霧の涙 第十二話「世界 -phoenix-」

 頭に響くずきずきとした痛みに、カイゼルは目を覚ました。ぼやけた視界の中でも木製の梁が見え、そこから自分が屋内にいる事は把握できた。しかし、何故屋内にいるのか、ここはどこなのか、皆目見当がつかない。
 全身を包む温かさと柔らかさからベッドに寝かされているのも明らかで、ひとまずベッドから出ようと身を起こすと、すぐに鋭い痛みが頭を襲った。一瞬思考が奪われる程の痛みに頭を抱えると、ベッドのすぐ横から聞き慣れない声がした。
「無理するな。まだ毒抜けきってない」
 声がした方に目を向けると、赤毛の何者かがそこに座っているのが分かった。しかし眼鏡がないとそれ以上の事は何も分からない。
「……すみませんが、僕の眼鏡はありますか」
「眼鏡? これか?」
 赤毛の人物はもぞもぞと動き、カイゼルの手に眼鏡を握らせた。カイゼルは礼を言いながら受け取り、眼鏡をかけた。ベッドの横には、赤毛で長身痩躯の女性が座っていた。表情という表情が見受けられないその瞳は、じっとカイゼルを見つめていた。
「よくそんなものをつけて平気でいられるな」
「眼鏡、ですか?」
「不死鳥はそれ嫌いだ。何も見えなくなる」
「不死鳥?」
 聞き慣れない単語に首をかしげると、彼女は同じように首をかしげた。
「不死鳥は不死鳥だ。それ以外に何がある?」
「…………」
 彼女の言う事は今一つ分かりづらい。口ぶりや仕草から、彼女は不死鳥と名乗っているのだろうか、とおぼろげながらも推測できたが今一つ自信がなかった。
 そんなカイゼルの思考を察する事もせず、彼女は呟くように言った。
「ジョーカーも面倒な注文をつけたものだ」
「ジョーカー君? 貴女は、彼の知り合いですか?」
 彼ならどんなタイプの人間と知り合いでも不思議ではないのだが、この訳の分からない状況下で彼の名前が出てくるとは予想もしなかった。驚くカイゼルを尻目に彼女は事もなげに頷いた。
「人間のまま健康体に戻すのがどれだけ大変か、ジョーカーは分かっていない」
「……人間のまま健康体に戻す?」
「不死鳥の血が一番手っ取り早いのに、何故面倒な策を取る。不死鳥には分からない。おまえ、分かるか?」
「はい?」
 唐突に投げられた疑問にカイゼルは答える言葉を見失った。質問の意味も、現在地も、今話をしている女性の正体も分からない。こんな状況下で質問に答えられる人がいるのなら見てみたいとすら思う。
 カイゼルが何も答えないでいると、彼女は何かを勘違いしたのかカイゼルの額に手を当てた。彼女の手からは、安心感のある温かみが伝わってきた。人肌の温かさによるものではないな、と感じながらも安心感の正体はカイゼルには掴めない。
「三八度五分。あと二度下げろ」
 彼女はカイゼルの体をぐいぐいと押し、ベッドに寝かそうとするがカイゼルはその手を丁寧に払いのけた。
「すみませんが、寝てる暇はないんです」
 高熱があるのは起きた時から分かっていたし、頭痛も退く気配を見せない。しかしその程度の事でベッドに寝転んでいる余裕はなかった。
 カイゼルが意識を失う直前、リタはアピーナから様々な事を知らされた。それを知ったリタがどんな行動を起こすかはいくつか予想出来た。リタの性格にどれほどの変化が起きているのか、それがカイゼルの予想を複数に分岐させた。
 一番望ましいのはアピーナから得た情報を誰にも言わずにカイゼルの帰還を待っているパターンだが、それはあり得ないとカイゼル自身が分かっていた。そして、最も現実的な予想は、カイゼルにとって最悪のパターンであることも分かっていた。
「ここはどこですか」
 カイゼルはベッドから降り、壁にかけられていた自前のコートを羽織った。窓からの景色を眺めても白い霧ばかりで現在地を特定する事はできそうにない。カイゼルのやや苛立ちを含んだ質問に、彼女は抑揚のない口調であっさりと答えた。
「狭間の世界」
「……はい?」
 この女性と話をしていると予想外の言葉ばかり聞かされるな、と頭の中の冷静な部分は思いながらも、カイゼルは二の句が継げなかった。彼女も付け足して説明をするつもりはないらしく、ぼんやりとした眼差しでカイゼルがいる辺りを眺めていた。
 そうして起こった気まずい沈黙を打ち破ったのはカイゼルでも彼女でもなく、
「たっだいまー!」
 元気よく扉を開けて入ってきたジョーカーだった。

「おかえり」
 彼女は視線をカイゼルからジョーカーに移し、気の無い口調でジョーカーを迎えた。
「はい、その次は?」
「ごはんにする? お風呂にする? それとも私?」
 ジョーカーに促されるようにしてベタにも程がある台詞を彼女は口にしたが、やはり無気力な口調で胸に訴えるものは欠片もない。
「違う違う! 私、じゃなくてワ・タ・シ? ってためなきゃセクシーじゃないよ!」
「ワ・タ・シ?」
「うーん何か違う……それだと一音一音録音したのを無理矢理つなげて再生したみたいじゃんか」
「難しい事を言うな」
「ま、難しいならいっか。カイゼル起きてるけど大丈夫なの?」
 ジョーカーはひょいとカイゼルの目の前に移動し、額に手を当てた。ジョーカーと彼女の訳の分からないやり取りに考える力を奪われていたカイゼルは抵抗もしなかった。
「うわ、目玉焼き焼けるねこれ。大人しく寝ときなよー」
「それはお断りします。……ジョーカー君、ここが狭間の世界というのは本当ですか?」
「うん。そんでこの人が前言ってた友達のフシチョーさん」
 ジョーカーは彼女の肩を掴んでカイゼルの前まで持って行き、彼女の頭を無理矢理下げさせた。
「不死鳥さん、ですか」
「すっごい昔からここに住んでるらしくてね、色んな事を知ってるんだ。楽しい人だから、ちょっと落ち着いて皆でお茶でも飲んでお喋りしようよ」
 ジョーカーはひょいとベッドの縁に腰かけようとしたが、カイゼルはその腕を掴んで無理矢理玄関までまで引っ張っていった。「僕のリラックスタイムを奪うつもりなの?」と不満顔のジョーカーに対し、カイゼルは扉を開けながらも頷いた。
「のんびりお茶を飲む時間はないんです。ここが狭間の世界だというのなら、早く僕を元の世界まで戻してください」
「えー……フシチョーさんはそれでいいわけ?」
 ジョーカーは助けを求めるような顔で彼女を見たが、彼女はあっさり頷いた。
「不死鳥は止めない。ただ、一つ言っておく」
「何でしょう?」
「毒はまだ体の中に残っている。死ぬ事はないけど、無理をしたら後遺症が残るかもしれない」
 彼女はそれだけ言うとカイゼルとジョーカーに背を向け、ごろりとベッドに寝転んだ。カイゼルは彼女の背に向かって礼を言い、扉をくぐった。

 扉の外側には、真っ白な世界が広がっていた。幼い頃に見た雪景色も白い世界だったが、今カイゼルが見ている景色はそれとは段違いに白かった。足元がおぼろになるほどの白い霧が辺りを覆い尽くし、街灯や家屋の影が霧の隙間からぼんやりと見え隠れしている。何の音もせず、何の匂いもしない。ぼうっとここに立っていれば、自分という存在を忘れそうなほどに何もない光景だった。
「びっくりした?」
 横からジョーカーが悪戯っぽく笑いかけてきたが、その笑顔も霧の中では少し見えづらい。
「……本当に、別世界、ですね」
 いつもの微笑も忘れ、カイゼルは目を見開いて辺りをきょろきょろと見回した。白い霧ばかりで何も見えないが、今まで感じた事のない雰囲気にカイゼルの胸は高鳴った。この白い霧の正体は何だろうか、この世界はどこまで広がっているのだろうか。未知なるものの正体を見極めたい、そんな研究者としての本能が頭をもたげてきたが、無理矢理に抑えつけて首を振った。
「ジョーカー君。ここからどうやって帰るんですか」
「そりゃあ、僕の鍵を使うんだよ。前言ってなかったっけ?」
 確かにジョーカーは以前、世界を隔てる壁を鍵で開いて渡り歩いていると言った。カイゼルが頷くと、ジョーカーはするりと鍵を取り出した。
「はぐれたら面倒だから、腕にでも抱きついててねー」
「…………」
 カイゼルが無言で額に手を当てると、ジョーカーは鍵を振り回す手を止めて心配そうにカイゼルの顔を覗き込んだ。
「どしたの? やっぱ熱が辛い?」
「……いえ、この年になって、大の男の腕に抱きつく事になるとは思いませんでした……」
 カイゼルが心底嫌そうな声を出すと、ジョーカーはきょとんとしていたがすぐにくすくすと笑いだした。
「どうせなら「きゃー、こわーい」とか乙女な台詞も言っちゃっていいんだよ?」
「全力でお断りします」
 カイゼルはジョーカーの腕を掴み、ジョーカーは鍵を軽くひねった。がちゃんと何かが開く音がして、間近にいるはずのジョーカーの姿も白い霧に阻まれて見えなくなった。

 * * *

 真っ白な世界の中で、ジョーカーは迷うことなく進んでいた。周りの状況がさっぱり掴めないカイゼルは、ジョーカーの腕から手を離さないようについていくことしかできなかった。
 長いのか短いのかよく分からない距離を進みながら、カイゼルはリタの事を考えていた。狭間の世界の事や、あの訳の分からない女の正体も気になるのだが、そんなことは後回しにすべきだと冷静に判断していた。
 リタは恐らく、オーロとネーロを問い詰めて記憶を取り戻している可能性が高い。オーロとネーロは若干押しに弱く、嘘をつくのが下手だ。上手く言いくるめてはぐらかす、なんて芸当はできない二人はリタの言及に負けて自分達の非を認め、記憶をリタに返しているだろう。
 記憶を取り戻したリタが、どんな状態になっているか。それが、最も気にすべき事だった。
 この短い旅でリタの性格は変わった。しかし、変わったと言ってもほんの一部分だ。多少大人びたとはいえ、彼女はまだ純粋で絶望を知らない子供だ。
「……リタ君……」
 今までの努力が水泡に帰すような結果にならない事を、カイゼルはひたすらに祈った。

「もうそろそろだよ」
 ジョーカーが不意に振り向いて歯を見せて笑った。カイゼルはそれを聞いて辺りを軽く見回すと、確かに辺りの空気が変わっていた。深く息を吸い込むと、どこか懐かしい匂いがした。
 ジョーカーは大きく一歩踏み出し、それに引っ張られるようにしてカイゼルも大きく一歩踏み出した。踏み出した足が地面に着く直前、白い霧がざあっと晴れて見慣れた風景がカイゼルの目の前に現れた。

 * * *

「カイゼルさん?」
 鮮やかな青空と草原に目を奪われていると、右側から聞き慣れた声がした。そちらを向くと、驚きのあまり口をぽかんと開けたオーロの姿があった。その横ではやはりネーロが同じように口をぽかんと開けていた。
「……オーロ君に、ネーロ君……」
 カイゼルは一歩二人に歩み寄り、そこで二人の背後に誰かが横たわっている事に気付いた。カイゼルは心配そうな顔の二人を押しのけて、地面に横たわり眠る少女の髪を撫でた。
「……リタ君……」
 リタはまるで何事もないかのような平和な寝顔を浮かべているが、これがただの昼寝ではない事は分かっていた。カイゼルはリタの髪を整えてから振り向き、オーロとネーロを睨みつけた。
「君達は、何をしたのか分かっていないんでしょうね」
「……何を、って……リタに記憶を返しただけだよ」
 ネーロがぼそぼそと呟くように言い訳を並べるが、カイゼルのひと睨みで言い訳は途切れた。
「カイゼルさん、リタ……どうなっちまうんだよ?」
「このまま眠り続けるか、起きるか。どちらに転ぶかはリタ君次第です」
 カイゼルはリタを背負い、懐からコンパスを取り出して方角を確認し始めた。
「リタ君が目覚めたらすぐに行動に移せるよう、北に向かいますよ」
 それ以上の説明はせずに北に向かって歩きはじめると、オーロとネーロは首をかしげながらもついてきた。ジョーカーは「喉渇いたなーお茶したいなー」とぶつぶつ不満を言いながらもついてきた。

「ねえ、カイゼルさん。体はもう大丈夫なの?」
 黙々と歩き続けるカイゼルの横からネーロが心配そうにカイゼルの顔を覗き込んできた。
「まだ少し毒は残っていますが、大丈夫と言って差し支えありません」
 高熱で頭がふらつき、思考を奪われるほどの頭痛が時折訪れるが、そんな事を気にして寝込んでいる暇はない。カイゼルはリタを背負い直しながら微笑を浮かべた。
「本当かよ。いまいち信用できねえな」
 オーロがカイゼルの額に触れようと手を伸ばしてきたが、片手でその手を払いのけた。
「僕の事よりリタ君の心配をしなさい。リタ君が目覚めなければ、この世界は本当に亡霊だけの世界になってしまいますよ」
 カイゼルの真剣な言葉に、オーロとネーロは笑うことなく真剣な表情を浮かべた。
「……よく分かんねえけどさ、記憶が戻ったから寝たんなら、俺らがまた記憶を封印したら起きるんじゃねえの?」
「それでは意味がありません」
「何で?」
 カイゼルはどこまで話すべきか考えながら言葉を紡いだ。
「リタ君には全てを知った上で、立ち向かって頂かないと駄目なんです」
「……訳わかんない。カイゼルさんはいつまで僕らに隠し事をし続けるつもりなの?」
 ネーロが口を尖らせて言うと、オーロも同じように口を尖らせた。
「そーだよ。ここまで協力してんのに何も教えてくれねえのはひどいぞ」
「…………」
 カイゼルが押し黙っていると、遥か後方をのんびりと歩くジョーカーが大声を出した。
「僕もそれは気になるなあ。教えてくれなきゃ紅茶の葉っぱの中に毛虫突っ込むよ」
「ひどい事をしますねえ」
 ジョーカーの本気の発言にカイゼルは苦笑した。笑うと、すっと気持ちが軽くなった。
「……確かに、ここまで手伝って頂いてるのに何も教えないのは意地が悪いですね」
 カイゼルはリタを背負い直し、その温かさを感じながら微笑んだ。
「分かりました。僕が話せる範囲の事を、お話しましょう」
 カイゼルが目にしてきたものや耳にしてきたもの、どれを仲間に話すべきか取捨選択するために、カイゼルは昔の事を思い出し始めた。

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