ハネモノ 第七話「少年騎士」

「ロミちゃん大丈夫? 怪我はない?」
 海龍が消えて静かになった海を悠々と泳いで来たロミに対し、ルピナスは心配そうに声をかけた。
「平気。あいつが襲ってくる前に歌えたしね」
 そう答えるロミの声は外見相応に愛らしく、ルピナスは自然に笑みが漏れるのを押さえることができなかった。にやにやと笑みを浮かべるルピナスの横からベリスはロミの頭を軽く撫でた。
「怪我がないなら何よりだ。しかし、ロミはそんな声だったのか」
「そうよ。意外だった?」
「いやいやいや、意外どころか予想通りの可愛い声だよ! 出来ることならロミちゃんの声をずっと聞いていたい」
 ルピナスがだらしのない笑顔を浮かべていると、ベリスがその頭を叩いた。
「ふざけた事を言ってないで、ロミに声が戻ったんだからさっさとリヒダ・ナミトまで連れていってもらうぞ」
「……ベリスちゃん、もしかして嫉妬してる?」
「どこの誰が君とロミの仲に嫉妬するんだ」
 ベリスは不快感を露わにした顔でルピナスの頭をもう一度叩いた。

「で、リヒダ・ナミトまで送ればいいのよね?」
 ロミの問いに二人が頷きで答えると、ロミは海面に向けて口をぱくぱくと動かした。言葉を発しているようには見えないが、海面がささやかに揺れているのを見る限り、何かをしているのは理解できた。
「すぐに来れるって」
「すぐに?」
 ルピナスが首を傾げていると、遠くの海面で水飛沫が上がった。みるみるうちに水飛沫が上がった箇所から何かが近づいてきた。
「……魚か?」
 ベリスが首を傾げる間にもそれらは近づき、あっという間に浅瀬の近くまでやってきた。
「へえ、イルカじゃねーの。珍しい」
 ラジがひょいと顔を覗かせて浅瀬の近くまでやってきた生き物――イルカを見て口笛を吹いた。三頭のイルカはその口笛を聞いてかきゅうきゅうと鳴いた。
「さ、乗って。皆いい子だから振り落としたりしないわよ」
「イルカに乗るのは初めてだ……しかもロミちゃんと一緒に海を渡るとか興奮する……」
 ルピナスはおずおずと一頭のイルカの背に乗り、その背びれを掴んだ。続いてベリスももう一頭のイルカの背に乗り、興味深そうにイルカをぺたぺたと触った。そして何食わぬ顔でラジが三頭目のイルカの背に乗った。
「……おっさんも来んの?」
 ルピナスが眉間に皺を寄せて呟くと、ラジは当たり前のように頷いた。
「俺様もリヒダ・ナミトに野暮用があんのよ。俺様のおかげであのお魚さんを撤退できたんだし、これぐらいサービスしてもいいんじゃねーの」
「……まあ、そうだが……」
 渋い表情でベリスが頷くと、ラジが乗っているイルカも困ったような鳴き声をあげた。
「ま、一人くらい増えたって大丈夫よ。海龍がまた暴れ出す前にさっさと行っちゃいましょ」
 ロミが口をぱくぱくと動かすと、イルカ達はきゅうきゅうと鳴いてリヒダ・ナミトに向けて泳ぎだした。

 * * *

 イルカの乗り心地はお世辞にもいいとは言えず、リヒダ・ナミトに着くまでそれほど時間はかからなかったが全身が海水でずぶ濡れになった。しかしそれはルピナスだけではなく、ベリスも全身がずぶ濡れになっていた。
「水も滴るベリスちゃん……」
 なぜ濡れた髪はこんなに魅力的なのか、なぜ濡れた服が肌に張り付くことで露わになる体のラインがこんなに目が離せなくなるのか、そんなことを考えているだけであっという間にリヒダ・ナミトにたどり着いていた。
「それじゃ、私は陸に上がれないしここまでね」
「ロミちゃんありがとう、助かったよ!」
 ルピナスが手を差し出すと、ロミも手を差し出してその手を握った。
「もしベリスと別れたら、いつでも私に会いに来てね」
「え」
 告白ともとれる言葉にルピナスは口をぽかんと開け、ロミはそんなルピナスの表情を見てけらけらと笑った。
「冗談よ。それじゃね!」
 ロミは手を振って颯爽と海の中に潜り、残されたルピナスは口を開けっぱなしにしていた。
「何を呆けているんだ、さっさと港に上がるぞ」
 ベリスは港の縁に手をかけ、およそ女子とは思えない勇ましい格好で港によじ登った。
「……ベリスちゃん、強いなあ……」
 ルピナスはその様子に苦笑しながらも、続いて港によじ登った。

 リヒダ・ナミトは両大陸を治める大国の首都だ。町の規模はそれ相応に大きく、港からでも複雑な町並みとその奥にそびえる巨大な城の姿が見える。港には多くの船が泊まっており、その様子だけでもこの都市がどれだけ栄えているかを実感できた。
「でっけえなあ……」
 イルカから降りて港に立ったルピナスは、遠くにそびえる城を見てぽかんと口を開けた。
「空から見ても他の町より格段に大きかったが、ここまでとはな」
 ベリスがその隣に立ち、羽をばさばさと振るって水滴を落とした。そして辺りをきょろきょろと見回し、ある点で目を留めた。
「……ん、あれは……」
「どしたの?」
 ベリスはすたすたと歩きだし、ルピナスもそれに続いた。ベリスの行く先には船を止めるための杭があり、その上に見慣れた後ろ姿があった。

「ビオラ!」
 ベリスがその名を呼ぶと、ビオラは弾かれたように立ち上がり、ベリスの顔を見て目を見開いた。
「……お嬢、様……? それに、ルピナスさんも……」
 信じられない、といった表情をしていたが、すぐに気を取り直して「ご無事でなによりです」と頭を下げた。
「ビオラも無事で良かった。一時はどうなるかと思ったけど、ちゃんとリヒダ・ナミトに到着できたし結果オーライじゃねえか」
「ですね。しかしお嬢様、ずぶ濡れのままだと風邪を引きますので宿屋に行って着替えましょう」
 ビオラはベリスの手を取って歩きだそうとしたが、そこにすかさずラジの野次が飛んだ。
「おいおい、俺様もクソガキ共の世話をしてやったのに無視とは結構なご身分な事で」
 その声を聞いてビオラは振り向き、ラジの姿をじろじろと見て渋い顔をした。
「はあ……それはどうも、ありがとうございました」
「冷たい反応だこと。ほれ、それより謝礼とか出せねえの?」
「……そんな乞食じみたことを平気で言える方に出せるお金はありません」
「へえ。見たところ王室仕えの執事みてえだけど、王室の連中ってのはどいつもこいつもそんなに冷たいのかねえ」
「黙りなさい。私を侮辱するのは大目に見ても、王室を侮辱することは許しません」
「おー怖い怖い。執事の子犬ちゃんはキャンキャン吠えるねえ」
 ラジは大げさに肩をすくめて歩きだし、ビオラのすぐ横をわざと通った。その体臭に顔をしかめるビオラにラジは顔を近づけ、小声で囁いた。
「子犬ちゃんが本当に仕えてるのは、本当に『王室』なのかねえ?」
「……何が言いたい」
 ビオラが問い返したが、ラジはそれ以上何も言うことなく気だるげな足取りで町の中へと消えていった。
「……随分険悪な雰囲気だったな」
 ベリスは濡れた髪をいじりながら呟き、その声を聞いてビオラは険しい顔から柔和な顔に戻った。
「お待たせしてすみません。宿屋にご案内します」
 ビオラは改めてベリスの手を取り、町に向けて歩きだした。ルピナスはその後をついて歩きながら、先ほどのビオラのラジに対する態度を思い出していた。
「……あんだけ嫌われてないだけましか」

 * * *

 港からほど近い場所にあった宿で着替えを済ませて街に出てみると、街は妙に華やいだ雰囲気に包まれていた。
「妙に明るい雰囲気だけど、何かやってるの?」
「ここ数日は年に一度の祭りをしていますね。城に行く前に少し見ていきますか?」
 ビオラの提案にベリスは頷き、小走りで露店へ向かっていった。
「城に行っちまったらまた飛行船で幽閉生活だもんな」
「……そう、なりますね」
 ルピナスの棘のある物言いに対し、ビオラは何の反論もせずに肯定した。
「ビオラは本当にそれでいいのかよ。俺は納得できねえ」
「…………」
 理由も分からないままベリスが再び狭い世界に閉じこめられる事が、ルピナスにはどうしても納得できなかった。理由が分かれば幽閉生活もやむなし、というわけでもないのだが、とにかく今の状況のままベリスを王室に引き渡したくないのが本音だった。
「ずっと、誰とも話すことなく一人ぼっちで生きていくのかよ」
 ベリスは今、綿飴の露店で足を止め、珍しそうにしげしげと眺めた後でビオラからもらった小遣いでそれを買っていた。そして綿飴をおずおずと口にし、その素朴な甘さに頬を緩めていた。
「綿飴食って祭りに参加することも出来ない人生を女の子に送らせて、王室仕えの執事様はそれで満足かよ」
「…………」
 ルピナスの追及にビオラは何も答えず、ただただ難しい表情をしながらベリスの様子を見守っていた。

「この泥棒め!」
 突如、よく通る声が辺りに響いた。にわかにざわついた群衆の中で、ベリスのすぐ側にいた大男が一人の少年に後ろ手に押さえられていた。大男の足下には細かな細工が施された装飾品が落ちており、ベリスがそれをひょいと拾い上げた。
「だ、誰が泥棒だ!」
 取り押さえられた男は大声でわめいたが、少年は押さえる力を緩めることなく黒髪を揺らして「黙れ!」と一喝した。
「私がこの目で一部始終を見ていた。私が手配した兵ももうすぐ来るだろう。観念するんだな」
 少年の声は勇ましいものの声音は高く、まだ声変わりもしていないようだった。騎士が着るような制服に身を包んでいるものの、背も低く顔も女性と見紛うような繊細な顔つきだった。
 そのような華奢な少年に捕らえられたことが悔しいのだろう、男は憤怒の形相で少年を睨んでいた。
「……このっ、女みてえな顔のくせに……!」
「父上と母上から授かったこの顔を貶めるのは気に食わないが、だからと言って暴力を振るう程の下賤さは、貴方と違って持ち合わせていない」
「言うじゃねえか……」
 男は深く息を吸い、大きく腕を振った。少年はあっさりと男から引きはがされ、自由になった男はぽきぽきと指の骨を鳴らして少年を睨んだ。
「暴力を振るうほどの下賤さは持ってねえんだよなあ……?」
 少年も男を睨みつつ、じりじりと間合いを計った。腰には細身の剣があるものの、少年はそれに手を添えることさえしなかった。
「兵士が来る前にてめえは一発殴らねえと気が済まねえなあ!」
 男は剛腕を振るい、少年はそれを紙一重で避けた。男は間髪入れずに膝蹴りを繰り出したが、それが当たる直前に鋭い雷撃が男を襲った。
「がっ……!」
 男は呆気なく気絶してその場に崩れ落ちた。男の背後ではベリスが手を伸ばしており、その指先では小さな雷撃が踊っていた。
「怪我はないか」
「……ああ、大丈夫だ。今のは魔法か?」
「暴力を振るいたくなければ魔法を振るえばいいだろう」
 ベリスの物言いに少年はぽかんと口を開けていたが、すぐにくすくすと笑いだした。
「貴方はなかなか、面白い人だ」
 なぜ笑われているのか理解できずにベリスが首を傾げていると、やがて数名の兵士がやって来た。彼らは少年とベリス、周囲の人達の説明を聞いてそそくさと男の手に縄を掛けて城の方へと引きずっていった。

「名乗るのが遅れたな。私の名前はカミルだ」
「私はベリス。あっちにいるのがビオラとルピナスだ」
 ベリスが二人を指さすと、指さされた二人はベリスの元に駆け寄った。
「ベリスちゃん、大丈夫?」
「こんな町中で魔法を使うなんて、危ないことはしてはいけませんよ」
 口々にベリスに声をかけたが、少年はそんな二人に対しても軽く頭を下げて自己紹介をした。
「改めて礼を言おう。助かった」
 カミルはベリスに対して右手を差しだし、ベリスも右手を出してその手を握った。
「礼を言われるようなことはしていないぞ」
「いや、礼に値する。では、貴方の身に幸多からんことを」
 カミルはそう言って町中へ消えようとしたが、その腕をルピナスが掴んだ。
「なあ、折角の祭りなんだし一緒にジュースでも飲まねえ?」
「……ジュース?」
「カミルにはちょっと聞きたいこともあるし」
「聞きたいこと……? 分かった、私が答えられることなら答えよう」
「よし! じゃあビオラ、全員分のジュース奢ってくれ!」
「……やはり私の財布を当てにしてましたか」
 ビオラは小さくため息をつき、ジュースを売っている露店に向かった。

「しっかし、魔物が出てきてるのにお祭りとは平和な町だな」
 祭りの喧噪からは少し離れた広場の噴水の縁に腰掛け、ルピナスはジュースを一口飲んだ。
「町の入り口は門を閉めて兵が警備しているから危険はないしな」
「魔物が現れたからこそ、かえって祭りをしたくなる気持ちもありそうですしね」
 カミルの言葉に続いてビオラが呟いたが、その呟きにベリスは首を傾げた。
「かえって祭りをしたくなる……?」
「それはですね」「十五年前の事を思い出したくないから、祭りで気を紛らわせてるんだろ」
 ビオラの発言にルピナスが割って入ると、ビオラは少し顔をしかめつつも「その通りです」と肯定した。
「祭りが終わったらどうするんだ」
「その頃には王室が対策を講じているだろう。十五年前と同じ過ちは起こさない」
「ふーん……カミルって俺と同い年ぐらいなのに十五年前の事とか詳しいんだ」
 ルピナスはカミルの顔を必要以上にじろじろと眺め、カミルはその様子に眉をひそめつつも「まあ、母上と父上から伝え聞いた話だが」と返した。
「ふーん……」
 それでもルピナスはカミルの顔をじろじろと眺め続け、納得していない様子で首を傾げていた。
「……ルピナス、私の顔に何かついているか?」
「んー……カミルってさ、本当に男?」
「は?」
 カミルは素っ頓狂な声を上げたが、ルピナスは独り言のように続けて呟いた。
「確かに男っぽいとこもあるけどさ、声とかちょっとした仕草とか雰囲気がさ、なーんか女の子っぽいんだよなあ」
「カミルは女なのか?」
 ベリスのストレートな問いかけにカミルは必死に首を振った。
「ちちち違う! 私は男だ!」
「納得できねえんだよなあ……俺の直感でしかねえんだけどさ、カミルが男ってのは腑に落ちねえんだよ」
「……私もカミルさんに対しては少々気になる点が」
 ルピナスに続いてビオラも首を傾げ、鼻をひくひくと動かした。
「カミルさん、その服装からして騎士の家系の方だとは思いますが……私が知る限り騎士の家系にカミルという名の者はいなかったような……」
「…………」
「仮に騎士ではないとしても、貴方の体からは王室の香りがします。貴方は一体、何者ですか」
 カミルはじっと黙っていたが視線はせわしなく動いており、何か言葉を探しているようだった。
「……分かった。この際はっきり言っておこう」
 カミルはあたりをきょろきょろと見回し、おもむろに帽子を脱いだ。脱いだ帽子を膝の上に置き、真っ黒な髪――のように見えたカツラも脱いだ。
 カツラの下から現れたのは金のセミロングの美しい髪だった。カミルが軽く手櫛で整えると髪の毛はふわりと揺れ動き、先ほどまでの勇ましい少年とは打って変わった美しい少女がそこにいた。
「私は……」
 カミルはルピナスたちの顔をぐるりと見渡してから、はっきりと言った。
「私は第十七代王女、カモミール・マトリカリアと申します」

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