ハネモノ 第四話「海龍」

 見渡す限り、真っ青な海が広がっていた。甲板を吹き抜ける風は爽やかで心地よい。空には海鳥が飛んでおり、みゃあみゃあと不思議な鳴き声をあげていた。
「船って初めて乗るけど、けっこういいな」
 甲板の手すりにもたれかけながら、ルピナスは海を眺めた。一面の海が太陽の光を受けてきらきらと輝いている様子は、見ていて不思議な気分になる。
「こういった客船は富裕層向けですからね」
 あなたのような貧乏人が乗るものではない、とビオラは暗に言っていたが、ルピナスはそういった嫌味を言われることには慣れていたのでどうということはなかった。それに、どれだけ嫌味を言おうともビオラは少し抜けたところがある善人であることは分かっていた。
「あの料理って食っていいの?」
 甲板の中央にはずらりとワゴンが並んでおり、色鮮やかな料理から食欲をそそる香りが絶え間なくやってくる。そろそろ昼食の時間帯という事もあり、ルピナスの腹はぐるぐると鳴いた。
「お好きにどうぞ」
 ビオラがそう言うと同時にルピナスはワゴンの元に走っていった。ワゴンの傍にはすでにベリスがおり、適当な料理をつまんでしげしげと眺めてぺろりと舐め、またしげしげと料理を眺めた後でぱくりと頬張って頬を緩めていた。ルピナスは早速そんなベリスの傍に寄り、せわしなく何かを喋りながら一緒に料理を口にしていた。
「…………」
 ビオラは甲板の手すりにもたれかけながら、そんな二人の様子を見守った。本来なら二人の会話を妨害したい所だが、この船に乗っている間だけは大目に見ることにしていた。ルピナスが悪人だとは決して思わないが、ベリスの将来を思うと彼と長くつき合うのは危険だと感じた。幸いにもリヒダ・ナミトに着いて城に戻りさえすれば、それでルピナスとの縁は切れる。そう思うと、船に乗っている間くらいは寛容でいることができた。

「うっ……うめえ……!」
 ワゴンに並ぶ料理はどれもどこかで見たことのあるものだったが、一口食べるだけでルピナスには味の違いが分かった。揚げ物は衣がサクサクしていて肉も軟らかく、ほどよくかけられたソースが衣と肉に絡まって芳醇な味と香りが口の中に広まった。
「そんなに感動するほど美味いか?」
 うまいうまいと騒ぎながら料理を口にしていくルピナスを横目で見ながら、ベリスは特に表情を崩さずに料理を口に運んでいた。
「美味いよ! そもそも温かい飯が食える事自体が滅多にねえ事だし」
「ふうん……」
 さして気にも留めていない様子でベリスは料理を口に運び、ルピナスは他愛もない事を話しながら、できるだけ多くの種類の料理を食べようと苦心していた。

 一通りの料理を食べて腹が膨れると、ベリスは船頭に近づき、間近で飛ぶ海鳥の群れをじっと見つめていた。ルピナスが隣に立ってもちらりと見るだけで、すぐに視線を海鳥の群れに戻した。
「そういやさ、ベリスちゃんって飛べるの?」
「……試したことがないな」
 ベリスは海鳥を見ながら己の背に生えている真っ白な羽を少しだけ羽ばたかせた。
「羽があるって事はベリスちゃんは鳥の獣人だろうし、ちょっと練習したら飛べるようになると思うぜ」
「別に、飛びたいとは思わない」
「何でだよー。飛ぼうぜ。そんでもって俺と一緒に大空デートと洒落込もうぜ」
「……でーと、って何だ?」
「仲のいい男女が二人っきりであちこち遊びに行く事」
 ルピナスの簡単な説明にベリスは「そうか」と頷いてはいたが理解はできていないようだった。しばらくはぱたぱたと無意味に羽を動かしていたが、やがてベリスの興味は海鳥に移り、みゃあみゃあという鳴き声をじっと聞いて時折「みゃあ」と海鳥の真似をした。
「…………」
 ルピナスは海鳥を観察し続けるベリスからそっと離れ、胸を押さえた。これ以上傍にいると、海鳥の真似をするベリスの殺人的なまでの可愛らしさに耐えきれなくなってしまう。元々惚れっぽい気質だったが、一人の女の子にここまで固執するのは久々の事だった。

 * * *

「なあ、ビオラ」
 船頭にいるベリスから少し離れた甲板の上で、ルピナスはビオラに話しかけた。ビオラからの返事はなかったが、彼の目線と意識がこちらに向いたことは分かったのでそのまま続けた。
「リヒダ・ナミトに着いたらベリスちゃんはどうなるんだ?」
「……私は一介の王室仕えの執事にすぎません。お嬢様が今後どうなるかなど、私が知らされている訳がありません」
「でも少なくとも俺より王室について知ってるだろ。一介の執事の予想でいいから教えてくれよ」
 ビオラは少し沈黙した後、静かにため息をついた。
「恐らく、飛行船を修理して元の生活に戻るでしょう」
「元の……って、あの飛行船に幽閉されるのかよ」
 ルピナスの言葉に自然と棘が混じるが、ビオラは黙って首を縦に振った。
「なんだよそれ」
 決して頭が良いとは言えないルピナスでも、それが良い処置ではないことは手に取るように分かった。
「外の世界に触れてあんなに楽しそうなのに、ビオラはそれでいいのかよ」
「……私は、お嬢様ではなく王室に仕える身ですので」
「……ふうん、そうかよ」
 ルピナスは不服の表情を隠さずに甲板の手すりに腕と顎を乗せ、目の前に広がる真っ青な海を見るともなく見た。
 この船がリヒダ・ナミトに到着すれば、ベリスは国に保護されて元の生活に戻る。ほんの短期間とは言え外の世界に触れて輝いていたベリスを思うと、この船がどこか遠い地へ遭難してしまえばいいとさえ感じた。

 * * *

「……ルピナス、ビオラ……」
 ふと気づくと船頭にいたベリスがふらふらと頼りない足取りで二人の元まで歩いてきていた。
「お嬢様、どうかなさいましたか?」
「どうしたのベリスちゃん、気分でも悪い?」
 ベリスは何も言わずに頷き、口に手を当てた。顔色も悪く、背中の羽も心なしかぐったりとしていた。
「船酔いかな……船室に行って休む?」
 ルピナスがそっと背中を撫でると、ベリスは小さく頷いた。
「吐きそうなら言ってくれよ、俺が受け止めてやるから」
 むしろ吐いてくれと付け足すと、ベリスはルピナスの額をこつんと小突いた。もしベリスが元気ならもっと力強く殴られたのだろうと思うと少し残念な気もしたが、これはこれで胸に響くものがある。
「……それにしても、揺れますね」
 ビオラはちらりと海原を眺めた。海面が先ほどより荒れてきており、波が不規則に揺れている。それに伴って船も揺れ、料理が並べられていたワゴンもいつの間にか片づけられていた。
「荒れそうですし、早く船室に――」
 船室に戻りましょうと言い切る前に、ざぶんと大きな音を立てて海面に巨大な生物の背が現れた。続いて今まで聞いたことのない程におぞましい咆哮が辺りに響いた。
「な、なな、何だよこれ」
 ルピナスはベリスの肩をしっかり掴んで支えながら海原を見渡した。巨大な生物の背が船全体を取り囲むように見え隠れし、どん、と大きな音がして船が大きく揺れた。何かがぶつかったのだと理解すると同時に、巨大な咆哮と共にその生物は姿を現した。
 その生物はかつておとぎ話で目にした空想上の怪物――海龍によく似ていた。船をたやすく包囲できるほどの巨大な体を持ち、爬虫類によく似た顔は獰猛そのものだった。海龍はルピナスたちが乗っている船を包囲し、船首付近の海面からその獰猛な姿を現していた。

「これは……魔物……?」
 ビオラはそう呟いて数歩後ずさりした。十五年前に目にした魔物と今目の前に現れている海龍は雰囲気が酷似している。それどころか、海龍が発する威圧感はかつての魔物とは段違いの強さを持っていた。海龍と戦おうという気は起きず、内側に丸まろうとする尻尾をぴんと延ばすだけで精一杯だった。
「……なあビオラ、これやばくねえ?」
 ルピナスは海龍に気づかれないようゆっくりと辺りを目配せした。甲板にいた人々はいつの間にか船室に身を隠しており、残っているのはルピナス達だけだった。綺麗に整備された甲板には武器になりそうなものは何もなく、巨大な海龍を撃退できる手だては無いように思えた。
 海龍は長い身体を船に巻き付け、船は大きく傾いてみしりと不吉な音を立てた。船の側面に備え付けられた大砲から砲弾が何発か発射されるが、既に船に巻き付いていた海龍の身体には当たることなく遠くへ飛んでいく。
「武器になりそうなものは何もねえし……」
 どうする、とビオラに問いかけてみるが、肝心のビオラは棒立ちで何の役にも立ちそうになかった。これはまずいとルピナスはため息をつき、ビオラの腰にぶら下げられていた一振りの剣がふと目に入った。
「ビオラ、これ借りるぞ」
 ビオラの返事を待たずにルピナスは彼から剣を奪い、軽く振ってみた。細身で先端が鋭く尖った剣――いわゆるレイピアで、見た目よりも重みがあった。これで海龍を倒すことは到底できないだろうが、上手く弱点を突けば怯ませるくらいはできそうだ。怯ませたところにさらに大きな打撃を加えるには――
「お嬢様、ここは私とルピナスに任せて船室に避難して下さい」
「待てよ、ビオラ」
 ベリスだけを船室に行かそうとするビオラに対し、ルピナスは少しむっとした表情をした。
「船酔いした女の子に、一人で船室に行けってのはひどいんじゃねえの」
「……は? しかし……」
「さっさとベリスちゃんを船室に連れてって、その後で船長を捕まえて、海龍が怯んで締め付けが緩んだらすかさず大砲を撃ってくれ、って伝えてくれ」
 ビオラの顔には一体お前はどういうつもりなんだ、という疑問の色が浮かんでいたが、ルピナスはその疑問を吹き飛ばすかのようににかっと笑った。
「大丈夫だって、ここは俺に任せろ」
「…………」
 ビオラはまだ何か言いたげだったが、無言でベリスの手を取ろうとした。が、ベリスはその手を仏頂面で払った。
「ベリスちゃん?」
 ここは危ないから早く船室に行ったらいいよとルピナスが促すも、ベリスは首を縦に振らず不満げにルピナスを睨んだ。
「……どうして、君が危ない目に遭ってるのに私だけがのうのうと安全なところに隠れるんだ」
「いや、だって、ベリスちゃんに怪我させるわけにはいかねえだろ」
「怪我がどうした。大体、その剣一本で海龍を怯ませることが出来ると本当に思っているのか?」
 ルピナスの返事を聞かず、ベリスは少しふらついた足取りで歩き、甲板の中央に立った。ルピナスも慌てて後を追ってベリスの横に立ち、彼女の肩をそっと支えた。
「ビオラ、早く船長に伝言を伝えてこい」
「いや、しかしお嬢様を置いて」
「いいから早く行ってこい!」
 ベリスが苛立たしげな声を上げると、ビオラはそれ以上反論せず急ぎ足で船の中へ消えた。

「……よし、それじゃあどうする?」
 ビオラが去ってすぐに、ベリスはルピナスに問いかけた。
「え、ベリスちゃん、何か策があるから残った訳じゃないの?」
 あれほど自信満々な態度だから何かあると思っていた。
「そんなものあると思うのか。策とかせせこましい事を考えるのは君の役目だろう」
「……流石だ、ベリスちゃん」
 ルピナスは苦笑しながらも目の前に佇む海龍を見つめた。強い力でじわじわと船を締め付けているが、噛みつきや体当たりで船を壊そうとする様子は見られない。
 ベリスは魔法で遠距離から攻撃することが出来るが、船酔いを起こしている今は十分な威力を発揮させることは出来ないだろう。そのまま魔法を撃っても十分なダメージは与えられないなら、どうすればベリスの魔法を活かすことが出来るだろうか。
「よし……ベリスちゃん、俺が剣を投げたらそれに向かって電撃を飛ばしてくれ」
「あの海龍じゃなくて、その剣に飛ばすのか?」
「ああ」
 分かった、とベリスは頷き、ルピナスは剣を海龍にまっすぐ向けた。海龍はぐるぐると唸っているが、まだ襲いかかってくる気配はない。
「……行くぜ!」
 ルピナスは思い切り上半身を捻り、勢いよく剣を海龍に向けて投げた。その後を追うように素早く電撃が飛び、海龍の左目に剣が刺さると同時に電撃が剣に到達した。剣を伝って電撃は海龍の体内に流れ込み、海龍は悲痛な叫び声をあげて仰け反り、船を締め付ける力も緩くなった。すかさず全ての大砲から砲弾が発射され、海龍はぶくぶくと海中に沈んでいった。
「やったか……?」
 早くこの場を離れようとルピナスがベリスの手を取ろうとした瞬間、先程よりもずっと大きな咆哮が海中から響いた。明らかに怒りが籠もっている咆哮に、ルピナスは思わず「やべ」と呟いて手すりから身を乗り出して海面を注意深く観察した。海龍の姿ははっきりとは見えないが、黒い影が船底のあたりで蠢いていることは分かる。
「早く逃げ――」
 逃げろ、と言い切る前にどん、と大きな音がして船体が大きく揺れた。海龍が体当たりを仕掛けてきたと理解すると同時に、ルピナスは自分の身体が手すりを越えて宙に浮いていることに気づいた。
「……あら?」
 今の大きな揺れで船から放り出されたのだろうか、これは死ぬかもしれないなと悠長に考えているうちに、海面が眼前に近づいてくる。
「遠泳は自信ねえんだよなあ」
 と半ば諦め気味に呟いたが、海に落ちる寸前にルピナスの身体が何かに持ち上げられた。何か、というか、人間に抱えられているような感触がして、ばさばさと大きな羽音がして――
「君は馬鹿か! 船から落ちるなんて……!」
「ベリスちゃん、飛べるじゃん。このままデートしない?」
「下らない冗談はやめろ、船にちゃんと戻るので精一杯だ」
 ベリスはばさばさと翼を羽ばたかせて甲板に戻ろうとするが、初めての飛行な上に人を抱えているとなるとなかなか高度も上がらず、ベリスの頬を汗が伝い、ルピナスの頭上にぽたりと落ちた。
「うおおちょっと! 今俺の頭の上にベリスちゃんの聖水がかからなかった? ちょっ、保存用の瓶とか持ってりゃよかった!」
「ああもううるさい! 海に落とすぞ!」
 そうこうしているうちに海面がざわざわと騒ぎだし、海龍の長い身体が再び海上に姿を現した。ルピナスとベリスがいる場所の真下からはちょうど海龍の尻尾がその巨大な姿を現し――
「うわ」
 二人を強く叩き飛ばした。ルピナスが咄嗟に身をよじってベリスの盾になったものの、大きくバランスを崩した二人は海中にどぶんと落ちた。

 海龍の尻尾の打撃は想像以上に痛く、全身に鈍い痛みが走って思うように体が動かない。ベリスは初めての水中で混乱してもがきながら海面に近づこうとしていたが、羽や服の重みに負けてじわじわと海の中に沈み込もうとしていた。それを目にしたルピナスはベリスを海面まで連れていこうと彼女の体を抱えるが、自分の足も思うように動かず、いくら水を掻いても海面には近づかず、それどころか二人とも少しずつ海の中へ沈もうとしていた。
(……これはまずい……!)
 死の臭いを感じたルピナスは服を脱いで体を軽くしようとするも、マントを脱ぎきる前に息が持たなくなった。がぼがぼと肺の中にためていた空気が吐き出され、ルピナスの視界が少しずつ暗くなっていく。
(ベリスちゃん……)
 ルピナスはベリスの手を取ろうとするが、その手に届く前にルピナスの意識はふっつりと途絶えた。

←Back →Next