ハネモノ 第五話「猫と人魚」

 蒸し暑い。
 まず最初にそう感じ、ルピナスはゆっくりと目を開けた。薄い木の板を張っただけの天井の隙間から強烈な日差しが差し込んできており、日差しが肌に当たるとじりじりと熱い。
「……ここは……?」
 ルピナスはベッドから身を起こし、辺りを見回した。どうやら宿屋の一室のようで、開け放たれた窓からはほんのりと涼しい風が入ってきた。海が近いらしく、風と一緒に潮の匂いが部屋に流れ込んでくる。ふと横を見るともう一台ベッドが置かれており、その上ではベリスが静かに寝息を立てていた。
「おーい、ベリスちゃーん」
 小さな声で呼びかけてみても返事はなく、もぞもぞと寝返りを打ってルピナスに対して背を向けた。
「朝ですよー。いや詳しい時間は分かんねえけど太陽は昇ってますよー」
 つんつんとつついてみると、ベリスは「ううん」と低い声で呻いてルピナスの方を向いて薄く目を開けた。
「ベリスちゃんおはよ。寝起き姿もすっげえ可愛い」
「……さい」
「え?」
 ベリスの声を聞くためにルピナスは顔を近づけたが、
「……うるさい!」
 ベリスはそんなルピナスの顔を手加減せずに殴った。その勢いで後ろに倒れ込んだルピナスに追い打ちをかけるように、ベリスは枕を投げつけた。
「人が気持ちよく寝てるのに君はなんて非常識なんだ! 死ね!」
 ゆらりとベッドから降りたベリスはルピナスに投げつけた枕を拾い上げ、その枕でルピナスをばふばふと叩いた。
「寝てる! 人の! 気持ちを! 考えろ!」
「ちょっベリスちゃん落ち着いて! それ以上叩いても俺にとってはご褒美にしかならねえから!」
「うるさいうるさいうるさい! 死ね! 死んで詫びろ!」
「ベリスちゃんに殺されるなら本望!」
 ばたんばたんと騒々しく暴れるベリスにルピナスはされるがままでいた。ずっとこの時間が続くといいのにと思っていたが、ふいに部屋の扉が開かれてベリスの手がぴたりと止まった。怪訝そうな顔で扉の方を睨むベリスにつられてルピナスも扉の方に目をやり、思わず顔をしかめた。

 汚い。
 扉の向こうに立っていた人物の第一印象はその一言に尽きた。四十代前後に見える猫の獣人の男で、白と茶と黒が混じった髪はぼさぼさだった。髪の間からぴょこんと飛び出た白と黒の猫耳もどこか汚らしく、動く度にフケやノミが飛び出してきそうだった。着ている服も裾がぼろぼろであちこちに汚れが染み着いている。男は無精髭を気にする様子もなく二人をじろじろと見つめ、くわえた煙草から紫煙を燻らせていた。
「んだよ、おっさん」
 楽しい時間がふいに終わった怒りをぶつけるように刺々しい声をぶつけても、男はどこ吹く風でずかずかと部屋に入り込んだ。
「起きてすぐSMとか、最近のガキはませてるねえ」
「……えすえむ? なんだそれは?」
 まだ寝起きの不機嫌が残るベリスは眉間にしわを寄せながらも、首を傾げた。
「ほーう、知らんなら俺様秘蔵のSM教科書貸してやろうか」
「ややややめろよ俺のベリスちゃんに妙なこと吹き込むなよ! てかおっさん誰だよ!」
 ルピナスが二人の間に割って入ると、男は「めんどくせ」と呟きながら頭をがしがしと掻いた。予想通りフケが宙を舞ったが、それよりも男の体から漂う酒臭さと煙草臭さにルピナスは顔をしかめた。
「俺様はラジ。海岸で倒れてたお前らを助けてやった命の恩人だ」
「……君が命の恩人だと聞いても、何の感謝の念も湧かないな」
「で、ここはどこなんだよおっさん」
「お前ら命の恩人の名前を知ってその反応かよ。俺様傷ついちゃうぞ」
 ラジは紫煙と共に大きなため息をつき、ベッドに腰掛けた。

「ここはミミナ村だ。分かるか? まさか地理も分かんねえほどのお子ちゃまじゃねえだろ?」
「誰がお子ちゃまだ! ミミナ村ぐらい分かるっつうの!」
 ラジの人を小馬鹿にする物言いにルピナスは思わず言葉を荒らげるが、ラジはやはり動揺することなく「おーこわ」と肩をすくめた。
「それじゃお子ちゃま改めクソガキ、そっちのお子ちゃまはミミナ村ってのが分かってねえみたいだから説明してやれよ」
 ラジに促されてベリスの方を見ると、ベリスは腕を組んで「お子ちゃまで悪かったな」とむくれていた。
「いやいやベリスちゃんは仕方ねえよ! 俺がこれからいろいろ教えてやるから、あんな汚いおっさんの言うことなんか気にすんなって」
「おい聞こえてんぞクソガキ」
「うっせ、おっさんは黙って煙草吸ってろよ」
「へいへい」
 ラジは生返事を返してベッドにごろりと寝転がり、ルピナス達から背を向けた。
「ミミナ村ってのは、東の大陸の南西にあるリゾート地。トイス港からはだいぶ南になるかな」
 ルピナスはそう説明しながら頭の中に地図を思い浮かべた。今ルピナス達がいる東の大陸はL字を左右逆にしたような形をしており、トイス港は大陸のちょうど真ん中の西端に位置している。それに対してミミナ村は大陸の南の出っ張った部分のさらに西端に位置しており、西の大陸に最も近い村でもある。天気が良ければうっすらと西の大陸が見えるらしいが、人づてに聞いた話なのでルピナス自身は西の大陸を見るどころか、ミミナ村を訪れることすら初めてのことだった。
「位置は把握した。で、どうしたらリヒダ・ナミトへ行ける? それにビオラが乗ってる船はどうなった」
 ベリスの当然の疑問にルピナスは首を傾げ、手近にあった枕を掴んでラジに投げつけた。
「おっさん、リヒダ・ナミト行きの船ってあるか」
「それが人にものを聞く態度か? ……ま、見るからに育ちの悪そうなクソガキに礼儀なんて求めるのがお門違いか」
 ラジは枕をルピナスに投げ返してベッドから身を起こし、短くなった煙草を床に落としてぐりぐりと踏みつけた。
「リヒダ・ナミト行きっつうか、船全般が今は出てねえぞ」
「え、なんでだよ」
「お前らが乗ってた船あるだろ。あれ沈めた魔物……海龍ってのか。あいつがこの辺の海で暴れ回ってるから船は出したくても出せねえのよ」
「ちょっと待て。船が沈められた……だと? 乗ってる人達はどうなったんだ?」
 ベリスが心配そうな声を出すと、ラジはため息をついて頭をぽりぽりと掻いた。
「乗ってる奴らは人魚が助けてリヒダ・ナミトまで送ってるっつうの。お前らも人魚に助けられてんだからそれぐらい分かんねえの?」
「に、人魚に助けられただって……!」
 ルピナスは反射的にラジの肩を掴み、それに気づいた瞬間慌てて手を離してベッドのシーツで手をごしごしとこすった。
「おおおおっさん、俺を助けた人魚ってどんな子だった? かわいい? 美人?」
「どうしたんだルピナス、そんなに血相を変えて」
「だって! 人魚と言えば美人揃いの種族だぜ! 滑るような流線型のラインに滴り落ちる水、海中を舞うように泳ぐ様は海のエンジェル! そんな人魚とお近づきになれるかもしれないと思うとこれが落ち着いていられるか!」
「……ただでさえうるさいのに、落ち着けないとなるとさらにうるさくなるのか」
 ベリスは大きくため息をつき、現実逃避するかのように窓の外の景色に目をやった。
「で、人魚についてだけどよ……クソガキの火に油を注ぐようですっげえ言いたくねえけど、まだこの村にいるぞ」
「えっ」
 ルピナスは一瞬言葉を失った。
「まじかよおっさん」
「諸々の事情があって村に留まってんだよ」
「ど、どこにいるんだよ教えてくれよ」
 期待と興奮で声が震えるのを感じながら、ルピナスはラジに問いかけた。人魚に会うためなら、この尊敬すべき点が何一つ見つからない男にも頭を下げる覚悟はできていた。
「連れてってやるから落ち着けクソガキ」
 ラジは新しい煙草を懐から出してくわえながら立ち上がり、面倒そうに背中を丸めた。
「ま、まままじで! ベリスちゃんもいこうぜ! 生人魚見れるぜ!」
「……仕方ないな」
 ルピナスはうきうきとした様子でベリスの手を引っ張り、ベリスは苦笑しながらもルピナスについていった。

 * * *

 ラジの後ろについて歩いて宿を出ると、南国独特の強い日差しがさんさんと照りつけていた。目の前には砂浜が広がっており、打ち寄せる波がきらきらと輝いていた。海水浴に丁度いい気候だというのに観光客がちらほらとしか見えないのは海龍の影響もあるのだろうかと思うと、ルピナスは少し寂しくなった。
「水着のお姉さんはいねえのかよ……」
「クソガキが寝てる時は何人かいたけど、目の毒だから俺様がナンパして追い払ってやった」
「余計なことすんなよ」
 ルピナスはぶつぶつと文句を言いながら砂浜を歩き続け、やがてごつごつとした岩が並ぶ岩礁地帯が見えてきた。
「ん」
 ラジがふいに立ち止まり、ルピナスとベリスをちらりと見てから先に行くよう顎で指図した。ルピナスはその態度にむっとしながらも前方を見て、目を見開いた。

 砂浜と岩礁の境目、岩にもたれかけるようにして一人の幼い少女が座っていた。可憐な顔立ちをしており、緩くウェーブがかかった長髪の隙間から魚のヒレのようなものが見え、下半身は魚のそれで、誰が見ても一目で人魚だとわかった。
「に、にに、人魚ちゃん!」
 ルピナスは先程のラジへの不満を吹っ飛ばして砂浜を駆け、少女に対して手を振った。少女は突然走ってくる少年に対して首を傾げていたが、すぐに微笑みを浮かべて手を振った。
「はっ、初めまして! 俺はルピナス! 俺とベリスちゃんを助けてくれたのは君だよね?」
 ルピナスは少女のすぐ隣に座り、興奮を隠すことなくまくし立てた。少女はこくりと頷き、ふんわりとした柔らかい笑顔を浮かべた。
「だよね! 助けてくれてありがとな! で、君の名前はなんて言うの?」
 少女は少し迷った後、砂浜に「ペペロミア」と字を書いた。
「ペペロミアちゃん?」
 ルピナスが首を傾げると、少女は頷いて「ロミって呼んで」と砂浜に続けて字を書いた。
「ロミか。君は喋ることができないのか?」
 遅れてやって来たベリスが砂浜の文字を見つめて訊ねた。ロミは少し迷う素振りを見せた後、小さく頷いた。
「喋れないの? 元から?」
 可愛い声してそうなのに残念、とルピナスが呟くとロミは首を振った。
「海龍にとられた」
 と文字を書き、ロミは目を伏せた。
「取られた? 声を?」
 ルピナスが首を傾げていると、悠々と歩いてきたラジが「有り得る話じゃねーの」と呟いて欠伸をした。
「君は本気でそう思うのか? 声が取られるんだぞ?」
 ベリスがラジを小馬鹿にするように笑うが、ラジは「お子ちゃまだから知らねえな」と笑い返した。
「人魚ってのは声が魔力そのもので、歌を通じて魔法を使う珍しい種族だ」
「あ、それ聞いたことある」
 ルピナスは昔クバサの町で誰かから聞いた話を思い出した。人魚は歌を通じて魚と意志疎通を図り、遭難した船を正しい方向へ導き、船乗りに癒しの一時を与えるのだと、その誰かは得意げに語っていた。
「だから魔力を取られたら人魚は声が出せなくなんだよ。分かる?」
「……魔力を取られるなんてことがあるのか?」
 ベリスは首を傾げ、ロミはこくこくと頷いた。
「あー、お子ちゃまの年だと知らねえか。普通は魔力を取られるなんてこと有り得ねえんだけど、魔物に限っては人から魔力を吸収する事もあんだよ」
「へえ。じゃああの海龍はやっぱり魔物なのか? 魔物って十五年前に消えたはずだよな」
「うっせ。俺様がんなことまで知るわけねえだろ。他のいい大人に聞けよ」
 ラジはそれきりぷいと顔を背けて砂浜に寝転がった。全身で「面倒だから話しかけるな」と主張するラジの後ろ姿を見て、ルピナスは小さくため息をついた。
「……仕方ない、あのおっさんはほっとこう」
 ルピナスはロミの方に向き直り、「で、もっと楽しいお話しようか!」と目を輝かせたが、ベリスがすかさずルピナスの頭を叩いた。

「ロミ、海龍について何か知っていることはあるか」
 ベリスはロミにそう訊ねてみるが、ロミは首を横に振って砂浜にも字を書いた。
「分からない。いきなり出てきた」
「……あのさ、もしかして海龍に声を取られたのって、俺とベリスちゃんを助けた時?」
 そうでなければあんな凶悪な生物がいる地帯にわざわざ訪れる理由がない。案の定ルピナスの問いかけにロミは遠慮がちに頷いた。
「そっか……ごめんな、俺らのせいで」
 ルピナスが頭を下げると、ロミはぷるぷると首を横に振った。
「ルピナス、リヒダ・ナミトに向かうのは後回しにして先にロミの声を取り戻さないか?」
「俺は賛成だけど……ベリスちゃんはいいの?」
「構わない」
 二人のやりとりを聞いていたロミはおずおずと砂浜に文字を書いた。
「リヒダ・ナミトに行きたいの?」
 その文字を読んで二人は頷いた。
「しばらく船は出せないと思うから、声を取り戻したら連れていってあげる」
「マジで! それは助かるよ!」
 ルピナスはぱっと顔を明るくさせ、それを見たベリスは少し顔をしかめてルピナスの頭を叩いた。
「…………」
「どしたのベリスちゃん、そんな怖い顔して」
「……別に」
「あっもしかして妬いてる? やだなあ心配しなくても俺はベリスちゃんの事も大好きだって」
「妬いてない。それに、も、って何だ。も、って」
 ベリスは露骨に顔をしかめ、ルピナスの肩に手を置いて軽く電流を流した。

 * * *

 ミミナ村から遠く離れたリヒダ・ナミトの港にビオラはいた。船を泊めるための杭に腰掛け、両手で顔を覆っていた。
「ああ……お嬢様……っ!」
 何が起きているの把握することが出来ないまま、気づいたら船が沈められて人魚によってリヒダ・ナミトまで連れられていた。他の乗客もビオラと同じようにここまで連れられていたが、ベリスとルピナスの姿はそこにはなかった。
「あんた、まだそんなところでウジウジしてるの?」
 唐突に声が聞こえたので顔を上げると、海面に一人の人魚の姿があった。少しつんとした顔の彼女は、ビオラをここまで運んできてくれた人魚だった。
「もう一度聞きますが、本当にお嬢様の居場所は分からないのですか?」
「あんたもしつこいわね。あの二人を助けたロミと連絡が取れないんだから、どこにいるのか分からないわよ」
「どうして連絡が取れないんですか!」
 ビオラが悲鳴に近い声を上げると、人魚はうるさそうに顔をしかめた。
「ロミの魔力があの海龍に取られちゃって交信ができなくなっちゃってるか、それとも……」
「……それとも?」
「多分、今あんたが考えてることと同じね」
 その言葉を聞いて、ビオラは再び両手で顔を覆った。
「ま、生きてると信じてゆっくり待ってりゃ、そのうちひょっこり来るわよ……多分」
「多分ってなんですかあああ!」
 ビオラが自棄気味に足下の石を人魚に向かって投げつけると、人魚はひょいと海中に潜って姿を消した。
「ううっ……お嬢様……どうかご無事で……っ!」
 最悪の事態はなるべく考えないようにしながら、ビオラは両手を合わせて一心不乱に神に祈った。

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