霧の涙 第十四話「記憶 -crossroads-」

「何故、ラクリマ君にはあれほど厳しく当たるのですか?」
 夜、ラクリマの父の話し相手をしていたカイゼルは、話の合間にふと感じた疑問を投げかけた。ラクリマは父と非常に相性が悪く、顔を合わせる度に口論をしていた。口論の内容は様々だが、どんな内容であれラクリマと父の意見は正反対で、いくら口論を交わしても双方の意見は変わる事は無かった。
「……何故、か。改めて聞かれると答えづらいものだな」
 父は紅茶を一口飲みながら苦笑した。
「気が合わないから、だけではないように見受けられますが」
「…………」
 父は立ち上がり、箪笥の上に飾っていた写真立てを取り、カイゼルに手渡した。そこにはリタとラクリマ、そして父の姿があった。
「私の妻は体が弱くてね」
 病気がちで、どれだけ注意しても長生きは出来ない体だったのだと呟いた。
「一人でも子供を産んだら間違いなく死ぬというのに無理をして……リタを産んで、すぐに死んだよ」
 だからリタは写真でしか母の顔を知らないのだ、と父は語った。静かに微笑む父の言葉に、カイゼルは疑問を覚えた。
「……では、ラクリマ君の母君はどなたですか?」
 今の父の話では、リタの母は子供を二人産める体ではない事は確かだ。カイゼルの質問に父ははっきりと答えた。
「ラクリマは、リタの腹違いの姉だ」
 リタの母が子供を産めない体では、後継ぎを得るには他の女性に産んでもらうしか手は無かった。養子を取るという選択肢もあったのだが、それでは今まで続いてきた血を絶やす事になってしまう。それは避けるべき事態だった。
「妻には出来る限り長生きして欲しかったからそんな手を取ったというのに、まさか子供が出来て、自らの命を投げ打ってでも産みたいと願うとは思わなかった」
「……二人は、それを知っているのですか?」
「ラクリマは全て知っている。リタは、何も知らない。あの子はラクリマと自分は血を分けた姉妹だと思っている」
「……そう、ですか」
 ラクリマの父に対する態度、父のラクリマに対する言動、その理由がおぼろげながらも察しがついてきた。
「ラクリマは、特に好きでもなかった女の血を引いている。リタは、私が長年愛してきた女の血を引いている」
 分かるだろう? と言わんばかりの眼差しを父はカイゼルに寄越し、カイゼルは小さく頷いた。
「どうしても、差が出てしまうんだよ」
 努力はしているがどうにもならない。父の呟きを聞きながら、カイゼルは静かに紅茶を一口飲んだ。温かくて美味しい紅茶のはずなのに、ひどく不味い味だと感じた。
「でも、嫁入りまではきちんと面倒を見るつもりだ」
「嫁入り……となると、もうその時期なのでは?」
 ラクリマは既に二十歳を超えており、そろそろ身を固めなければならない年代である。カイゼルの言葉に父は頷いた。
「ラクリマに相応しい相手はもう見つけて、話を進めている。ラクリマがこの家にいるのも、あと少しだ」
「それはまた、寂しくなりますね」
 ラクリマがこの家から去れば、残されたのはリタと父とカイゼル、そして使用人だけになる。活動的で少々騒がしい彼女がいなくなれば、随分この家は静かになるんだろうなと容易に予想できた。
「寂しいと思うか、静かになって落ち着くと思うか。こういうのは気の持ちようだ」
 父はそう言って紅茶をぐいと一気に飲み干した。その横顔は、どこか寂しそうに見えた。

 * * *

 それから数週間後、カイゼルは朝霧が立ち込める丘を一人歩いていた。既に朝日は見え始めており、丘の頂上に着く前に朝日が昇ってしまう事は分かり切っていた。しかしこの道中でも見える景色は美しいだろうと、カイゼルはちらちらと朝日が昇る方角に目をやっていた。
 霧と雨と陽光が奇跡的なタイミングで合致する時に起こる美しい光景は、書物や写真で目にした事はあっても実際に見た事は無かった。それが今日この日、この丘の頂上付近で起こるだろうという事は雲の動き、湿度や気圧の変化から予測できた。発生する時間が夜明けと同時と言う難点があるが、それぐらい気にはならなかった。この貴重な現象を見逃すわけにはいかない。
 この現象がいかに珍しく美しいものか、カイゼルはラクリマにも教えていた。ラクリマは興味を示し、それは是非とも見たいと鼻息を荒くしていた。
「リタ君も誘って三人で一緒に見ましょうか」
 とカイゼルは提案し、ラクリマもその話に乗った。ラクリマと二人きりで景色を見るというのもひどく魅力的に感じられたのだが、ラクリマがこの家にいられる時間を考えると、自分は遅刻したふりでもしてリタとラクリマの二人の間に一つでも多くの楽しい思い出を作ってやった方が良いように思えた。全ての事情を知っているラクリマからすると、リタに抱く感情は複雑なものなのかもしれないが、それでもかけがえのない姉妹なのだから二人で楽しく時を過ごしてほしいと、カイゼルは願っていた。

 今頃二人は丘の頂上で時が来るのを待っているのだろうか、と想像しながら丘を登るカイゼルの横で朝日が霧雨の中を刺し貫いた。カイゼルは足を止め、目の前に広がる光景を目に焼き付けた。書物を読んで想像したよりも、写真で見るものよりも、霧と雨と陽光が織りなす光景は美しいものだった。丘の頂上で二人が見ている光景は今カイゼルが見ているものよりももっと美しく、思い出に残るものだろうと簡単に予想できた。

 やがて雨は止み、幻想的な光景は終わった。それとほぼ同時にカイゼルは丘の頂上にたどり着き、ラクリマとリタの後姿を見つけた。二人は木陰に身を寄せ合って眼下に広がる町を眺めながら小声で会話を交わしていた。その後ろ姿はそっくりで、腹違いの姉妹とは到底感じられなかった。目的のものも見終わったからか、ラクリマは楽しそうな足取りで丘を下りはじめ、リタもそれに続いて丘を下ろうとした。
「残念、間に合いませんでしたか」
 カイゼルが二人を呼びとめるように声を出すと、ラクリマはぴたりと足を止め「あら」と振り向いてカイゼルの顔を確認すると、「カイゼルじゃない」と親しげに片手を挙げた。
 リタもラクリマに続いて振り返り、カイゼルを見てにこりと微笑んだ。
「リタ君、いい景色が見れましたか?」
「うん。カイゼルはどうだったの?」
「僕は道中でそれなりの景色が見れましたが、ここで見れたものに比べたら大したことないでしょうね」
 カイゼルが苦笑するとリタは「残念だったね」と眉尻を下げた。
「全く、教えてくれた張本人が遅刻するってどういうことなのよ」
 ラクリマは冗談交じりにカイゼルを小突いてから、人目をはばからない大きな欠伸をした。あまりにも豪快な欠伸につられたのか、リタも続いて小さく欠伸をした。
「あー、早起きしたから眠い。帰ったらさっさと寝ようっと」
「昨日あれだけ早く寝ておいて、まだ睡眠時間が足りないんですか」
「うるさいなあ。リタ、私はちょっとカイゼルに話があるから、先に帰っといて」
 ラクリマがそう言いながらリタの頭をわしわしと撫でると、リタは素直に頷いて丘を下って行った。リタ一人で大丈夫なのか少し頼りないが、ラクリマの「話」が気になるのでついていく事はせずに見送るだけにした。

「……それで、話とは何でしょうか?」
 リタの姿が見えなくなるとカイゼルは話を切り出し、ラクリマは微妙な微笑を浮かべながら木にもたれかけた。
「ちょっと、カイゼルに報告しとこうと思ってね」
「何かあったんですか」
 カイゼルがそっとラクリマの隣に立つと、ラクリマは聞こえるか聞こえないか程の小さな声を漏らした。
「……私、結婚することになったの」
 ラクリマの横顔はどう見ても寂しそうで、結婚に乗り気ではない事は簡単に分かった。しかし、カイゼルは「それはおめでとうございます」と心にもない言葉を吐いた。
「お相手はどのような方ですか?」
「ここから馬で半日ぐらいの町にいる、そこそこの権力者らしいのよ」
 ラクリマは相手の名前を言ったが、カイゼルには聞き覚えのない名前だった。つまり、その程度の権力しか持っていない者だ。
「なかなか帰りづらい距離だし、いい厄介払いでしょうね。ここまで露骨だともう何も言えないわ」
「厄介払いだなんて、そんなことありませんよ」
 カイゼルは彼女の父が「こういうのは気の持ちようだ」と言いながらも寂しそうな表情をしていた事を知っている。ラクリマを結婚させる事は、決して厄介払いではない。
「地位や名誉や距離に関係なく、ラクリマ君を幸せにしてくれる。父君はその一点だけを大切にして相手を見つけてきて下さったのだと僕は思いますよ」
「やけにお父さんの肩を持つのね」
「父君はラクリマ君が思うほどひどい人じゃない、と言う事を僕は知ってますから」
「嘘ばっかり」
 ラクリマは冗談交じりにカイゼルを小突いたが、不意にぽろりと涙がこぼれた。突然の涙にカイゼルが戸惑っていると、ラクリマも自分の涙が意外だったのか涙をぬぐってから首をかしげた。
「……何で、泣いてるんだろ」
「それは、ラクリマ君自身が一番よく分かってるんじゃないですか?」
 カイゼルがハンカチを差し出すと、ラクリマはそれを受け取って目の周りに残った涙を拭った。
「……そう、ね。分かってる」
 ラクリマは木を背に座り込み、少し赤くなった目で眼下に広がる町を眺めた。カイゼルもその場に立ったまま、町を眺めた。雨が止み、霧も晴れ、町には爽やかな朝が訪れている。
「私……結婚なんか、したくないの」
「…………」
 無言のカイゼルを、ラクリマはじっと見上げた。

「私は、カイゼルと一緒にいたい」

 その言葉を聞いて、カイゼルがラクリマの目を見ようとすると彼女はさっと目を逸らしたが、耳まで赤く染まっているのが容易に分かった。
「……ラクリマ、君……」
 次の一手をどう打つべきか、カイゼルの心の中に迷いが生まれた。ここで想いを告げられるとは予想もしていなかったうえに、打つ手次第で、ラクリマの人生は大きく変わる。
「……僕は……」
 ラクリマの父の意思を尊重してラクリマを結婚させ、幸せを願うか。
 「ラクリマが望んだから」という事実を盾にラクリマから結婚の機会を奪い、己の手中に収めてしまうか。
「…………」
 カイゼルも、ラクリマの結婚は望んではいない。名前も知らない男の手にラクリマが渡るなど許し難い。
 だが、仮に結婚の機会を奪ってしまえば、ラクリマの年齢的にも次の相手を探すのは難しくなってくる。普通は十七で結婚するというのに、彼女は既に二十を少し超えている。その年齢になると本当に相手がいないことは、よく分かっていた。
 となると、結婚相手の男を排除すると、ラクリマの相手は彼女と近しく、二十を少し超えた彼女との結婚も厭わない男――カイゼルになる可能性は極めて高い。しかしカイゼルには、ラクリマを娶って幸せに出来る公算がない。金も、土地も、権力も、何も持っていない。「幸せ」にそんなものは必要ないと思うのだがそれは一般論で、カイゼル自身はどうかとなると、こんな何も持っていない男が人一人を幸せに出来るはずがないと感じていた。
「……僕は、君と……」
 彼女の幸せを真に願うのならば、どちらを選択するべきか。答えは分かり切っていた。
「……君と、一緒にいたいとは……思いません」
 今までにないほどの心の痛みを感じながら、カイゼルは言葉を絞り出す。
「その結婚……今は嫌でも、将来的に必ず、ラクリマ君を幸せにしてくれますよ」
 ラクリマはじっとカイゼルの顔を見てきたが、カイゼルは今自分がどんな表情をしているのか、どんな表情を作ればいいのか分からなかった。
「……そんな顔でそんな事を言われても、説得力がないわ」
 引き攣るような微かな笑みをラクリマは浮かべたが、カイゼルは返す言葉が見つからず、ただ軽く頭だけを下げて丘を後にした。
 丘を下りている間、今まで感じた事のない胸の苦しさは、止まる気配を見せなかった。

 * * *

 ラクリマが結婚の為に家を出て行くのは本当にすぐだった。あっという間に花嫁道具の支度が整えられ、あっという間に迎えの馬車がやって来た。
 迎えの馬車が来る日、ラクリマは今まで見た事がないほどの高級なドレスに身を包んでいた。汚れ一つない純白のドレス姿のラクリマはカイゼルにはひどく魅力的で美しく見えたが、彼女のドレス姿についてカイゼルは何も言わなかった。何か一言でも言えば、理性が保てなくなるような気がした。
 ラクリマの結婚に一番衝撃を受けていたのはリタだった。リタはラクリマが家を出て行くのを嫌がり、「もっと一緒にいたい」と駄々をこねた。そんなリタをカイゼルは落ち着かせ、説得を重ねてラクリマの結婚を了承させた。説得を重ねているうちに、自分自身に対しても説得しているような心持になり、リタがラクリマの結婚を認めた頃にはカイゼルも比較的穏やかな心でラクリマの結婚を見届ける気持ちになっていた。
「それじゃあ、行ってくるわ」
 迎えの馬車に乗り込む直前、ラクリマはいつもの笑顔を浮かべた。ラクリマの父は静かに頷き、リタは今にも泣きそうな顔で手を振り、カイゼルは穏やかに微笑んで見せた。
「ばいばい」
 ラクリマは三人に手を振り、ドレスの裾を持ち上げて馬車に乗り込んだ。ああ、これからはラクリマとあまり会えないんだなと思うと彼女の後姿から目が離せなくなったが、彼女が席に着いた瞬間に馬車の扉は閉ざされ、馬はゆっくりと歩き始めた。
「お姉ちゃん、元気でね!」
 次第に速度を増していく馬車から見えるよう、リタは大きく手を振った。カイゼルは、素直に手を振ってラクリマを見送る事が出来なかった。こうなることを望んだのは自分自身なのに、心のどこかでまだラクリマを求めているのだなと思うと、自分の子供臭さに呆れた。

 * * *

 ラクリマが家を出てすぐの頃の家は火が消えたかのような寂しさだったが、一ヶ月も経つと慣れてきて、以前とはまた違う静かで落ち着く家に変わってきていた。
 ラクリマからの手紙は全く届いて来なかったが、あのラクリマが手紙をしたためるとは思えないので元気でやっているのだろうな、とカイゼルは思っていた。便りがないのは良い便りとはよく言ったものだ。
 リタの内向的すぎる性格は相変わらずだが、勉強の際は分からない個所を質問する等の自主性を少しずつ見せ始めていた。しかしずっとラクリマの後ろについていただけに今も誰かの後ろにいないと不安なのか、リタは暇さえあればカイゼルと行動を共にしていた。そんな二人の様子を見てラクリマの父は「鴨の親子だな」と評して笑った。
 三人はそんな穏やかな日々を過ごしていたが、ある日突然、ラクリマが家に帰ってきた。

 ラクリマが帰ってきた時、カイゼルはリタに勉強を教えていた。リタは勉強の飲みこみが人並み以上であり、特に勉強が嫌いでもなかったため教えがいがある子供だった。リタはカイゼルが出した課題を解いており、手持無沙汰になったカイゼルは何気なく壁にもたれかけていた。すると壁の向こうが妙に騒がしく、部屋の外にいた使用人に事情を訊ねてみると「ラクリマ様がお帰りになったんですよ!」と早口に喋ってぱたぱたと玄関に向かって走って行った。
「ラクリマ君が?」
 カイゼルが思わず呟くと、リタは課題を解く手を止めて「お姉ちゃん?」と首を傾げた。
「ラクリマ君が帰ってきているらしいんですよ」
「えっ、何かあったのかな」
 リタは途端にそわそわし始め、カイゼルもこれは勉強どころではないなと判断してラクリマに会いに行こうと提案した。

 ラクリマは応接間に通され、毛布を羽織りながら暖炉の火をじっと見つめていた。カイゼルは使用人達に三人で話がしたいから暫く席を外してくれと頼み、使用人達はラクリマを心配そうに見遣りながらも応接間を後にした。
「ラクリマ君」
 カイゼルが声をかけると、ラクリマは生気の無い目でぼうっとカイゼルがいる辺りの空間を見つめた。髪はぼさぼさに乱れており、毛布の合間から見える服も土埃でひどく汚れていた。
「……カイゼルは、嘘吐きね」
 毛布を深く羽織りなおしながら、ラクリマは呟いた。その声も少し枯れており、カイゼルが知るラクリマとは何もかもが変わっていた。
「結婚は、今は嫌でも将来的に必ず、私を幸せにしてくれるって言ったじゃない」
「ラクリマ君、何かあったんですか」
「何かってもんじゃないわよ」
 ラクリマは毛布に顔をうずめ、結婚してからの出来事をぶつぶつと呟くように話し始めた。

 結婚相手の第一印象は真面目で大人しい青年だった。一目見てラクリマも「この人なら大丈夫かもしれない」と少し安心した。
 しかし、その思いはその日の夜に打ち砕かれた。
 彼は表向きこそ安心感を与える謙虚な姿勢を見せているが、家の中では嗜虐趣味に溢れた暴君だった。家の勝手が分からず戸惑うラクリマに対し、彼は「家のしきたり」の説明にかこつけて早速手酷い暴力を加えた。勿論ラクリマは本気で抵抗したが、男の腕力には敵わずあっけなくねじ伏せられた。
 家に帰ろうと思った事は何度もある。しかしその度に男はその気配を感じ取り、すかさずラクリマに対して、
「離婚? いいよ、俺は寛大だから許してあげる。……でも、財産狙いの強盗には気をつけてね。一家全員殺されちゃうって話だからね。そんな強盗を金で雇えるんだから、最近の世の中は怖いよね」
 と釘を刺してきた。手紙で助けを求めようとしたが、大きく腫れあがり、奇妙な形に曲がった手先では文字を書くことすら叶わなかった。使用人に代筆を頼もうとしても、主人の暴力を恐れて誰も協力してくれなかった。
――これのどこが幸せなのだ。
 理不尽な暴力を受け、床に撒き散らされたスープをすするよう強要され、ひどく臭う布きれを毛布代わりにして廊下で寝るよう命令される。このままでは命を落とすのも時間の問題だと、ラクリマは感じた。
 だから、深夜ラクリマは台所から包丁を持ち出して男の寝室に侵入し、上手くものを持てない手で包丁を握りしめて何度も刺した。最初はもぞもぞと抵抗していたが、何回も差しているうちに男はやがて動かなくなった。それでもまた動き出して暴力を振るってくるかもしれない。そんな恐怖心が抜けず、疲れて手が動けなくなるまで包丁を動かす手を止めなかった。
 男が完全に死んだのを確認すると、使用人に気付かれる前にラクリマは返り血のついた服のまま家から飛び出した。
 その後の事は、よく覚えていない。リタとカイゼルが待つ家、自分を受け入れて癒してくれる家に戻りたい。その思いしかなかった。

「……おねえ……ちゃん……」
 リタは姉にかける言葉を見つけられず、ただその場に立っていた。カイゼルもそれは同様で、ラクリマに何と言えばいいのか分からない。
「……リタと、カイゼルは……私がいなくなってからの生活も楽しかった?」
「……ちょっと、寂しかった」
 リタがおずおずとラクリマに近づくと、ラクリマは無表情な顔をリタに向けた。
「ちょっと寂しかった、ね……。私がいなくなっても、リタとカイゼルはその程度だったのね」
「ラクリマ君?」
「どうして、私だけこんな目に遭うのかしらね。リタはどうして、そんな風にぬくぬくと暮らしていけるのかしらね」
 ラクリマは毛布を脱ぎ捨て、立ち上がった。土埃と返り血にまみれた服、醜い痣と傷跡が付いた四肢、歪んだ右手、全てが露わになった。カイゼルはラクリマとリタから少し離れた位置に立っていたが、リタが小さく息をのむのが分かった。
「リタは良いわね。お父さんとお母さんの実の子供で。私とは違って、たっぷり可愛がってもらえて」
「ラクリマ君、落ち着きなさい」
 カイゼルが呼びかけてもラクリマの耳には入っていないようで、ラクリマはそっとリタの首に手をかけた。
「どうしてリタだけ、幸せなのよ」
「お姉……ちゃん……?」
 今にも泣き出しそうなリタの首を、ラクリマはゆるゆると締め始めた。カイゼルは止めに入ろうとしたが、そこで二人の足元から黒い霧のようなものが昇っている事に気付き、本能的に足を止めた。

「リタなんか、生まれてこなければよかったのに!」

 ラクリマがそう叫んだ瞬間、二人の足元の霧が爆発的に大きくなり、二人の体を包み込んだ。黒い霧はそれだけでは収まらず、床を伝ってカイゼルの元へ、そして扉の向こうへと滲みだして行った。
「これは……?」
 カイゼルは黒い霧を避けるように数歩後ろに下がったが、その動きに合わせて黒い霧はカイゼルを追いかけてくる。ぬるりとした動きで黒い霧がカイゼルの爪先に触れるなり、カイゼルは全身の血が逆流するような奇妙な感覚に襲われた。
――何かが出てくる。
 その直感は正しく、カイゼルが瞬きしている間に周囲に二つの大きな盾が現れていた。漆黒の盾はカイゼルを中心としてくるくると回り、カイゼルの足元に寄ってくる黒い霧を退けていた。
「……盾……? 僕を、守っている……?」
 状況がまるで読めないが、この盾が黒い霧からカイゼルを守っているように見える事は確かだった。盾のおかげで若干の余裕が生まれ、リタとラクリマを包む黒い霧の塊の方へ目を向けた。黒い霧の塊は先程よりかは小さくなっており、天辺の辺りからさらさらと流れて消えて行っているのが見えた。
「ラクリマ君? リタ君?」
 カイゼルが黒い霧の塊に一歩近づいた途端、黒い霧の塊はざあっとその場から綺麗に消え去った。その霧の中で、比較的人に近い形をした黒いもやが糸を引きながら床をすり抜けて消えたのが見えたが、黒いもやと糸が何を意味しているのかその時のカイゼルには分からなかった。
「……これ、は……」
 黒い霧の塊があった場所から、リタとラクリマが姿を消していた。いくら辺りを見回しても二人の姿は見えず、部屋の中では残った黒い霧が出口を求めてぬるぬると動いているだけだった。
 この場所にいても何も分からない。カイゼルはそう判断して応接間を後にした。黒い霧は部屋の外にも広がっており、カイゼルの元にぬるりと近づいてくるが、盾がそれを阻んだ。
 あちこちの部屋を探してみたが、リタとラクリマの姿は無く、それどころか使用人の姿すら見えなかった。扉を開けるたびに、カイゼルはこの屋敷には自分一人しかいないのではないかと言う思いが強くなっていった。
「何が……起こってる……?」
 全ての部屋を調べ終わり、幾通りもの仮説を立てながらも屋敷の外に出てみると、玄関の扉を開けたすぐそこにリタが横たわっていた。カイゼルは考えるよりも先にリタの元に駆け寄り、首筋に触れた。温かく、脈もある。ただ気を失っているだけに見えた。
「リタ君」
 辺りを見回すとここにも黒い霧があちこちにはびこっており、リタをこのまま置いておくのは危険だと感じた。カイゼルはリタを背負い、安全な場所を探すために家を後にした。

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