ハネモノ 第三話「護る者」
御者の言葉通り、トイス港には夕方到着した。港の入り口で二人は馬車から降り、御者に礼を言って港の中心地に向かった。
「何だ、この匂いは」
ベリスは険しい顔をして辺りをきょろきょろと見回した。
「潮の匂い。港町独特の匂いだけど、いい匂いだろ」
「そうか?」
「ベリスちゃんは早速観光したいだろうけど、今日はもう日が暮れそうだし観光はまた明日な」
ルピナスは辺りの建物を観察したが、この辺りにある宿屋は富裕層向けの豪勢なものだった。ルピナスが泊まれるレベルの宿屋は、おそらく町の奥まったところにひっそりとあるだろう。トイス港を訪れたのは数回しかないが、どの辺りがそうなのかはおおよそ見当はつく。
「ベリスちゃん、こっち」
ルピナスが先導して進み始めるとベリスは潮の匂いをくんくんと嗅ぎながらついてきた。特に珍しい匂いでもないのに興味津々な彼女を見ていると、もっと珍しいものを見せてやりたい、もっと彼女を喜ばせたいという思いが強くなった。
町の中心地を抜けると潮の匂いがいっそう強くなり、道の先には港が見えた。港で適当な漁師を捕まえて安い宿が多い場所を聞こうかと考えていると、ベリスが港に向かって一直線に駆けだした。
「ベリスちゃん?」
ルピナスが慌ててその後を追い、防波堤で立ち止まって海をじっと見つめているベリスの横に駆け寄った。
「いきなり走り出して、どうしたの」
「……綺麗だな」
「え?」
ルピナスはベリスが見ている海を同じように見てみるが、ただの夕焼け時の海だ。夕日を受けて橙色に輝いているが、これといった特徴はない普通の海だ。
「飛行船から見るより、ずっと綺麗だ」
そう呟くベリスは柔らかな微笑を浮かべており、ルピナスはそんな彼女が可愛いと思う前に、心臓がきゅっと熱くなった。
「ベリスちゃんの方が綺麗だよ」
お世辞にも良くない台詞を咄嗟に口にしながら、ルピナスはベリスの手を握ろうと手を伸ばしたが、あっけなくその手は払われた。
「この海より私が綺麗とか、君は目が腐っているのか」
「ベリスちゃんのあまりの可愛さに目が腐るならそれも本望」
「……君は実に馬鹿だな」
ベリスは苦笑しながら「日が暮れるまでに宿を探すんじゃなかったのか?」と言って防波堤を後にした。
港には何隻もの船が停泊しているが、多くは漁船で渡航用の客船は数隻しかない。客船の乗り場近くにはチケット売場があったのでちらりと覗いてみたが、最も安いチケットでもルピナスに買えるような値段ではなかった。
「やっぱ密航しかないか」
チケット売場を後にしてルピナスはため息をついた。できることならチケットを買って安全に行きたかったが、仕方ない。盗品を売りさばいて資金を工面するという手もあるが、時間がかかりすぎる上に土地勘がないこの町で盗みを働くのは危険すぎる。
辺りを見回すと漁師の姿がちらほらと見かけられたので、ルピナスは近くにいた漁師に声をかけた。
「なあおっさん、この辺りに安い宿屋ってある?」
「あー……安い宿屋ってーと……」
漁師は顎に手をやって考えていたが、ベリスの姿を見るなり驚いた表情で「あれ」と呟いた。
「ん? ベリスちゃんが可愛いのは分かるけど、そんなに見つめられたら困るなあ。ベリスちゃんは俺のだからさ」
「誰がいつルピナスのものになった」
ベリスが苛立たしげにルピナスを蹴った。漁師はそんな二人の様子を気にかけることなく「ちょっと、そこで待っててくれ! あんたを探してる人がいるんだ!」とだけ言ってどこかへ駆けていった。
「なんだ、あの漁師は」
「さあ……? とりあえず待っとくか」
ベリスは素直にその場に立って待っていたが、ルピナスはきょろきょろと辺りを見回して地形をより詳しく把握していた。あの漁師の意図が全く見えないので、最悪の可能性も考える必要があった。幸いにもロープや角材など、武器になりそうなものは沢山ある。ベリスを守りながらどうやって戦うかを考えているうちに時間は過ぎていった。
町の中心部から駆けてくる人影に気づいたのはルピナスが先だった。遠目から見ても驚くほど長身の男は、こちらに向かってまっすぐに駆けてきた。
「誰だあいつは」
ベリスもその男をじっと見ながら首を傾げた。ルピナスも同じように首を傾げた。長身の男は黒い毛並みを持つ犬の獣人で、片眼鏡をかけて服装も執事のような風体だった。どうみてもルピナスのような人種とは何の関わりもないタイプであることは一目で分かる。
「お嬢様! ご無事でしたか!」
長身の犬男はルピナスとベリスの元に駆け寄ると、どこかほっとした表情でベリスの顔を見た。
「明日にでもクバサへと向かう予定でしたが……お嬢様にはご足労おかけして申し訳ありません」
「……お前は誰だ?」
ベリスがじろじろと何の遠慮もなく長身の犬男の顔を見上げていると、長身の犬男は「あっ」と頭を下げた。
「申し遅れました。私、ビオラと申します」
「ビオラだと?」
「てことは、ベリスちゃんが言ってたお世話してくれた人ってあんた?」
ルピナスが口を挟むと、ビオラと名乗った長身の犬男はちらりとルピナスを見たが、すぐにベリスに視線を戻した。
「本当にビオラなのか?」
「姿を見せることは許されず、扉越しに話をしても私の声は変えられていましたし、お嬢様がそう思われるのも無理はありませんね」
ビオラはそう言って苦笑した。
「そうですね……お嬢様、飛行船を降りてから今この瞬間に至るまでに、誰かに誕生日を言いましたか?」
「いや、言ってない」
「では」
ビオラはベリスにだけ聞こえるようにこっそり何かを耳打ちした。ベリスは少し目を見開いた後、ビオラの頬を軽く撫でた。
「……君が、ビオラか」
「お迎えが遅れてしまい、申し訳ありません」
ベリスとビオラが二人の空気を作っている中、ルピナスはどうやってベリスの誕生日を聞き出そうか、どうやってこの空気に割り込もうかを、二人の周りをちょろちょろしながら必死に考えていた。
「……で、あなたがお嬢様をここまで送り届けてくださった、と」
ビオラはルピナスの方を向き、軽く頭を下げた。
「感謝します」
「いやいや、こんな可愛い子が困ってるのを見たら助けるのが当然だし」
へらっと笑うルピナスの手に、ビオラは数枚の金貨を握らせた。今まで手にしたことがない金貨の重みにルピナスは首を傾げた。
「これはお礼です。本当にありがとうございました」
「……お礼?」
ルピナスが顔をしかめると、ビオラも少し不快そうな顔をした。
「まだ足りないとでも?」
「ちげーよ。こんなもん目当てでベリスちゃんをここまで連れてきたわけじゃねえし、リヒダ・ナミトまで送るっていう約束だからこんな半端なとこで終わらせるつもりもねえよ」
「リヒダ・ナミトまでお嬢様を送るのは私の役目です。あなたの働きには感謝していますが、後は私が引き受けますのでご心配なく」
「だーかーらー、お前みたいな奴が出たからって約束を破るわけにはいかねえっての。それに一人より二人でベリスちゃんを連れていった方が安全じゃねえか」
「あなたのような方が一緒にいたところで、何のメリットもない……むしろお嬢様にとって害だと思いますがね」
「んだとお?」
ルピナスはじろりとビオラを睨みつけるが、ビオラはその睨みをさらりと受け流してベリスの手を取った。
「さあお嬢様、もう日も暮れるので宿屋に参りましょう。一等室をご用意します」
「あ、ああ……」
ベリスは大人しく頷いてビオラと共に歩きだしたが、ルピナスをちらちらと見ていた。ルピナスはむすっとした顔を隠すことなく「行けよ」とベリスを手で追い払った。
「俺みたいな貧乏人には到底用意できない豪華な宿屋に泊めてくれるんだろ」
ビオラについて行けば密航というリスクを犯すこともなく、安全に西の大陸に渡航できる。ビオラという存在が現れた今、ベリスがルピナスと行動する意味はない。頭では分かっていても、苛立ちを抑えることができなかった。
「……くそっ」
ベリスとビオラがいなくなり一人になったルピナスは、誰にも聞こえないほどの小さな声で悪態をつき、拳を強く握りしめた。
ビオラの態度が腹立たしい、というわけではない。困っている女の子一人をちゃんと助けることもできない自分自身の不甲斐なさが悔しかった。
* * *
ルピナスは結局適当な安宿で一夜を過ごし、朝早くに起きて町の中心地に向かって歩きだした。昨日ビオラから貰った金貨を使えば一流の宿屋に泊まることもできたが、あの金貨を使ってしまえば負けを認めるような気がして、使う気になれなかった。だからベリスとビオラが宿屋から出てきた瞬間を狙って金貨を返すつもりでいた。
中心地には一流の宿屋が何軒かあるので、ルピナスは適当な路地裏に身を潜めて全ての宿屋の玄関を観察した。堂々と通りに立って観察しても何の問題もないのだが、長年盗賊として過ごしていると、路地裏の方が落ち着く。
「来た」
ルピナスが見張り始めてから数分もしないうちに一軒の宿屋からベリスとビオラが姿を見せた。眠たげに目をこするベリスは相変わらず愛くるしく、早朝だというのに昨日と何ら様子が変わらないビオラはどこか偉そうだった。
早速金貨を返しに行こうと思ったが、ベリスの横顔を見ていると足が動かなかった。
「…………」
もしも、この金貨をビオラに返したら。ベリスとのつながりは完全に消えてしまう。この金貨がルピナスとベリスをつなぐ最後のつながりだと思うと、急に金貨を返すのが惜しくなった。
ルピナスは複雑な思いで金貨を握りしめたまま、港へと向かう二人をこそこそと尾行した。
* * *
ベリスと合流できた今、ビオラはできるだけ早い便でリヒダ・ナミトへ向かおうと考えていた。詳しい理由は知らされていないが、ベリスがあの飛行船にいる事は国にとって非常に大事なことだ。一刻も早く国に戻り、王の判断を仰がなければいけない。
チケット売場に向かい、一番早い便のチケットを二人分買った。一番早いといっても少し待つ必要があり、ビオラは出航準備に走り回る船員達を眺めていた。
「お嬢様、出航までまだ少し時間がありますのでどこかで休憩を――」
休憩をしましょうか、と言い切る前にビオラの言葉は途切れた。後ろにいたはずのベリスの姿が忽然と消えていた。
「……お嬢様?」
港のそばの路地裏の薄暗い空気の中に、ベリスはいた。ビオラがチケットをとる手続きをしている間に何気なく路地裏が目に入り、興味を持った。飛行船の中や昨日泊まった宿屋とは全く違う雰囲気を醸し出しており、ベリスの足は勝手にそちらへと向かっていた。
通路は狭く、地面も壁も薄汚れていて、少し触れるだけで清潔に保たれていた服が汚れた。壁には得体の知れないチラシがべたべたと張られており、地面には割れた瓶やゴミがあちこちに散らばっている。居心地がいいとはお世辞にも言えないが、好奇心が勝った。
適当に道を選び歩いているだけで楽しく、元来た道が分からなくなる程に歩き続けていると、行き止まりにぶつかった。
「…………?」
行き止まりには一組の男女がいた。男は痩せ型だが右手には短剣が握られており、女は淡い黄の毛並みを持つ鳥の獣人だった。男は短剣を振りかざして女の手、というか翼を掴んでどこかへ連れていこうとしていた。
「おら、いい加減諦めろよ。お前がどうなったって誰も気にしねえよ」
男が苛立った様子で短剣を女に突きつけるが、女は必死に首を左右に振っていた。状況がよく分からないが、女が嫌がっていることだけははっきりと分かった。
「何をしているんだ?」
ベリスが声をかけると、男が驚いた表情で振り向いたが、ベリスの姿を見るなり余裕の笑顔を浮かべた。
「ガキには関係ねえことだ。さっさと帰って……」
男はじろじろとベリスの姿を見、怪しい笑みを浮かべながら短剣をベリスに突きつけた。
「お前、いい羽持ってんな。こいつよりよっぽど高く売れそうだ」
「……高く売れる?」
ベリスが首を傾げていると、男は短剣をベリスの首筋に当てた。短剣のひやりとした感触が伝わってくる。
「知り合いの金持ちに鳥マニアがいてな、きれいな羽を持った鳥の獣人を買い集めてんだよ」
「買って、どうするんだ」
「さあねえ? 俺はお前みたいな間抜けを集めて売るだけだからそこまでは知らねえよ」
「……私を売る、だと?」
ベリスが一歩後ずさりをするが、男もそれに合わせて動き、首筋に短剣を当て続けた。
「抵抗したら刺すぞ。大人しく買われりゃ、死にはしねえよ」
多分な、と付け加えて男は下劣な笑みを浮かべた。
「…………」
首筋に当たる短剣の冷たさを感じながら、ベリスは心臓の鼓動が速まっていくのを感じていた。このまま売られたら具体的にどうなるかは分からないが、嫌な予感が収まらない。
かといって短剣を払って逃げ出すこともできず、魔法を唱える余裕を与えてくれるほど優しい相手でもないだろう。
何もできない。底知れない絶望感に息が詰まりそうになる。
――誰か、助けてくれ。
声にならない声でそう呟くと、ベリスと男の頭上に影がよぎり、男の背後に彼が姿を現した。
* * *
ベリスがビオラから離れて路地裏に入っていくのを見て、ルピナスは迷わずベリスの後を追った。世間知らずなベリスが路地裏に入り込むと、恐らく面倒事に巻き込まれるだろう。程度の軽いものならいいが、場合によっては一生を棒に振るような事にもなりかねない。ビオラが油断した今、ベリスを守るのは自分しかいない。
どんどん路地裏の奥の方へ進んでいくベリスを、ルピナスは見失わないよう気をつけて追いかけた。早く追いつきたいのは山々だったが、ベリスの歩調が早い上に、トラブルを起こさないよう細心の注意を払いながらだとなかなかそうもいかない。
ベリスが角を曲がったので後を追って曲がろうとしたが、男の声が聞こえたので反射的に曲がり角の前で足を止めた。男の話を少し聞いただけでこれは非常にまずいトラブルだと察し、ルピナスは辺りを見回した。使いものにならなくなったモップが落ちていたのでそれを取り、近くの建物に駆け込んだ。驚く住人を無視してルピナスは階段を駆け上がり、屋上に出た。そこから下を見ると、男とベリス、それと鳥の獣人の女性の姿が見えた。
「……ベリスちゃん……!」
ベリスの首には短刀が当てられており、今にも泣き出しそうな表情をしていた。ルピナスはモップを握りしめ、屋上から飛び降りて男の背後に着地した。
「そんな可愛い子を追いつめちゃダメだろ」
ルピナスが男の背後から呟くと、男はベリスの首筋から短剣を離して振り向いた。
「女の子を泣かしちゃいけません、ってお母さんから教わらなかった?」
ルピナスは男が身構える隙を与えず、モップの柄で男の頭を殴った。男は「ぐ」とうめき、短剣を取り落とした。その短剣をすかさず遠くへ蹴り飛ばし、さらに腹に一撃を加えた。
「二人とも逃げろ!」
ルピナスが大声を出すと、ベリスも鳥の獣人の女も弾かれたようにその場から逃げ出した。ルピナスも男がしばらく動けないことを確認してからその場を後にした。
* * *
「いやあ、危ないところだったな」
港でベリスの肩を抱きながら、ルピナスはにやにやと笑った。その目線の先にはビオラがおり、何とも言えない渋い顔をしていた。
「これでもベリスちゃんを守るのは自分一人で十分だ、とでも?」
「…………」
優越感を隠そうともしないルピナスをビオラは半ば睨みつけるような表情で見ていたが、踵を返してチケット売場に向かい、すぐに戻ってきた。
「……これを」
ルピナスに差し出された手にはチケットが握られており、ルピナスはそのチケットを受け取った。
「サンキュ。まあ短い間だけど、よろしくな」
ルピナスが手を差し出すと、ビオラは渋々といった様子でその手を握り返した。