みは思った以上に広大で複雑だった。初めて訪れた時や、ミミナ村に向かうときに通っていた道は裕福で清潔な建物が並んでいた。しかしそういった表通りの反対側に足を踏み入れてみると、クバサの路地裏と同じようなみすぼらしい建物がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。それでもクバサに比べると治安は良く、ルピナスのような子供が歩いていても誰も金目のものを巻き上げようとはしなかった。
城から脱出して裏通りに足を踏み入れた頃には、既にとっぷりと日は暮れていた。幸いにも月は明るく、裏通りの共同住宅から明かりも漏れていたため、辺りの様子は十分に観察できた。散策をしてみるが宿は見当たらず、見つかったとしても今のルピナスには安宿で一夜を過ごすだけの現金が無かった。
「一人で野宿するのは何年ぶりだっけな」
裏通りの奥の奥、誰も寄り付かないような狭い行き止まりでルピナスは座った。寝心地が良いとはお世辞にも言えないが、クバサでコデマリと共に生活をしていた頃と同じようなものだ。ルピナスはマントにくるまって目を閉じた。
「――お――」
遠くから、誰かの声が聞こえる。どこかで聞いた事がある声だった。
「――きろ――」
まぶたが重い。声の主が誰なのか察しが付いたが、どうにも目を覚ます気になれない。まだもう少し、まどろんでいたい。
「――あさだ――」
ふに、と何かがルピナスの頬に触れた。人の手ではなく、弾力に富んだ柔らかさがある。その弾力の合間に動物の毛のような触感もあった。ルピナスがうっすらと目を開けると、目の前に一匹の子猫の姿があった。ルピナスと目が合うと、子猫はにゃあと鳴いた。
「ようやく起きやがったか」
その子猫を片手で掴んでいたのは、紛れもなく先程からの声の主、ラジだった。ラジはぱっと手を離し、子猫はルピナスの身体の上に着地した。子猫は暫くの間ルピナスの上でもぞもぞと動いていたが、やがてルピナスから離れてラジの足元にぴたりとくっついた。
「……おっさん、何でここが分かったんだ」
寝ぼけ眼をこすりながら、相変わらずのラジの体臭に顔をしかめた。ルピナスのそんな様子は綺麗に無視して、ラジは得意げな顔で足元の子猫を指差した。
「にゃんにゃんネットワークをなめるな」
「…………」
この子猫に教えてもらった、という事だろう。どうやらラジは猫に好かれる素質があるらしく、こういった人捜しは人海戦術ならぬ猫海戦術でお手の物なのだろう。だが、にゃんにゃんネットワークという名称には閉口する。
ラジはコートをまさぐり、「ほれ」とルピナスに数枚の金貨を握らせた。
「クバサまでの旅費ならそれで十分だろ」
「十分すぎるほどだ」
ルピナスはまじまじと自分の手にある金貨を見つめた。ずしりとした重みと輝きは、それが本物である事を示している。いい船に乗り、いい馬車に乗ってクバサへ行っても十分におつりが出る額だ。
「……別に、今すぐ帰らなくてもいいんだよな?」
ルピナスが念を押すように訊ねると、ラジは頷いた。
「町を観光しようが、何を買おうが、どこへ忍び込もうがお好きにどうぞ」
ただ、とラジは付け加える。
「牢屋の鍵を開けた時点で俺様とサルビアの約束は終わりだ。これからクソガキがどんな目に遭っても、俺様が無条件でサポートする、って訳じゃねえから肝に銘じとけよ」
つまり、ベリスやビオラを助けるために城に侵入して万が一失敗しても、ラジがルピナスを逃がす事は無い。そんな事は分かっている、とルピナスは頷いた。
「そんじゃ、後は好きにしろ」
ラジはふいと背を向け、静かな足取りで路地を後にした。子猫もラジの後を追ってぽてぽてと歩いていき、角を曲がって一人と一匹の姿はすぐに見えなくなった。
それからのルピナスの行動は早かった。適当な店で朝食を済ませ、裏通りも表通りもくまなく回って良質の道具屋を探した。そして見つけた道具屋でロープやナイフ等の道具を一新した。ラジから貰った金貨の数は減り、これから数日間宿に泊まる事を考えると、もうクバサに戻るだけの余裕はなかった。しかしクバサに戻る気はさらさらないルピナスにとってはどうという事も無い。
この資金はベリスとビオラを城から救い、ベリスが飛行船に乗らずに済む手段を探す為のものだ。まずは二人の居場所を特定し、城への侵入ルートを探らなければいけない。地道な作業だが、店から目的の品を盗むという技はクバサで生活する上では必須の技術だった。今回は店が城に、目的の品が一人の少女と一人の獣人に置き換わっただけだ。
「よし、やるか」
盗みごたえは、十分にある。ルピナスは巨大な城を見上げ、にやりと笑みを浮かべた。