霧の涙 第十話「劇薬 -amnesia-」

 リタがカイゼルを避けている事は、朝食の時に一目で分かった。普段は目を合わせて微笑んで挨拶をかわすのに、今朝のリタは目を逸らして小声で「おはよう」と言うだけだった。パンを食べる時もカイゼルの傍には座らず、ネーロの隣で雑談をしながら食べていた。
 あれほどカイゼルに懐いていたリタが一晩にして態度が急変したのは、誰もが気付いていた。カイゼルの隣でパンを食べていたオーロもその疑問を口にした。
「なあ、カイゼルさんはリタと喧嘩でもしたのか?」
「いえ、いつも通りに接していました」
 カイゼルはリタの方をちらりと見たが、リタはネーロの方を向いて微笑とも困惑ともとれる微妙な表情を浮かべていた。大方ネーロに無理難題を吹っ掛けられているか反応に困る話題を出されているのだろう。
「あれかな、思春期の親離れってやつか。リタも大人になったもんだねえ」
「誰が親ですか」
 カイゼルがオーロをじろりと睨むと、オーロは「おお、こわいこわい」と大げさに身震いをして席を離れた。それとほぼ同時にネーロも立ち上がり、リタに手を振ってからその場を離れた。

「…………」「…………」
 残されたカイゼルとリタはふと目が合うが曖昧な会釈をするだけで、会話が生まれる気配はなかった。仕方なくカイゼルは朝食を切り上げて席を立ち、リタの隣に改めて座った。
「おはようございます」
 カイゼルが柔和な微笑を浮かべても、リタはカイゼルと目を合わそうとも、挨拶を返そうともしなかった。
「どうしたんです、元気がありませんよ」
「……その、ちょっと気になる事があって」
「気になる事?」
 リタは言いにくそうに口をつぐむが、カイゼルが優しい言葉を並べて言うように促すと、ぽつりと呟くように質問を落とした。
「……私が村に住む前、カイゼルと私は知り合いだったの?」
「どうして、そう思ったんですか?」
 カイゼルが逆に問い返すと、リタは今朝見た夢――過去の記憶について話し始めた。姉と丘に登り、美しい風景を見たという。問題は夢の終盤で「カイゼル」の名が挙がり、同一人物と思える声色と口調を耳にしたという事だった。
「村に住み始める前の記憶に、なんでカイゼルがいるの?」
「……それは、僕にも分かりませんよ」
 カイゼルは頭を働かせながら言葉を紡ぐ。
「過去の記憶に現在の記憶が干渉してきた、なんて事も考えられますね」
「……そう、なのかな……?」
 リタは腑に落ちない表情をしていたが、カイゼルはさらに言葉を続けた。
「僕が初めてリタ君と出会ったのは、あの森の中の小屋です。それだけは約束しましょう」
 リタが迷いながらも頷き、席を立った。
「ネーロから聞いたんだけど、今日この村から出発するの?」
「ええ。これからは一つの村に長居する事はありませんよ。昼前には出発しますので、温泉に入るなら今のうちです」
「うん、入ってくる」
 リタはぱたぱたと駆けていき、その後ろ姿を見送った後でカイゼルは小さく息をついた。
「……少し、厄介になりましたね……」
 リタの心に芽生えていた疑問は、先程の説明では摘み取れていない。小さな疑問かもしれないが、その小さな穴が広がって手がつけられない大きさになり、破綻を招くかもしれない。それだけは、避けなければならない。
 今まで様々な嘘でリタが疑問を抱くのを防いできたが、今回の疑問はどんな嘘をつけば解消できるのか、皆目見当がつかなかった。

 * * *

 予告通り、昼前には荷物をまとめて村を出発した。数人の村人に見送られ、昼食にとサンドイッチと温泉で茹でた卵を渡された。カイゼル以外の全員が名残惜しそうにしていたが、カイゼルがすたすたと歩き出すと渋々といった様子でついてきた。
「あーあ……もうちょっとお風呂入りたかったなー」
 ギリギリまで温泉につかっていたネーロがぶつぶつと愚痴をこぼす。頭には帽子ではなくタオルが巻かれており、髪はしっとりと湿っていた。隣に立つオーロも同じような格好で、タオルでぱたぱたと顔を扇いでいる。
「美肌と若返り効果だもんねえ、もっと浸かってピッチピチのお肌になりたかったよ」
 そう呟くジョーカーに至っては、風呂上がりのまま出発したといっても過言ではない破廉恥極まる格好をしていた。リタが気まずそうにずっと下を向いているのは間違いなくその格好のせいだろう。
「ジョーカー君、いいかげん服を着なさい。蚊に刺されて得体の知れない病気を貰っても知りませんよ」
「ええー……仕方ないなあ、それじゃあセクシーショットはこれで終わり?」
「セクシーでも何でもありません。ただの変態です」
「ひどいなあ! 僕のガラス製のハートが分子レベルで粉々になるよ!」
 ジョーカーは大げさに両手で顔を覆い、おもむろにシルクハットから服を取り出して着始めた。
「全く……リタ君、あんな大人になってはいけませんよ」
 カイゼルがリタの肩をぽんと叩くが、リタは曖昧に頷くだけでカイゼルと目を合わせる事は無かった。
「リタ、仲間の要望を無視して涼しい顔で村から出ていくような大人にもなるなよー」
 後ろからオーロがからかうように言ってきたので、
「黙りなさい」
 カイゼルは手近な石を拾って投げつけた。

 その後もぶつくさと文句を言われ続けたが、カイゼルはそれらを全て無視して歩いて行った。次の村まではかなりの距離があり、いちいち文句を受け止めていたらいつまでも次の村にたどり着けない。
 太陽が最も高い点にまで昇り、ネーロが「折角お風呂入ったのに、汗かいてきちゃったじゃないか!」ときいきい騒ぎ出した所で昼食を取ることにした。昼食を食べようとカイゼルが言った瞬間に全員の顔が明るく輝き、その単純さに苦笑した。
 地図によると、右手の森の中に川が流れているらしく、カイゼルはリタと共に水を汲みに行くことにした。人任せにしても問題は無いのだが、リタと二人で話す時間を作る必要があった。
 人数分の水筒を持って森の中を進む際、リタは自ら話そうとはしなかった。カイゼルが話題を提供すれば一言二言は答えるが、そこにカイゼルとの会話を楽しもうという意思は見られない。
 リタのカイゼルに対する不信感は相当強く、ちょっとやそっとの事では以前のような関係に戻ることはなさそうだ。いずれそうなるとは思っていたが、こうも早いタイミングで不信感を抱かれることになるとは予想外だった。
 川にたどり着くとカイゼルは辺りを警戒し、リタに水を汲ませた。亡霊が襲ってくるとするならば、グループが分断して戦力が減った時、正に今この瞬間だ。どこから攻撃が来ようと対応できるよう心を落ち着かせていたが、亡霊の気配は感じられない。
「カイゼル、終わったよ」
 リタは水をたっぷり汲んだ水筒を抱え、カイゼルの横に立った。カイゼルは極力優しい声で礼を言い、その場を去ろうとした。
 その瞬間、背後の草むらががさりと揺れた。

 * * *

「あら、今日はお二人ですのね」
 草むらの向こうから現われたのは、黒い日傘を差した少女だった。風体こそ可愛らしい少女だったが、漆黒の目が彼女が人外の者である事を示していた。
 その姿を見て、山小屋の中でリタと交わした会話を思い出した。リタは亡霊を退けた直後、黒い日傘を差した目が黒い少女と出会ったという。あれが、その少女ではないのだろうか。その疑問は横に立つリタの表情を見れば、すぐに溶けた。
「……何の御用ですか?」
 カイゼルがリタを庇うように前に立ち、温かさの欠片もない声色で訊ねた。少女は日傘を差したまま一歩カイゼルに近づく。
「その前に、自己紹介させてくださいな。私はアピーナ。以前、リタ様と少々お話しした事がある者ですわ」
 少女、アピーナは丁寧に頭を下げたが、その表情は日傘が作る影に隠れて読み取りにくい。
「リタ様とカイゼル様に御用があって、会いに来ましたの」
「……私達、に?」
「ええ。……リタ様には、お教えしたい事が色々とあるんですの」
 アピーナはにっこりと微笑むが、リタはカイゼルの背後に隠れたままで顔を出そうともしない。
「それで、カイゼル様へのご用件は……もう、ご存知でいらっしゃると思いますわ」
「亡霊になってくれ、って事ですか」
 カイゼルが正直に己の予想を呟くと、アピーナは小さく頷いた。
「それはお断りします、と以前言ったはずですが? 人の話はちゃんと聞きましょうね」
「存じておりますわ。けれども、ラクリマ様の頼みですの。カイゼル様の意思は関係ありませんわ」
 アピーナは日傘をたたみ、持ち手の部分をくるくると回した。すると傘の頂上部、石突と呼ばれる部分がするすると回転し、そこに小さな刃が姿を現した。森の間から差し込む日光が刃を照らし、ぬらぬらと光らせた。その光の具合から、刃の表面に何かが塗られている事は読めた。
「私は、ヴェキアほど甘くはありませんのよ?」
 にっこりとアピーナは微笑み、重力を無視したかのようなひと飛びで一気に距離を詰めてきた。カイゼルはすかさず己の影から二つの盾を生み出し、アピーナの日傘を受け止めた。がきん、と硬い物同士がぶつかる音がして、アピーナは後ろに飛んで距離を取った。
「その程度の攻撃力で、僕を殺せると? これならヴェキア君の方がまだましですよ」
「……ふふっ、いえ、これでいいんですの」
 アピーナが日傘を再び構えると同時に、先程攻撃を受けた盾がぶるぶると震えだした。カイゼルがその異変に気付いた瞬間、盾がどろりと溶けて消えた。カイゼルは消えた盾を出そうとするが、全く手ごたえがない。一つだけ残った盾がむなしくカイゼルの周囲を回るだけだ。
「特製の毒薬……量が少ないから、ここぞという時にしか使いませんの」
 アピーナが日傘の先端部にある刃をカイゼルに向けた。怪しく光る刃先を見て、カイゼルは心の奥底で舌打ちをした。
「……「能力」に効く毒薬があるとは、世界は広いものですね」
 どういう成分の毒薬なのか興味があったが、それよりもこの状況をどう切り抜けるかが重大だった。相手の攻撃は盾を無効化し、そして恐らくあれ以外にも強力な毒を持っている。
 カイゼルが余裕の表情の裏で思考を巡らせている中、アピーナは再び日傘を片手に距離を詰めてきた。カイゼルは横に跳び、盾が日傘の毒に触れないように大きく避けた。
 アピーナはカイゼルの方に向きを変えて追って来る――かと思いきや、カイゼルの方はちらりと見るだけでそのまま直進していった。その先には、カイゼルの背後で怯えていたリタの姿があった。このまま放っておけば、リタがアピーナの毒に倒れることは確実だ。カイゼルは考えるよりも先に盾をリタの元に飛ばした。盾はアピーナの日傘を受け止めたが、アピーナは動揺を一つも見せずに、懐から素早く短刀を抜いてカイゼルに向かって投げた。盾を戻しても間に合わない、避けることも敵わない速度にカイゼルは目を見開いた。
「……これが狙いですか……!」
 その通りですわ、と言わんばかりのアピーナの笑顔を目にしながら、カイゼルの肩にずぶりと短刀が刺さった。

 痛みを感じるよりも早く、カイゼルは短刀を引き抜いて投げ捨てた。傷口からどろりと血が流れるが、問題は傷の深さではない。投げ捨てた短刀を見ると、血に濡れていない個所は毒を塗ったかのような怪しい光を放っている。
「カイゼル様なら、身の安全を投げ打ってでもリタ様をお守りすると思っていましたわ」
「……そうですか、知らないうちに信用されていたものですね……でも一つ、君は僕の事を分かっていませんよ」
「どういうことですの?」
 アピーナがカイゼルの方を向き、首を傾げた。アピーナの注意がカイゼルに向けられたこの瞬間、カイゼルはリタの前に飛ばした盾を縦長に分解し、先端部をさらに細かく分けてアピーナに向けて発射した。ばすん、という小さな発射音にアピーナが振り向く前に、その背中にカイゼルが飛ばした盾の一部が刺さった。刺さるといっても致命傷を与えるものではなく、アピーナが縦長に分解された盾をその眼に捉えると同時に、盾も背に刺さったものもアピーナの毒によって溶けて消えた。
「僕はここぞという時にしか技を見せない、ということです」
「……今のが「技」ですの? 盾を飛ばしてかすり傷を負わせる事が?」
 こんなの技とは呼べない、とアピーナは可笑しそうにくすくすと笑い、カイゼルもくすくすと笑った。
「アピーナ君、毒を扱えるのは自分だけだと思っていませんか?」
 にこりと微笑を浮かべると、アピーナの笑顔がぴたりと止まった。
「……といっても、君の毒のような凶悪なモノではありません。ただ、もう暫くすると指一本動かせなくなるでしょうね」
 肩から広がる痺れを感じながら、カイゼルはその場に座った。痺れはじわじわと全身に広がり、体の自由が利かなくなってきていた。アピーナは己の体をもぞもぞと動かし、異変に気付いたのか閉口した。
「さあ、早く帰ってください。さもないと取り返しのつかない事になりますよ」
「言われなくともそうしますわ。……その前に、リタ様にお伝えする事をお伝えしてから、ね」
 アピーナは顔だけをリタの方に向け、微笑みを浮かべた。リタは怯えた表情でアピーナとの距離を十二分に開けた。

「リタ様、記憶はお戻りになりましたの?」
 アピーナの質問に、リタはぽかんとした表情を浮かべた。予想外の人物から予想外の質問をされたのだから仕方ないと言えば仕方ないが、そのあからさまな表情から答えは容易に読み取れるだろう。
「まだ、ですのね。……それでは一つ、いい事をお教えしますわ」
「……な、何……?」
 アピーナは自分の体がまだ動くかどうかをもぞもぞと確認しながら、にっこりと可愛らしい笑顔を浮かべた。
「リタ様の記憶を奪った人の正体」
「え……?」
「リタ君、耳を貸してはいけません!」
 カイゼルは立ちあがろうとするが体が動かず、バランスを崩してその場にどさりと倒れてしまう。倒れると同時に頭が急に熱くなり、息が詰まる感覚がして呼吸が荒くなり始めた。
「カイゼル様、お暴れになると毒がより早く全身に回りますわよ」
「……そのよう……ですね……!」
 ずきずきと痛む胸を押さえながら、アピーナを睨みつけた。だがアピーナはカイゼルの睨みを無視してリタに優しく語りかけた。
「……リタ様の失われた記憶は、人の手によって不当にむしり取られたものですわ」
「…………」
 リタは無言ではあったが、その表情は「誰が私の記憶を奪ったのか」とアピーナに問いかけていた。アピーナはその疑問を聞き、少女らしい小さな口を開いた。カイゼルは何か喋って遮ろうとしたが、いつの間にか言葉を紡ぐ力すら奪われていた。

「カイゼル様ですわ」

 リタもアピーナもしんと黙り、辺りにはカイゼルの荒い息遣いだけが響いていた。
「……カイ、ゼル……?」
 リタが震える瞳でカイゼルを見つめた。カイゼルはその瞳を正面から受け止め、何かを言おうとしたが、やはり口が思うように動かない。
「カイゼル様だけではありませんの。……お連れ様の、双子さん。彼らもその一端を担っていますわ。一端と言うか、彼らが実行犯ですわね」
「……え……」
 リタが何も言えない事を、カイゼルが地に伏しているのをいいことに、アピーナは次々と言葉を並べる。
「オーロさんがリタ様の記憶を狩り、ネーロさんがリタ様の記憶を封印した。そしてそれは、カイゼル様の指示の下で行われた。そういうことですのよ」
「カイゼルも……オーロも……ネーロも……?」
「リタ様、私はもうすぐこの場を去ります。私が去ったらすぐに、オーロさんとネーロさんを問い詰めなさい。そうしたらきっと、リタ様の記憶を全て返して貰えますわ」
 アピーナは数歩後ろに下がった。盾が刺さってからの時間を考えると、自由に動ける時間は残り少ないだろう。
「……何で……何で、そんな事を私に教えるの?」
 リタが怯えの中に違うものを宿しながら、アピーナに問いかけた。カイゼルはアピーナの表情を見ようとしたが、視界がぼやけて白みを帯びてきた。ああこれは相当危ないな、とどこか客観的に思いながらも、二人の会話は聞き逃してはならないと耳だけは澄ましていた。
「リタ様が、私の大切な方にとって、すごく大切な方だからですわ」
 白く、ピントが合わない世界の中で黒い影がすうっと消えていくのが分かった。アピーナが去ったのだ。一人残された水色の影が、さくさくという足音と共にカイゼルに近づいてきた。
「…………」
 水色の影が手を伸ばし、カイゼルの肩に触れてきた。普段のような人懐っこい柔らかさは無く、その手は緊張に堅くなっていた。
(リタ君――)
 たった一言。カイゼルはリタに声をかけようとした。
「よく、考えて下さい」
 だが口は無意味な息を吐き出すばかりで、リタに何の言葉も伝えられないまま、カイゼルの意識は遠のいていった。

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