霧の涙 第九話「霧雨 -doubt-」

 最初は足を引っ張ってばかりの旅も、日を重ねるにつれて慣れてきた。長距離を歩いてもへばることは少なくなり、野営の準備を手伝う余裕も生まれた。夕食の調達については、木の実集めはこなせるものの狩りはどうしても出来なかった。獲物を調理する事はできたが、元気に跳ねまわる兎を狩ることはできなかった。その為、リタが夕食の調達を行う際は、同行する誰かが狩りを行った。
「さばくのは出来るのに狩るのは出来ないなんて、おかしいね!」
 ある日、二羽の兎を狩ってきたジョーカーがリタにそう言った。リタは木の実でいっぱいになった麻袋を抱えながら、思い当たる理由を正直に答えた。
「……なんだかね、私の手で命を奪うのが嫌なの」
 既に命を失った状態ならさばくことぐらいは出来る。良心の呵責もそれなりにあるが、それぐらいは出来ないと駄目だという意識で良心を押しつぶしていた。だが、自分の手で命を奪うことに対する呵責は押さえようがなかった。
「へえ、リタちゃんは優しい子だねえ!」
 ジョーカーはぐりぐりとリタの頭を撫で、野営場所に向かって歩き始めた。リタもジョーカーの後ろについて歩き、野営のテントが見えてきたところでジョーカーは不意に呟いた。
「でもね、命を奪わずに生きるなんて事は不可能なんだよ。それぐらいは覚えておきましょーねー?」
 唐突に投げかけられた重たい言葉を受け止めながら、リタはぎこちなく頷いた。

 トゥラターレを出発してから数日が経った。リタは息を切らせて緩やかな丘を登っていた。日光が温かく、歩き続けた体にはやや暑いぐらいでじんわりと汗がにじむ。リタは最後尾を歩いており、その横ではネーロが汗を流しながら溢れ出る不満を全身で表現していた。
「ああもう、冷たいシャワーを浴びてふっかふかのベッドで丸一日眠りたい!」
 ネーロの訴えは至極当然のもので、リタも久しぶりにシャワーを浴びてベッドでゆっくり眠りたかった。ネーロはその後も様々なことをきいきいと主張し「聞いてるの、カイゼルさん!」と遥か前方を歩くカイゼルに怒鳴りかけた。怒鳴りかけられたカイゼルは丘の頂上でぴたりと立ち止まり、リタとネーロの方を振り向いた。
「怒鳴らなくても聞こえますよ。シャワーはあるかどうか分かりませんが、見えてきました」
「えええっ、本当! やっと着いたんだ!」
 ネーロは恐ろしい程の俊足で丘の頂上まで一気に駆け寄って「おおっ、見える、見えるぞおっ!」と騒ぎたてた。先程までのろのろと歩いていたのが嘘のような姿に苦笑しながら、リタも丘の頂上に辿り着いた。
 丘の先は緩やかな盆地になっており、その中心に小さな集落が見えた。殆どの家が木で建てられており、自然に溢れたその姿は好感が持てた。
「早く行こうぜ。俺もそろそろ風呂に入りたい」
「僕もゲリラマジックショーしたい」
「……お風呂よりもそれを優先するんですか」
「ああもう服も洗濯したい、汗臭くて嫌だあっ」
 各々が好き勝手に話しながら丘を下り始めた。リタも慌ててついて行きながら、村に着いたら何をしようと想像を膨らませた。

 * * *

「ああどうして! 余計に汗をかきそうな事になっちゃってるかな!」
 シャグラと呼ばれる村に着くなり、ネーロはヒステリックな叫び声をあげた。その一方でリタは身を強張らせ、隣に立つカイゼルが「怖がらないで、落ち着きなさい」とリタの肩をそっと抱いた。
 村中に、亡霊がはびこっていた。亡霊は獲物を求めてうろうろとさまよっており、既に魂を抜かれた村人の体に入り込もうとして失敗したりしている。リタを目標としているわけではない、と分かっていても亡霊を見ているだけで生きた心地がしなかった。
「仕方ねえなあ、ちゃっちゃと片付けるか」
「びっくりどっきりイリュージョンの幕開けだねえ!」
 オーロとジョーカーはそれぞれ大鎌と鍵を取り出して好戦的な笑みを浮かべたが、カイゼルが左腕で二人の前を遮った。
「すみません、今回はリタ君に頑張っていただきたいのですが……良いですか?」
「えっ」
 カイゼルの唐突な提案にリタは言葉を失った。しかしオーロとジョーカーは冷静で「あ、そう? それじゃあリタ頑張れよ」とあっさり大鎌と鍵を仕舞った。
「え、いや、でも、私そんなこと」
 リタはあまりに無謀な提案にどぎまぎするが、カイゼルはリタの両肩をぽんと叩いて微笑を浮かべた。
「大丈夫、亡霊の攻撃は全て僕が防ぎます」
 カイゼルの周囲に二つの大きな盾が現れた。光を反射しない黒い盾は、頑強そうでどんな攻撃も防いでくれそうな気がした。リタが盾にそっと触れてみると、ひんやりと心地良い感触がした。
「……これ、カイゼルの能力なの?」
「ええ。あの程度の亡霊の攻撃なら、何百匹と束になってきても防げますので、リタ君は自分の事に専念してください」
 リタは迷いながら亡霊達に目を遣る。亡霊から発せられる恐怖感に腰が抜けそうになるが、カイゼルがしっかりとリタの肩を支えてくれた。黒い盾が、カイゼルとリタの周りをくるりと回る。
「君は今、一人ではありません」
 そう、初めて亡霊に襲われた時とは違う。亡霊とは何なのか分かっている。仲間がいる。守ってくれる。リタは自分にそう言い聞かせながら何回も深呼吸をした。体中に染み渡った恐怖感が少しずつ抜けていく。
「一人じゃ……ないんだ!」
 恐怖感を抑え込み、リタは亡霊をまっすぐに見据えた。

 リタの視線を感じたのか、亡霊達が一斉にリタを見た。ねっとりと絡みつくような視線にリタは尻込みしそうになるが、肩に置かれたカイゼルの手の温もりを支えに亡霊を睨み返した。あの時と同じように霧を出して亡霊を倒すんだ――と決意して、そこで初めて初歩的な事に気付いた。
「……あ」
 リタが呟くと同時に亡霊が飛びかかってきた。リタは反射的に目を瞑るが、次の瞬間には亡霊はカイゼルの盾に弾き飛ばされていた。リタの横でカイゼルは涼しい顔をしており、今の亡霊の攻撃など本当に何でもないようだった。
「あの、カイゼル」
「どうかしましたか?」
 言うのが何となく恥ずかしく、ためらっているうちにも亡霊は飛びかかって来る。カイゼルはリタの方を見ながらも亡霊の攻撃を弾く。
「……その、どうやればいいのか分からないんだけど」
 霧の出し方がさっぱり分からない。あの時は押しつぶされそうな恐怖の中での出来事だったので、どうやって出したのかなんて覚えていない。自分のふがいなさに顔を真っ赤にしていると、カイゼルはにこりと微笑んだ。
「恥じる事はありませんよ、誰だって最初はそうです」
「……ごめん、なさい」
「謝る前にまず霧を出して亡霊を一掃しちゃいましょう。コツはただ一つ、集中することです」
 そう言いながらカイゼルの盾はがんがんと亡霊の攻撃を弾き飛ばしている。集中の欠片も見えないカイゼルの態度と盾の力を見ていると、本当に集中が重要なのか疑問に思えてしまう。
「集中って……どう集中すればいいの?」
「それは人によって様々ですね。能力を使って行いたい事を強く思えば、大抵は上手くいきます」
「うーん……例えば、カイゼルは何を思って集中しているの?」
 リタが問いかけるとカイゼルはふふ、と小さく笑った。
「秘密です。それに、人の意見を聞くより先に自分の意思を固めた方が良い結果が出ますよ」
「……そうなの?」
 何だかはぐらかされたような気がしたが、リタは気持ちを切り替えて自分の霧の事に意識を向けた。
 霧の力を使って何をしたいか。ここにいる亡霊を退けたいのは確かだ。カイゼルに言われたから亡霊を退ける、のではない。亡霊を退けるだけの、亡霊に立ち向かうだけの強さが欲しい。そして何よりも、今ここにいる人達を亡霊の手から守りたい。
「皆を……守る……」
 カイゼルを。オーロを。ネーロを。ジョーカーを。村の人達を。今まで出会った人達の顔を思い浮かべた。心の奥底から何か熱いものがふつふつと沸き上がり、全身の血が逆流するような奇妙な感覚を覚えた。その感覚は以前亡霊に襲われ、追いつめられた時に得たものと似ていた。
 あの時、奇妙な感覚の後に現れたものは――
 リタは反射的に自分の足元を見た。そこからは、黒い霧が生まれていた。

 黒い霧が生まれたのを見てほっと溜息をつくと、カイゼルがすかさず「集中を切らしてはいけません」とリタの肩を叩いてきた。慌てて意識を集中させ、亡霊をじっと見据えた。
 リタの集中に反応してか、黒い霧がリタの足元を離れて広がって行き、亡霊の足元に絡みつき始めた。霧に絡みつかれた亡霊はばたばたともがくが、やがて霧に全身を包み込まれて霧散した。リタの足元から溢れる霧は尽きる気配を見せず、辺りの亡霊は次々と霧に絡みつかれて霧散していく。霧はまるで生き物のように漂い、亡霊に絡みついた。リタからは見えない場所にいる亡霊も霧は全て見つけ出し、消し去っていく。
 長いようで短いような、奇妙な時間が過ぎ、あちこちに飛び散っていた霧はリタの元に戻り、すうっと薄くなって消えた。霧が消えたのを確認して、リタはやっと集中を解いてふう、と安堵の息を吐いた。
「よく、頑張りました」
 カイゼルがリタの頭を軽く撫でた。リタは目を細めながら、その手の温かさを味わう。
「私でも、亡霊退治はできるんだね」
 自分は無力ではない。亡霊を退治することができる。それが分かってリタはひどく安心した。全員が亡霊を恐れず立ち向かっているのに、リタ一人だけが震えて見ているだけ、という情けない事態から脱出する事が出来た。
 亡霊は去ったと村人に知らせに行ったオーロとネーロとジョーカーを見送っていると、カイゼルがリタの横でぽつりと呟いた。
「リタ君のその霧は、リタ君が「敵」と認めた者にだけ効果を発揮するようですね」
「え?」
 カイゼルは民家の横にある犬小屋を指差した。小屋の中では犬が縮こまって震えており、尻尾がぷるぷると揺れていた。
「霧はあの犬を消し去ることはせず、亡霊だけを追いかけ回した。リタ君が「亡霊を倒したい」と願ったからそうなったのでしょう」
 亡霊はいなくなったのに未だ震えている犬に向かって、リタはクッキーのかけらを投げた。クッキーのかけらは犬小屋の前に落ち、その匂いに反応してか犬が小屋から出てきてぱくりと食べた。そして辺りが安全だと把握したのか、何食わぬ顔で日向に寝転がった。
「……私の霧に包まれたら、どうなるんだろう?」
 霧に包まれたら亡霊は消える。それでは、霧は一体亡霊に何をしているのだろう。肉体的なダメージを与えているのか、もっと特殊な効果を与えているのか。能力の持ち主であるリタにもそれは分からなかった。
「それは、もっと詳しく検証しないと分かりませんね。迂闊に人に向けて使わってはいけませんよ」
「わかってるよ」
 当たり前のことを言われて苦笑していると、オーロがばたばたと手を振りながらリタの所へ戻ってきた。「大ニュース、大ニュース!」と騒ぐオーロの顔は明るく、良い知らせである事はすぐに分かった。
「どうしたんですか?」
「へっへっへ、聞いて驚くなよ……」
 オーロはびしっ、と村の中央付近にある建物を指差した。
「なんと、亡霊退治のお礼に宿に泊めてくれるってさ! タダで!」
「へえ、すごく気前が良いね!」
 リタは五人分の宿泊費を無料にしてくれるという村人の心の広さに素直に感心したが、
「まあ命を救ったも同然ですからね、それくらいは当然でしょう」
 カイゼルはひねた事を言いながらもオーロが指差した建物へ向かった。
「んだよ、カイゼルさんは素直じゃねえなあ。……リタ、さっさと行こうぜ。この辺りは天然の温泉が沸いてるらしくてさ、ネーロはとっくに温泉に入ったぜ」
 オーロはリタの肩をぽんと叩き、リタはそれに後押しされるように建物に向かって歩き出した。
「ネーロが今温泉入ってるの? ……じゃあ、私、温泉はネーロが上がってからにしようかな」
「なんで? 一緒に入ってくりゃ良いじゃねえか」
「それは……その……」
 リタは自分の胸元に目を落とし、初めて野営をしてネーロと一緒に川で水浴びをした時に見た、彼女の立派な体型を思い出した。リタとの歴然とした差に自然と頬が赤くなった事はよく覚えている。
 胸元に目を落として赤面したことから何かを察したのか、オーロは慰めるようにリタの頭を撫でた。
「気にすんなよ、貧乳だってある意味ステータスだ」
「そんな慰めいらないよ、オーロのばか」
 リタは半ば本気でオーロをぽかぽかと叩いてから、早足で宿屋に向かった。

 その後、風呂上がりで薄着姿のネーロを見てやはり落ち込んだ。

 * * *

 その日の晩に見た夢は、以前トゥラターレの宿で見た不思議な夢と似たような感覚だった。夢と言うにはあまりに現実的で、風景どころか気温や匂いまでもがはっきりと感じられる。夢を見始めた途端に、リタはこれが己の過去の記憶であると直感した。直感したからと言って夢の内容が変わるわけではないが、これが過去の記憶だと分かっていると、落ち着くような落ち着かないような、奇妙な気持ちになった。
 リタは緩やかな丘を登っていた。辺りの空は暗く、うっすらと白い霧が立ち込めていた。今が夜明け前で、リタは訳も分からず姉に引っ張られてここまで来ている事は不思議と分かっていた。姉は翡翠色の髪を揺らし、鼻歌を歌いながらリタの前で丘を軽快に登っている。普段それほど体を鍛えていないのに、何故あれほど余裕の表情で早朝から歩き続ける事が出来るのか、リタには不思議だった。
「待ってよ、お姉ちゃん」
 リタが息を切らせながら必死に呼びかけても、姉は立ち止まらずに「ほら、ファイトよ。もう少しで頂上だから」と歩みを止めることなく鼻歌を歌った。
「あの木が見えるでしょ? あそこが頂上だから、もうひとふんばり」
 姉は少し先に見える細長い木を指差した。確かにあの木が立っている辺りは丘の頂上と言っても差し支えがない高さがあった。
「うう……頂上まで行ったら、何かあるの?」
「それは行ってのお楽しみ」
 姉は振り向いて意味深な微笑みを浮かべた。こういう微笑を浮かべる時は、大抵ろくな事を考えていないのは分かったからリタは帰りたくなった。

 それでもリタは姉の励ましを受けながら歩き続け、丘の頂上に辿り着いた。目印になった木にもたれかけながら、眼下に広がる景色を一望した。
「……すごいね……」
 リタが生まれ育った町が全て見渡せた。非常に広大な町で、リタが生活を送っているのは町の中のほんの一部分にしか過ぎない事は頭では分かっていたが、こうして丘から町を見下ろすとそれが身に染みて分かった。リタが知る町並みよりも、知らない町並みの方が圧倒的に多い。
「すごいでしょ? でも、見たいものはこれじゃないのよ」
 姉は目を細め、リタの隣で町の景色を眺めた。
「今日見れるかどうか分かんないけど、まあもう少し待っててね」
「……お姉ちゃんは何が見たいの?」
 リタは首をかしげたが、姉はそれを言う気配がないので黙って待つことにした。
 時が経ち、朝日がじわじわと地平線を明るくする頃になり、リタは異変に気付いた。異変と言っても些細なことなのだが、辺りの霧が少しずつ濃くなってきている。それは眼下の町も同様で、町はすっぽりと霧に包みこまれた。
「来るかな、来るかな」
 姉は楽しそうに霧に包まれた町を眺めている。リタも訳が分からない中で霧に包みこまれた町を眺めた。
 そこに、雨がぽたりと落ちてきた。
「……ん?」
 リタが頬に落ちた雨をぬぐい、空を見上げた。いつの間にか空には薄い雲がかかっており、その薄さに似合う霧雨がぱらぱらと降り出していた。
「お姉ちゃん、雨だよ」
「うん、雨だね。いいぞいいぞ」
 雨が降っても姉はお構いなしで町を眺め続けている。そんな姉の態度にリタは少し呆れながらも、細長い木の頼りない木陰に身を寄せながら、町を眺めた。
 朝日は少しずつ昇り始め、東の空がどんどん明るくなっていく。
「来い!」
 姉が叫ぶと同時に、太陽の光が地平線から町を貫いた。
「……あ……」
 リタはただ、呟くことしかできなかった。霧に包まれた町の上に雨が降り注ぎ、太陽の光が雨を貫いてきらきらと輝いた。ぼんやりとした町に光の雨が降り注ぐ、そんな光景は今まで見た事がなかった。霧と雨と太陽、全てが揃わなければ見る事が出来ない幻想的な光景にリタは目が離せなくなる。
「きれいね」
 姉はほう、とため息をついて感慨深げに呟いた。その後、二人は何も言わずに霧と雨と太陽に包まれた町を眺め続けた。

 やがて雨は止み、幻想的な光景は終わった。霧に包まれる町もなかなかに幻想的だが、先程見たものと比べると見劣りしていた。
「すごかったね、霧が泣いてるみたいだった」
 リタが胸に手を当てて呟くと、姉は「霧の涙ね」と同じように胸に手を当てて呟いた。
「それにしても、来なかったわねえ」
「え?」
「忙しいとは言ってたけど、教えてくれた張本人が見逃すなんて」
 姉の言葉の意味が分からずに、リタは眉間にしわを寄せた。
「ねえ、誰の事なの?」
「あれ、言ってなかったっけ。今の現象は滅多にないものだから見ておいた方が良い、ってカイゼルが教えてくれたのよ。自分も見たいって言ってたくせに結局見れなかったわねえ」
 唐突に出てきたカイゼルの名にリタは戸惑ったが、「記憶の中のリタ」はカイゼルの名が出てくることがさも当然であるかのように納得していた。
「ああ、やっぱりそうなんだ。残念だね」
「帰り道で会っちゃったりして。そしたら自慢してやろ」
 姉は悪戯っぽい笑みを浮かべながら、丘を下り始めた。リタも姉に続いて丘を下り始めたが、その瞬間に背後から聞き慣れた声が聞こえてきた。
「残念、間に合いませんでしたか」
「あら」
 姉が先に振り向き、「カイゼルじゃない」と親しげに片手を挙げた。
 続いてリタも振り返り、その顔を見る――

――が、リタが彼の顔を確認する前に、夢は唐突に終わった。

 * * *

 宿屋のベッドの上でリタは目を開けたが、起き上らずに寝転んだままぼうっとしていた。
 今の記憶は何だったのだろう。何故、カイゼルがあの場にいたのだろう。顔こそ見ていないものの、あの声と話し方は間違いなくカイゼルだった。
「どうして……?」
 カイゼルと出会ったのは村はずれの森の小屋の中だ。あの時、カイゼルはリタとはあたかも初対面であるかのような態度を取っていた。しかし、リタの過去の記憶の中にカイゼルがいたとするならば、あの時カイゼルはリタとは初対面ではなかったはずだ。
「嘘を……ついてる……?」
 人を疑うのは良くない事だと分かっている。でも、カイゼルが何かを隠している事、リタに嘘をついている事は間違いないと直感した。
「何を隠してるの……?」
 リタの心に、もやもやとした何かが広がっていった。

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