ハネモノ 第二十話「執事の約束」
王の間を出てビオラの指示通りに進むと、すぐに階下に続く螺旋階段が見つかった。螺旋階段は長く、おまけに暗いため底が見えなかった。ひたすら駆け下りるだけで時間の感覚を失いそうになり、どこまで続くのか確認しようと下を覗き込むとどこまでも規則正しく描かれる螺旋にふっと体が吸い込まれそうになる。不安な気持ちを押さえつけて階段を駆け下り続け、単調な運動に足が悲鳴を上げ始めた頃になってようやく螺旋階段の終わりが見えた。
螺旋階段を抜けた先には薄暗い廊下が真っ直ぐに延びていた。小さな松明が申し訳程度に灯されているだけで、廊下の先は闇に飲まれていて見えない。廊下の造りはしっかりとしているが手入れの痕跡は殆ど無く、城の者もあまり利用する事の無い道なのだろうという事は推測できた。ひんやりとした地下独特の空気からも、人の体温は伝わってこない。
「……いるな」
ルピナスは目を細めて闇の先を睨み、呟いた。姿は見えないが、耳を澄ませばかすかに足音がする。ルピナスは短剣を抜いて慎重に歩を進めた。ビオラの話ではこの道は一本道だ。ルピナス達が退かなければ、行きか帰りかの違いはあれどもいずれサシアムとはかち合う。急ぐ必要はないだろう。
こつこつと自分達の足音が静かな廊下に響く。サシアムの足音が聞こえるのなら自分達の足音もサシアムに聞こえているのだろうが、追っ手ぐらいサシアムも予想しているだろうから無理に足音を消す事はしない。気をつけるべきは闇の向こうからの不意打ちだ。
「こちらから先に仕掛けるか?」
「……やめておこう」
相手の正確な位置が分からない以上、不意打ちが成功する確率は低い。そして不意打ちが失敗すると言う事は、こちらの位置を相手に教えるようなものだ。サシアムが仕掛けてこないのも、そういった不利を知っているからだろう。
慎重に歩を進めながら、ルピナスは廊下の奥に広がる闇を睨んだ。
前方で微かに聞こえるサシアムの足音が止まった。ルピナスはベリスの前に立って身構えたが、その直後に聞こえたのは扉を開ける音だった。暫く様子を伺うが、扉を閉める気配はない。ルピナスはほんの少し足早に進み、やがて廊下の突き当たりに辿り着いた。
二つの小さな松明の間に分厚くて頑丈そうな鉄の扉があった。扉には魔法陣と似たような模様が刻まれており、力ずくで開ける事を徹底的に拒否する外観だった。だがその頑丈な鉄の扉は鍵によって開けられており、扉の向こうへの侵入を許していた。
扉の向こうは小さな部屋だった。天井ぎりぎり、出口を除いた壁の全面に本棚が設置されており、本棚の中には紙束がぎっしりと詰め込まれている。サシアムはその小さな部屋の真ん中で、こちらからは背を向けて立っていた。小脇には何冊かの紙束と、青鈍色の見なれない物体を抱えていた。
「サシアム」
ルピナスがその名を呼ぶと、彼はゆっくりと振り向いた。
「……やはり、君達か」
返り血のついた禍々しい様相のまま、サシアムはくつくつと笑った。「君達の行動は本当に分かりやすい」
「王を傷つけて奪ったものはこの扉の鍵か?」
「そうだな」
サシアムは小脇の紙束と青鈍色を抱え直し、それらがこの部屋のものだと言う事を言外に主張した。
「何の為に」
「君達に理解できる事ではない」
そう言いきったサシアムは早口に呪文を唱える。それに気づいたベリスが追って呪文を唱え始める。サシアムの周りで風が渦巻き、ベリスの周りも同じように風が生まれる。紙束が風に揺られるが、しっかりと綴じられているのか中身がばらばらになる気配は無い。
先に仕掛けたのはベリスだった。練り上げられた風がサシアムに向けて吹き荒れる。かまいたちを発生させている様子は無く、サシアムを壁に叩きつけて大人しくさせるつもりだろう。吹き荒れた風がサシアムを襲う寸前、サシアムが練り上げた風がそれを迎え撃った。
風という目に見えないものが激突していても、どちらが優勢なのかは分からない。紙束が揺れる方向から風の動きが読めるかと思ってルピナスは横目で確認したが、風の流れが複雑なのかてんでバラバラの方向に揺れていた。魔法の才が無いルピナスは、ただベリスの視界に邪魔にならないよう、何が起きてもベリスを守れるよう身構えるしかない。
「……くっ……」
ベリスの苦しげな呟きが耳に入った。ちらりと確認すると額から一筋の汗が流れ落ちており、眉間に皺を寄せて苦しそうな表情をしている。一方のサシアムは眉一つ動かさずに自在に風を駆っている。これはまずい、とルピナスがベリスを庇うように前に出た瞬間、強風が二人をまとめて吹き飛ばした。
強風に煽られて体の自由もろくに利かない中、ルピナスはベリスが地面に叩きつけられないように抱えた。ルピナスが上手く受身を取ればそれほどのダメージにはならないはずだ。タイミングを見極めるルピナスの下を鋭い風がいくつも駆け抜けたが、そんな事を気にしている暇は無い。
「せー……のっ!」
ルピナスの体が地面に着く瞬間、受身を取った。体は衝撃を受け止めてごろごろと転がり、ぴたりと動きが止まった瞬間、ルピナスはふうと一息ついた。幸いにも擦り傷程度の怪我で済み、ベリスの体にもそれほどの怪我は無いようだった。
「ベリスちゃん、大丈夫?」
「大丈夫だ」
それより、とベリスは体を起こそうとするが、がくりと体勢が崩れる。手伝おうとルピナスも身を起こそうとしたが、腕に力が入らず半身を上げる事すらままならない。何かがおかしいと気づいたルピナスの頭上に影が落ちた。
「容易いものだな」
「……何を……しやがった……!」
短剣を握ろうとするが、指先に力が入らず上手く掴む事が出来ない。
「魔法陣はそこに入った者の力を増幅させる事が出来る。そして、増幅が出来るのならばその逆も勿論可能だ」
サシアムは爪先で床をこつこつと叩いた。よく見ると、ルピナス達の周囲には綺麗に溝が彫られている。溝は円の中に幾何学模様が走った図を描き、それは明らかに魔法陣だった。
いつの間に、と呟く寸前にはっと気づいた。強風に吹き飛ばされた二人が地面に叩きつけられる前、鋭い風が二人の下を駆け抜けた。そして、リーモ村で芋虫の魔物を退治した際、サシアムは風の刃で見事な魔法陣を描いて見せた。戦闘中にそんなことが出来る技術があるのなら、風に飛ばされた二人が着地するよりも早く風を駆り、魔法陣を描く事は出来るだろう。
「暫く経てば効果は消える。死ぬ事は無いから心配するな」
サシアムはそれだけ言うと、こつこつと足音を響かせて螺旋階段へ向かっていった。呼び止めようとしても大声は出ず、サシアムとその小脇に抱えられた紙束と青鈍色の物体は闇に紛れて消えた。
* * *
客観的に見ると短い時間なのかもしれないが、ルピナスから見ると途方も無い時間をかけて魔法陣の効果は消えた。呪縛が解けてすぐに立ち上がれると言うわけでもなく、ゆっくりと焦らすように体中に力が戻ってくる。
「……ベリスちゃん、立てる?」
ふらつく足取りでルピナスは立ち上がり、ベリスも「ああ」と応えてゆっくりと立ち上がった。
「行こう。ビオラにこのことを伝えて、それからサシアムを追わなきゃいけない」
「……サシアムはどこへ行ったんだろうな」
「多分、もう城にはいねえだろうな」
王を傷つけ、城の所有物と思われる紙束と物体を盗んだのだ。ルピナスやベリス、そしてビオラという目撃者がいることを考えると白を切って城に居座るとは考えがたい。恐らくは地下から出たその足で城を脱出し、姿をくらませている。
まずはビオラに報告をする。そこから先、サシアムの行方についてはビオラの意見を聞いてから予測を立てたほうが良い。そうしている間にもサシアムとの距離が開くとはいえ、考え無しに探し回って時間を無駄にしては元も子もない。
螺旋階段を上り、王の間に戻るとそこには小さな人だかりが出来ていた。彼らの背格好はばらばらで、学者がいれば兵士もおり、町民の姿もあった。人だかりから少し離れた所にビオラは立っており、ルピナス達の姿に気づくと小走りで駆け寄った。
「首尾は……良くない、みたいですね」
二人の表情から結果を察し、ビオラはお疲れさまでした、とねぎらいの言葉だけかけた。
「サシアムは地下室から紙束と変な物を盗んで、地下から抜けだした。ここからサシアムの姿は見かけなかったか?」
「……それが、貴方達が地下へ向かって間もなく『魔物が一斉に町から退いた』と兵士が帰還し、町民も避難の為と城に雪崩れ込みまして……」
「人ごみでサシアムの姿は見えなかったのか」
ベリスが先回りして結論を言うと、ビオラは申し訳なさそうに頷いた。
「町の人達に聞きこみは?」
「してみましたが、この混乱しきった状況では誰も周りを見る余裕はなかったようです」
「……魔物、か……」
ベリスは目を伏せて両手を握りしめた。その手は微かに、震えている。
「大丈夫?」
ルピナスが手を重ねても震えは止まらない。
「……魔物が、いなくなれば、状況は改善するんだろうな」
サシアムの目的が何なのかは全く見当がつかないが、魔物という大きな障害を排除する事が出来ればサシアムの捜索も格段にやりやすくなる。それは事実だが、ルピナスはベリスの問いかけに頷かなかった。
「ベリスちゃん、変な事は考えるなよ」
「ルピナスこそ、感情に任せて判断を誤るな」
ベリスは王の周りに出来た人だかりに向けて一歩踏み出し、深く息を吸った。
「私の話を聞いてくれ!」
よく通る声が人だかりに届き、彼らは不審そうな顔をしながらもベリスの方を向いた。
「私はミミナ村の南部に存在する古代都市の民だ。長い間眠りについていたが、十五年前に目覚めて飛行船で育てられた」
飛行船の存在は誰もが知っていた。しかし飛行船の内部や詳細は誰もが知らなかった為、場はざわついた。
「古代都市には生物兵器――魔物を生み出す為の装置があり、その装置は古代都市の民から力を得て動いている」
「ベリスちゃん!」
それ以上言ってはいけない、とルピナスは駆け寄ったがベリスはその体を強く突きとばした。
「そして現存する古代都市の民は私しかいない。つまり……」
ベリスの言葉の意味を理解した人々の空気が変わる。兵士が静かに剣を抜く姿がビオラには見えた。
「私が死ねば魔物はもう生まれない」
「駄目だ!」
ルピナスがベリスをかばうように躍り出る。武器を抜いた兵士がじりじりと距離を詰め、学者はぶつぶつと呪文のような言葉を唱えている。町民はまだ何もしていないが、兵士や学者の雰囲気に呑まれてベリスを睨みつけている。
「ルピナス、分かってくれ。これ以上何の罪もない人が命を奪われる事は避けなければならない」
ベリスはルピナスの背中に向けて語りかけるが、ルピナスは何も答えない。
「飛行船で上空から見下ろしていた時から、私はこの世界が好きだ。そして、飛行船から降りてもっと近くで人々に触れて、この世界で暮らす人々が好きになった」
だから、とベリスは続ける。
「私がいるせいで皆が傷つけられるのは、耐えられないんだ」
「…………」
「自分で自分を殺めるのが一番手っ取り早いのだが、どうにもそれが出来なくてな」
情けないな、とベリスは独りごちた。
「……だ」
「え?」
「……駄目だ! そんなの俺が許さねえ!」
ルピナスはベリスの方を向き、きつく睨みつけた。
「ベリスちゃんが死ねばいいとか、ふざけんなよ!」
「君は私の話を聞いていたのか! 因果関係を説明する書類も渡しただろう?」
「すみませんねえ、バカだからそんなややこしいこと分かんねえんだよ!」
ルピナスはベリスの手を取り、王の間の出口に向けて走り出した。ベリスも釣られて走り出す。
「やめろ! 離せ!」
「離すもんか」
この手を離したらベリスは死のうとする。何が何でも手を離す訳にはいかない。
顔を上げると出口を塞ぐように兵士たちが立っていた。その手には武器が握られており、ルピナス達に対して明らかな敵意を向けていた。
「どけよ!」
ルピナスは大声で怒鳴るが、兵士は出口から退かない。それどころか、数名が武器を掲げて一気に駆け寄って来た。ルピナスは威嚇の意味を込めて短剣を抜くが、その程度の事で兵士が動じるはずもなかった。
ベリスの手を握ったまま短剣で兵士を倒す――真面目に考えると到底不可能な事であったが、挑戦するしかない。兵士の剣を受けようと短剣を構え――
「誰かお忘れではありませんか?」
兵士の剣が弾き飛んだ。ルピナスの目の前に見なれた巨躯が立つ。
「ビオラ!」
ビオラはこちらをちらりと見た後、駆け寄ってきた兵士の武器をレイピアで弾いてタックルを食らわせる。ビオラの巨体から繰り出されるタックルはかなりの威力を持つようで、ふっ飛ばされた兵士は痛みに呻いている。
「私は王室に仕える執事です」
しかし、と呟きながらビオラは出口をふさぐ兵士を次々と倒していく。
「今、私が仕える……仕えたいと思うのは、お嬢様です」
兵士が放った攻撃が右腕をかすり、じわりと血がにじむがビオラは意にも介さずに兵士の武器を弾く。
「ルピナス」
ビオラは顎で出口を指し、ルピナスはベリスを連れて慌てて駆けだした。その後を続くようにビオラは走り出す。
「城の出口まで案内します。その後は、ルピナスがお嬢様を守りなさい」
「……ビオラは?」
何となく嫌な予感がしたが、ルピナスは訊ねずにはいられなかった。
「私は城の出口で追手を食い止めます」
「……一人でか?」
ベリスの呟きにビオラは頷く。王の間にいた人々がベリスから聞いた話を他の部屋にいる兵士や町民に知らせるのは間違いない。そして、彼らは自身の平和の為にベリスを殺そうとするだろう。ビオラ一人で抑えきれるものではない。ビオラもそれは重々承知の事だ。
「お嬢様の身を守り、お嬢様の幸せの為ならば私はいくらでもこの身を捧げられます」
「あっ、俺も! 俺もベリスちゃんの為なら何だってする!」
「だからこそルピナスにお嬢様を任せるんですよ」
ビオラは渋い顔をしながらも続ける。
「盗賊風情にお嬢様の身柄を渡すのは不本意極まるのですが……この状況です。仕方がありません」
城の出口、堀にかかる橋に到着する。
「お嬢様を、頼みますよ」
「……ビオラ、死ぬなよ」
ルピナスはビオラの背中を軽く叩き、ビオラは微笑みを浮かべた。
「全てが落ち着いて、お嬢様の笑顔を見るまでは死ねませんよ」
「約束だぞ」
ルピナスはそれだけ言うと、ベリスの手を引いて城を後にした。
ルピナス達が町中へ消えた事を確認してからビオラは城の方を向き、レイピアを構える。城の奥から静かに、しかし圧倒的な敵意がひたひたと迫る。丸まりそうな尻尾をピンと伸ばし、震える右手を左手で抑えつける。
瞼を閉じると、今までのベリスの様々な姿が浮かんだ。物心がつき始めた頃の無邪気な姿、興味深そうに飛行船の窓から景色を眺める姿、本を読んで眉間に皺を寄せる姿、見た事もないものに触れて目を輝かせる姿。ベリスの成長をずっと見守っていたからこそ、分かる。飛行船から降りて直に世界と触れ合う事がベリスにとって幸せなのだ。そして、ルピナスが傍にいる事がベリスをより輝かせているという事実は、悔しいが認めるしかない。
ベリスの事を思い返している間に、右手の震えは止まった。尻尾も自然に伸びている。ビオラはレイピアを城に真っすぐ向け、呟いた。
「……約束、ですよ」