霧の涙 第十三話「記憶 -tutor-」
リタの記憶の中にはいつも、姉の後姿があった。背筋をぴんと伸ばし、恐れるものなど何もないかのように堂々としたその姿はとても立派で、リタはいつかそんな姉、ラクリマのようになりたいと心の底から尊敬していた。
「リタ、私を目標にしたら駄目よ」
だがリタが己を目標としている事に気付いたラクリマは、あっさりそんな言葉を言い放った。
「どうして? 何でもはっきり言えて、かっこいいのに」
「でもモテないわよ。女の子はもっとね、しずしずと男の後ろをついて歩くぐらいがちょうどいいの」
「そうなの?」
「そ。だから私よりリタの方が圧倒的に、いい。私を尊敬するんじゃなくて、私を反面教師にしなさい」
ラクリマはリタの頭をわしわしと撫で、さっと立ちあがって歩き始めた。リタも立ち上がってその後ろについていくが、やはりラクリマの後姿は颯爽としていて、格好良かった。
ラクリマは自分の意見をはっきりと言い、嫌いな事は嫌いだと素直に口に出していた。リタはラクリマのそんなところが好きだったが、父はラクリマのその性格を好ましく思っていないようだった。ラクリマと父は事あるごとに口論を繰り返し、互いの主張は平行線のまま終わる事が多かった。
「リタ、お前はあんな風に何でもかんでも口に出す大人になるんじゃないぞ」
女は静かに後ろから男を支えるべきだ、と父は言い、
「リタ、女の子は静かな方が良いって前に言ったけど、あなたはもう少し自分の意見を言った方がいいわよ。静かすぎ」
女だから黙ってろと言うのは不平等だ、とラクリマは言った。どちらの意見が正しいのか分からず、リタは父とラクリマ両方に曖昧な返事を返していた。父もラクリマもリタは好きだったが、この時ばかりは本当に困った。ラクリマの姿を見ていると彼女のようになりたいと思うのも確かだが、父の言葉を聞いていると今のままが良いのだろうかと迷う。
そんなどっちつかずの態度であっても、ラクリマはリタに対して怒る事はなく、いつも優しくて頼れる表情を見せていた。
* * *
「あんのクソ親父、どんだけ頭固いのよ! そこらの猿の方がよっぽど賢いわ!」
その日もラクリマは父と口論をし、ぷりぷり怒りながら中庭を意味もなく歩きまわっていた。リタは家の外壁にもたれながら、ラクリマの姿を見るともなく見ていた。口論の現場に居合わせていなかったので詳しい事は分からないが、やはり主張は平行線のまま終わったらしい。
「あーもう、甘いものが食べたい! リタ、マカロン買いに行こう!」
「また買いに行くの?」
今にも町の菓子屋に向かって走りだしそうなラクリマに、リタは苦笑しながらも姉の傍に寄った。
「イライラする時はね、甘い物を食べるのが一番なのよ」
ラクリマはすたすたと歩き出し、リタもその後ろについて歩きだした。家から出る際に使用人に「マカロンを買って来る」と告げると、お気をつけてという言葉と「またか」と言わんばかりのあきれ顔が返ってきた。
ラクリマと町に買い物に行く機会は多かった。といっても大半がマカロンを買いに行くだけで、それ以外のものを買いに行く事は滅多になかった。それでもラクリマと買い物に行くのは楽しく、家にこもりがちな自分が外に出る貴重な時間でもあった。
マカロンを買う店は決まっており、買い物は今日もすぐに終わった。ラクリマはマカロンがたっぷり入った袋をぶら下げながら、恍惚の表情を浮かべていた。
「ああっ……幸せ……」
早くマカロンを食べたいのかラクリマの歩調は明らかに早くなっており、ふと気を抜けば離されそうになる程だった。リタはラクリマの後ろを歩きながら、幸せそうなラクリマと、幸せそうに歩く通行人達を見て微笑を浮かべた。
美しく舗装された町並みは歩いているだけで心が弾んだ。店と店との隙間にある細い道はどこに続いているのだろうと空想を膨らませると、いつも歩く道も少し刺激的に思えてくる。
今日も何気なく細道を眺めて取り留めもない事を考えようとしたが、細道にある人影を見つけるとそんな考えは吹っ飛んだ。誰もいないのが当たり前の細道に誰かがいる。それだけでも驚くのに、その人影は苦しそうに壁にもたれかけている。リタは足を止め、人影をじっと見つめた。ここからではどういう状況なのか把握できないが、かといって近づく勇気もなかった。
「あら、どうしたの?」
リタの異変に気付いたラクリマは歩みを止め、リタの視線の先にある人影に気がついた。
「誰かいるわね」
ラクリマはそれだけ言うとマカロンをリタに持たせ、臆することなく細道に入って行った。こういう時、ラクリマの勇敢さには本当に憧れる。リタはマカロンが入った袋を抱えながら、ラクリマの後ろについて歩いた。
細道は表の道と比べると少し薄暗く、壁には所々に汚れが付いていた。「服が汚れる」とぶつぶつ文句を言いながらもラクリマは細道を突き進み、壁際にもたれかかる人物に「ちょっと、大丈夫?」と声をかけた。
壁際にもたれかけていたのは、銀髪の男だった。着ている服はそれなりに高級そうだったが、薄汚れていて高級さを殆ど失っていた。男はずり落ちた眼鏡を指で押し上げながら、ラクリマに対して微笑を浮かべた。
「この状況で、大丈夫だと思いますか」
「まあ、思わないわね」
男は力なく笑いながら、ずるずると地面に座った。座ると同時に、男の腹から大きな音が鳴った。男は少し申し訳なさそうな顔をして「失礼しました」と軽く頭を下げた。
「お腹が空いてるの? じゃあ、うちで何か食べてく?」
「……いえ、そんな図々しい事は……」
「一人分のご飯ぐらいどうにかなるから遠慮なく食べて行って。というか、このまま放っておくのは後味悪くて私が嫌なの」
ラクリマは男の返事を待たずに男の肩を掴んで持ち上げ、リタに「帰るわよ」と声をかけた。
* * *
突然の「来客」に父や使用人は驚いたが、男の腹の虫を聞いて急いで食事の準備が進められ、あっという間に簡単ながらも料理が運ばれてきた。
「……本当に、いいんですか」
男は申し訳なさそうな表情を浮かべていたが、目の前に並ぶ料理に腹の虫は正直な主張を続けていた。
「さっさと食べないと、スープが冷めちゃうわよ」
「食べなさい。遠慮はいらない」
ラクリマと父の意見が珍しく一致した事にリタは少し驚いた。男は少しの間迷っていたが、恐る恐るスープを一口飲んだ。
ラクリマと父の質問に答えながら、男は目の前に並ぶ料理を少しずつ、だが確実に平らげていった。男の食べ方は非常に上品で、きれいな衣服を身にまとっていれば間違いなく貴族のように見えただろう。
男はカイゼルと名乗り、遥か北の都市からここまで来たのだが食料が付き、途方に暮れていたと説明した。遥か北の都市、という言葉に何かが引っ掛かったのか、父は眉間にしわを寄せた。
「北の都市と言うと、数ヶ月前に突然滅びたあの町か?」
カイゼルはこくりと頷き、父の眉間のしわは一層深くなった。
「何故あの町は滅びたんだ? 何が起こったんだ」
「……それは、僕にも分かりかねます。僕は所用で遠出していて、帰ってきたら、町の人は皆亡くなっていました」
カイゼルの言葉は妙に歯切れが悪く、あまり詳しく話したくないようだった。父もそれを悟ったのかそれ以上詳しい事は聞かずに、これからどうするのかを尋ねた。
「どうしようか、途方に暮れているところです。僕は学問しか能がありませんから、雇ってくださる方がいるのかどうか……」
「学問?」
「ええ。学問と名のつくものは大体、頭に入ってます」
ふうむ、と父は口に手を当てて何かを考え込んでいた。カイゼルは紅茶を一口飲み、ふう、と人心地ついたような息を吐いた。
「もういいの?」
綺麗になった皿を見ながらラクリマが問うと、カイゼルは満足げに頷いた。
「十分です。本当に、ありがとうございます」
「……それで、カイゼル、と言ったか。少し話したい事があるんだが」
「何でしょうか」
カイゼルは紅茶のカップを置き、父の方に目を向けた。その父はリタとラクリマに目を向け、
「二人で話をする。自分達の部屋で大人しくしていろ」
手で二人を払うような仕草を見せた。リタは大人しく席を立ち、ラクリマは不満げに頬を膨らませながらも席を立った。普段なら口喧嘩に発展しているところだが、客の前でそんな事は出来ないからかラクリマはぐっとこらえた表情をしていた。
リタが何となくカイゼルを見ると目が合った。反射的に目を逸らすリタに対し、カイゼルはにこりと優しく微笑んだ。その微笑み方はラクリマと似ており、リタはこの人は良い人だなあと、何の根拠もなく思った。
* * *
「あのカイゼルって人、よく分からないわね」
リタの部屋のベッドにどさりと倒れ込みながら、ラクリマはそう呟いた。
「そう? 良い人そうに見えたけど」
「なんかねえ、底が見えないっていうの? 確かに優しそうだけど、私はちょっと、怖いかな」
何故カイゼルを怖いと思うのか、リタにはよく分からなかった。リタが首をかしげている間にラクリマはごそごそと買ってきたマカロンの袋を開け、慣れた手つきでマカロンを取り出して一口かじった。
「リタも食べる?」
ラクリマはマカロンを一つリタに投げ渡し、受け取ったリタは遠慮がちに一口かじった。かじると同時に、その独特の食感と甘さに頬が緩むのが分かった。
二人で静かにマカロンを食べる。ただそれだけのことが、リタにとっては至福のひとときだった。ラクリマと共にひょいひょいとマカロンをつまんでいると、あれだけ買ったというのにあっという間に残り少なくなってきた。
「美味しいってのは罪よね」
ラクリマが名残惜しそうにマカロンを頬張り、リタも頷いた。どうして美味しいものはこうも早く無くなってしまうのだろう。
そんな取り留めもない事を考えている時に、こんこんとノックの音がした。
「すみません、少しお話ししたい事があるのですが」
それは紛れもなく、カイゼルの声だった。
「おや、マカロンですか」
部屋に入るなり、カイゼルはラクリマが持つマカロンに目を止めて微笑んだ。
「悪いけど、あなたにあげる分はないわよ」
「それは残念です」
カイゼルは苦笑しながら膝を折り、リタと目線を合わせた。
「君がリタ君、ですね?」
「えっ……う、うん」
カイゼルと言うほぼ初対面の人物にどう対応すればいいのか分からずラクリマに目で助けを求めるが、ラクリマは助け船を出すよりもカイゼルが何を言うかの方が興味深いらしく、マカロンを片手にじいっとカイゼルの方を見ていた。
「唐突な話ですが、僕はここでしばらくの間お世話になる事になりました」
「へえ、あのお父さんが行き倒れの人を雇うなんて珍しい」
確かに普段なら、父は身元がしっかりしていて信頼できる人物しか雇わない。カイゼルのような身元が曖昧な者を雇った事は本当に数えるほどしかなかった。
「……じゃあ、その……使用人に、なるの?」
リタの問いにカイゼルは首を左右に振った。
「僕は、リタ君の家庭教師を務めさせて頂きます」
「家庭教師?」
カイゼルの言葉にがぜん興味を持ったのか、ラクリマがベッドから降りてリタの横に並んでカイゼルと目線を合わせた。
「はい。リタ君に様々な学問、及び礼儀作法を教えてやってほしい、と君達の父君から言われまして」
「ふうん、それってリタ限定で教えろって言ってた?」
「……そう、ですね。姉のラクリマには教えなくても構わない、と言われました」
カイゼルの言葉にラクリマは露骨に顔を歪めた。
「リタは教養があって礼儀作法もマスターした貴婦人になってほしいけど、私は別に教養がなくて無礼千万な野蛮な娘で構わないって言うの?」
「それは少し極端な物言いではありませんか?」
カイゼルがラクリマの主張に苦笑していると、その肩をラクリマはがっしりと掴んだ。
「リタに勉強を教える時は、私も誘ってよね。リタだけ賢くなるとか許せないから」
カイゼルの肩を掴む手には、リタから見ても明らかに力が入っており、ラクリマの本気ぶりにカイゼルもリタもぷっと吹き出した。
「分かりました。勉強する時は三人で、ですね」
* * *
今までの生活も十分に楽しかったが、カイゼルが来てからの毎日は輪をかけて楽しいものだった。カイゼルは本当に沢山の物事を知っており、勉強の時間が訪れる度に新しい知識をリタとラクリマに与えてくれた。カイゼルの教え方は丁寧で分かりやすく、二人が完全に理解できるまで根気強く教えてくれた。
カイゼルが少し怖い、と言っていたラクリマも勉強の時間を重ねるにつれその恐怖感が薄らいできたのか、カイゼルに対して親しい笑顔を向けるようになっていった。リタもカイゼルの人柄にすぐに慣れ親しみ、相対しても緊張する事は無くなった。
リタやラクリマだけでなく、カイゼルは誰からも慕われていた。身分に重きを置く父ですら、カイゼルに対しては心を開いていた。しかしどれだけ慕われていても、カイゼルはリタとラクリマと共に行動することが多かった。家庭教師の域を超えていると言っても過言ではなかったが、カイゼルと一緒にいるのは楽しいのでそれを気にする事は無かった。
ラクリマがカイゼルと一緒にいる時はことさら嬉しそうに顔をほころばしているのに気付いたのは、カイゼルがこの家に来てから数カ月が経った頃のことだった。
それに気づいてからリタはラクリマを注視していたが、カイゼルと話している時はふわふわと浮足立った様子で笑顔を浮かべ、カイゼルが去る時は本当に寂しそうな表情をしていた。
「お姉ちゃんは、カイゼルが好きなの?」
寂しそうな表情のラクリマに問うと、ラクリマはリタに向かって曖昧に微笑んだ。
「リタの想像に任せるわ」
カイゼルもまた、ラクリマと話している時は心なしか嬉しそうだった。柔らかな微笑を浮かべているのはいつもの事だが、ラクリマを前にしての微笑は、ほんのりと温かみが感じられる微笑だった。カイゼルの表情はラクリマと比べると読みにくく、リタの思いこみからそう見えるのかもしれないという恐れもあったが、それを考え始めると気分が少し落ち込むので深く考える事はしなかった。
「カイゼルは、お姉ちゃんが好きなの?」
ぼうっと紅茶を飲んでいたカイゼルに問うと、カイゼルはリタに向かって曖昧に微笑んだ。
「リタ君のご想像にお任せします」
* * *
二人の返答は「好きだ」と言っているようなものだったが、いつまでたってもラクリマとカイゼルは好意を伝えた様子はなかった。勉強の時間も、三人でマカロンを食べる時間も、「友達」と過ごす心地良い時間であって、それ以上のものには変化しなかった。
何故二人は好意を伝え合わないのか、リタは不思議でならなかった。リタから見てもラクリマの好意は明らかに分かるもので、カイゼルがそれに気づいていないはずがなかった。それなのに、カイゼルは何も言わず、ラクリマもただただカイゼルの傍で笑うだけだった。
何か事情があるのだろうか? リタは二人が行動を起こさない理由を考えてみたが、まだ世の中を知らないリタには何も分からなかった。
そんなある日、ラクリマは「明日の夜明け前、ハイキングに行くわよ」と唐突にリタに言い放った。
「……ハイキング?」
理由も目的も分からない提案にリタが首をかしげていると、ラクリマは歯を見せて笑った。
「いいものが見れるらしいのよ」
極めて曖昧な返事にリタは引き続き首をかしげていたが、ラクリマはそんなリタの疑問もお構いなしに「だから今日は早く寝ないと、明日起きられないぞー」とリタをベッドに押し込んだ。
ラクリマの理不尽さにリタは苦笑し、ラクリマが言う「いいもの」とは何だろうと空想を働かせながら、布団を被って目を閉じた。